諸葛亮

登録日:2012/03/14 Wed 22:52:44
更新日:2024/03/20 Wed 11:40:09
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諸葛亮(孔明)とは言わずと知れた三国志に登場する蜀の名軍師である。

各メディアでは字(あざな)である孔明の名で呼ばれることも多い。孔明の罠とか。
字というのはいわば「社交ネーム」で、「軽々しく他人の名字や名前を呼ぶのは失礼だ」という発想に基づく中国の呼び方システムの産物である。
基本的に同格の人間同士、あるいは目上の者が親しみを込めて使う言葉なので、同僚たちからは当時から「孔明」と呼ばれていた可能性が高い。
まあ実は字で他人を呼ぶのも割とくだけた表現にあたるので、実際は単に「丞相」とかの役職で呼ばれるか、あるいは同じ役職の別人と区別する場合は「諸葛将軍」みたいに呼ばれていたはずである。



【幼少期】


泰山郡の副長官である諸葛珪の息子として生まれるが、その諸葛珪は孔明が幼い頃に亡くなっている。また、母親も同様に幼い頃に死去している。
後に弟達を連れ徐州の叔父の諸葛玄の所に身を寄せるが、父の仇討と復讐に狂った曹操が徐州に攻め入り朝に鳴く鶏すらいないレベルで大虐殺を敢行。
叔父も戦争により帰らぬ人になるなど幼少期は苦難の連続だったようだ。
その後、荊州に移り住み水鏡先生の所で勉強したり晴耕雨読したりブs…才女である黄月英を妻にしたりしていた。



【三顧の礼】

劉表の客将として荊州にいた劉備は、軍師の徐庶から諸葛亮について話を聞かされる。劉備は連れてくるよう頼んだが、

徐庶「孔明は俺が呼んだくらいで来るよーな奴じゃねーっすよ」
劉備「そうだ、孔明んち行こう」

…という事で劉備は関羽張飛を連れて諸葛亮の家に向かった。
うち二回は居留守とか使ったりしたが三回目で劉備を認め、かの有名な天下三分の計を掲げ彼の軍師となった。
(本当に用事で会えず三度目にようやく会えたとか自分から仕官したという説もあり。)

それからは劉備は孔明と毎日話こんで、義兄弟から妬まれたりするが、
夏侯惇を火攻めでフルボッコにしたり曹仁を夜襲でフルボッコにしたりして彼らの信頼を得た。
ちなみに夏侯惇のは演義だけだったりする。

その後、曹操が本格的に攻めてきた上に劉表が病死したため劉備に「今のうちに荊州いただいちゃいましょうよ! そして曹操軍ぶちのめしましょう!」と進言するも、劉備は「んなもん道義に背くだけじゃ」と却下、
「じゃあ孫権さんとこ頼りましょうよ」と孫権の領地である夏口に向かうように進言した。この逃避行で曹操軍に追いつかれ、長坂の戦いとなる*1


【赤壁の戦いと入蜀】

夏口に逃れた劉備の様子をうかがうため孫権は魯粛を派遣する。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下に向かい同盟を結びつけようとする。

頭の固いジジイ達を論破しまくったりして時間をつぶし、孫権の所に通されるが、諸葛亮は開口一番に降伏するよう告げる。

孔明「ぶっちゃけ勝ち目ないんで降伏した方がいいっすよw」
孫権「じゃあなんでテメーら降伏しないんだよ」
孔明「ウチら漢の臣下なんで降伏するつもりないんでww」
孫権「(゚Д゚#)ハァ!?」

…といった具合に孫権はブチギレて退室するが、詰め寄る魯粛に対し孔明は「これから対抗策言おうと思ってた所ですよ」と述べ、
戻ってきた孫権に曹操軍の水軍の弱点等を述べ、同盟に踏み切らせるに至った。

その後曹操軍から無数の矢をパクったり東南の風を吹かせたりして赤壁の戦いを勝利に導いた。

以上、演義の創作である。

そもそも史書によって劉備軍がどの程度赤壁の戦いに関わったかは差がある。
諸葛亮も劉備軍の幕僚として、孫権の下に赴いて同盟を取り付けたという記録はあるが、それ以上ではない。
もちろんそんな大任を任されるほどの信任を得ていたのであろうが、演義のような華々しい活躍は史書にはないのである。

そして劉備が荊州の領地絡みで孫権と小競り合いする中、益州の劉璋から「五斗米道からウチらを守ってくれ」と要請を受ける。
劉璋に見切りをつけていた法正達は劉備に益州を渡すため蜀取りを進言する。諸葛亮もこれに同意したため、初めは渋っていた劉備も益州を攻める決心をした。

しかし蜀軍は意外に強く、苦戦。何度も危機に陥りながらもついに劉備は蜀を手に入れる。
その後、漢中争奪戦においても曹操軍を圧倒し、これに勝利。劉備に漢中王になるよう進言した。


【北伐、そして…】

諸葛亮は劉備軍の軍師将軍として内政に勤めていたが、関羽が荊州関係でポシャったため呉軍と敵対、そして処刑されてしまう。
この時点で、天下三分の計は潰えてしまった。

その後劉備は帝位を自称して蜀漢を建国。諸葛亮は丞相として官僚の最高位になった。
だが、諸葛亮は義兄弟を失いガチギレした劉備を止める事ができず*2、夷陵の戦いにおいて蜀はボロ負け。
劉備を仕留めるため追撃する陸遜を足止めするため石兵八陣なるものに誘いこみ攪乱、劉備を救出した・・・というのは演義だけである。
のちに劉備は亡くなり、「俺の息子が無能だったらお前が後継いでくれ」という遺言を残した(後述)。

そして蜀の実権を握った後は、消耗した国力を回復させるため呉軍との関係を修復したり南蛮の反乱を制圧してその広大な土地を入手し、頃はよしとみた諸葛亮は北伐を決意する。
その際に上奏した「出師の表」は蜀への熱い想いと危機感が滲み出ており、「(少しでも忠誠の心を持つものであれば)これを読んで泣かない者はいない」とまで評された。
だが、重要な寝返り役を担う新城の孟達が司馬懿に寝返りを察知されて潰されてしまい、さっそく出鼻を挫かれる。
それでも南安・安定・天水の三郡を占領して魏軍の先鋒を大慌てさせるが、街亭の戦いにて寵愛していた馬謖が大馬鹿をやらかし大敗。
重要拠点である街亭を失い、馬謖を泣く泣く処刑。戦果らしい戦果は撤退時に天水から拾った後継者・姜維くらいであった。
こうして、事実上最後のチャンスだった第一次北伐は無残な失敗。自らも降格処分にしてケジメをつけた。

第二次北伐は陳倉城を攻めるも、陥落させられないままやむなく撤退。
第三次北伐は武都・陰平の二郡を併合する戦果を挙げる。武都・陰平とも辺境で大戦果とは言い難いが、これで諸葛亮は丞相に一応復職。
この北伐自体、次の第四次の仕込みで本腰を入れたものではなかったと言う説もある。

そして第四次北伐。おりしもこの年に魏の軍事の大重鎮曹真が死去、後任である司馬懿との激突となる。
この戦闘で蜀軍は司馬懿の軍隊をそれはもうボッコボコにのし、更には追撃してきた魏軍の名将張コウを返り討ちにして戦死させるという大戦果を挙げるが、不幸にも本国で内輪もめが起きて撤退を余儀なくされる。
確かに張コウというかつて劉備にも警戒されていた手合を除いたことは大きいのだが、準備の割に合う戦果とまでは言い難く、第一次から毎年行っていた北伐は3年間の中断を余儀なくされた。

最後の第五次北伐。
第四次で諸葛亮にフルボッコされた司馬懿はすっかり懲りてしまい、「陣地にこもって打って出ない作戦」を徹底。*3
諸葛亮はなんとか司馬懿らを動かそうと女の着物を送ったり罵声を浴びせたりしたが、ついに司馬懿は動かずジリ貧に。
そして激務による病にかかり、ついに五丈原の陣中にて没した。享年54歳。
蜀軍は諸葛亮の死をもって撤退。
司馬懿が追撃を仕掛けるが、蜀軍の頑強な抵抗の構えを見て断念。張コウが似たような状況で戦死したのもあり、蜀軍は手負いほど危険だと警戒していたためか。
大きな損害を出さずに撤退することに成功はしたが、この北伐において諸葛亮、そして彼の死に伴う政治的争いによって(人柄はともかく)経験豊富で有能な武官である魏延をも続けて失った蜀は衰退の道を徐々に歩むこととなる。

【諸葛亮の人柄】

陳寿は「その政治の才能は管仲*4・蕭何*5に匹敵する」とする一方、「けど北伐があんま上手くいかなかったのは臨機応変さがちょっと足りなかったからだよね」とも評している*6

ただ擁護すると、北伐に関しては蜀の立場から考えれば「やらないわけにはいかない事情」もあるので諸葛亮の失策とばかりも言えない。
大義上では蜀は『漢の後継』を名乗り、本来の国号は『漢』で蜀漢は後の便宜上の呼称である。そのため、国の存在意義を保つためにも、漢を簒奪した魏を放置しておくわけにはいかなかった。
また本質的な問題として国力の圧倒的な差があり、国土でも魏の1/4弱、呉と1/3強程度しかなく、一部例外(漢中の辺りとか)こそあるものの、中原に比べると全体的に豊かな土壌とは到底言えなかった。
そう考えると「ただでさえ国力差があるのに、時が経つほど差が開くばかり」という状況で、まごついていてはお先真っ暗である。
まして相手は、史実では非常に有能で病を得ていなければもっと活躍できたであろう曹真
後任はこの対北伐の前後で数多くの敵をほぼ鎧袖一触に叩き潰していたあの司馬懿である。
はっきりいって対峙するだけでもしんどい相手なのに、兵力でも向こうの方が上、さらに攻撃側に回らなければならないという苦を背負っていたのである。
どれほど困難であっても、まだ歯が立つ段階で魏に楔を打っておかねばならないと行動を開始し、街亭の戦い以外ではさほど損害もなく戦術的な観点からの勝利を数度重ねたのは評価に値する事だろう。

最大の評価点は、策謀をめぐらす宰相というどっちかというとあまり人気の出ないポジションだったにもかかわらず、在世中から広く人心を集め、死後は多々脚色されるほどの英雄になったという点であろう。
このポジションでここまで人気のある人はなかなかいない。
また権力を握っていながら私財を殆ど溜めずに、ひたむきに政務に努めていたことも素晴らしい点である。
実際に民衆が霊廟や廟を建てようとして朝廷に訴えて却下された後も、祭りなどで託けて祀ることが絶えなかったために、沔陽に廟が建立されたりしていた。

何より諸葛亮の北伐を阻止した司馬懿本人が
「まさに『天下の奇才』だった。以前魏に降伏してきた黄権*7*8もあなたの行いを賛辞している」
と言っている。
魏の武将の鍾会も、蜀侵攻時に諸葛亮の墓の祭祀を行うなど敬意を払っていたりする。
実戦的な面でも魏では諸葛亮の八陣*9の研究が行われ、一部は晋の時代に馬隆が活用し戦果を挙げている。

【諸葛亮と信賞必罰】

諸葛亮は法治主義者で信賞必罰については厳格であった。
前記した陳寿による「管仲・蕭何に匹敵」の評も、諸葛亮の信賞必罰の素晴らしさと共に記載されている。

諸葛亮と法令と言えば、入蜀のときに諸葛亮や法正等の主要幕僚が集まって制定した法令「蜀科」が有名である。
制定に携わった幕僚の一人である法正から「劉備殿は蜀の地においては未だに新参者。劉邦がやったように法制度は簡略にした方が支持を得やすいのでは…?」という反対意見もあった。
だが、統治が弛緩して堕落した益州を統治するには厳格な法を厳格に適用することが必要という視点からこれを押し切っている。
最終的には、その内容も公平公正なもので広く支持されたとされる。

諸葛亮の信賞必罰への厳格さは、愛弟子と言えど軍紀のために斬った「泣いて馬謖を斬る」にも現れている。
北伐の地にあってすら裁判を自ら例外なく決裁したという記述も、これを裏付けるものだろう。
そして「法制度に厳格」という在り方については自分さえも例外とはしていなかった。
街亭の戦いの責任は自身の人材登用にあるとして自ら丞相を辞任、右将軍に降格処分とし、後に戦果を挙げて初めて丞相に復帰している。
一応復帰させたのは劉禅であるが、「戦果を挙げてから復帰したい」という諸葛亮自身の意向があったことは想像に難くない。

こうした諸葛亮の厳格さに関しては『韓非子』を読み込んでいたかららしく、彼は劉禅の教育にも『韓非子』をテキストに使ったという。

もっとも、彼が法治主義を完全に徹底できたかと言えばそうではない。
権力を私怨の復讐のために濫用しまくっていた法正に対して諸葛亮は「功績を考えると処罰はできない」とするなど、徹底しているとは言えなかった。*10
法治主義を徹底した中華の先達と言えば始皇帝であるが、始皇帝は統一国家の皇帝としての権力と、天下統一を果たしたという権威を持っていた。
諸葛亮は一群雄のそのまた配下という立場に過ぎず、派閥や外圧と相談して国を運営しなければならなかった故の限界と捉えるべきであろう。
そして、これについてこられる人材もそう多いものではなく、結果として職務が自らに集中。
その職務集中の様子を聞きつけた司馬懿は「諸葛亮は過労でもう先はない」と読み、その通り諸葛亮は陣没してしまったのである。

【諸葛亮の後継者】


劉備「馬謖は理屈は達者だが実際には言うほどの才能は無いぞ、重用はするなよ!」
諸葛亮「わかりました」
劉備死後
馬謖「丞相!俺に任せてください!」(ほぼ初陣)
諸葛亮「よし、行け!」

という具合に人を見る目は(少なくとも軍官に関しては)あまり良くなかったんじゃねーの?と言うのが定説。
馬謖については、自身の後継・補佐役として認めさせるためにも経験を積ませたかったのではないかとも言われるが、国家の一大事の北伐、それもその唯一最大のチャンスでやらかしたエラーは流石に擁護しづらい。
他の将軍たちがベテランの武将を推薦していたのを蹴ってこの結末ではなおさらである。


とはいえ、諸葛亮の見出した他の後継者たちが結構な大仕事をしているのも事実。

蔣琬(しょうえん)

荊州出身で、元々仕事中に酔っぱらって劉備に厳罰にされそうになったところを諸葛亮に取りなされた人物。
諸葛亮亡き後大将軍・大司馬(軍事のボス)を始め要職を大量に兼任。(諸葛亮死後丞相は置かれなかった)
余談だが、楊儀は諸葛亮死後は自分が後継者になれると思っていたが、そのの能力や器量を問題視した諸葛亮は蔣琬を後継者として既に指名していた。そのことについて「こんなことなら魏に降伏しとけばよかったわ」とボヤいていた楊儀は失脚した挙句、拘束され、最後は自殺する羽目になった。
彼がトップにいる間魏は蜀に攻めてこず、内政も崩れることがなかった。
北伐積極派であったが、彼自身の体調などの問題もあり実行には移せないまま病死。

費禕(ひい)

劉璋時代から益州に仕えていた費観の親族。
244年に魏の曹爽が本腰を入れて攻めてきた際、重病で指揮ができない蔣琬(しょうえん)に代わって全軍を指揮。
なんと陣中で囲碁を楽しむ余裕で見事魏軍をフルボッコにした(興勢の役)。
この敗戦で魏では司馬懿と並ぶ有力者と思われていた曹爽の力に陰りが生じ、魏は司馬懿が曹爽ごときに任せておけぬと内ゲバ乱発となって蜀に攻め込めなくなった。
博奕や宴会が大好きで遊びまくっていたが、同時に政務も滞らせないという、仕事も遊びも両立させる達人ぶりを見せた。
後任の董允が真似をしようとしたらあっという間に政務が滞ってしまい、董允は「人間の能力ってこんなに差があるのか…」と嘆いたらしい。*11
ただ、蔣琬(しょうえん)と異なって人材不足を理由に北伐には消極的で、北伐積極派の姜維とは距離を取っていた。
しかしそういった遊び好きで適当な部分が災いし、253年に魏からの降将に宴席で暗殺されてしまう。

姜維

項目があるので詳細はそちらを参照。
無謀な北伐連発して国力低下させた戦犯…といわれることもあるが、蜀という国自体が元々弱小国で彼が下った頃はすでに割と詰んでいたことや、諸葛瞻を含むほかの閣僚たちが散々(経験不足の若手、文官、宦官、隠居状態のロートルなどが派閥を形成して統一感を失っているなど、かなり壊滅的)だったこと、
そんな中でも姜維はそこそこ勝ち点を稼いでいた事を考えると、ムリゲーの中で奮闘はしたのではないかといえないこともない。
まぁ早い話が、なまじ諸葛亮に目をかけられて支持を得たが、トップとしての個人の力量も、蜀の国としての力もかなり厳しすぎたという、ある意味貧乏くじを引かされたみたいな有り様である。

【家族】

【諸葛瑾】

呉に仕えた諸葛亮の兄。馬面。
弟とは仕える主君を違えることとなったが、むしろその血筋を利用していたのか、対蜀では出番が多く、諸葛亮との手紙のやり取りも残っている。
大将軍に任じられるなど弟に負けず劣らず出世している。
慎み深く、諫言もやたらと強い言葉を使わずうまくとりなせるという人心掌握に長けたタイプの人物だったようだ。
孫権からも「諸葛瑾が私を裏切らないのは私が諸葛瑾を裏切らないのと同様」と絶大な信頼を受けた。

【諸葛恪】

諸葛瑾の長男で、父に引き続いて呉に仕えた。才気煥発なエピソードが多々残っているが、一方で
諸葛瑾「家を栄えさせるが滅ぼしもする」
諸葛亮「いい加減な奴なので兵糧とかは扱わせない方がいい」
陸遜「人を人と思わない性格を何とかしろ」
などなど父とは似ても似つかない大雑把で傲慢な性格はかなり危険視されていたようだ。
魏軍を倒すなど武功を挙げて大将軍にまで出世したが、調子に乗って魏を討伐しようとして大敗。
やがて呉でも過ぎた独断専行から危険視されて一族ともども皆殺しになった。

【諸葛喬】

諸葛瑾の次男だが、なかなか子ができなかった諸葛亮の養子となった。
才能は諸葛恪に劣るが、性格は父親譲りと評される。
若い頃から霍弋と共に見聞を広める為の旅をする等将来を期待されたが、孔明に先立って僅か25歳で病死。
なお、息子の諸葛攀は途絶えてしまった呉の諸葛一族の跡を継いでいる。

【諸葛均】

諸葛亮の弟。蜀に仕えたのは確かだが、あまり出番はない。
演義だと三顧の礼にやってきた劉備の出迎えをしたら諸葛亮と間違われるというエピソードがある程度。
このため、諸葛亮の影武者と言う役割を与えられるケースも。

【諸葛瞻】

あまりフィーチャーされていない息子。
劉禅の娘を娶り、利発で記憶力が良く、書画も巧みで父の名声もあって人々からももてはやされ、261年に蜀漢の中枢入りする。
しかし、諸葛亮が死んだ時点ではまだ7歳であり、利発であったと言う程度では正直父も後継者扱いはしづらかったであろう。*12
中枢入り後は、黄皓と組んだり姜維の排斥をしたり、仲間内で誹謗しあったり、非があっても庇いあったりして、政治の混乱を悪化させるだけだった。

263年に蜀が滅亡した際には、姜維の剣閣の防衛線の裏に回った鄧艾を綿竹で迎え撃っている。
だがここで部下の黄崇(黄権の子)から「敵が平地に入ったら倒すの大変ですよ!!早く打って出て要地を守りましょう!!」と泣きながら進言されても様子見ばかりするという謎な指揮をした結果敗れ、戦死してしまった。
それら諸々あって「親の七光り」という評価が歴史家から下されている。
他方国難に殉じ、鄧艾からの降伏の勧めも蹴飛ばす等、人格面での評価は好意的なものも多い。
東晋の干宝いわく「知恵も勇気も能力もダメだが、父親の志を辱めず忠孝は尽くした」とのこと。……人格しか褒める点がなかったとも。

諸葛瞻の長男・諸葛尚も父と同じ戦いで戦死。次男・諸葛京は幼少だったため生き延び、晋で役人となっている。
諸葛京の血筋は何と現代まで続いている。

【黄夫人】

荊州時代に婚活していたところ、地元の名士に在庫処分紹介されて結ばれることとなった嫁。
黄月英と言えばわかりやすいだろうか。ちなみに実名ではなく創作。
才知に溢れているがブスだったことで知られ、当時「マネするな孔明の嫁選び~ 承さんの醜女(しこめ)を引き当てるぞ~」などという意味の歌を唄われてからかわれていたという。
しかし、その容姿は金毛褐色と言われているので、「実はインド系の血を引いていただけではないか?」「顔墨を塗ってわざと醜く誤魔化してたんでは?」という推察もあり、現代的にはそんなにブサイクではない可能性も十分ある金毛褐色のインド系ブサイクの可能性もある
その才は技術者として活きたとされ、木牛などを考案したとされる。
なお彼女の母は蔡瑁の姉妹なので、蔡瑁と劉表の義理の甥となったことになる。
なので諸葛亮には劉表死後の後継者争いで蔡瑁ら劉琮陣営のところへ逃げて曹操に仕えるという道筋もないわけではなかった。
諸葛瞻の母親と言う可能性もあるが、明示はされていない。(演義では母親とされる)

馬良

義兄弟で、白眉の逸話で知られる人物。
馬氏の五常の中では一番の出世頭だったのだが、夷陵の戦いで実兄共々にあえなく命を落としている。
馬謖は義弟の実弟ということになるが、後にそいつをも斬らなければならなかった諸葛亮の無念たるや如何に。

龐統

司馬徽門下の同門だが、実は諸葛亮の姉が龐統の従兄に嫁いでおり義理のいとこぐらいの関係。
龐統の従父である龐徳公(西涼の龐徳とは関係ない)は荊州の名士で人物鑑定を行っており、「臥龍」「鳳雛」といった二人の呼び名も、更に言えば司馬徽の「水鏡」も龐徳公が名付けたものだという。

【諸葛誕】

同族であるが具体的な血筋は不明。
魏に仕え、諸葛亮・諸葛瑾と並べて評価されるなど高評価を受けた。
しかし司馬昭から疑われたと考え反乱を起こし、寿春に立てこもったが敗北して斬られた。
諸葛誕死後、生き残った彼の部下たちは降伏を勧められたが「諸葛公のために死ぬのなら悔いはない!!」と言って皆降伏せず死刑になった。

【諸葛靚】

諸葛誕の子で、晋の皇帝である司馬炎とは幼馴染でもあった。
諸葛誕の反乱の際に人質として呉に送られたため難を逃れ、その後呉に仕えて大司馬にまでなったが呉も晋に平定された。
司馬炎は諸葛靚を惜しんで取り立てようとしたが、晋への恨みを忘れることなく、登用の誘いに一切応じなかった。
諸葛靚の息子は東晋で高官に上っている。


【相性の悪い人物?】


なぜか劉備と相性のいい人物とは諸葛亮は相性が悪いと言われることもある。

劉備が張飛をも差し置いて漢中太守にした魏延は諸葛亮と仲が悪かったと言われやすい。
実際諸葛亮死後、内紛で殺されており、また諸葛亮が魏延の献策を取り上げないことも多かった。
ただ、そうは言っても諸葛亮が生きている間は魏延はちゃんと諸葛亮に従っている。
むしろ魏延と仲が悪かったのは楊儀であり、諸葛亮は常に仲裁に頭を痛めていた。

また、正史では諸葛亮以上の軍師とされ、劉備から唯一諡をもらった法正。
正史に「性格が合わない」とズバリ書かれるほど相性が悪かったようだが、
「殿が今いるのは法正殿のおかげなので法正殿のインテリヤクザ*13は止められない…」と言ったり、
法正の死後に劉備が夷陵で大敗した時には「法正のヤツさえ生きていれば……」と嘆いている。
前記した蜀科の制定にあたっても、反対意見を述べてはいるが最終的には諸葛亮の思想に従った蜀科を通している。
そりが合わないながらも、「国を盛り立てる」という視点自体は共通しており、だからこそ忌憚なく言い合いが出来た仲…というのはいささか美化が過ぎるだろうか。

劉備が諸葛亮と並んで重用した李厳などは、北伐中に職務怠慢をやらかし庶民に落とされるという厳罰にされた。
だが、李厳はいつか自分を取り立ててくれると信じて処罰を受け入れていた。
再度取り立てられる前に諸葛亮が死ぬと「もう自分は取り立ててもらえない」と考えて落胆し、死んでしまった。
一方で既に官位を得ていた李厳の息子は諸葛亮から「君は悪くない、今後も頑張って」と手紙をもらい、その後も出世している。

馬謖についても「親しかった者でも法は曲げられない」と処刑したが、その前に馬謖が自分の家族が連座のような形で苦しむことが無い様に懇願した際はそれを認めている。

こうしてみると、例え一族に前科者がいたり、個人的な相性が悪くとも個人の持つ実力は認め、
立てるべき所はきちんと立てて軍事・政治を運営しており、その点に関しては国内でも信頼があったと言える。
馬謖を筆頭にハズレ人事と言わざるを得ない件もあったが、人材の層が薄めで、相性でえり好みなんかしていられない蜀を盛り立てていくために、
個人の相性のような私情を捨てて最善の策を選ぶ姿勢を持っていたことは、評価されるべき点であろう。

【劉備の遺言】


「俺の息子が無能だったらお前が後継いでくれ」という遺言。
これに対し、諸葛亮は「何いってんすか、俺はずっとあなたの臣下っすよ」と蜀と君主への忠誠を示した。

涙もののエピソードであるが、この時点で諸葛亮の横には内政のトップ権力者の一角である尚書令李厳がいた。
常識的に考えて、「はいそうさせていただきます!!」等と言えば、逆意ありとして一族皆殺しでもおかしくない状態である。

劉備と諸葛亮は強い信頼で結ばれていたとされる。
実際諸葛亮が要職を歴任していることは間違いないものの、一般に言われるほど全幅の信頼を置いたのだろうか、という点には疑問が示されている。
実際諸葛亮が直に軍を率いたりすることは劉備が死ぬまでなく、夷陵の戦いをはじめ献策を取り上げられないことも多かった。この点に関しては諸葛亮は蕭何サン的立ち位置であるため、そもそも丞相が国を出て大軍を率いるという滅茶苦茶をしている晩年の諸葛亮の方がおかしい、ともいえる。
また、諸葛亮の官位が麋竺よりも下だった*14ことなどを取り上げ、劉備と諸葛亮の信頼関係は一般に思われていたほど堅固ではなく、諸葛亮の権力は劉備よりも劉禅の信頼によるものだったのではないか、という説も根強い。
そんな劉備が本心からそういうとは思えず、劉備が諸葛亮を警戒して釘を刺したのではないか、という意見もある。*15

ただ、現実に蜀の将来を担う人材として諸葛亮は十分大当たりであったことは事実であろう。
そのため、本心であったという説もなお存在している。

また、今後今まで以上に重要な権力を担うであろう諸葛亮であるが、権力を握れば讒言や派閥抗争の標的にされやすくなる。
そのため、「諸葛亮は忠義の臣下である。余計な疑いを持つことなく諸葛亮を信頼するように」と周囲に示すための演技だった、という見方も存在している。

「君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取」という言葉が果たして「劉禅に取って代わって良い」という意味であるのか、
「(補佐でなく)自分で取り仕切って良い」ぐらいの意味ではないのか、そこから疑う説まで存在している。

演義はもちろん史書も結局は著作物であり、
こうした発言がどこまで真実か、似たような発言があったとしても厳密に何といったかは正史であれ疑わしいものではあるが、色々と想像の種を提供してくれる話ではある。
ちなみに孫策もその死に際して張昭に同じことを言っている。

【ゲームなどにおいて】


ゲームでは政治・知力・妖力といったステータスにおいて不動のトップクラスが定位置である。
コーエー三国志だと素で知力100あるのが代名詞となっており、*16助言の精度が正確なので人材登用や重要な外交で大きな助けとなる。
戦闘は苦手だが、統率力もあるので戦場で兵を率いてもらってもよいし、本人にもビーム等の飛び道具があるので割と戦えてしまう…え、ビーム撃たねえだろ?無双シリーズではよくある事。
え、ジャブハメできて魔法剣が使えて大津波起こしたりする?放逸!
天高く飛び風や雷や地変も操ったり、幾度か女体化したり、現代転生してパリピやったり、そのまま三国時代のゲームに戻ったり、魔王覚醒を起こしたりともう何が何やら…


ヒノヽヽヽヽ\
ヽ r"" ̄ ̄(⌒ハ
`V リ< ̄ ̄ ̄`i
 VU/ ‾ニ=ッ r=|
 (fi   ヽi
 |ヒヽ   ‐/リ
 iヽ \ /≡V
 ̄ハ \ `"川リ゙
ショカツリョウ
諸葛亮 曰く、
なにを ぐずぐず
しているのです。
追記・修正の手を
ゆるめてはなりません。

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最終更新:2024年03月20日 11:40

*1 尤も、この時の荊州は劉表の死と後継者争いで混乱しており、劉備が恩を仇で返す行為で荊州を手に入れたとしても勢いに乗っている曹操に勝てるとは思えないので創作である。実際は曹操が攻めて来るまで感知できずに慌てて逃げ出した可能性が高い

*2 諸葛亮は蜀の官僚としてはトップだが、上述のように荊州には流れ着いて嫁を娶っただけで荊州閥との地縁はあまりなく彼らのトップとは言い切れない。劉備軍が入蜀の際に連れて行った軍兵は殆どが荊州出身なので、諸葛亮の諫めでは荊州閥を繋ぎ止めるのに力不足だと判断し軍事行動に踏み切った可能性もある

*3 形としては司馬懿は曹叡に出陣許可を求めているが、これは「皇帝から出陣するなと言われた」ということで自身の「打って出ない」という作戦に大義名分を与え、司馬懿の指揮に不満な諸将をなだめるための芝居であったと言われている。司馬懿だけに。

*4 春秋時代の斉の桓公の重臣。桓公を覇者として君臨させた立役者

*5 漢帝国の創始者である劉邦の最大の功臣。内政の化け物

*6 この事で陳寿は諸葛亮ファンから「コイツは金に汚ねぇ」、「親父が処刑された(事実)から悪く書いていやがる」などとレッテルを貼られてしまった

*7 前途有望な蜀の将軍であったが、夷陵の戦いで劉備に危険を進言して聞いてもらえず、結果として退路を絶たれ、魏に亡命。曹丕からも高く評価され出世もしたが、劉備の死の祝賀に参加しない等、蜀への忠誠心を残していた。

*8 劉備も黄権の投降は自身が黄権を裏切ったことによるとし、残された家族は厚遇、息子は蜀滅亡に殉じている。

*9 ほとんどは破棄されたため詳細不明。少なくとも後世で創作されたものとは異なる内容と思われる。

*10 法正は劉備のお気に入りで諸葛亮も認める有能な人物である。ただ、蜀科の制定にあたってその法正による反対意見を押し切った点からしても、法治主義への諸葛亮へのこだわりが見て取れる。

*11 別に董允が無能だったとかそういうことではなく、彼も諸葛亮・蔣琬・費禕と並び四相と称された名宰相である。

*12 それどころか、利発すぎて大成しないんじゃないかという不安を兄の諸葛瑾に吐露している。

*13 私怨で権力濫用するのが日常茶飯事であったとされる。

*14 ただし、麋竺は流浪状態の劉備のために人や財を投げうった功労者であり、豪族の力が重要な当時にあっては一般に思われているよりはるかに尊重されるべき大先輩パトロンという立場である。

*15 日本でも、大海人皇子は天智天皇の後事を託す発言を聞いた際、これまでの対応との差から警戒し、その日のうちに出家・下野して逆意のないことを示したと言われている。

*16 例外的に『三國志VII』では初期所持の名品込みで知力100になるよう調整されている。