松中信彦

登録日:2011/10/08(土) 04:53:06
更新日:2024/02/14 Wed 08:24:43
所要時間:約 11 分で読めます







これが自分が望んでいたパズルの最後のワンピース、これが僕の野球人生だったのかなと思う。




1973年12月26日生まれ(50歳)
熊本県出身の元プロ野球選手。
左投げ左打ち
一塁手・外野手


八代第一高校(現:秀岳館高校)を卒業後、新日鐵君津に入社。
1996年にはアトランタ五輪に出場し、四番としてチームのメダル獲得に貢献。その年のドラフトで福岡ダイエーホークスに入団した。背番号は26。

入団後は、金属バットと木製バットの違いに苦しむも、1999年にレギュラーとして定着した。

翌2000年には、背番号を現在の3に変更。打率.312・本塁打33本・106打点をマークし、チームのリーグ二連覇に貢献。シーズンMVPに輝いた。

2001年も、小久保裕紀の後を打つ五番打者として活躍。
小久保裕紀、井口資仁、城島健司と共に、パリーグ初となる30本カルテットを形成した。

2003年、小久保が大怪我を負い1年チームを離れた際には、四番として打線を引っ張り、チームの日本一に大きく貢献した。

小久保が巨人へ移籍した2004年以降は四番に定着。
打撃力は更に増し、打率358・本塁打44本・120打点を挙げ、平成初の打撃主要タイトル三冠王に輝いた。(更に、最多安打と最高出塁率のタイトルも獲得。打撃タイトル五冠を独占した。)

低反発球が導入された2005年にも、打率315・46本・121打点の好成績を残し、本塁打王と打点王の二冠王になった。松坂大輔から1試合3本塁打を記録したのもこの年。

2006年には、WBC日本代表の四番を務め、本塁打を捨てたバッティングスタイルで.433の高打率をマークした。(この大会で放った13安打は、1試合多い2009年大会で青木などが記録した12安打を上回る最多安打記録である。)

しかし、シーズンでは、城島が退団し、かつて30本カルテットを形成したメンバーが松中だけとなった事もあり、各球団のマークが集中。その結果、本塁打は19本にまで激減した。(徹底したマークの副産物として、自己最多の102四球、自己最少の32三振を記録した。)

2007年は、小久保がFAでチームに復帰。更に多村仁志が横浜からトレードで入団し、TMK砲として大活躍する……
と、思われたが、かつてない打撃不振に陥り、打率.266・本塁打15本・68打点と自己最悪の成績に終わった。

2008、2009年は、持ち前の長打力とミート力を取り戻したが、年齢やケガなどの問題もあり、全盛期ほどの成績は残せなかった。


2010年は、前年の膝のケガが完治しなかった結果、シーズン前にろくな調整が出来ず2007年を下回る大不振となった。しかし、シーズン終盤に迎えた首位西武との三連戦では、それまでの鬱憤を晴らすような大活躍を見せ、チームの逆転優勝を演出した。

2011年は、自身の不振と打線の大型補強の影響で、シーズン序盤にレギュラーを剥奪されてしまう。
しかし、シーズン途中に、フォームを「すり足打法」に変更。これが功を奏して、代打の切り札として結果を残すと、不動の3番・内川がチームを離脱した際に、レギュラーに返り咲いた。
レギュラー復帰後は、統一球の影響や、それまでの不振を全く感じさせない大活躍を見せる。
シーズン終盤に死球を受けて離脱し、そのままシーズンを終えるも、打率は.308を記録。規定打席には満たなかったものの、2006年以来となる.300越えを達成した。
本塁打も、パリーグ9位タイとなる12本を放ち、三冠王復活をアピールするシーズンとなった。

2012年は前年度の期待から開幕四番で迎えるが、故障を起こして前年から引き続き規定打席には到達しなかった。
打率は一気に二割台前半へ下降し、本塁打は98年以来久々の二桁未到達に終わってしまう。
年俸も一億円を超える大幅減俸となった。

2013年は開幕から故障し、6月に復帰すると6月13日のヤクルト戦で適時打を打ち、交流戦優勝に貢献する。
ところが、秋山監督に対して自身の起用法への不満があったらしく、松中は優勝記念セレモニーをボイコットする
このボイコットはファンから批判されると同時に秋山監督の怒りを買い、懲罰で二軍降格となったのだった。
これ以降1軍復帰は果たせず、自身初の本塁打0・試合出場数は9試合に終わるなど散々な結果に。

2014年、オープン戦からの打撃不振に苦しんだ松中は打撃フォームをすり足から一本足打法に変更。
これがそこそこ上手くいき、代打要員として開幕一軍の座をつかむことに成功する。
2年ぶりのヒーローインタビューなどの機会もあったが、全体を見れば打率一割台・本塁打0と低迷気味だった。

2015年は開幕から二軍でスタートするが、二軍では三割近い打率を維持し本塁打も二桁放つなど好調をキープする。
9月21日にようやく一軍に上がったが、この頃は松中に近い世代の名選手たちが次々と引退を表明する引退ラッシュが起きていた。
一部では松中も引退するのではないかとの噂もあり、人事通信がついに引退の報道を流したのだった。

…しかしこれは誤報であり、実際は引退では無くホークスを退団発表だったことが判明。
球団からは功労者という事もあって、自らの去就を一任されていたらしく、チームでの居場所を感じなくなった松中は退団を決意したようだ。
現役続行の意思を強く決意し、ホークスを退団して別球団への移籍を目指すこととなった。
実際に球団側は引退セレモニーの予定をしていたらしいが、松中はそれを拒否したとの報道もある(松中の判断に混乱している球団関係者もいた模様)。 
打撃面に関しては9試合出場するも打率067.打点1と低迷し、ホークスでの最後の試合は4打席連続三振という結果に終わる。

こうしてホークスを退団した松中だったが、上記の成績や年齢などの問題でオファーはなかった。
余談だが、退団の際に王氏は松中へ他球団からのオファーがあったのだと思っていたらしい。
トライアウトへも不参加で、無期限で他球団のオファー(NPBのみを考えているとのこと)を待つという姿勢を表明した。

そんな訳で、ソフトバンクでの安泰の立場を投げ出してまで他球団での活躍を求めた松中。
しかし、松中の他球団への契約への道は困難を極めた。
何しろ、見るからに衰えた42歳・守備範囲も広くない野手という立場の選手を欲しがる球団は常識的に考えて少ない。
そんな状態でありながら、松中は育成契約を考えていないと発言するなど自分からチャンスの場を狭める発言でファンの不安と失望を誘った。
(一説にはベテランが一斉に消え去った中日は考えていないと発言をしたとの噂もあり、後日本当に中日に連絡していなかったことが判明する。)

それでも松中はプロ野球への復帰を目指して、後輩などとの自主トレも行った。
一時は楽天が獲得を考えているとの報道も出たが、それも後日テスト入団の願いが却下されていた事実が判明している。
松中は、2015年の2月終わりまでにオファーが来なかったら引退をすることを決意する。

フリー状態の松中は、かつて所属していた社会人野球チームのかずさマジックでトレーニングを行うが、かずさマジックが古巣ソフトバンクと対戦することになる。
そのため、何故か古巣のチームのキャンプに参加するという奇妙な状況が作られた。
ちなみに、この時松中はかずさマジックのメンバーにバットをあげるためにソフトバンク二軍の若手からバットを大量に貰っていたことがメディアの報道で判明。
おそらく若手のバットは自費で用意した物であるので、それを巻き上げるかのような行為にメディアやファンから多くの批判声が出た。
そして、この時の松中が工藤監督にあいさつをしに行った際のやり取りは何とも言い難い空気なので、興味があればぜひ一度見てみよう。

ついに期限までにBCリーグの武蔵ヒートベアーズ以外からオファーのなかった松中は、引退を決断することとなった。
引退会見では涙を浮かべながら、自身の野球人生の思い出や感謝を口にした。
心に残っている思い出は、2011年のCSにおける満塁ホームランとのこと。

引退後は野球の指導者やベーブ・ルースがいたニューヨークへの滞在などの計画を口にしているが、今後どうなるか注目である。
結局(あんな出て行き方の割に)現在ではホークス戦の解説者に落ち着いたようだ。
意外と打撃などについては理論派でわかりやすいと評判である。

【人物】
高校時代に、左肘が曲がらなくなり、父と二人三脚で右投げに転向。社会人時代に、左肘の手術を受け、再び左投げに戻った。


【選手としての特徴】
パリーグを代表する長距離砲であると同時に、高い打率を残せるアベレージヒッター。
選球眼も良く、打率の高さと相まって、出塁率.400以上を5度記録している。
内角捌きが非常に巧みで、特にインハイの直球に対しては抜群の強さを見せる。死球スレスレの直球を軽々とスタンドへ運ぶ姿はまさに変態であり、某動画サイトに動画が上がった際は内角掃除大臣というタグが付けられる。
また、外角に弱い訳でも無く、全盛期は内角より外角の方が打率は高かった。

走力は並み以上のものを備えており、万全の状態ならば俊足とさえ呼べるレベルだが、膝のケガなどもあり全力で走れない場合が多い。走塁技術は高く、走塁面での貢献度は意外に高い。
プロ生活末期では、もはや走力は平均レベル以下にまで下がっていた。

外野守備に就いた際の守備範囲は狭く肩も弱い。球際に強く範囲内の打球は堅実に処理出来るものの、守備力は低い部類である。
かつて一塁の守備に就いていた時は、ゴールデングラブ賞を獲得した事もあった。


【秋の風物詩】
2004年に導入されたプレーオフ(現クライマックスシリーズ)では、シーズンでの活躍を微塵も感じさせないほど役に立たない事で知られている。
チームが敗戦し、ベンチで呆然とする様は秋の風物詩と呼ばれ、松中ネタキャラ化の一端を担った。
三冠王でありながら、参観してるだけという皮肉を込めて参観王などと呼ばれる事も…


【真中中央併殺打事件】
2008年。王貞治監督(当時)最後のシーズンとなったこの年の最終戦(vs東北楽天ゴールデンイーグルス戦)の延長12回表、相手投手の佐竹健太が投じたド真ん中のストレート(140km/h)を弾き返した打球は、松中シフトで予め一塁寄りに守っていた二塁手の正面に転がり最悪のゲッツーとなった。
この後チームはサヨナラ負けを喫し、シーズン最下位が確定。(余談だか佐竹はこれで一球勝利を収めた)
この併殺打は、チームの大失速(9月始めの頃はソフトバンクは首位に立っていた)と共に、野球ファンの脳裏に(主にネタとして)強烈に刻まれる事となった。
実際の戦犯はサヨナラ打を打たれた馬原孝浩なのではないか、とは思っちゃいけない。 
ちなみに2015年、松中のホークス選手としての最後の打席において真中中央三振併殺をしでかしてしまう。
偶然にも対戦相手は同じ楽天であり、対戦投手は佐竹投手では無く松井祐樹投手だったが、松井投手も佐竹投手と同じ左投げでもある。
ホークスの退団も決まって、これから他球団へのアピールという状況でこの併殺は多くのファンの涙を(悪い意味で)誘った。


しかし………


【CS代打満塁ホームラン】
2011年。
チームは7度目となるクライマックスシリーズに進出。初戦を勝利で飾り、迎えた2戦目の8回裏2アウト満塁の場面で、松中は代打として登場。
西武の守護神・牧田が投じた初球のスライダー(真ん中低め)をライトポール際に叩き込み、上記の二大汚名を返上して見せた。
チームも勢いに乗り、3連勝で8年ぶりとなる日本シリーズ進出を決定。
7年という長きに渡ったCSの呪縛から、ようやく解き放たれた。


なお、3戦目の12回表、西武最後の攻撃が終わった際に、1人だけ大はしゃぎしながらグラウンドに飛び出すという珍プレーをやらかしてしまった。(引き分けでも日本シリーズ進出が確定する状態だった為、試合終了と勘違いしたものと思われる。)

今までのネタキャラっぷりを払拭する働きを見せながら、最終的に自ら新しいネタを供給してしまうという、なんとも微笑ましいCSとなった。
…上述したように、松中自身は真中中央併殺の呪いから完全には解き放たれなかったようだが……。



追記・修正は、1人でベンチから飛び出しながらお願いします。


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最終更新:2024年02月14日 08:24