島津義弘(戦国武将)

登録日:2012/04/29(日) 16:40:30
更新日:2023/10/29 Sun 11:42:31
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島津義弘は戦国時代に活躍した武将。戦国時代屈指のチートと名高い島津四兄弟の次男。
(おそらくは関ケ原後)兄であり前当主でもある島津義久の後を継いで当主となった…と島津家の公式見解ではなっているが、最近では「便宜上後世の史料で『当主』カウントされていただけで実際は当主ではなかった」という見解が主流となっている。

コレをはじめとした伝説の数々からかフィクションでは老武将として登場する事の多い義弘だが、生まれは1535年と、
あの織田信長より一つ年下である

戦国時代初期、傘下の領主達の台頭によって弱体化した島津家を再興すべく尽力していた貴久の子として生まれる。

戦闘民族の血ゆえか若いうちはハチャメチャが押し寄せていたようで、
初陣である岩剣城の戦いでは初陣でありながら船10艘を捉えるという活躍をし、
蒲生氏との戦いでは5本もの矢傷を受ける重傷を負いながら数千の敵をなぎ倒し敵の首をとっている。





蒲生氏との勝利で大隅地方を制圧した島津家であったがその前に東の強豪、伊東氏が立ちはだかった。


伊東氏の猛攻に領地を奪われた島津家は奪還に燃えるも薩摩の肝付氏や北原氏の攻撃や離反に足を引っ張られ失敗。

この事態に義弘は伊東氏との前線基地であった飯野城の城主となり伊東氏との真っ向勝負にうって出る。


1566年、飯野城攻略の為に伊東氏が築こうとしていた三ノ山城完成前に粉砕してやろうと2万人の島津兵を引き連れて強襲する。
どっかの狸が卒倒しそうな数である。


城方の激しい抵抗に苦戦しその隙に駆けつけた伊東氏の援軍に挟撃されて敗走。
義弘は瀕死の重傷を負い、生死の淵をさ迷う結果となった。


2万でフルボッコのハズが未完の城にフルボッコされ返されるという醜態には心がへし折れるのが普通である。が、そこは戦闘民族サツマ人。


泣いている場合じゃないとばかりに生死の淵から生還した義弘は復讐に燃えに燃えていたもうやだこの島津


1571年、父・貴久が没するとこれを好機とみた伊東氏は侵攻を開始。義弘もこれを好機とにらむ。
3千の伊東軍に対し義弘は最も信頼のおける将兵たった3百で飯野城に立て籠る。そして



「最前線はお前に任せるから」


「わかりましたわあなた






自分の嫁に飯野城よりも前線の加久藤城を任せた。
釣り針でかすぎね?

しかしわざと漏らしていた情報にまんまとひっかかった伊東軍は加久藤城を襲撃。
その隙をついて3百の兵と共に奇襲をかけ見事敵将首を討ち取ることに成功した。


見事に勝ちは勝った義弘であったが戦いは苛烈なもので、
義弘の首をとらんと大挙する伊東兵の前に義弘を討たせはせんと島津兵が身代わりになってはやられ身代わりになってはやられということも起きたという。


関ヶ原の伝説は起こるべくしておこったのかもしれない。


一世一代の戦に破れた伊東氏は急激に弱体化。
北の最大勢力大友家に救援を求めた。
ザビーきょ(ryキリスト教の一大理想郷を築きたかった大友宗麟はこれを快諾。
大群勢を率いて義弘と激突する。

が、キリスト教の盲信で家臣との関係に溝が深まっていた大友軍はやる気薄く。
島津名物釣り野伏せりにまんまと引っ掛かり敗走。

勢いに乗った義弘は肥後も平定するなど大きく島津家勢力拡大に貢献した。
しかし九州平定まで残すは大友のみというところで島津家最大の障壁が立ちはだかる。
大友の救援に応え20万にも及ぶ大軍勢を率い現れた天下人


それでもその大軍勢にも恐れることなく戦いを挑み、長曽我部元親の愛息子、信親を討ち取るなど大群相手に大勝利を納めた。
が、秀吉本人が軍を率いてあらわれると途端劣勢となる。
義弘は自ら刀を抜いて敵陣に飛び込むまでのあばれっぷりをみせるも不利とみた兄、義久が降伏。
兄の必死の説得に義弘も応じ降伏し、九州平定の夢は絶たれた。

この義弘の猛戦には秀吉も惚れ込んだようで1588年、義弘が上洛した際、自身の名である羽柴と豊臣の二つを与えている。


豊臣家に下ったのちは二度に渡る朝鮮出兵に参戦。
その勇猛ぷりは朝鮮・明連合軍から震え上がられ鬼島津と恐れられた。
特に1598年の泗川の戦いでは30万の大軍をたった7千の兵で打ち破るという長い世界の戦争史においても前代未聞の大勝利を納めている。

朝鮮役中、勝手の違う環境や日本にはない寒さに日本兵は苦しめられ、士気は下がり凍死者も続出という有り様であったが、島津兵は常に士気高くやる気に満ちていたという。
もちろんどいつもこいつも戦闘民族サツマ人だからというのも答だが、義弘が部下思いだったからというのもある。

朝鮮の厳しい寒さの中、囲炉裏を焚くなどして寒さをしのいだ日本兵であったがそれは主だった主従のみで兵卒はあたることも許されなかったという。
だが義弘は兵卒も分け隔てなく共に囲炉裏を囲み共に飯を分けあったといわれている。

そのため島津軍は日本兵で唯一凍死者のような戦以外での死者はあらわれなかったといわれている。

秀吉の死とともに朝鮮からの撤退が決定すると立花宗茂らと共に殿をつとめる。
このとき孤立した小西軍を救出すべく連合軍の船団に猛攻。
苦戦をしいられるも無事に小西軍を救出し、朝鮮軍の英雄といわれた李舜臣を戦死させている。

秀吉の死後、徳川家康が台頭してくると戦国武将達は家康につくか、家康の台頭を阻もうとする石田三成らにつくかを迫られることになる。

九州平定の夢を阻まれ、朝鮮役でふりまわされと散々だった義弘は当然家康側につこうと兵を出兵。
しかしこの時、島津本家は分家が起こした内乱の対応におわれて兵を出せず、義弘の兵力はわずか1000程度であった。
これでも義弘を慕った薩摩隼人らが薩摩から走って畿内にまで駆けつけた結果である。
マラソンなんて次元じゃねぇぞ!!

求めに応じた家康から鳥居元忠の救援を頼まれ伏見城へと進軍する。


元忠は義弘の救援要請なんかうけちゃいないと三河武士らしい面倒くささを見事発揮。
困り果てた義弘はなし崩し的に三成率いる西軍につく事を選択する。
なお最近では義弘は初めから西軍の中心人物だったのではないかという説もあるが実際のところどうなのかは不明。
「本当は東軍に付きたかったのに嫌がらせで西軍に付かざるを得なくなったんですよ」と家康に言い訳するために死人に口無しで鳥居に責任押し付けたのでは?とも

長きに渡る島津と徳川の
因縁の始まりである


西軍の総大将である三成は島津軍をたかだか1000程度の軍と軽視。
墨俣の戦いでは義弘軍を見捨てた上に、開戦前日に義弘が提案した奇襲策もあざ笑う始末。
これには義弘もぶちきれ、完全に戦意を喪失した義弘は、豊久と共に関ヶ原の戦いでは戦場には出るも、兵は全く動かさず静観。
戦いに苦戦し一転して助力を求めた三成であったが、遣わした使者が馬から降りもせず救援依頼したため義弘・豊久二人して大激怒し追い返している。
ただし「三成が島津が寡兵ということを気にしすぎて『戦にでなくてもいい』と言った気遣いをしてそれを誤解した」「三成の陣と島津の陣は近く、ある意味では切り札として扱いたかった」「島津としても東軍に恩があるために積極的に戦いたくはない」と言う説もあり、この辺りはどうなのかは常に議論されている。
ただ結果的に戦いは島津動くことなく西軍総崩れで東軍の大勝利で終わる。

しかし、東軍の勝どき轟く中、
静観をきめこんでいた島津軍が突如行動を開始。

あとにも先にも歴史に名を轟かす




関ヶ原の後は義弘の戦を目の当たりにした井伊直政や福島正則ら東軍主要武将達の尽力もあって軽い処断ですむ。
結果的には義久が兵を出さなかったことが薩摩の維持に繋がった。


その後は加治木に隠居して若者の教育に尽力。85歳の天寿を全うした。
晩年は高齢から食事もままならぬこともあったが部下が鬨の声をあげると飯をかきこむ程に元気を取り戻した。とかなんとか
あんた最後までサツマ人だな。

島津家はその後、兄の婿養子となった彼の息子島津忠恒 に引き継がれ、明治時代まで続くこととなる。



島津を討ち取れなかった事を家康は終生後悔しており、死に際に島津へと足を向けて葬れとまで遺言を遺している。
なおこれに関しては単なるデマである。家康が葬られた久能山東照宮に伝わる話によると、西に足を向けて葬ったのは西欧列強に対する警戒であり島津は何の関係も無い。



その恐れは、そして義弘の思いは幕末の世において実現することになる。
しかし完全に恐れを伝えられなかったのか、あるいは島津の方針が「幕府内で力を得る」であったせいか、子は出来なかったとはいえ11・13代将軍の正室に島津家の娘が就いている。ていうか薩摩は幕末に時代の流れで倒幕派になったが基本的に外様屈指の親幕派。









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最終更新:2023年10月29日 11:42