竹中半兵衛(戦国武将)

登録日 : 2009/11/23(月) 14:20:02
更新日 : 2017/03/04 Sat 12:37:36
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※ピンポーン※

この項目では戦国時代の人物として 
の竹中半兵衛について記述します。 
他のメディアでの竹中半兵衛について
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ます。              






合戦を好み、戦を嫌う男。
その男は、「合戦」をしたかった。



竹中半兵衛(たけなかはんべえ)(1544~1579)は戦国時代の武将である。
本名、竹中重治。通称、今孔明。

美濃(岐阜県)は菩提山城に生まれ、斎藤家に仕えた。しかし、3代・龍興以下家臣も若輩半兵衛をあざ笑い、小便をかけたともされる。


半兵衛は稲葉山城内に留め置かれた弟と示し合わせ、弟の見舞いと称して城を訪れ、 17名 で稲葉山城を陥落させた。
これは再三美濃を攻めた尾張の大名、織田信秀や、その息子信長をもってしても出来なかった大事件である。

その手腕を買った信長に厚遇を約束され、城の引き渡しを要求されるも丁重に断り、城を龍興に返還、自身は隠居した。

斎藤家の滅亡後は意外と知られて居ないが、浅井家に身を寄せて居た。
1570年の姉川以降に、堀直寄らと共に織田に帰参したとされる。そして、羽柴秀吉の与力となった。


竹中半兵衛を有名にしたのは、その軍略である。
主君不在の中、僅か100の手勢で数百の敵を撃退したり、敵の作戦を迅速に見抜いたりと逸話には事欠かない。

しかし、生来病弱であったようで三木城攻防戦の最中、肺病が悪化し死亡した。


良く黒田孝高(官兵衛)と豊臣の二兵衛と評される。
半兵衛は純粋な軍師なのに対し、官兵衛は野心と共に戦場を見る軍略家と対比出来る。そのため、半兵衛の方が格上と見られることが多い。



【逸話】

息子が半兵衛の戦略講義中に手洗いへ。帰って来たのを一喝し、話を聞けと おもらしプレイ要求
武士の子なら戦の話の方が自分の生理的欲求より大事と言う事。


官兵衛が雇われたばかりの事。
官兵衛は秀吉から「行く末にはもっと加増するよ」という御墨付きの書状を貰ってホクホク。それを見ていた半兵衛、なんといきなり書状を火の中へ。

「そんなものを持っていると君臣の間がギクシャクするだろう。」

官兵衛これには涙を流して謝る。


官兵衛が謀反を起こした家臣の説得に向って行方不明に。信長は裏切りと判断。
「人質を殺せ」と長男の処刑を命令。半兵衛は密かに匿い続け、世を去る。敵の城から救い出された官兵衛は半兵衛の心遣いに感謝したと言う。
官兵衛の長男、後の黒田長政である。


半兵衛の息子重門は後に「豊鑑」という歴史書を執筆した。


信長から家臣になることを誘われた際、交渉に来た、秀吉から三顧の礼を受けた為、その熱意に感激して信長より秀吉に仕えることを選んだという。



【彼を扱った作品】

高橋和島「竹中半兵衛」
三宅孝太郎「竹中半兵衛」

宮下英樹「センゴク」
宮下英樹「センゴク天正記」

※重治に関連のある作品

中里融司「戦国竜虎伝」

ゲーム

戦国無双3
信長の野望
太閤立志伝
決戦III
戦国BASARA




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