松坂大輔

登録日:2012/10/14(日) 05:01:02
更新日:2024/03/20 Wed 11:47:27
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今日は満点です。でも、これが最高じゃない。




松坂大輔(まつざか だいすけ)は日本のプロ野球選手である。
1980年9月13日生。青森県青森市生まれで東京都江東区育ち。
ポジションは投手で右投右打。

<所属球団>

西武→ボストン・レッドソックス→ニューヨーク・メッツ→ソフトバンク中日→西武

<来歴>


横浜高校時代はサボリのマツと言われるほど練習嫌いであったが、
2年生時の夏の県予選で自身の暴投でサヨナラ負けを喫し自分のせいで先輩たちの夏を終わらせたことにより奮起する。
当時プロでも150キロを超える速球を投げる者はそうは居らず、高校生が剛速球を投げることが話題を呼び平成の怪物と呼ばれるようになる。

1998年の春の全国高校野球大会で優勝。夏の大会では準々決勝を後に日本テレビアナウンサーとなる上重聡との壮絶な投げ合いで延長17回250球完投を制し、
決勝では史上2人目となる決勝戦のノーヒットノーランという快挙を達成し甲子園春夏連覇も成し遂げ怪物の名を欲しいままにする。

1998年のドラフト会議で西武ライオンズ(当時)が交渉権を獲得。
本人は横浜ベイスターズを希望していたがライオンズへ入団。

初先発となった1999年4月7日の日本ハム戦では155km/hの直球を片岡篤史が豪快な空振りを喫し、
プロ野球ファンに大きな衝撃を与えここでも怪物ぶりを見せつける。

既に孤高の存在となっていたイチローとも対戦して3打席連続三振(1四球)に抑えこんで、
ヒーローインタビューでは「(プロで通用するか)自信から確信に変わった」と名言を残す。

また4月21日の千葉ロッテ戦で黒木知宏と投げ合い0-2で惜敗。
試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は同27日のロッテ戦で再び黒木と投げ合うと、1-0でプロ初完封を記録し見事にリベンジを果たした。
この「リベンジ」という言葉はプロ同期でともに新人王を獲得した上原浩治の「雑草魂」とともに同年の新語・流行語大賞の大賞を獲得した*1

結果ルーキーイヤーは防御率2.60 16勝5敗の成績を収め新人王を獲得。
更に当時最年少で月間MVPを獲得*2したり、高卒新人では両リーグ通じて45年ぶりに最多勝を獲得するなど大いに活躍した。
更にシドニーオリンピック野球競技のアジア最終予選ではチャイニーズ・タイペイ戦に先発。1失点完投と活躍し日本の五輪出場に大きく貢献した。

ルーキーイヤーでの大活躍により2000年には開幕投手となる。15年ぶりの10代の開幕投手を務めた松坂は14勝と2年連続の最多勝と初の最多奪三振を獲得。
シドニーオリンピック野球日本代表にも選ばれ好投するも、チームが勝てず野球で初めてメダルを逃すこととなった。

2001年には15勝15敗で3年連続の最多勝(と最多敗)を獲得。高卒新人のルーキーイヤーからの3年連続最多勝は史上初であった。
さらに沢村賞も獲得。負け数も多かったので反対意見もあったが、両リーグ唯一の15勝や240回1/3と圧倒的な投球回数であったことが評価された。

2002年は開幕6連勝と絶好調スタートするも怪我が発生し、何度か復帰するも本来の投球には戻らず長期離脱した。

2003年は自己最多タイの16勝を挙げ最多奪三振と、自身初の最優秀防御率を獲得。さらにはゴールデングラブ賞も獲得した。
これで投手三冠をすべて獲得したことになる。
アテネオリンピックのアジア予選で好投し大会の最優秀選手にも選ばれた。

2004年は開幕戦で負け投手となるものの、オールスターではMVPを獲得するなど活躍。
アテネオリンピックにも代表として出場し五輪初勝利を得るなどしたが、準決勝では8回途中まで1失点の好投も報われず0-1で敗戦し金メダルならず。しかし3位決定戦には勝利し銅メダリストになった。
オリンピックでチームを離れたこともあり10勝6敗にとどまるが、最優秀防御率とゴールデングラブを獲得した。
同年レギュラーシーズンは2位になったもののこの年から導入されたプレーオフに出場。
結果的に勝ち抜けてリーグ優勝となった*3
日本シリーズでは勝ち投手となるなど活躍し、初の日本一となった。
更にこの後結婚を発表した。
日米野球では1失点完投勝利を挙げた。

2005年は最多奪三振、ゴールデングラブ賞を獲得。
更に防御率もリーグ3位出会ったにもかかわらず14勝13敗と負け数もかなり多かった。
この年に「球際に弱い」発言が出る。

2006年はワールド・ベースボール・クラシックに出場。
登板した全試合で勝利投手になるなど活躍し、大会最多となる3勝、防御率1.38という成績を評価されてMVPに選ばれた。
シーズンではドラフト導入後史上最速の100勝を達成、甲子園での阪神戦で1失点完投勝利かつ自身も本塁打を打つなど活躍しゴールデングラブ賞を獲得した。

このように2002年を除き毎年10勝以上を挙げる活躍でライオンズの不動のエースとなっていた。




そして2006年、防御率2.13 17勝5敗 WHIP0.92と自己最高の成績を修めポスティングシステムでメジャーリーグ挑戦を表明。
ボストン・レッドソックスが5111万1111ドル11セント(約60億円)で交渉権を落札、総額5200万ドル(約61億円)の6年契約を結び日米共に大きく注目される。


1年目の2007年は環境、マウンド、ボールの違いに苦しみながらも当時の日本人選手の1年目最多となる15勝を挙げ投球回204回と2/3、201奪三振を記録。
チームもリーグ優勝を決め、自身もワールドシリーズで勝利を挙げ日本人選手初のワールドシリーズ勝利投手なってワールドシリーズ制覇を果たす。
一方で防御率4.40、WHIP1.32と不安な面も残した。
これは制球難が余りにも酷かったためで、投球内容はお世辞にも良好とは言い難かった。与四球率はリーグワースト6位、1試合の投球数はメジャー最多であった。
日本のテレビなどでは勝敗と奪三振ばかりがよく騒がれていたが、投球内容を見ていた野球ファンやチームのファンからすると相当にイライラすることが多かったようだ。

2008年も途中で肩のハリから故障者リスト入りすることが合ったものの、防御率2.90、18勝3敗、154奪三振という前年度以上…むしろ文句のつけようすらないエース級の数字を残す。
しかし前年度以上の制球難によって1イニングあたりの球数はワースト2位、与四球率はリーグワースト1位。
満塁を招くことも多く、すべて無安打に抑えたものの押し出しや犠飛で失点することはあった。
ただし被打率はリーグ1位の.211、被OPSはリーグ3位の.645とかなりの好成績を残していたのも事実である。

ただ当時のレッドソックスの打撃陣とリリーフ陣は非常に凄まじく、松坂の出したランナーの帰還は無死満塁で降板した1度だけであった。
かなりの制球難と故障による影響もあってイニング数も少なく、約半数の14試合で6イニングに到達できなかったのでQS率低かった。
そして9イニングあたりの平均援護点6.1点という恵まれた環境。
この様に防御率と奪三振数は不安定ながらも自身の力量によるものだと言えるが、勝敗に関しては運に恵まれたものであった。

2009年は第二回WBC大会の日本2連覇に貢献し2大会連続のMVPを獲得。
しかし実はWBC前から股関節を痛めており、これを隠して出場した結果故障してシーズン成績が振るわなかったため、球団から怒りを買うことになる。
更にここから怪我がちになり、思うように試合に出せなくなったり成績を残せなくなり、好調の兆しが見えたと思ったら故障するというパターンなどが増える。

再起を懸けて臨んだ2010年は故障者リストに入って開幕を迎える。
その後復帰するも好投したと思ったら乱調と好不調の波が激しいシーズンとなる。
それでも通算150勝を達成するもののその後怪我により再度故障者リスト入り。
最終的に2年連続規定未達、1桁勝利に終わり、規定未達ながら降板時に残したランナーの数でリーグワースト10位に入るなどしたが、
本人や球団首脳陣は速球に手応えを感じたシーズンだと振り返った。

再び再起を目指して挑んだ2011年は開幕後しばらくした頃に肘の靱帯断裂が見つかりトミー・ジョン手術を受ける。
残りのシーズン全休となった。

リハビリを経て2012年6月9日にメジャー復帰。
4試合に先発登板するが不安定な投球が続き、7月には故障者リスト入り。
8月末に復帰してカンザスシティ・ロイヤルズ戦に先発、7回を1失点で勝利を挙げメジャー通算50勝を挙げるが、
その後も投球が安定せず結局1勝止まりの防御率8.28、イニング数の割に四球も死球も多く、契約最終年のシーズンを終えた後にFAとなった。

2013年はクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結び、イニング数は少ないながらも成績は悪くなかったが、中々メジャー昇格の機会がなかった。
また、持ち直してきたかと思った矢先に故障者リスト入りもしている。
くすぶる日々が続いていたがメッツがシーズン終盤に故障者の穴を埋める為先発投手を探していたため、
メジャーで先発で投げたい松坂との条件が合致したためインディアンスを自ら契約解除を申し出て自由契約となり、メッツとメジャー契約を結ぶ。

同年は先発で7試合に登板して最初の3試合で12回と1/3イニングを投げて15失点、防御率10.97と大炎上でいつもの松坂かと思われていたが、
投球間の間の長さをコーチと共に改善をする。
これが功を無し残りの4試合では26回1/3イニングを投げて防御率2.05と短期的に見れば持ち直しシーズンを終えた。
10月31日にFAとなるが翌年1月にメッツとマイナー契約で再契約をする。

2014年はシーズン開幕こそマイナーだったが4月16日にメジャー昇格を果たす。
当初は経験の無い中継での起用だったが結果を残し、5月31日に今季初先発登板で2勝目をあげ、先発ローテーションの一角を任されたが、
その後は先発としてはあまり目覚ましい活躍も出来ず、2勝3敗、防御率4.24、WHIP1.35。
そして元々の先発陣が復帰したため、再びリリーフ起用に戻ったがこちらでは好成績を残しつつ、オフにはFAになる。
ちなみにこの年もやはり制球難に苦しんでおり、故障者リスト入りもしている。


そして、福岡ソフトバンクホークスが獲得に名乗りを上げ9年ぶりに日本球界に復帰。
3年12億円+出来高払いという大型契約であり、背番号は暴投王新垣渚の背番号を引き継いだ。
オープン戦で投げるなど、復帰した日本球界でどれほどの成績を残せるのかと注目された……が、ここからまさかの展開に。
開幕前にインフルエンザに感染した直後に右肩の疲労を訴えて離脱し、2軍戦に復帰したが内視鏡手術を受けることに。
復帰1年目の登板は絶望的となった。

2016年もこのまま一軍での登板なし…と思われたが、10月のソフトバンクの最終戦前にまさかの昇格(相手は楽天)。
中継ぎとして登板し、1回5失点、4者連続四死球、防御率18.00と大荒れの復帰登板となってしまった。
もはや誰からも期待されない身であったが、オフのウィンターリーグ参加ではそこそこ投げていた。

2017年にはキャンプの頃から体を絞っている様子が見受けられ、オープン戦に至っては広島相手に7回ノーノーの好投を見せる。
今度こそ復活と思われ一軍先発予定もあったのだが、右肩痛を訴えて以後一軍ではもちろん二軍でもほぼ投げることなくシーズンを終えた。
これらの結果3年間で1軍登板は1回のみ。それも2016年の大炎上だけとなってしまった。
オフにはコーチ兼任の打診もあった*4が、現役を続ける意思を見せてついにソフトバンク退団が決まった。

2018年、中日ドラゴンズの入団テストを受けて合格。背番号は「99」。
この朗報を安堵した野球ファンは、かつては日本を代表する選手だったことは間違いない松坂の復活を願う声が多く見られた。
一方で2017年の戦力外選手の中でも近年は殆ど稼働していなかった松坂のテストは、森繁和とのコネルートによる入団とも噂され、賛否両論を巻き起こした。
ただし森自身は松坂を入団テストに誘った事は認めたものの、コネでの入団である事は否定している。

しかし「笑われてもいつまでも野球小僧でいたい(要約)」と語った松坂はこの年意地を見せた。
開幕から四球を多く出しながらもピンチを投球術と気迫で凌ぐスタイルを見せ、やがて4月のDeNA戦にて日本球界では4241日ぶりにもなる勝利を挙げる。
交流戦では古巣ソフトバンクを相手に粘投のピッチングで勝利を挙げた。
結果は6勝4敗。投球回の割に四球も死球も多く防御率も3.74と、それなりの実績を残している。
なお2018年のオールスターゲームでは先発部門で松坂が、同じく中継ぎ部門で巨人の上原浩治(この年日本球界復帰)がそれぞれファン投票で選出された(どちらも1999年のセ・パ新人王)。

2019年は去年の活躍から推定年俸1500万から8000万に。
しかしキャンプ中にファンに右腕を強く引っ張られた影響で肩を痛めてしまい、その後もリハビリが続く。
5月には二軍練習日、千葉の病院で検診するという理由で松坂は不参加だったにもかかわらず、上重聡アナとゴルフをしていたことをフライデーにすっぱぬかれる騒ぎも起きた。
この件は松坂自身特にこそこそする様子もなかったことから、シンプルに周囲への配慮が欠けていた模様で、騒ぎになった後は反省の弁を述べた。
結果は0勝1敗。投球回5.1で四球2・死球3・失点10の防御率16.38でシーズンを終え、中日からの退団を決める。
球団側は契約更新の意向を伝えていたらしいが、
「僕を拾ってくれた森さん(森繁和監督)と友利さん(友利結投手コーチ。現役時代の登録名はデニー友利)が退団してしまった以上、僕も出ていかなければならないと思った」という理由から固辞。
現役続行を望み移籍先を探していたのだが、辻監督からの強い誘いを受けて14年ぶりに西武への復帰を果たした。

2020年は新型コロナウィルスの影響で開幕が遅れた上に試合数も少なくなる中、練習試合などには出ていたものの調子が悪いままとして開幕二軍スタート。
そして7月11日までに頸椎の手術を受けたらしく、今期中の復帰は事実上絶望(治療に2~3ヶ月必要と報道されているため。もちろん草野球で投げるのとはわけが違うので調整も必要)となり、最終的に登板なしとなった。

2021年に入っても故障の癒えが見えず、シーズン中の7月に現役引退を表明した。

<プレースタイル>


最速156km/hの速球やカーブ、それぞれ数種類の変化を誇るスライダー、チェンジアップに加えカーブなど多彩な変化球が持ち味。
トミー・ジョン手術後は速球の最速は153km/hと球速が下がり、手術からの復帰後では140km/h中盤までしか出ない試合もあった。

速球は同期の藤川球児と共に凄まじい球威を誇っている。
調子の良い時はメジャーでも140キロ中盤の速球で空振りを取れるなど、メジャーリーガーからも安定して奪三振を稼いでいる一方で、制球難からランナーを溜めて大量失点するケースも多い
そのため制球が定まらない時は5回持たずKO、最悪の場合3回持たずKOなどの場面も多く見受けられる。
勝った試合ですら制球に苦しんでいる場面が多い。

前述の通り良い時の投球の質を見れば日米両方で最高クラスであるが、制球の安定感が課題である。
制球に関しては日本を出る時はあそこまで酷くなく、またプロ当初は酷かったとはいえメジャーへ行く直前は改善され始めていたことから、
メジャーリーグの滑りやすいボールに対応できなかったのが不振の原因の一つとも言われているが、ずっと制球難に苦しんでいた。
他にもマウンドの硬さの違いや投球数を練習段階から厳格に規制する*5など日本時代の調整法を全て否定されていたのもあるが、
対応力が足りなかったと言われてしまうのも仕方がないだろう。

また、調子の波が激しく好投→炎上→好投→炎上→好投→炎上と安定しないのも欠点。

投手であるがバッティングが上手く、2006年6月9日のセ・パ交流戦・阪神戦では広い甲子園でホームランを打っている。
2007年のワールドシリーズでもメジャーリーグ移籍後初ヒットを放って2打点を挙げ、自らを援護した。

ただし松坂の成績、特にメジャー移籍以降に関しては彼の投球過多、すなわち酷使があることに注意。
高校時代からエースとしてほぼ全試合に登板。最後の夏などは1人で700球以上を投げている
更にプロ入り後も毎年のように200イニング前後投げている。
特に2001年などは毎試合のように100球以上、時には170球以上投げているにもかかわらず中4~中5日が基本だったりともはや異常。
シーズン終盤の大一番というわけでもない試合で、短期KO→中1日でロングリリーフで登板などとやっているのだから狂気の沙汰であろう。
この時点で「若い頃のようには腕を振れなかった」と本人が述懐しているのだから相当である。

また彼自身が「投げたがり」「負けず嫌い」であり、打たれても降板したくない、大量に投げて調整するという調整手段なのも問題で、ルーキーイヤーにはキャンプで3日で300球以上投げたりしている。
彼を制御できる・調整手段を教えられるコーチがいなかったのが悔やまれる話である。

「投手が3000球以上投げると翌年か翌々年に成績を落とす」という理論が存在するが、松坂はルーキーイヤーから3年連続で3000球前後、2001年には4000球以上を投げている。
翌年怪我で離脱した後は、3000球前後投げる→2000球前後まで落ちるを繰り返していたが、その中で投球術が洗練されていったのだ。実際日本時代の1イニングあたりの投球数はドンドン減っている。
しかし上記の通り日本時代の調整法を全て否定された結果、新しい調整法を見つけることができず、
更に過去の酷使でぼろぼろになっていた身体が悲鳴を上げたのがメジャーリーグ時代であったのだろう。


<エピソード等>


  • 高校時代には3年生時に甲子園春夏を連覇、プロでも2004年に日本シリーズを制覇、WBC2大会連続の優勝、メジャーリーグにおいても1年目からワールドシリーズ制覇とプロ・アマのあらゆるところで中心選手として頂点をって取っているなど最早漫画の主人公の様な経歴を持っている。
  • 小学校の頃は剣道をしており少年野球教室で球を速くするにはどうすればよいかという質問に剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いと答えている。
  • 少年野球教室で子供に松坂と呼び捨てにされ「松坂さんだろ」と怒った。
  • twitterでダルビッシュに煽られた。まあ彼が煽るのは松坂だけではないのだが。
  • 高校の一年先輩のタレントの上地雄輔がおり、バッテリーを組んでいた。
  • 第1回WBCの日本代表練習時にイチローから「深いところで舐めてやってるだろ」(多分)ジョーク混じりに注意されているニュース映像が残っている。
    その後数年まで松坂は勝っていたものの、実は投球内容を見てのマジレスという説や、後の姿を予見していたのではないかという説もある。イチローとは2022年11月に女子高校生選抜との対戦の為チームを組んだ際にも、ショートを守っていながらアウトカウントを間違えた松坂に割と深刻な表情をしてキレていた。とはいえ今後も2人で「同じチームでまた戦いたい」とも述べており、なんというか手のかかる弟のように思っているのかもしれない。
  • 第1回WBCの優勝トロフィを貰った直後にすぐ壊れてしまい、
    インタビューで「後で自分でアロンアルフアでくっつけて直しますけど」とギャグ風に言ったところ、
    後に販売元の東亞合成から松坂へアロンアルフアが大量に送られた。
  • 突出して有名な事やキリのいい「1980年生まれ」という事から同学年の選手や同年生まれの世代の人は総称して「松坂世代」と呼ばれている。
    ただし野球ファン(特に別チーム)・選手や他にも野球自体が嫌いな一般人などこの呼称を嫌がる該当者も居るので注意。
  • ルーキーイヤーからパワプロに登場しているが、パリーグの投手には珍しく、打撃能力が設定されていた*6
  • 2000年に免許一時停止になっていたにもかかわらずを運転し、更に駐車違反を犯してしまい、更に球団職員*7を身代わりで出頭させるがバレてしまったことがある。
    当時埼玉県警から交通安全キャンペーンのイメージキャラクターに選ばれていたこともあり激しいバッシングを浴びる事となった。
    その影響でパワプロも選手登録を自粛した。
  • 北海道稚内市には祖父母が暮らしており、その影響か『松坂大輔スタジアム』という施設がある。
  • 漫画MAJOR」のワールドカップ編に松坂をモチーフにした松若と言うキャラが登場。しかし、モチーフにした割に何故か茂野吾郎に名前すら知られていなかったなど、扱いがメタ的な意味で少し謎。
  • 引退後は野球評論家を務める。少し前までまだ現役を続けるつもりだった事もあり不慣れな一面も多いが「野球勘」は優れており、予言めいたことを言うなど片鱗を見せていた。
  • どうやらウマ娘にハマっているらしい。偶然番組で共演したナイスネイチャ役の前田佳織里の「おいっす~」で「おふっ」「マジで嬉しいです!本当嬉しい!!」とガチ喜びしていた。その姿に視聴者は「これが平成の怪物の姿か…」と勿論冗談半分で悲しんでいた。


追記・修正は100億ドルの男になってからお願いします。

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最終更新:2024年03月20日 11:47

*1 ちなみに同時受賞の3つ目は「ブッチホン」。野球関係ないので調べてみよう

*2 現在は高橋光成が更新

*3 この頃はプレーオフ勝者がリーグ優勝の扱いであった

*4 正式なオファーは無かったらしい

*5 イニング間のキャッチボールすら禁止。

*6 現在でこそ交流戦がある為パリーグの投手にも打撃能力が設定されている選手は何人かいるものの、当時は非常に珍しかった。

*7 ちなみにその球団職員は元スピードスケート選手でオリンピックメダリストの黒岩彰。