関ヶ原の戦い(戦国時代)

登録日:2011/12/30(金) 15:01:39
更新日:2024/01/21 Sun 20:09:07
所要時間:約 11 分で読めます




「関ヶ原の戦い」とは、1600年9月15日、徳川家康率いる東軍74000石田三成をはじめとした西軍84000が関ヶ原(今の岐阜県不破郡関ヶ原)にて激突した戦いである。



【概要】

総158000人が激突した戦国時代最大の戦い。
そして世界最大の戦いでもある。

15万程度で世界最大?と思うかもしれないが、「最大」は人の話ではなく銃の話。
関ヶ原で使用された鉄砲の数およそ25000。
これは当時の欧州全土が保有していた鉄砲30000丁に匹敵する*1

まさに当時としては世界最大の銃撃戦が繰り広げられたのである。
各陣営が布陣したのは6時頃。
濃霧の影響もあってか遭遇戦じみた両軍、東軍は一足先に布陣していた西軍に飛び込む形で布陣、
特に東軍福島正則と西軍宇喜多秀家の距離は1キロも無かった。


東軍が西軍に鶴翼に包囲される事になったこの陣形を見て、
明治時代、陸軍大学校で教鞭をとったドイツの名戦術家、メッケルは西軍の圧勝を確信した……と言われている。
しかし歴戦の総大将が最前線で指揮を取る名だたる精鋭軍指揮官はいるが総大将のいない雑軍という背景を見ていたら掌を返していたかもしれない。

この戦いの他、東北ではこの戦いの発端にもなった上杉家が西軍として東軍の最上領を攻めた「慶長出羽合戦」、
九州では大友家再興を夢見る大友義統が毛利家の援護を受け九州に上陸し、黒田如水(官兵衛)と対決した「石垣原の戦い」など、
全国の武将が完全に2つの陣営に分かれて激戦を繰り広げた。

ちなみに、勘違いされがちだがこの戦いは豊臣家と徳川家の決戦ではなく、
豊臣家の家臣である石田三成(大将は毛利輝元)と徳川家康の戦いで、体面的には豊臣家内の派閥争いである。
そのため、家康率いる東軍には福島正則などのいわゆる「豊臣恩顧の武将」も多く所属している。


果たしてその結果たるや───


8:00

井伊隊、抜け駆け

突然、先鋒を勤めることになっていた福島正則を追い越し井伊隊が突出。
これに福島隊抗議するも初陣である総大将家康の息子、松平忠吉に合戦を見せるだけだと言い伏せる。

しかし井伊隊は宇喜多隊に対して発砲、関ヶ原の戦いは抜け駆けから始まった。

この背景には本来の徳川本隊にして精鋭部隊だった秀忠軍30000が様々な不運の結果、
合戦に間に合わないという世紀のダイナミック大遅刻をやらかしたから……
とこの記事にも書かれていたが、近年の説だとほぼ全面的に否定されている。詳細は後述。



8:10

開戦

抜け駆けに激怒した福島隊が遅れをとるなと宇喜多隊に突撃。
宇喜多隊もこれに応戦する形となり、ついに両軍が激突した。

但し、この抜け駆けに対し福島正則が家康に抗議したという記録はないため、
近年の研究では本当に井伊隊が福島隊を追い越した時に偶発的に開戦したのではないかとも言われている。



9:00

石田隊、奮戦

数に勝る宇喜多隊が福島隊を押し初戦は西軍優位にすすむ。
三成のせいで三成のせいで三成のせいで

関ヶ原の合戦前、武将の引き込み合戦に巻き込まれて命を散らした妻ガラシャの仇をとらんと、戦国が誇るヤンデルDQN武将細川忠興が石田本隊に突撃。
これを三成に過ぎたると称えられた名将島左近が迎えうつ大激戦となった。

左近の猛戦に正面からの衝突は不利とみた黒田長政隊は側面へと動き、左近隊に鉄砲の一斉射撃をくわえる。
この凶弾に左近が倒れ生死不明に。
崩れた石田隊に東軍が迫るもすぐさま大砲で応戦、戦線を押し返す事に成功する。



10:00

家康、陣を前に移す

膠着状態となり一向に戦況動かず、かつ霧でみえない戦場に業を煮やした家康が陣を移動する。
よくここで家康は動いたのに三成は…なんて言われたりするが、ヤンデルに狙われて陣を動かす余裕などなかったというのが実状である。



11:00

西軍総攻撃の狼煙があがる

大砲で応戦するも徐々に圧されはじめる三成はここで西軍総攻撃の狼煙をあげる。
これにより家康の背後に布陣する毛利、側面に陣を構える小早川をはじめとする大軍が挟撃。

これにより突出しすぎた東軍は進退極まりついに西軍により撃滅される────



はずだった



三成「────動かない…。誰も…誰も動かないじゃないか…」
そう、毛利も小早川もそして島津も────
今前線で奮戦している部隊以外誰も動かなかったのである。


なんとこの時既に毛利の吉川広家、そして小早川秀秋は家康に内応していたのだ。
狼煙をみた毛利秀元、暗黒JK(ry…安国寺恵瓊ら南宮山を降り挟撃しようとするも、
先陣を切るはずの吉川広家がエア弁当を吟味していたため動けないという事態に陥っていた(これがいわゆる「宰相殿の空弁当」)。

毛利勢は動かない────
それを確信した家康はついに行動を開始する……。



12:00

小早川裏切り

家康は松尾山に向けて大鉄砲による銃撃を仕掛け、これを受けて小早川秀秋はすぐさま突撃命令を下した…、
と、近年まで語られていたが、実は家康側が小早川へと鉄砲を撃ったという一次資料は何処にも存在しない。
そもそもとして、この戦いでは敵味方合わせて上述のように25000丁もの鉄砲で撃ち合っていたのだから、
これが本当だとしたら、どうやって家康側から鉄砲を撃ち掛けられたと小早川軍が判断(特定)できたのかという問題になる。

ともあれ、山をかけ降りる小早川勢。その狙いは、


西軍、大谷勢


しかし大谷吉継はこの裏切りを読んでいた。
柵を張り巡らし、伏兵を構えて。
義の為に戦うと語った友の為にも負けられぬと病床の身を押して奮戦。

小早川の大軍を押し返す事に成功する。しかしその側面を突然の凶弾が襲う。


それは前もって小早川の裏切りに備えて布陣させていた赤座・小川・朽木・脇坂4将の裏切りを示していた────

※脇坂安治は関ヶ原本戦前に家康とのコンタクトに成功し、戦後所領安堵・内応、子孫は江戸時代後期に譜代格として老中を輩出する名家となった。
赤座直保は東軍の前田家に内応していたが連絡ミスにより東軍内応の公表が遅れたため、
赤座家は改易となったが、直保と個人的に親交のあった前田利長に召しかかえられる。
小川祐忠は藤堂高虎に早くから東軍内応を伝えていたが、やはり伝達ミスで家康に開戦前までに伝えられなかったことから、改易。
朽木元綱も藤堂高虎経由で東軍に内応していたが、家康の側近には伝えられていたものの家康自身が知らなかったため、領地を減らされる。
しかし二代将軍秀忠の時に庶流の末男が大名に復帰し、朽木家は明治維新まで藩主として継続している。



13:00

西軍敗走

これには大谷勢も支えきれず崩壊、大谷吉継は自刃。
大谷隊を失った西軍は東軍の大軍勢に攻めたてられ遂に敗走。

三成は伊吹山方面へと落ち延びた。


死闘六時間。戦国最大の戦いは西軍方裏切りによる崩壊によって幕を閉じたのである。
余談だが、関ヶ原の戦い当日(旧暦9月15日)は家康の長男信康の命日であった。
「信康めのおかげじゃ!」(葵 徳川三代より)

【備考】

◆秀忠遅参説

関ヶ原の戦いの「六時間」と言うのは、当時の合戦としては非常に短い。と言うより、合戦が一日で終わる事自体が珍しい
ましてやそれが天下分け目の合戦となれば、普通は何日も、場合によっては何ヶ月も続くと考えるのが普通。
この短期決着は、おそらく合戦に参加していた当事者たちですら、誰も予想していなかった事と思われる。

先に書かれた「秀忠の遅参説がデマ」と言うのもこの辺りに由来し、
大方の予測通りに戦局が推移していれば間に合っていたのに、結果的に予想外に早く合戦が決着したからといって「遅参」とするのは酷だろう。
このことから、現在では秀忠は信州攻略を命じられており、関ヶ原に向かう予定ではなかったという説も有力視されている。
より正確にいえば、元々は信濃を平定しつつゆっくり進軍するというものだったが、
東軍・池田輝政らの大活躍により堅城として知られる岐阜城があっという間に落城するという事態が起こり、
これを聞きつけた家康が駆けつけ、また秀忠にも予定変更しこちらに来るように催促したという形になる。
しかしそれを伝える伝令が、悪天候の影響とそもそもの中山道の遠さなどから到着が遅れたことが秀忠が参戦できなかった要因で、
上田城攻めはそこまで影響してなかったのではないかと言われている。


小早川秀秋

「小早川秀秋の裏切りがきっかけで西軍は総崩れとなった」というものが長く関ヶ原の戦いの定説とされていたが、
近年ではこれは覆され、「小早川は裏切ってなどおらず、最初から東軍だった」という説が有力視されている。
そもそも秀秋は、秀吉の後継者として養子に迎えられ、厚遇されたが、
実子が生まれたら掌を返したように冷遇されるという憂き目に遭っており、
一方の家康には、その冷遇時期になにかと良くしてもらっているため、
豊臣に恨みはあれど恩はなく、徳川には恩はあれど恨みはなかっただろう。

ついでに言えば関ヶ原の戦いは石田三成と徳川家康の戦いであり、
どちらについても豊臣に弓引くわけでもないとくれば、秀秋の心情を考えれば当然東軍について然るべきと言える。
そのため、「最初から東軍に馳せ参じるつもりだったが、地理的な問題で西軍に邪魔され、仕方なく西軍の近くに布陣した」、
「西軍を裏切ったどころか、むしろ西軍に東軍からの裏切りを持ち掛けられていた」とするのが近年の通説である*2


と、この二つの新説は歴史好きには割と有名だが、残念ながら一般層にはあまり広まっていない。
多くの歴史小説やNHK大河ドラマ、古い論文等で広まってしまった従来説は簡単には覆る物ではなく、
「秀忠は遅参した愚か者」「秀秋は稀代の裏切り者」と言う汚名は当面晴れそうにない。

ただ秀秋に関していえば、本人の気持ちはずっと東軍に傾いており、彼にとっては不本意な形であるとはいえ、
伏見城攻めに参加しているために誤解されても仕方ないという側面もある。
秀秋はこのことに関して家康に謝罪する書状を送っている上、
伏見城攻めから関ヶ原布陣まで西軍としての行動を一切していないため、形としては家康から評価され加増されている*3
なお同じく不本意な形で西軍として参戦した長宗我部盛親はその辺の対応にしくじって改易された。
こういった事情をあまり知らない武将や公家、庶民などから裏切ったと見なされ、
また、秀秋が早世して小早川家が断絶したことにより「悪評だけが残った」というのが実際のところなのかもしれない。









なお、この戦いで得た教訓と言えば、

人付き合いは大切にしよう

に尽きるであろう。



追記・修正をお願いします。




















14:00
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最終更新:2024年01月21日 20:09

*1 ちなみに、これより少し前に活躍した織田信長の軍の鉄砲所有数は当時世界一であり、『火薬が濡れない晴れの日限定で世界最強の軍隊』だったとも言われる。

*2 実際、秀秋の布陣跡と周囲の西軍の布陣跡を見ると、互いに相手を敵と見なしていると思しき布陣であるという。

*3 付近にいて寝返った脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保は連絡を怠らなかった脇坂以外は減俸もしくは改易、脇坂も本領安堵が精いっぱいだったので、加増された小早川は家康から東軍の将として貢献したとみなされていた証拠といえるであろう