足利茶々丸

登録日:2010/03/30 Tue 21:58:32
更新日:2024/02/13 Tue 20:06:52
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足利(あしかが) 茶々丸(ちゃちゃまる)とは、室町時代後期の人物。
「堀越公方」という組織の公子であったが、北条早雲に攻め滅ぼされる。
「茶々丸」とはかわいらしい名前だがこれは幼名で、元服をする前に死去したために諱がない。


【鎌倉公方/堀越公方】

まずは何をおいても、「鎌倉(かまくら)公方(くぼう)」「堀越(ほりごえ)公方(くぼう)」について説明しなければならない。

そもそも鎌倉公方とは、室町幕府に所属する出先機関で、関東地方の12か国を統治する重職。
「公方」というと江戸時代では徳川将軍を指すが、室町時代では征夷大将軍のほか、足利氏の重鎮(管領など)も使っていた。

さて室町幕府だが、その本部(征夷大将軍の本拠)は京都の室町にあった。つまり西国となる。
幕府・幕藩体制*1はいわゆる封建制なので、室町幕府の権力も絶対ではない。西国・京都に本部を置く室町幕府が、東国各地の守護大名を管理するためには、足利家に連なる監督役を関東に置く必要があった。
一つには、先の南北朝時代に端を発する、南朝勢力の残党が、いまだ関東には根強かったからでもある。


それで、まずは1349年、関東10か国を統治する「鎌倉公方」が設立。初代は室町幕府開祖・足利尊氏の四男で、以後は彼の血筋が継ぐ。
そしてその鎌倉公方を補佐する役割として、かの足利尊氏公の母方の家系である上杉氏が「関東管領」に就任した。
(この関東管領は元は北関東を支配していたのだが、じきに鎌倉公方が治めていた武蔵国一体にまで管理下に置くようになり、次第に鎌倉公方と対立していく)
また鎌倉公方や関東管領だけでは東北の管理までは難しいので、そこは奥州・羽州探題が担当した。

ちなみに鎌倉幕府もしかり、なぜ関東政権の中心を鎌倉に置くのかというと、相模国とはいえ武蔵国のすぐ近くであり、海を渡れば房総半島にも行けるので広く関東を見守ることができるから。


しかし鎌倉公方の足利家は、見方を変えると室町の足利宗家に対する強力な分家だったため、血族争いも引き起こしやすく、幕府に対して反抗的だった。
鎌倉公方は当然自分は関東で一番偉い存在だと思っているが、関東管領および守護の任命権は室町幕府側にあり、鎌倉公方ではなく必然的に公方の言うことを聞くという二重構造も火種を起こした。
設立から百年とたたない1439年にはとうとう鎌倉公方・足利持氏が自害に追い込まれ、組織も解体された。
数年後には、足利持氏の息子・足利成氏を当主としての復興が許可されるが、その足利成氏もすぐに足利宗家と対立する。

しかしその足利宗家も、長年の弛緩と、六代目征夷大将軍・足利義教の恐怖政治、そしてそこからの義教暗殺などの内紛によってガタガタだった。
(ちなみに足利持氏を滅ぼしたのはその足利義教。まあ持氏があらぬ野心を抱いてさんざん噛み付いたからだが。
 なお時系列順に示すと持氏処刑→義教暗殺→成氏復興、となり、成氏が鎌倉公方として復職した時点でもう義教はこの世にいない)
室町幕府はそれでも、威信にかけて足利成氏討伐軍を派遣。
足利成氏は折悪しく、関東管領・上杉憲忠とその徒党を討伐するため本拠の鎌倉を留守にしており、その隙を突いた室町軍の駿河守護・今川範忠は鎌倉を制圧した。
成氏は上記の上杉憲忠を殺害したことで関東管領・山内上杉氏とその分家・扇谷上杉氏、その他関東の豪族たちと対立していたこともあり、求心力を失いつつあった。
これら足利成氏と山内上杉扇谷上杉たちとの抗争を享徳の乱というが、この戦、応仁の乱より13年も早く発生し、6年も遅く終結している。


ところが、鎌倉は落としたが肝心の足利成氏は健在で、室町軍は彼を討ち取ることができない。
しかし足利成氏も、室町軍に逆襲して、鎌倉を奪還することができない。
ならばと室町幕府は1458年、足利政知(六代将軍の息子で、七代~八代将軍たちの兄弟)を新しく「鎌倉公方」に任命して、足利成氏の権威を削ぎ落そうとしたが、
この足利政知は自前の軍勢を全く所有しておらず、在地豪族の反撃によって、鎌倉に入ることができなかった。

ここに至り、「鎌倉公方」と名乗る人物が、関東にふたり現れるに至った。
しかも、先祖から鎌倉公方を世襲した足利成氏は下総国の古河(現在の茨城県古河市)に、
現在幕府から鎌倉公方に任命された足利政知は伊豆国の堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に、それぞれ割拠し、どっちも鎌倉にいないという事態に。


「鎌倉公方」とは、鎌倉に本部を置いて、東国の諸大名・諸豪族を治める役職である。
それが二人に分かれて、片方は幕府の許可がなく、片方は豪族の支持がなく、しかもどっちも鎌倉にいないとなれば、もはや「鎌倉公方」などあってなきようなものだ。

結局、公方を称する二人はそれぞれ、本拠地の名を取って「古河公方」「堀越公方」と名乗るようになり、そのまま数十年が経過する。
ちなみに古河公方については本稿ではもう出てこない
そんな古河公方も第3代足利高基の代で内乱が起こったり、房総に新たな公方・小弓公方を誕生させたりしている。もうメチャクチャ。


【茶々丸登場】

さて、足利茶々丸は、室町幕府によって新たに「鎌倉公方」に任命されたが、そこまで行けずに伊豆にとどまった、足利政知の息子。

もともと茶々丸は政知の嫡男だったが、実母には早く死なれた。
そして政知の後妻となった円満院は、自分の息子である潤童子こそを跡継ぎにしたいと思っていた。よくあるパターンである。
(ちなみに茶々丸は長男だが、潤童子は三男。次男はというと、室町幕府の11代将軍となる足利義澄。当時は仏門に入っていた。)

その円満院の策略があったかどうかは定かではないが、政知は茶々丸を廃嫡し、潤童子を後継ぎに立て直した。
茶々丸は肉体面でこそ頑健だったが、素行が悪く狂暴な振る舞いが多かったため、父に危険視されていたとも言われる。
この時、父・政知は茶々丸を土牢に監禁、反対した家臣を処刑するほどの強硬措置を取った。

しかし茶々丸は、監禁されながらもその力を養っていた。


そして1491年4月、三十年余りにわたり堀越公方だった足利政知が、57歳でついに死没。潤童子が堀越公方に決定した。
ところがその三か月後、茶々丸はなんと牢番を殺して脱獄、潤童子と円満院を殺害して、堀越公方の地位を強奪した

牢番を殺すのもすごいが、脱獄早々に政敵とはいえ継母と異母弟を殺すのもすごい。
そのエピソードが示すように、父が懸念した通りか、茶々丸には狂暴な面があった。

すぐに彼は暴走を開始し、筆頭家老をも斬殺するなどの凶行を見せる。
それでなくても、応仁の乱以来ムチャクチャになっていた室町時代、いや戦国時代である。伊豆半島は大混乱に陥った。
普通に考えて大問題にもほどがあるが既に堀越公方の存在自体が黒歴史のようなものなので周りからはスルーされた。

【北条早雲の出現】

その隙を突いて攻め込んだのが伊勢宗瑞、すなわち北条早雲である。
(「北条早雲」という名前は彼の死後に贈られたもので、本人は「伊勢宗瑞」までしか名乗っていない。が、本稿では知名度や分かりやすさを優先し、北条早雲で統一する)

1493年、駿河を治める今川氏親の母の弟という立場で東国にやって来て、すでに興国寺城でひとかどの勢力となっていた早雲は、伊豆の一部豪族と手を組みつつ進撃。
さらに、室町では足利義澄が11代将軍になったばかりで、その足利義澄の母・円満院を茶々丸が殺していたため、北条早雲に「将軍家への反逆者」という大義名分を与えることになった。
なお義澄が将軍になれたのは当時の管領が強引に現職の将軍を引きずりおろして代わりの将軍を就任させるという方法でこれによって室町幕府の威信は落ちるに落ちた。
そもそも重臣をいきなり斬り殺すような茶々丸である。彼の求心力は低下しており、二年間の戦いで茶々丸はあっさりと堀越から駆逐されてしまった


ところが、堀越を中心とする伊豆北部ではあっさり放逐された茶々丸だったが、伊豆半島の中南部に逃げ込むと再び息を吹き返した
在地の領主・豪族が彼を支援したのだ。余所者の早雲への反発や、山内上杉家のひそかな支援があった模様。
一度敗れて悟るところもあったのか、茶々丸は甲斐の武田氏とも連携し、伊豆の奪還を狙い続けた。

ちなみにその甲斐の武田氏だが、当時はこっちも二つに割れており、茶々丸が組んだのはその片方。
もう片方(武田家当主側)は今川・北条家と組んでいた。何気なく武田の当主と組む、この辺の北条早雲の反応はさすがにうまい。
また近年の説では、早雲は幕府の許認可も得ていた模様。


そして1498年8月25日、いわゆる「南海トラフ地震」に分類される明応の大地震が発生し、甲斐も駿河も伊豆も大損害を被った。
この天災によって、武田氏の内紛を引き起こしていた二勢力が「争ってる場合じゃねえ」と和睦。
同時に茶々丸の命綱だった、武田家からの支援が断たれてしまった

そして明応の震災から数日と経たないうちに、早雲はいきなり茶々丸討伐を開始
震災でガタガタになり、武田の支援も断たれたところに、早雲の奇襲を受けては抵抗のすべもなく、1498年8月、ついに茶々丸は早雲に捕えられ、自害に追い込まれた。生年が分からないため、享年も不明である。
この一応足利家の人間で公方でもある茶々丸が北条早雲に殺害されたことが戦国時代の始まりと呼ばれ、北条早雲を「最初の戦国大名にして梟雄」と呼ぶ声もある。
ただし現在は北条早雲の堀越公方討伐は室町幕府からの命であるという説が主流となっておりこの主張は怪しくなっている。




茶々丸は本来男性で、それも見ての通り血生臭いエピソードが多く、さらに北条早雲の引き立て役のような立場なのだが、
「ちゃちゃまる」という妙にかわいらしい名前が、堅苦しい感じの名前ばかりな歴史の舞台に出てきたことからか、活躍期間の短さとは裏腹にそれなりの知名度がある。
また、かわいらしい名前故か、女性キャラの名前に使われることも多い。
ネギま!の女性型ロボットの絡繰茶々丸とか。




【装甲悪鬼村正の茶々丸】



「あてはちんちんとかちゃんと好きだ!見たことないけど!」



装甲悪鬼村正のヒロイン。
六波羅四公方のなかでは最年少の堀越公方。
六波羅の武人にしては珍しく劒冑を持っていない。
しかし、武術に関しては六波羅でもかなり上位では有る。
だが、本人は戦争よりお金儲けの方が好きらしく損得勘定で動く。
好きなのはカステラ。
他の面子からは「アホ」だの「バカ」だの言われているが、中々鋭い観察眼を持っており、結構狡猾な人物と思われる。
その人懐っこく、明るい性格とは裏腹に父を殺してその地位を奪った過去を持つ。

ネット上では「地球皇帝とでも名乗っておこうか」というセリフから「陛下」と呼ばれている。

性格は人懐っこい表の顔と幼少より過酷な環境で育ったことによるかなり腹黒な二面性をもつ。
が、一度心を許した相手にはとことん尽くすタイプでもある。

湊斗景明との出会いは三章。
銀星号の卵を見付ける為にタムラのガレージに居たところ、遭遇。
その時彼女は変装しつつ「ライガー」という偽名を使用していた。
後にポリスチームのホットボルトがぶっ壊れた時にも登場。
パッと見ただけで損壊状況を言い当て、景明を脱帽させた。


英雄編、復讐編ではちょっぴり出て来て死亡。
特に英雄編では余りにも呆気ない死に方だった。


魔王編では、ブラックホールに吸い込まれかかっていた景明を救い出し、自分の住居に匿う。
光と再開させ、光の命がそう長くは無いと説明した後、困惑した景明に精神汚染を施して自分の副官とする。(どちらかというと逆に茶々丸が道具扱いされたわけだが)
そして景明に緑龍会の存在を教え、神を呼び出そうと奔走する。




その過去は割と複雑。

彼女は蝦夷との間に出来た子として、父によって捨てられた。
だが、たまたま運良く育てられてそれなりの年齢に成った。
自分が生きていると知った事により、足利家より刺客を放たれるが何とか生き延びる。(この頃から『神』の声が聞こえる様になる。)
その後跡取りとして迎えられるが、父親を殺害。
そうして彼女は今の地位を手に入れた。



その正体だが……




実は彼女自身が劒冑である。
その名は虎徹(正式名称:長曾祢虎徹入道興永)。
陰義:感覚共有

「獅子には肉を 狗には骨を 龍には無垢なる魂を 今宵の虎徹は血に飢えている」

「蛆には腐肉を 蠅には糞を 百舌には蛙の串刺しを 今宵の虎徹は血に飢えている」

武器は三本の爪。
劒冑にしては珍しい武装らしい。

彼女の母親は子を孕んだ状態で劒冑を打ち、その結果産まれたのが彼女。
異常な身体能力やもそのせい。
しかし生身の人間の精神を持つ彼女とって、その過剰とも言える知覚からもたらされる膨大な情報に曝され続ける日常は想像を絶する苦痛でしかなく、そのことがきっかけで世界を滅ぼす目的を持ち始めた。
彼女はそんな自分自身をリビングアーマーと皮肉気味にそう形容した。


そして最後の卵の持ち主であり、野太刀として完成した後も助言をくれる。
茶々丸エンドでは村正との縁を断ち切った景明が仕手となり本来の虎徹の姿が見ることができる。






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最終更新:2024年02月13日 20:06

*1 正確には室町には「藩」は無く、守護大名となる。というか「藩」という単語は江戸時代にもほとんど使われなかったらしく、一般には「○○家」と言われていたらしい。