島津の退き口

登録日:2011/11/05(土) 23:42:02
更新日:2023/12/12 Tue 22:01:34
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譜代恩顧の将卒ら
国家の存亡この時と
鎬をけずる鬨の声
天にとどろき地にふるう



島津の退き口とは関ヶ原の戦い(以下関ヶ原)で島津義弘らが行った伝説である。


概要

敗戦した軍が撤退するときは敵とは反対の方向に向かって逃げるのが普通である。
だがこの島津の退き口ではそうしなかった。
じゃあどこに逃げたんだよ?という話になるが、なんと島津軍は


敵陣に向かって退却したのである

敵陣に向かって退却したのである


敵 陣 に 向 か っ て 退却したのである


大事なことなので(ry
しかも島津軍は300人で数万以上の東軍に向かって退却したのである。
普通の人はそれを 特攻 と呼びます。


関ヶ原の前

島津義弘は家康の救援要請を受け、鳥居元忠が籠もる城へ1000人という少数*1で援軍に向かったのだが入城を拒否され、
さらに西軍に人質をとられていたため、当初東軍に加入する予定を変更して西軍に加入する事になった。
ところが味方になった西軍も西軍で少数である事から島津軍を軽視。関ヶ原前に起きた戦の退却中、島津軍を置いてけぼりにする
関ヶ原前日の作戦会議に提案(島勝猛とも)した夜襲を拒否るなどを行い義弘軍の士気を下げていった。*2

そもそも、関ケ原の合戦の西軍側の家康討伐の口実自体が「家康が勝手に島津に加増した」というもの。
家康が主張した通り、島津が慶長の役からの撤退時に明・朝鮮を痛撃したお陰で無事に帰国出来た将兵は多数に上った点は事実であり、
西軍としても投降して来た島津軍の扱いに困った事は想像に難くない。
何しろ、東軍、西軍問わずにこの時の島津軍の奮戦で被害を最小限に抑えられた恩義を感じている者は多数居たのだ。


関ヶ原開戦

関ヶ原の間は島津軍は兵を一歩も動かさなかった。当たり前である。
戦線が膠着して数時間後例のアレにより1万5千の無傷の軍勢が西軍の側面から一気に襲いかかった。
大谷吉継軍が壊滅すると、東軍主力とがっぷり四つの戦いを繰り広げていた宇喜多秀家軍・小西行長軍も続けて壊滅、最後まで持ちこたえる石田三成軍の戦線崩壊も時間の問題となる。
西軍陣地の背後に位置する中山道と北国街道はたちまち敗走する西軍とそれを追撃する東軍が入り乱れ、結果的に義弘軍の陣は全方位を東軍に囲まれた状態になってしまった。

その時の島津軍の軍勢は時折陣を攻めてくる東軍と戦っていたため300人に減少(1000人説あり)していた。義弘は覚悟を決めて切腹を行おうとしていた。


そして島津の退き口へ…

しかし義弘は妖怪『首おいて…島津豊久の説得を受け翻意し、家康の本陣に向けて退却、敵中突破を行うことを決意。
もはや戦の大勢が決した以上、何としてでも本国に戻って徳川へ恭順の意を示さねば島津の家そのものが危うい為、
何としてでも島津義弘は帰国せねばならず、逆に義弘さえ帰国できれば島津の勝利であったのだ。

逃走経路は前方の東軍を突破した先にある関ヶ原南東の伊勢街道。動かずじまいの毛利勢の背後は手薄であり、ここに陣取っていた長宗我部盛親軍は既に撤退を始めていた。義弘はこのルートに全てを掛けることになった。*3

かくして島津軍は前線にいた東軍随一の勇猛を誇る福島正則の軍団を蹴散らし、徳川本陣目の前で転進して伊勢街道を退却した
井伊直政、本多忠勝、松平忠吉ら徳川の主力部隊がこれを追撃したが、殿(しんがり)文字通り死ぬまで足止めをし、
全滅したらまた別の隊が殿を務めて死ぬまで足止めを…と後に言う「捨て奸」を行い義弘の退却時間を稼ぐ。
槍と火縄を抱えて座り、敵軍が見えたら将を狙撃し、弾切れないし射撃不能になったら槍を構えて特攻するという文字通り時間稼ぎの捨て駒であったが、
島津兵の士気は高く、志願しない者の方が少ないくらいであったという。
阿多長寿院盛淳や島津豊久といった島津勢の主だった武将も次々と東軍の前に「捨て奸」となって立ちふさがり、追いすがる井伊直政や松平忠吉に手傷を負わせ、遂には追撃を中止させる。
こうして大きな犠牲を払いながらも、義弘は見事敵中突破を成功させたのだった。

義久率いる本隊は、大阪への最短経路を取り囮となった捨て奸部隊と別れた後、長束正家の案内で伊勢街道をさらに南下する遠回りで伊賀を越えて、三輪山平等寺に身を隠す。
そこで東軍の落ち武者狩りをやり過ごした後、堺港から船で薩摩へと逃れる。途中、立花宗茂との合流や黒田水軍との遭遇戦などさらなる波乱に見舞われながらもなんとか薩摩に辿り着いた時、義弘に従ったのはわずか80人であった……
と思ったら、近衛信尹の支援などでさらに生き残った十数名が合流した。何なんだお前ら。

まあ東軍からすると既に大勢が決まっていて、リスクを考えるとどの程度無理する必要があるのかどうかすら曖昧な中で小勢で猛攻を仕掛けてきて、
その後逃げたので追撃しようとしたら捨て身の銃撃部隊が何度も待ち受けていたとあっては士気が上がるはずはなかっただろう。


その後

義弘は当主である兄と共に家康との和平交渉に勤める。
兄も兄で引きこもりに定評がある人物なので


家康「当主上洛しやがれ」

兄「いま持病が酷くなっているから無理(嘘)」

家康「……」

と家康の要望を上手く受け流し本国の軍備増強の時間を稼ぐ。
流石に怒った家康は島津討伐軍を結成したが、長期戦になると反家康派が反旗を翻す恐れを危惧してか、戦は起こらなかった。
結果的には家康は態度を軟化させざるを得なくなり、

家康「家臣(義弘)が勝手にやったことだから領地はそのままな」

と関ヶ原本線に西軍参戦した中で唯一領地安泰を得ることが出来た。
なお、家康は遺言で遺体を島津の方に向けろと書いた程義弘を打ち取れなかったことを憂いており、その250年後、薩長同盟による倒幕という形で家康の懸念はある意味現実となる。
ちなみに家康が葬られた久能山東照宮の宮司さんの言葉によると西欧列強への警戒の為に西に向けろと言われたとされる。
別に島津への警戒心というわけではないらしい。


余談

  • 鳥居元忠の入城拒否は家康の策略ではないかと言う説がある。もしそうなら家康は大変な間違いをおかしていたのかもしれない。
    • ただし、元忠の入城拒否の話は江戸時代になってからの島津家の記録に初めて見られる話であり、当時の義弘の手紙では彼が西軍加担に旺盛だったことから
      「戦後に島津家が西軍加担を正当化するために創作したのではないか?」という説も出ている。
    • 元忠は自身と同じく守将を命じられた木下勝俊(小早川秀秋の兄)も「信用できない、出て行かなければ殺す」と追い出しており、元にした可能性もあるが実際やりかねない部分もある。
    • なお援軍を断った鳥居軍はその後三成側の軍勢と戦い、雑賀孫市で知られる雑賀衆の生き残り(後に水戸家家臣となり、子孫は雑賀姓を後世に残した)に倒された。
  • 井伊直政はこの時島津軍の兵士に狙撃され負傷したが、ここから約260年後「桜田門外の変」で直政の末裔井伊直弼は水戸浪人に拳銃で撃たれ、薩摩藩士に首を刈られたという。
  • 義弘ら西軍勢が生還できた理由の一つに、農民らによる落ち武者狩りがあまり積極的でなかったというものがある。戦国時代を通して積極的に行われていたのだが、ラスボスが推し武将を召し抱えられなかった八つ当たりや刀狩りで意欲と武力を削いでいた。

  • 追撃した東軍の被害とその後
井伊直政 狙撃され負傷。しかし戦後の和平交渉では仲介人として奔走する。彼がいなければ領地安泰はなかった。
重傷の身で、西軍諸将の処分を決める戦後処理に加えて三成の旧領の再開発まで任せられる
オーバーワークっぷりにもう寿命がガリガリと削られてしまった。
2年後に過労と狙撃された際の鉄砲傷による破傷風で死去(なお破傷風の潜伏期間を考えると、関ヶ原の鉄砲傷が直接の原因であることは あり得ないが 。もしかしたら古傷がぶり返したのかもしれない)。享年42。
和平交渉が完了する前に亡くなったため、残った仕事は本多正信に引き継がれた。
島津にわりと酷い目に合わされた人が一番島津を擁護した辺り、何か相通じるものがあったのかもしれない。
松平忠吉 負傷するも島津豊久を討ち取る軍功を挙げた。
彼もこのときの傷が原因だったのか7年後に死去(悪性の腫れ物を原因とする説もある)。享年28。嫡子がいなかったので弟の義直が後を継いだ。
本多忠勝 馬を撃たれ落馬するも本人は無傷。戦前の西軍武将の調略で功を挙げて桑名に領地をもらった。
戦後処理で彼が真田信之とともに真田昌幸・幸村親子の助命嘆願を行わなければ2人の命はなかった。島津については不明。
9年後、嫡男忠政に家督を譲って隠居、翌年桑名にて死去。享年63。


現在

現在でも鹿児島では、この時に島津義弘たちが味わった苦難を忍び、彼を祀った妙円寺まで歩くという「妙円寺参り」なる行事が存在する。
この項目冒頭のフレーズは、その際歌われる「妙円寺参りの歌」の一説である。

この事件を扱ったフィクション作品


第1巻で取り上げられているが、なぜか島津義弘の他は家臣軍一同という扱いになっており、豊久や直政等他の関係武将はかけらも出てこない。直政の逸話に関しては後に幕末編で子孫井伊直弼が登場した際触れられたが。

  • 薩摩義士伝
「島津の退き口」という名称こそ出ないが、関ヶ原の戦にて齢六十六の義弘が五十人ばかりの寡兵で家康の本陣を突破し、撤退に成功したという逸話自体は登場する。
そしてここでも豊久や直政等他の関係武将はかけらも出てこない
この戦で島津討伐に失敗した家康、もとい徳川幕府は
下手な犠牲を払って島津の 気〇い残党 を産むよりはと、正面衝突を避け懐柔策や婚姻政策によって島津の戦意や財産を削ぐ搦め手に出るようになった。
そして時は9代将軍・家重の代。ついに幕府により薩摩藩に何十万両もの負担を強いる「宝暦治水」が命じられるのだが、
本作はその宝暦治水を通して薩摩武士の生き様を描いた作品となっている。

一方の島津側はこの撤退戦を屈辱と捉えており、
どうにも苦しい時は 「チェースト関ヶ原」 と叫んで当時の義弘の無念を想い、耐え忍ぶ習慣があるという。

昨今のアニヲタ的には島津豊久を主人公とした本作の第一話が有名だろうか。
ここでは豊久の顛末がやや異なっており、直政勢の槍衾に貫かれながらも直政に一矢報いて生存し、舞台となる異世界に飛ばされたことになっている。
なお、この漫画では松平忠吉は影も形も出てこない。史実では豊久を討ち取ったとされる主要人物のはずなのだが、どうにも不憫な男である。
また、直政を撃って退却させたのが豊久になっているため、本来直政を狙撃したとされる島津側の立役者、柏木源藤*4も地味に割を食っている。

11上にて「関ヶ原の戦いの歴史再現」の一環として実行。
…されたのだが、主導者である島津・義弘が癒し系動物で、関ケ原が秋のスポーツ大会だったため、「他参加者の疲労を餌にして増殖する義弘がトラックを埋め尽くす」という珍事件に。どうしてこうなった。
なお作中に登場する島津関係者は義弘のみで、一応直政は「同じ名を持つ女性」が代役扱いされたが(本物は行方不明)、豊久・松平忠吉・柏木源藤等はかけらも出てこなかった。

追記・修正は敵中突破してからお願いします。

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最終更新:2023年12月12日 22:01

*1 本来、島津家の石高だと約2万人の動員が可能だが、義弘には本国の兵を動かす決定権がなかった&どっかの黒い軍師の怪しい動きに備えなければならなかった&ぶっちゃけ島津は直前まで絶賛内乱中(庄内の乱)だったので疲弊していた

*2 三成は島津の事をかなり気遣っていて、私人としてはそれなりに仲が良かったということもあり、「少人数で無駄死にさせないようにした」という説もないこともない。また、島津の布陣場所が三成の近くである事から、三成に「切り札として温存されていた」とする説もある。

*3 ちなみに街道を避けて関ヶ原北方の伊吹山に逃れた西軍諸将に小西行長・石田三成・宇喜多秀家らがいるが、小西行長は関ヶ原からの脱出に失敗、辛うじて伊吹山を越えた石田三成も居城の佐和山城にたどり着けず、北近江の山中で東軍に捕らえることになる。宇喜多秀家は落ち武者狩りに遭遇してしまうも、それを指揮していた地元の郷士に匿われ、妻の実家である前田家の伝手を頼って逃げ延びることに成功した。

*4 島津氏の陪臣(家臣の家臣)と言われる。一応史料によっては豊久が直政を撃ったと取れるものもあるようだが、この柏木が撃ったとされる方が一般的。また、撃った直後に無名の自分ではなく主君川上四郎兵衛の名乗りを挙げた謙虚な男とされているが、一方で普通に名乗りを挙げようとしてズッタズタに噛み倒したとも言われており、ドリフの一件も含め後世の伝承、創作において何かとかわいそうな男である。

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