黒田博樹

登録日:2010/01/12 Tue 23:44:01
更新日:2024/03/19 Tue 08:08:54
所要時間:約 10 分で読めます




元プロ野球選手。
1975年2月10日生まれ。

ポジション:投手

所属球団
広島東洋カープ(1997~2007、2015~2016)
ロサンゼルス・ドジャース(2008~2011)
ニューヨーク・ヤンキース(2012~2014)

背番号
15(NPB時代)
18(MLB時代)


大阪府大阪市出身。
上宮高校から専修大学に進学。専修大学の東都大学一部昇格に貢献した。また、スピードガンの球場表示が始まった神宮球場にて、大学生としては初めて150キロを計時した。


プロからも高い評価を受け、1996年広島東洋カープからドラフト二位で逆指名で入団。
同年ドラフト一位の澤崎俊和に遅れること三年、1999年より先発ローテーションに定着。

2003年より五年連続で開幕投手を勤めるなど名実ともに広島のエースとして君臨。

2006年には第1回WBCの日本代表にも召集されるが、練習中の怪我のため試合には出れなかった。
それでも同年13勝6敗1S・防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。
狭い広島市民球場をホームとしながら防御率1.85という数字は驚異的なものである。

その年FA権を取得。
松坂大輔井川慶のメジャー挑戦でできた穴を埋める為に西武と、阪神に加え、資金力のあるソフトバンクが黒田の獲得に動き出した。
それまでの広島球団は年俸高騰を理由にFA宣言した選手の残留拒否し、川口和久、江藤智、金本知憲など有力な選手を失ってきた。

2006年シーズン終盤、FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせている真っ只中、長いカープの低迷と共にファンの熱も冷めてしまったと評されたファンが動き、
完成させたのが広島市民球場外野席に突如現れた巨大横断幕である。



それには多くのファンからのメッセージ、そして大きな文字で


我々は共に闘って来た
今までもこれからも…
未来へ輝くその日まで
君が涙を流すなら 君の涙になってやる

Carpのエース 黒田博樹

と記されていた。
さらに黒田のシーズン最終登板試合には満員のファンが黒田の背番号15の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げた。


10月15日、球団はこれまでの「FA宣言した選手は退団して貰う」という方針を撤回してまで「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を黒田に提示。
本格的に何が何でも黒田を引き止める方針であることを明らかにし、4年契約12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA宣言せずそのまま広島に残留することを表明した。
また、4年間で自由にメジャーに挑戦出来るという条件も加わっている。


残留会見にて

「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」

「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」

また、2006年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。
そして市民に感動を与えたことが評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。


その後2008年に念願のメジャー挑戦を果たし、野茂英雄や石井一久斎藤隆の所属していたロサンゼルス・ドジャースに3年契約で入団。

メジャー1年目は9勝10敗という数字に終わったが、QSとWHIPはチームベストであったのに加えてリーグ20傑にもランクインし、その実力を証明した。


2009年には前年の結果を買われて開幕投手になり、2003年の野茂以来2人目の開幕戦での勝利投手になっている。

2010年シーズンは昨シーズンの勝ち頭であったランディ・ウルフと不良債権ジェイソン・シュミットが抜けたことによってチーム投手最高年俸となった。
そのためチャド・ビリングスリー、クレイトン・カーショウといったプロスペクトと共に先発投手陣の柱としての期待が大きかった。
2011年にはドジャースと1年の再契約。

2012年から2014年までヤンキースに所属。

契約当初はあまり期待されていなかったがヤンキースの先発ローテーションに負傷者が続出。
ただ1人ローテを守り地区優勝に大きく貢献して監督、チームメイト、ファン、メディアの信頼を大きく得る。
ちなみにこの年のメジャー最強打線とも言われたテキサス・レンジャーズを相手に数少ない完封勝ちも収めている。
2013年、前半は38歳にしてリーグ最高投手の声が挙がる程の活躍だったが後半に入り疲労により失速するも引き続きエースとして活躍。
7月31日には親友にしてメジャー最強左腕のクレイトン・カーショウと投げ合いが実現。
黒田が7回5安打無失点、カーショウが8回5安打無失点と最高のパフォーマンスを見せお互いを称えあった。

2014年は前年日本で神懸り的な成績を残した田中将大が加入、先輩としてアドバイスを送るなどすっかりというかいつの間にかヤンキースの投手陣の柱になっていた。


一方、カープファンは黒田が「国内へ戻るなら広島しかない」「戦力になるうちに広島へ戻りたい」という言葉を信じ、いつか戻って来るのでは…という期待を毎年持っていた。
だが、メジャーでも一線級の活躍をしている黒田が戻って来る事は誰の目から見ても絶望的な話であり、期待を持つもメジャー残留を決めるのを見届けるのは半ば秋の風物詩となっていた。


しかし


2014年12月27日、今年もメジャー残留であろうと思われた黒田であったが、メジャー側が示した21億円の年俸を蹴り、年俸4億円で広島カープに復帰する事が発表された。


このニュースは全国を震撼させ、一部のカープファンは「報道まで秋の風物詩か」とばかりに俄かには信じられない者も居た。
しかし、確かに黒田は広島カープに帰って来た。先述の発言がリップサービスでは無く本気の発言であった事を証明したのだ。


日本球界に復帰した黒田は2015年、40歳という高齢ながらも11勝を上げ、チームはやや低迷してしまったが黒田自身はまだ十分戦力になれる事を証明した。
スタイルとしては安定してちょくちょく打たれるが安定して崩壊も避けるという、理想的な打って取らせる形の投球だった。
今まで培ってきたメンタルの強さで為し得たプレイだと言えるだろう。
そして「次は無い」と考え、常に全力プレイなので無理に捕球しようとするなど無茶なプレイもしつつも、一線で活躍し続けた。


翌年2016年には引退するかどうか悩んだが、説得も相まって続投。
同年7月23日、日米通算200勝を達成し名球界入りを果たした。日米通算だと野茂、大学出身だと村山以来の大記録達成となった。

この年も2015年と同等のスタイルを貫き、チームに貢献。
9月10日の巨人戦ではチーム25年ぶり、7度目のリーグ優勝決定戦の勝利投手となった。
そして10月18日に現役引退を発表。最後の登板は日本シリーズ3戦目、6回途中に大谷を抑えた後にふくらはぎを痛め降板。
7戦目の先発が予想されていたが6戦目に日ハムが勝って日本一となったため、マウンドに立つことはなかった。

そしてプロ野球選手として引退を迎えた。
日本シリーズ終了後、氏の功績を称え、背番号「15」は広島の永久欠番となった。



【プレースタイル】
デビューした若い頃は、速球をメインに力で相手をねじ伏せ試合を支配するプレースタイルだった。
北別府学、佐々岡真司など広島の歴代エースはコントロール重視の技巧派が多い中、
MAX157km/hのストレート、130~140km/hの高速スライダー、140km/hを越えるフォークに加え2005年より150km/h近い球速を記録するシュートも投げている。

これが功を奏することもあったし注目も十分されていたのだが、カープ入団後しばらくは成績が安定しない選手でもあった。
その為、ある時を境に打たせて取ることを意識するようになった(黒田自身、最初は完全なプレイスタイルを求めすぎていたと述べている)。
その結果打たれても制球が乱れるなどは一気に減るなどメンタルが非常に強くなり、皆がよく知る安定した黒田になっていった。

ドジャース入団後~カープ復帰してからは速球はツーシームが主流となった。
ストレートはほとんど投げる事は無く、ツーシーム・スライダーの内外とフォークの縦横で揺さぶる事を軸とした典型的な打たせて取るタイプの投手となっている。
ちなみに広島復帰後のストレートは大体140km台前半だがアドレナリンが出てる時は150kmを超えた時も何度かある。(なおこの時に完封している)

ドジャース入団時は素晴らしい投球をしたと思ったら、次の登板でKOされるといった不安定な状態が続いていたが、いつしか完封をするよりも、7回をきっちり投げ続けた方がチームのためになる、と考えるようになり、日本とは違う完投・完封にそこまで高い評価にならないメジャーの流儀を受け入れる。
(※投球数の多い完投完封は論外だが100球前後では別の話です。)
好調時の投球内容は首脳陣の認めるところとなっており、2009年の開幕投手になっている。


スコアだけを見た場合でも、派手さこそないが大きく崩れることもない安定さはアメリカでも評価された。
更に2014年のヤンキース時代には田中将大も含むエースの故障が相次ぎ、39歳の彼だけが先発ローテーションを守る唯一の投手となり、年間通して投げ続けていた。
以前から故障することはあっても長期の故障はなかったこともあいまって、体調管理の方面でも首脳陣もファンも彼を高く評価することにも繋がった。
ちなみにずっと苦しみながら投げているといった旨を述べたこともあり、やはり苦労は尽きなかった模様。


アメリカでも常に広島の試合を細かくチェックしていた。
自宅ではカープの試合をインターネットで見られるように契約し、視聴も出来る環境にした。


メジャー移籍後も広池浩司大竹寛(共に広島)、上原浩治(オリオールズ、元巨人)らと頻繁にメールを交わしている。



野球以外ではガンの研究や啓発を行う活動に球団を通して20万ドル(約1800万円)という多額の寄付をしている。これは両親をガンで亡くしているため。

父親の一博さんはプロ野球選手として南海(現・ソフトバンク)などで活躍した選手であり、引退後はスポーツ用品店を経営する傍らに少年野球の指導者として活躍。黒田自身も父親に野球の基礎を叩き込まれたという。
そのため野球選手としての自分を作ってくれたのは父親という思いが強く、一博さんが肺癌になった際は入院先の広島の病院に足しげく通い闘病を支えた。
メジャー挑戦が1年伸びたのは、父の闘病を支えたいという気持ちが強かったからで、このエピソードはロサンゼルスのメディアでも紹介された。


【逸話】
日本でもアメリカでも基本的に援護に恵まれなかったことでも有名で、成績の割に勝利数が少なかったりする。
比較的辛口のアメリカのメディアでもそういった同情する記事が書かれたり、過小評価されていると評されたことがあったほど。

メジャーに移籍した後も広島では非常に注目されていて、地上波のニュースなどで姿を見かけることが多かった。

ドジャースとの契約は当初4年だったが、『苦しい方が頑張れる』『3年で成績を残せれば4年目はより良い契約を結べられる』と考えたので契約年数短縮を自ら申し入れた。
ドジャースとの契約が切れた際に、複数の球団が獲得に向けて動いたが、「ドジャースが必要としてくれるなら」とドジャースを第一に考えて再契約した(この時「日本でやるならカープしか考えなかった」と述べ、更に復帰報道が出たことに対してわざわざ謝罪までしている)。
更に翌年ドジャースがごたごたし、ポストシーズンを目指す複数球団から誘われて大いに騒がれた際には、葛藤もあったものの去年の気持ちを振り返って考え、トレード拒否権を行使している。
これらは当時のドジャースの混乱した状態と、とんでもないお金が飛び交うメジャーという環境から驚愕され、「黒田はクレイジー」と言う意見すら飛び交った。
当然2014年にカープに戻ることを決めた時も同様で、男気溢れる姿に日本も大騒ぎになったが大リーグ関係者の間でも騒然となった。

ドジャースの3年契約が終わった後は常に1年で契約をしているが、これは球団よりも本人の希望によるところが大きい。
常にカープに戻るかどうかなどを視野に入れて迷っていたとのこと。

2014年に広島で土砂災害が起こった時、人知れずアメリカから広島に戻りまだ手の付けられない状態だった被災地を訪れている。
この時に被災者の方々から「メジャーの活躍はいつも見てます、本当に凄いです」と言われたが黒田は「いえ本当に凄いのは貴方達です」と返している。
この後、わずか2時間ほどの間だがこの際に被災者の人達と交流し大変喜ばれていた。

また2016年の開幕1週間前の忙しい時期に、施設のカープファンの子供たちにサインをしてくださいと頼まれた時に即座に色紙を用意して大量のサインと野球道具をプレゼントしている。
このお礼で届けられた子供たちからの手紙は黒田自身も大変励みになったと言い、今も大切に保管されているという。

ちなみに初登板は2軍の中継ぎとして登板したが、この時に1回10失点という大炎上にしてどん底からプロとしての人生がスタートした。
この時の二軍監督だった安仁屋宗八(カープ的にはレジェンド枠な人)はこの先カープを担う事になるであろう黒田に、大敗北の苦渋とそこからの奮起を促す為に3アウト取るまで決して変えようとしなかった。


新井貴浩とは公私にわたって仲がよく、公では市民球場時代・広島復帰後ともにエースと4番としてチームを牽引。また2014年オフにはお互い広島復帰について相談しあっている。優勝決定時にお互い泣きながら抱擁しあう様子は2016年のカープのハイライトとして大きな話題を呼んだ。
一方私では、かたやキャンプ時にバッグの中に消火器を入れるイタズラを敢行(なお新井は宿舎でバッグを開けるまで違和感に気付かず)、また引退時に新井の大チョンボ記事の切り抜きを詰め込んだ裏に一言「結局、新井は凄かった」と記した広告を新聞に出すなどイジり放題。一方の新井も2018年のビールかけのときに「二次会は黒田さんの家で」と発言(「結局来なくて待ちぼうけ食らった」とは黒田言)、2022年末の監督就任時はネタとはいえ背番号15を要求(なお黒田はまさかの快諾。結局25になった。)と、イジり合うのはお互い様のようである。


カープは当然として、アメリカでも黒田を野球人として尊敬や目標としている選手も多い。
また未だに黒田の雄姿は忘れられないファンも数多くいるようだ。



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最終更新:2024年03月19日 08:08