新徴組

登録日:2011/10/22(土) 15:27:23
更新日:2024/01/01 Mon 03:10:49
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新徴組は浪士組を母体とする有志集団。

浪士組の経緯については、浪士組を参照してください。ここでは、浪士組から別れた新選組とは別に、江戸に戻ったその後の浪士組…すなわち「新徴組」について記す。

遡ること文久3年(1863)4月15日、昨年(1862)8月21日の生麦事件(薩摩島津家家臣が藩主の父率いる大名行列を遮ったイギリス人を殺害した事件)以降、
日本とイギリスの関係が悪化し、攘夷派浪士による辻斬、押し込み強盗、無銭飲食、外国人襲撃など凶悪犯罪が横行し、
江戸南北両町奉行所では対応することが出来ないと見た徳川幕府は、大名家の兵力によって人口100万を数える江戸市中の見回りを行うことを考え、
江戸市中取締役を新設し、庄内酒井家に就任を命じた。

酒井家では同年11月1日にこれを受諾し、酒井家のほかに12の大名家がこれを支えた。

酒井家の担当は、現在の丸の内、本郷、浅草、下谷、上野、谷中、根津、本所、両国の辺りで、
家中の子弟で部屋住みの者(次三男で仕事についていない者)が200名ほどいたので、江戸に派遣した。

一方浪士組誕生のきっかけとなった清河八郎(荘内藩出身)が殺害された後、幕府は浪士組幹部の解役や逮捕、不穏分子の追放を行い、浪士組改め新徴組とした。

そして庄内藩は厄介な地域を担当するということで補助戦力として、新徴組と徳川陸軍の小林登之助が主宰する砲術塾の門下生から構成される新整組(しんせいぐみ)を傘下に治めた。
また費用手当てとして、2万7千石の土地を出羽国内に付与され17万石格となり、徳川権力を支える有力大名と位置づけられていた。

当初は幕府が管理しており、本所三笠町と飯田町もちの木坂の二ヶ所に新徴組御用屋敷が与えられ、本部はもちの木坂の屋敷に置かれた。

もちの木坂の責任者は松平上総介、本所の責任者は河津祐邦、酒井家から取締役として、松平権十郎が命ぜられた。

文久3年(1863)11月の時点で隊士の数は206人。ちなみにその中には新選組一番隊組長沖田総司の義兄(姉の夫)沖田林太郎もいた。

同年11月30日、幕府は酒井家に新徴組の指揮命令から生殺与奪、給与一切に加え、江戸全域の治安維持を丸投げ、幕府からの役人も引き上げさせる。

水戸天狗党の残党狩りや禁門の変で孝明天皇の住む御所に砲弾を撃ち込み朝敵になった長州毛利家の江戸麻布中屋敷を接収したり、
幕府が新しく雇った陸軍歩兵が酒に酔っ払い、飲食店を破壊しているのを取り抑えたり、
第二次長州征伐と米価高騰により江戸で困窮人達による騒動が発生した際、鎮圧の為に出動した記録などが残っている。

慶応3年(1867)12月26日、テロ支援大名の薩摩島津家とその分家・佐土原島津家に雇われたテロリストが、
関東各地で集団による破壊活動や治安維持を行う酒井家の詰所に発砲し、江戸城二の丸に放火するなど、無差別テロを行った。
証拠を握った酒井家は大政奉還・王政復古後も治安維持権限は徳川家にあることを理由にテロリストの引渡しを要求するも拒絶され、
屋敷を焼き討ち、捕縛浪士57人、首5を挙げた。

その後慶応4年(1868)の戊辰戦争では、薩摩藩邸を焼き討ちしたせいで「官軍」の標的となった酒井家に従い、所領の出羽庄内に赴く。付き従う者は165人と言われる。







酒井家の下でイギリス式訓練を叩き込まれ、剣客集団から、エンフィールド銃で武装された洋式銃隊として、活躍することになる。

同年7月28日の矢島城攻防戦で新徴組150人は、標高2200メートルの鳥海山を走破して矢島城を急襲、
太政官に味方する領主の生駒親敬は驚いて、城を焼いて逃げた。

同年8月5日の太政官軍の反撃を退けると、温泉街で休養したのち、同年8月16日から、羽越国境攻防戦では主力として戦う。

同年9月23日、酒井家は太政官に降伏、占領軍に略奪、暴行がなく、負けた酒井家家臣が刀をさして歩くことが出来たのは、
この地にお忍びで来ていたテロリストの親玉から革命政権の重鎮にジョブチェンジした薩摩島津家重臣・西郷隆盛の命令であると言われている。

酒井家はその後、一度領地を没取されたが、天皇陛下の御慈悲という形で再度領地を与えられた。
会津若松、磐城平への転封話を蹴って、庄内12万石としての存続を許され、藩治職制により「大泉藩」と名乗る。


新徴組は慶応元年(1865)に酒井家の足軽格で編入、庄内に来てからは、大宝寺村に屋敷をあたえられ、荒れ地の開拓に従事した。

明治4年(1871)7月14日の廃藩置県の詔により、大泉藩がなくなり、庄内地方は酒田県として成立、県の役人は全て大泉藩の人物で独占された。

廃藩置県で主従関係は消滅、庄内からバイバイ、といって新徴組が去ろうとすると、酒田県はそうは問屋がおろさねぇ、ここに留まりなと!監視の眼を光らせた。

開墾計画に従わなかったり、酒田県幹部に異論反論を唱えると、士道不覚悟につき切腹という罰則が待ち構えていた。

新徴組隊士の出身地は多い順で上から武蔵、甲斐、上野、信濃、常陸で全体の3分の2を占め、
出身身分は150人中81人が武士の次三男や浪人より、農民、神主、行商人の子などが剣術などで身を立てようとしていたと言われる。



新徴組からすれば今更元の農民はヤダ!、温泉と釣りと米と山寺しかない庄内は、娯楽がなくてツマらない、
同じ死ぬならせめて庄内でコキ使われて死ぬより、生まれ故郷に戻って死にたいのが人情である。

新徴組隊士60人ほどが脱走を実行、酒田県幹部の横暴を東京の司法省に訴えた。
太政官内部でも参議兼司法卿・江藤新平や参議・大隈重信や大蔵大輔・井上馨などが話を聞いて、調査をしようと提案したが、
当時、太政官の実権を握る西郷隆盛は、酒田県幹部の言い分を全面的に採用し、
司法省(江藤)や大蔵省(井上)に圧力をかけて訴えを退け、新徴組を絶望のドン底に叩き落とした。

新徴組が自由を得るのは、西郷隆盛が明治6年の政変で失脚し、酒田県幹部も太政官の政令を実施せずに勝手なことをやるのはケシからんということで、
太政官内部では大隈や長州閥から、外部では地元農民からの圧力を受け総辞職に追い込まれるのを待たなければならなかった。

その後の足取りは、警察官として就職し、明治10年(1877)の西南戦争で西郷隆盛に怨みの刃を振り下ろす者もいれば、名前を変えて異郷の地で先生になる者もいれば、
故郷に戻ると一家は離散、家族を探している内に自身が社会の闇に落ちた者、政治に関心を持ち、自由民権運動に参加した者、
税金が高くて選挙権を得ることができず、暴力壮士として活動している内に犯罪者として監獄に入獄した者*1
運良く実家が無事で、家業を継いだ者、他家に養子にいくことが出来た者、様々である。

一つ言える事は、新徴組で庄内に残留した者は少ないと言うことである。



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最終更新:2024年01月01日 03:10

*1 ←出獄して故郷に戻ると一家は離散、家族を探している内に自身が再び犯罪に手を染め、監獄に入獄し…