宇喜多秀家(戦国武将)

登録日:2012/05/20(日) 01:39:21
更新日:2024/02/05 Mon 04:36:16
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慶長14年、関ヶ原の勝者家康は天下統一の仕上げとして豊臣に戦を仕掛ける。
太閤秀吉がその力を全て込めた居城大坂城。
そこにはかっての栄光を取り戻すため、豊臣のため多くの浪人、武将が集まっていた。

かっては土佐22万石の主 長曾我部盛親

秀忠3万を足止めした昌幸の子 真田信繁

宇喜多家57万石の筆頭家老であった 明石全登

黒田家では1万6千石を拝領した男 後藤基次

豊臣へ為、1千石をなげうち馳せんじた 毛利勝永

豊臣家臣筆頭大野治長の弟 大野治房

秀頼の乳兄弟、弱冠22の美男子 木村重成

かれら七将の他、薄田兼相、塙直之等の歴戦の強者達

しかし、大坂城の最高権力者は秀頼の母淀とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった。
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に豊臣の為に戦うは毛利、木村、大野くらいか…。

その時、浪人で溢れかえる大坂城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人。
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた。
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した。

その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた。

「真田殿、後藤殿の策を取れば勝てようものを……」

歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない。

初めはそれを、秀吉の遺児、秀頼に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった。



――バタン!!



ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった。

「何者ぞ!!」

叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成。
しかし、彼の後ろの淀殿や治長、いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた。

殿……

明石全登がようやくといった感じで放った言葉に、重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた。




「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!












宇喜多秀家とは戦国時代の武将(1572-1655)。宇喜多直家の嫡男であり備前岡山57万石の大名である。


【経歴】

元亀三年に岡山城で直家の次男として誕生するも秀家が九歳の折に直家は病死してしまう。
当時、宇喜多家は織田家に臣従しており、信長の計らいにより本領は安堵されるが、しがない地方大名でしかなかった。

しかし、ここで秀家は運命の出会いを果す。毛利征伐に出向していた羽柴秀吉である。

経緯は不明であるが秀吉は幼い秀家にべた惚れ状態になる。
一説には母、円融院が大変な美貌の持ち主であり秀吉が調略されたとか。

ま、おサルさんは女好きで有名だからね!

他には直家と秀吉が毛利攻めで一緒になったときに意気投合し仲が良くなり、直家が自分の死に際し秀吉に秀家のことを託したという説もある。


【豊臣政権下の秀家】

  • 秀吉から「秀」の一文字を賜って秀家として元服する。

  • 秀吉の猶子となり、暫定であるが後継者候補となる。

  • 正室に秀吉の養女である豪姫を迎える。
    おねと秀吉には子どもが出来なかったが、その二人に親交があった前田利家、まつ夫妻が養子に出したのが豪姫である。
    秀吉夫妻が豪姫を可愛がったのは間違いなく、その娘を正室として迎えた秀家への期待が窺い知れる。
    またこの件で秀家は名実共に準豊臣家の一員となり豊臣政権下の筆頭大名である前田家と親戚関係になる。
    後にこの婚姻で秀家は命を繋ぐことになる。

  • 秀吉は明を征服した後は秀家を朝鮮か日本の関白にしたいと述べている。

  • 朝鮮から帰国後、五大老に任じられ秀頼の補佐を任せられる。


と父と比較して、あまりにも毒々しくない豊臣の後継者として秀家は成長していった。
これには叔父兄貴恐怖症の忠家も安心しただろう。
だいたい直家は一切合切を暗殺で仕留めるなんて卑怯だよ……、おっと誰か来たみたいだ。なに、茶でも飲まぬかって


しかし、秀家の栄達は養父、豊臣秀吉の死去で瓦解してゆく。


【関ヶ原へ】

秀吉没後の翌年に宇喜多家でお家騒動が巻き起こる。
原因は秀家の豊臣第一の政策による財政の悪化と家臣団の派閥対立とされているが、原因は不明である。
実際秀家は嫁にくっついてきた中村次郎兵衛を引き抜いて重用していたし、浪費癖もあったのでそれらが要因でないとは言い切れない。

このお家騒動の調停に失敗したことにより直家以来の優秀な家臣団は出奔してしまう。
忠家の息子である従兄弟・詮家とは折り合いが悪かったようでこの時の騒動で敵対し出奔、関ヶ原では東軍につき大名となって坂崎直盛と改名している。というかこいつが調停できない最大の要因だったんじゃ
しかし粘着気質なDQNで千姫事件を引き起こし、家臣に殺害され改易された。
安心なんてできなかったね忠家…




慶長五年

徳川家康が会津征伐へ出向いた隙に石田三成、毛利輝元らと計って家康打倒の兵を挙げる。
その中で秀家は西軍の副大将として一万を超す軍勢を率いて関ヶ原の戦いに臨んだ。

宇喜多騒動で優秀な家臣団の多くを損失していたが、筆頭家老である明石全登により東軍の主戦力である福島隊と一進一退の攻防線を展開するが、
小早川秀秋の裏切りから戦線は総崩れとなり、撤退を余儀なくされる。




戦後、秀家は薩摩で捕えられる。
他の西軍首謀者が半月以内に捕縛されているのに対し、一人だけ二年以上逃げ延びていた。

死罪になる可能性もあったが親戚である前田家の嘆願もあり八丈島への流罪に減刑された。




そして、月日は流れて大坂の陣へ……

「宇喜多秀家 八丈島より 泳いで参った!!!」



とはならず、大坂の陣より40年後にひっそりと死去した。

関ヶ原本戦に一軍を率いて参戦した武将では最も遅くまで生きていた。
なお共に流された宇喜多家の面々が八丈島で血脈を繋ぎ現代まで続いていたり、八丈島の方言に岡山方言由来と思われる言葉を残していたりと、ある意味では遠く離れた流刑先で大活躍している。

二代目としての評価は、徳川秀忠や上杉景勝に遠く及ばないかもしれないが、
豊臣恩顧の大名として唯一、豊臣を裏切らなかった男の最後はいかばかりのものだろうか。
その忠義は、10万石で復帰させようと打診されたものの秀家が固辞したという逸話からもうかがえる。

なお、冒頭のコピペは2ちゃんねるの大坂の陣スレで誕生した、
「宇喜多秀家が大坂方の総大将だったら…」←「八丈島から来るの無理w」というネタから生まれたものである。


追記・修正は八丈島より泳いでからお願いします!!!

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最終更新:2024年02月05日 04:36