大友宗麟(戦国武将)

登録日:2010/09/16(木) 23:34:52
更新日:2024/02/16 Fri 23:38:06
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大友(おおとも)宗麟(そうりん)
1530-1587

大友宗麟は豊後国(現在の大分県)を本拠とした戦国大名である。
宗麟は出家した時の名前で、諱は義鎮(よししげ)

南蛮人と彼らのもたらした文化を厚く保護し、キリスト教に改宗したキリシタン大名の代表格として知られている。


鎌倉時代から続く名門・大友氏の嫡男として生まれる。
父の義鑑は義鎮を廃嫡してその異母弟を後継にしようとしたが、
粛清を恐れた義鎮派家臣の逆襲にあい死亡した(大友二階崩れの変)。
これにより21歳の義鎮は家臣団に擁立されて大友氏の当主となる。


戸次鑑連や吉弘鑑理・鎮種(後の高橋紹運)親子らを筆頭とした優秀な家臣に助けられて義鎮のもと大友氏は勢力を拡大。
最盛期にはその支配圏は6ヶ国に及び、名実ともに九州の覇者であった。

義鎮は戦下手で自ら軍を指揮することはほとんどなかったが、政略に長け既存の権威を巧みに利用した。

毛利元就との対決では将軍家を介した和平工作や尼子・大内の残党を使った後方攪乱を駆使して、
稀代の策謀家元就を苦しめ、ついに毛利氏の九州進出を阻止している。
毛利元就を苦しめ、撃退させたことはもっと評価されるべきだし、献策に貢献した軍師、吉岡長増ももっと知られるべきである。



が、九州最強の大名となっても義鎮の心は満たされず、次第に政治に倦むようになる。

度を越した酒色にふけり、家臣を殺してその妻を奪う暴虐ぶりを発揮。
かと思えば禅に熱中して出家し宗麟を名乗るようになるが私生活の乱れはおさまらず、
配下の名将・ベッキーこと戸次鑑連(立花道雪)の諫言も効果はなかった。
いや全く効果が無いわけでも無いが効果時間が極度に短かった。のび太へのママの説教レベル


そんな宗麟の心の隙間を埋めたのがキリスト教である。

22歳の時に一度だけフランシスコ・ザビエルの訪問を受けてその人柄に感銘を受け、
以来鉄砲や火薬を求めて南蛮貿易を保護するかたわらキリスト教に関心を向けていく。


長男の義統に家督を譲り、身軽になった宗麟は49歳にして正式に洗礼を受けてキリスト教徒となった。
洗礼名はザビエルにちなんでフランシスコ。
家臣宛の書状などでは府蘭(ふらん)と号した。
時を同じくして1578年、薩摩の島津氏に攻撃された伊東氏の要請を受けて宗麟は日向国に出兵する。

本拠地の豊後では寺社勢力や仏教を信じる家臣の反対で思うようにキリスト教を布教できないと考えた。
宗麟はしがらみのない日向に『理想郷』を築こうとする。



「全ての民が基督教を信じ、兄弟のように愛し合う国をつくろう」



現在の宮崎県北部へ侵攻した大友軍は神社仏閣を破壊し、貴重な文化財はことごとく失われた。

宗麟は十字を染め抜いた旗を掲げた軍船で宣教師たちを連れて現地入りしたが、
元々反乱が多く一枚岩でないところに宗教対立まで加わった大友家臣団は統制を欠き、
島津軍に「耳川の戦い」で大敗 宗麟の理想は儚い夢に終わる。


耳川の敗戦を境に大友氏の覇権は急速に瓦解、島津氏の圧迫で本拠の豊後さえ危うくなる。
大友氏滅亡の危機に宗麟は天下人・豊臣秀吉に臣従して援軍を乞い、自らも臼杵城に立て籠って島津軍を迎え撃ったが、
一連の戦いで宗麟が心血を注いだ豊後の府内、臼杵の街も灰塵に帰した。
秀吉の大軍が九州に上陸し、島津氏が降伏する直前に病死。58歳。



英雄か暗君か、大友宗麟ほど評価の安定しない人物も珍しいのではないだろうか?
まあ長生きしすぎたせいで名君から暗君へとなってしまった君主は結構いるのだが。
ただし、二階崩れや毛利や島津との戦など本当の意味で窮地に立たされた時には最適解を導き出せたり、英雄としての素質は確かにあった。

キリシタン大名のイメージからか「平和を愛した武将」などと実態に合わない形で取り上げられたり、
反対に寺社を弾圧したことで悪逆非道の仏敵・暴君とされることも。


少なくとも東の織田信長に並び称されるほど西洋文化に開明的だったのは確かで、
日本で初めて
  • 大砲を実戦で使用した
  • 艦砲射撃を行った
  • 大砲を国内で製造した
  • 西洋医学の外科手術を行わせた
  • 西洋医学の総合病院を作った(しかも領民は無料で診察してもらえる)

という記録をもっている。


宗麟が「国崩し」と名付けたフランキ砲は島津軍との戦いなどで威力を発揮したが、
なんと最近になって現物が遠くロシアで発見された。

幕府に接収されていた物が江戸後期になってロシアとの小競り合いの際に、
倉庫から引っ張り出され、敵に奪われたのだとか…
まさに歴史ロマン。


和歌に長じた教養人であり、茶の湯にも熱心な数奇者という一面も。
実弟の大内義長が毛利軍に追い詰められた時、交渉に来た毛利の使者に、

「弟の命は要らないが、弟が持っている茶器が惜しいからそちらを頂きたい」

と言い放ったそう。業の深い話である。


大分県の偉人というと真っ先に大友宗麟の名前が挙がる。

大分駅前の銅像をはじめ、県内に7つも宗麟像が立っているらしい。
毀誉褒貶はあってもやはり地元では愛されているのだろう。

ただし、先述の悪逆非道や好色ぶりに加え、家臣である立花道雪や宗茂の人気の高さから戦国ファンからの評価はかなり低い。

息子の義統には豊後一国が安堵されたが、のちに朝鮮の役での失態を理由に改易され、大名としての大友氏は滅亡している。
この義統は朝鮮出兵時の件以外でも暗愚エピソードに事欠かさない人物であり
  • 宗麟が隠居して彼に家督を譲ったものの、才能の無さを見抜いた戸次鑑連から「宗麟様戻ってきて」と言われ、仕方なく義統と宗麟の二枚体制を敷くことに
  • 宗麟の強引な性格と優柔不断な義統ではそりがあう訳もなく、父と不仲となる
  • 彼のことを書いた文献では「不明惰弱」と書かれている。これは「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」という意味である
  • 大友最大の衰退の原因である耳川の戦いや寺社破壊の時には宗麟は(名目上は)既に隠居状態であったため、義統主導によるものとも言われている
  • 戸次川の戦いの時は仙石秀久と共にそそくさと家臣を置き去りにして逃げる*1
  • 関ヶ原の戦いの時は最初は東軍につこうとしたが西軍側から「勝ったら豊後を返すこと考えてやるよ(返すとは言ってない)」と言う甘言に釣られ、西軍に付いたものの黒田官兵衛と彼では勝負になるはずもなく敗戦
  • 最後は遥か常陸の地(現在の茨城県)に飛ばされひっそりと死去
と、戦国時代を代表する暗愚の一人として悪い意味で名高い男となっている。


[各作品の大友宗麟]
●信長の野望シリーズ
戦力として扱える程度の武力と一流の政治力を有する。
家臣もベッキーや角隈石宗、高橋紹運など非常に有能かつ忠実な存在が多い。
キリシタン大名の代表格だからかキリスト教に関する固有技能や国崩しに関連してか兵器に関する固有技能を持ち、なかなか優秀。
難点は南の島津と北の毛利(年代によっては大内)の驚異にさらされ続けることと自分の死後に後を継がせることになる息子が無能な点だろうか。
(結果的に)親を殺害して自分が大名に成り上がった経歴を持つためか義理が非常に低い。そのため家臣にする際は注意を*2
また、作品によってはキリスト教を信仰している関係上多くの家臣との相性が悪く、寝返りをよく食らう。こんなところまで史実を再現しなくても…

余談だが同社が出している三国志シリーズの孫権と全てのステータスが非常に似通っている。晩年が悲惨だったことを筆頭に奇しくも共通点が非常に多い。

●戦国BASARAシリーズ
こちらを参照。
変わり者、熱狂的な信者、我が強い面が強調されている。
他のゲームではまず描写されることのない毛利との因縁もしっかりと描写されている等意外にも史実に非常に忠実であり、大真面目にふざけて作られたキャラクターとなっている。彼の場合は史実の方がはっちゃけていると言える。全年齢向けゲーム、しかも設定上子供のキャラクターが家臣の妻を奪って自殺に追い込んだとか到底できないでしょ
また、BASARAにありがちな「イロモノキャラに見えて深い洞察力を持つキャラ」なんてことはなく、逆に珍しいただのわがままで考えなしのイロモノとなっている。


●戦国乙女
こちらを参照。

●桃太郎電鉄2010
大分を独占したプレイヤーをアシストしてくれる歴史ヒーロー。
能力は自慢の大砲「国崩し」で相手物件のある都市を砲撃して破壊してしまう強力なもの。
相手物件がひとつでもあれば自分の損害が多くても容赦なく砲撃してしまうのが玉に瑕。
余談だが桃太郎ランドがあるためか岡山駅は絶対に破壊しない。

●戦国大戦
「15XX~五畿七道の雄」で他家の武将として配下の立花道雪や高橋紹運らと共に参戦。レアリティはSR。
スペックは2.5コスト鉄砲で8/7と少し寂しいが制圧・防柵・魅力の三種の兵種に噛み合った贅沢な特技が魅力。
計略「国崩し」は自軍占拠中の大筒の威力を発射までの残りカウントに応じて上昇させる物。
正直ロマン砲に近い計略だがレギュレーションによっては猛威を振るう可能性を秘めた計略でもある。


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最終更新:2024年02月16日 23:38

*1 尤も、大名及び大将が死んでは無意味なのでこれは仕方ないとも言えるが…

*2 義理のパラメーターは100点満点中2。これはギリワンで知られる松永久秀や斎藤道三の次に最低の値である。ちなみに家臣の高橋紹運は100点満点中100である