長宗我部元親(戦国武将)

登録日:2012/05/18(金) 11:21:27
更新日:2024/03/20 Wed 21:20:44
所要時間:約 8 分で読めます





※こちらでは史実の長宗(曾)我部元親について記載しております。各作品での長宗我部元親は各項目を参考にして下さい。


長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
※宗は曾を用いられるケースがある


土佐の国(現高知県)出身の戦国時代武将・大名である。
生没年月日は1539年~1599年。

幼少期の名前は弥三郎だが、若い頃は色白で引きこもりで軟弱者だっため周りから「姫若子」と嘲られていた。
ちなみに父親の国親は女装して敵城に忍び込んだという逸話がある為、親子揃って当時としては女性的な顔つきだった為のニックネームだった可能性もある。
そして初陣も遅く22歳までニートであった。平均寿命50歳の時代にである。
今の平均年齢に直して計算してはいけない。
初陣が35歳とかとんでもない事になるから。

ある意味共感はしやすい人かもしれない。

しかし、いざ戦となると獅子奮迅の活躍をして異名も「鬼若子」となり、たった数年で土佐を統一した程の実力を持っていた。

元親は戦の際には農民上がりの武将等、立場が低い人の意見をよく聞き入れた。これは一領具足を実行して農民武士を戦力にしていた為でもある。
戦(武力)だけでなく、知略にも優れ、また吉良親貞、香宗我部親泰という優秀な弟の補佐も受け、
父祖代々のライバルである本山茂辰、土佐の有力豪族安芸国虎、主筋にあたる土佐国司・一条兼定、阿波・讃岐の三好一族やその傘下豪族等を打ち破り着実に勢力を拡大していった。

しかし、その元親にも危機が訪れる。
元親の事を「鳥なき島の蝙蝠」と揶揄し、天下統一の仕上げ段階に入っていた織田信長が四国平定に乗り出したのである。

しかし織田軍が攻め寄せる矢先に本能寺の変が起き難を免れる。

外交にも優れており、明智光秀や毛利家などの有名武将とも何かしらの繋がりがあった。

信長亡き後も勢力拡大を続け、最後の強豪であった讃岐の十河存保を撃ち破って四国統一に王手をかけた矢先、豊臣秀吉に狙われ、四国が攻められてしまった。
迎撃態勢を敷くも、それを上回る敵の戦術と圧倒的物量差に追い詰められて降伏し、十年間かけて集めた領地を秀吉に献上する事によって最悪の事態だけは免れた。
そして、秀吉に気にいられる為に


鯨をプレゼントしました


そして九州での島津VS大友の戦に豊臣軍として参加するが、
戸次川の合戦で無謀な戦を強いられた上に惨敗し、最愛の長男・信親をはじめ多くの家臣を失うという悲劇に見舞われ、
それを境に元親は覇気を失い、猜疑心の強い残忍な暴君と化してしまう。

信親の死後、四男の盛親を自身の後継ぎとする事に躍起になり、それに反対する家臣には一切容赦せず、
亡き親貞の子である甥・親実や従兄弟の比江山親興等、例え自身の一族であっても誅殺する等し、もう一人の弟である親泰が亡くなってからは完全に歯止めが利かなくなった。

そして1599年5月、その年の3月から体調を崩した元親は上洛して病気療養をしていたが、
快方に向かうどころかさらに重病化した事で自らの死期を悟り、盛親に遺言を残して死去した。

ちなみに何故四男の盛親を後継ぎに選んだかは未だに不明である。
一説では深く愛していた正室である水心(明智秀満の妹)に良く似ていたからという、
愛妻家と言うべきか、私情に駆られた君主失格と言うべきか分からないエピソードもある。

しかし長宗我部家が滅亡した後でも、元部下は饅頭や着物など様々な物を墓に献上する等、やっぱり兄貴は慕われていました。
ちなみに元部下のほとんどは長宗我部家滅亡後は武士以外の職業につき、細々と生活していた。



《長宗我部元親の息子》
元親は四国統一を達成すべく、優秀な後継ぎの育成には些かやりすぎなほどに力を入れていた。

  • 長宗我部信親
元親の長男であり、最初の後継ぎ候補。
父に才能を見出だされ、英才教育を施されるなど、かなり溺愛されていた。
ところが島津VS大友との戦(戸次川の闘い)に参加した際に大量の島津軍に囲まれ、22歳という若さで討ち死にした。

ちなみに親父と違い、キリスト教には入ろうとしたが入信する前に死亡している。

彼の死は、元親はもちろんのこと、長宗我部家にも大きな痛手となった。
特に元親は、愛する長男の死を知って大いに取り乱し、その場で自害しようとすらしたという。

大分(大友)を救うために豊臣軍として参加しており、大分県でも彼のことは大切に祭られている。
また、部下も彼のことを慕っており、最後は信親のために突攻した部下も多かった。


  • 長宗我部盛親
次の後継ぎ候補。四男であり、元親に後継ぎとして指名された時にはまだ14歳だった。
その元親が死去した後、25歳の時に家督を相続する。

西軍として参加した関ヶ原の戦いでは、家康の本陣の背後という絶好の位置に布陣するが、
前方の吉川広家隊がエアー弁当を頬張っていた*1ため、まったく動けず戦は終結。
もともと積極的に西軍につくつもりも無かったため、軽い処分で済む可能性もあった。
しかし徳川四天王・井伊直政を通じて家康に取り成しを依頼していた兄・津野親忠を疑心暗鬼から殺すという大チョンボをやらかし、家康の怒りを買って改易されてしまう。
土佐を追い出された後、京都でしばらく寺子屋の師匠などをして暮らした。苦労したのか、角のあった性格が丸くなったらしい。
なお秀頼方についた理由は「これまで長宗我部氏が所有していた土佐国を与える」と言われたから。
部下の心配をするなどのカリスマ性も身につけ、大阪の陣では健闘した。

最期は再起を図るべく逃亡したが、宇治川沿いの長屋に隠れているところを*2発見され、六条河原で斬首され三条河原で晒し首となった。
処刑される前には出家すると言って命乞いをしたが、長宗我部家再興に賭ける盛親の執念を見抜いていた家康には許されなかったという。
男子だけでも5人いたが、その全員が処刑されており嫡流は途絶えてしまう。しかし元親の末子にあたる弟の康豊だけが生き延びて酒井家に仕えた。
長宗我部家滅亡後も元部下に慕われていた。

なお、彼には長宗我部盛胤という孫が確認されている。
しかも赤ん坊等ではなく、この時既に武器を持って戦いに赴き、彼は祖父、父と共に捕まり伏見で共に斬首されたという。
だが盛親さんはまだ40歳であり、その割には名前的にも元服を迎えている孫がいるということは……。
当時の情勢から考えてありえない事ではないが、何かと豪快なエピソードと言えるだろう。


《長宗我部元親を扱った作品》
例外を除き、基本的にアニキ描写が強調されている作品が多い。
※一部ゲームやアニメでの若いデザインの元親は年齢的モデルとして信親である場合が多い。

★小説
  • 夏草の賦(司馬遼太郎著)
  • 長宗我部元親(徳永真一郎著)
※他にも「長宗我部元親」というタイトルは多数存在する
  • 南海の翼 ─長宗我部元親正伝(天野純希)
…など


★マンガ
  • 殿といっしょ(珍しく姫若子時代を拡大解釈し、所謂男の娘キャラとなっている)
  • 長宗我部元親(岡村賢二著)
  • オキザリスの旗 長宗我部元親伝
…etc.


★アニメ・ドラマ
  • 戦国乙女(長宗我部モトチカ)
  • 戦国BASARA
  • 黄金の日日(NHK大河ドラマ)
…etc.


★ゲーム
  • 戦国無双シリーズ
    • 長宗我部元親(戦国無双)を参照。長男死亡も何のその、時代に抗うロックバンドみたいなキャラとなっている。一見ネタキャラだが本能寺の変の黒幕になったりすることも…。
  • 戦国BASARAシリーズ
    • 豪快な海賊で俺達のアニキ。いろんな超兵器を製造している。
  • 信長の野望シリーズ(創造では本来女性でしか習得できない特性を例外的に習得できる。どのシリーズでも四国は近隣が弱く、彼が優秀なため統一は容易)
  • 戦極姫シリーズ(こちらはガチで男の娘)。
  • クイズ殿様の野望
  • 歴史大戦ゲッテンカ
  • 戦国大戦
    • 長宗我部家が独立武家として参戦。彼本人も若い「姫若子」と、荒々しい「鬼武者」の2つが登場。その後も晩年VerとリメイクVerの計4枚が追加された。
      更にストーリーモードの「長宗我部伝」では異様に猛プッシュされており、他の話では見られない演出が多かったり、
      事実上の最終章が大阪の陣「土佐の章」だったりする。
      また長宗我部のやらかし担当の「久武親直」も救われている。youtube等で見れるので一見の価値あり。
…etc.





追記・修正お願いします

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 戦国武将
  • 武将項目
  • 長宗我部元親
  • 長曾我部元親
  • 四国地方
  • 高知県
  • 土佐
  • 姫若子
  • 弥三郎
  • ニックネームが多い
  • 鳥なき島の蝙蝠
  • 一領具足
  • 軟弱者
  • 不遇
  • 長宗我部モトチカ
  • 日本史

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年03月20日 21:20

*1 これは盛親のすぐ前にいた毛利秀元を戦に加担させないことで毛利氏を取り潰しから守ろうという広家の計画だった

*2 秀頼が発行した金貨を使って食べ物を調達したためにバレたらしい