福地寿樹

登録日:2011/02/10(木) 08:55:23
更新日:2020/08/06 Thu 23:39:09
所要時間:約 7 分で読めます





本名:福地 和広(ふくち かずひろ)

出身地:佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)
生年月日:1975年12月17日
身長:184cm
体重:85kg

投打 右投両打
ポジション左翼手、中堅手、二塁手、一塁手

プロ入り1993年 広島東洋カープドラフト4位指名
初出場 1997年10月10日
年俸 9,000万円(2011年)
経歴(括弧内は在籍年)
佐賀県立杵島商業高等学校
広島東洋カープ (1994 - 2005)
西武ライオンズ (2006 - 2007)
東京ヤクルトスワローズ (2008 - )


【アマチュア時代】
中学時代から俊足で鳴らし、中学2年生の時にはハードルで県大会優勝の経験がある。佐賀県立杵島商業高校では3年夏の県大会でベスト4。佐賀県高校選抜でも4番遊撃手を務めるなど非凡な才能を発揮した。高校通算打率は4割を超え、本塁打も18本を数えている。俊足の大型遊撃手として、1993年ドラフト4位で広島東洋カープに入団。


【カープ時代】
二軍では早くから主力に定着し、1995年から1998年までウエスタン・リーグ4年連続盗塁王を獲得し1998年にはウエスタン・リーグ史上唯一の年間50盗塁を記録した。

1997年10月10日に消化試合ながら、後に所属することになる対ヤクルトスワローズ戦(神宮)で2番・二塁手で初出場初スタメン。

この年、一軍初安打(上原浩治から。内野安打)・初盗塁を記録。翌年の2000年から本格的に代走要員として一軍に定着すると、2003年まで4年連続2ケタ盗塁を記録した。2002年までは通算盗塁が通算安打を上回っていたという珍しい記録を持つ。

2002年からは打撃も評価され始め、打席に立つことも多くなった。2001年までの8年間で8試合しか一軍スタメン出場がなかったが、この年は最終戦を含む19試合に連続で1番でスタメン起用されるなど、シーズン終盤に積極的に起用され期待を抱かせた。

2003年、1番・二塁手でプロ初の開幕スタメンの座をつかむ。プロ初本塁打を打ち、セントラル・リーグ2位タイの盗塁数を記録。二塁手のレギュラー候補に名前を連ねる活躍を見せたが、5月以降は木村拓也にレギュラーを奪われた。

2004年は開幕前に右足首靱帯断裂の大怪我によって大幅に出遅れてこの年は盗塁なしに終わった。しかしシーズン最終戦・最終打席(10月14日横浜ベイスターズ戦の9回2アウト無走者)でシーズン初安打となる二塁打を吉見祐治から放ち、その試合で広島打線をその時点まで無安打に抑えていた吉見のノーヒットノーラン達成を阻止した。これがこの年福地の放った唯一の安打。広島はその10日前にも阪神タイガースの井川慶にノーヒットノーランを許しており、福地の一打によって同一月に2度のノーヒットノーランを喫する史上初の不名誉を免れた。

翌2005年には、走塁面で復調し2年ぶりの盗塁を決めるなど、最終的には8盗塁を記録。しかし前年からの尾形佳紀ら若手の台頭もあって、代走起用が中心となり影が薄くなってしまった。


【西武時代】
2006年3月23日、青木勇人とのトレードで西武ライオンズに移籍し打撃開眼、誰も予想しなかった好調な打撃を見せ1番バッターとして定着し、競争の激しい西武外野陣の中で右翼手のレギュラーをつかみ取り最終的に打率.289、最大の持ち味である盗塁もリーグ3位の25個を決め、プロ13年目にして最高のシーズンとなった。

この活躍は「当てるだけじゃなく、しっかりとスイングしろ」と打撃コーチが指導した結果といえる(俊足を活かそうとするあまり、バットを強く振らなかった)。


【ヤクルト時代】
2007年12月21日、西武にFA移籍した石井一久の人的補償選手として東京ヤクルトスワローズに移籍。


2008年1月9日に入団発表を行い、背番号は29に決定した。開幕スタメンの座は逃したものの、徐々に調子を上げて1番バッターとして定着するようになり、8月12日より7試合連続マルチ安打を達成。最終的には131試合に出場して初の規定打席に到達し、打率.320、9本塁打、61打点、155安打と自己最高の成績を残した。
また、俊足を生かしてリーグ最多となる7本の三塁打を放った。このシーズンは42盗塁で、赤星憲広とわずか1個差でセ・リーグ盗塁王を獲得、15年目にして初のタイトルとなった。

この活躍によりプロ野球ファンの間では福地は石井一久の人的保証ではなくトレードで入ってきたようなもので西武は損をしたという意見が多い。


2009年、背番号を29から3に変えてシーズンに臨むことになる。基本は一番左翼手で試合に出場し、打率・出塁率が前年よりも低下したものの盗塁死数が減少し、2年連続盗塁王を獲得した。9月28日に通算200盗塁を決めている。一時期、青木宣親の不振により中堅手を務めた。




2010年、開幕から1番左翼手としてスタメン起用されたが、4月8日に左ふくらはぎの肉離れで登録抹消となる。5月2日に再登録されるも、打撃不振でスタメンから外れる事が多くなり、代走・守備固めなどで起用された。打席に立つ機会は減ったものの、途中出場時には高打率を残してチームに貢献、最終的には打率.246、23盗塁を記録した。

2011年序盤は代走・守備固めで活躍。5月26日のシーズン初ヒット(その時点でリーグトップの9盗塁)まで、打率0割の盗塁王として走力の健在ぶりを見せつけていた。
しかし6月18日、盗塁死の際に左肩を脱臼。10盗塁という数字を残し無念の負傷離脱となった。しかし2011年のセは盗塁数が全球団に渡って伸びず、7月28日に巨人・藤村に抜かれるまでリーグトップだった。


そして2012年…自身の衰えや若手の台頭もあり引退を決意。しかしシーズンどは代打成功率4割近く、盗塁成功率は9割と十分な戦力であり、多くのファンが引退を疑った。
尚、若手は台頭していない模様。



【俊足】
あまりに足が速いため、学生時代に「馬」とあだ名されていたことがある。カープファンからは「マッハ44」の愛称で親しまれたこともあった。

ただの俊足にとどまらず、いわゆる「3S」と呼ばれるスタート・スピード・スライディングの盗塁技術3つを備えているため試合終盤の大事な場面で代走に出てきても、あっさり盗塁を成功させるシーンも多く9回に代走で登場し、相手投手の1球目に二盗、続く2球目に三盗を成功させるというパワプロみたいなことをやってのける。
阪神の赤星憲広からは、「スタメン奪取すれば、盗塁王争いの最大のライバルに躍り出られるから恐ろしい」と、その走力を絶賛された。

2008年7月17日の阪神戦ではホームスチールに成功。9回表1アウト満塁からスクイズプレイを仕掛けた際のものである。投手久保田智之が投げたボールがワンバウンドし、打者の田中浩康がバントに失敗。捕手の矢野輝弘がそのボールを前にはじいたため、スタートを切っていた福地がホームインし先制点を挙げた。


また、その前に青木宣親とダブルスチールを決めており、ホームインの時点で二塁走者青木宣親と一塁走者武内晋一にも盗塁(18年ぶりのトリプルスチール)が記録された。また、2アウト一・三塁でウィルソン・バルデスも盗塁を決めており、1イニング6盗塁というセ・リーグ新記録を樹立した。さらに福地自身、サイクルスチールを記録している。


【つば九郎】
東京ヤクルトのマスコットのつば九郎と仲が良い。そのため、つば九郎の公式ブログ「つば九郎ひと言日記」にもよく登場している。ただし、福地自身はつば九郎とは「ライバル」である、と言っている。
しかし、つば九郎の1000試合出場時の記者会見でつば九郎は「仲のいい選手は?」の問いに対して「ふくちくんいがい」と答えている。これは、つば九郎の照れ隠しである。


追記修正は、光の速さで栄冠奪取してからお願いします。


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最終更新:2020年08月06日 23:39