落合博満

登録日:2011/11/22 Tue 22:09:04
更新日:2024/03/29 Fri 21:29:55
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あいつが捕れないなら、誰も捕れないさ…


落合博満とはロッテ、巨人をはじめとする球団で活躍した元プロ野球選手である。秋田県男鹿市出身。
引退後は解説者などを経験した後に中日ドラゴンズの監督として就任した。
引退後は中日ドラゴンズの球団ゼネラルマネージャーを務めて、その後はフリーの解説者。

ヒロミツ専用ガンダムエクシアのパイロットでもある。

妻は落合信子、息子はタレント・ナレーター・声優の落合福嗣

来歴


1979~86 ロッテオリオンズ 
1987~93 中日ドラゴンズ
1994~96 読売ジャイアンツ
1997~98 日本ハムファイターズ(この年に引退)

2004~11 中日監督

東芝府中よりドラフト3位で入団。

落合博満の代名詞といえば神主打法。直前まで体をリラックスさせ、スイングの瞬間に力を最大限まで引き出すというもの。

当時、職人選手揃いだったロッテに入団した落合は、打撃コーチだった高畠康真、チーム主力の土肥健二、張本勲などの元で打撃を学び、神主打法を完成させた。


プロ2年目で一軍レギュラーに定着、翌年には首位打者、翌々年には史上最若年で(当時)三冠王を獲得。
その後も成長を続け、1985年には二度目の三冠王を獲得。
同じ三冠王でも最初の三冠王の成績を批判され鍛錬を積んだ二度目の三冠王は圧倒的。146打点は今尚パ・リーグ記録。得点圏打率.492は日本記録であり、メジャーでもこれに匹敵する記録は出ていない。
驚くことにその翌年86年にも三冠王を獲得。二年連続50HRは史上初の快挙だった。

また、二年連続三冠王達成者は彼のほかに、世界のホームラン王・王貞治、阪神黄金期の大打者にして史上最強の助っ人・ランディ・バースのみである。

このシーズン終了後、最大の理解者・稲尾和久監督が解任されたのを機に「稲尾さんのいないロッテにいる必要が無い」と言い放った落合はトレードで中日へ移籍、日本人史上初の1億円プレイヤーに。なおロッテにはインテリヤクザ牛島がやってきた。フクシくんも授かった。


移籍一年目の1987年。この年落合の調子は絶不調だった。
レギュラー獲得以来初の打率2割台と落合にしては調子が悪いシーズンとなった。

翌年からは調子を取り戻し、89年には打点王、90には本塁打王を獲得。両リーグでこれらのタイトルをとるのは、彼が初めてだった。

91年には4度目の三冠王が迫っていたが、惜しくも逃す。この年、一試合6四球の日本記録を樹立。

92年はタイトル無しに終わったが、打率.292、71打点、22本塁打と十分な活躍。

93年オフにFAを行使し巨人に入団。
長嶋茂雄監督の構想により、ルーキーである松井秀喜を潰さないためにも落合が原辰徳に代わって四番に入り、松井が三番を打つというスタイルになった。
また、落合は松井の指導もしていた。

94年は、打率280、15本塁打、68打点と落合にしてはやや物足りない結果に終わったが、勝った方がリーグ優勝という10.8決戦で本塁打を打つなど重要な所ではしっかり結果を残し日本一に貢献した。

95年、2000安打を史上最年長で達成。この年も42歳にして規定打席3割を打つ。

96年も、四番として結果を残し、43歳にして打率301、21本、86打点ととんでもない数字を残し、大逆転優勝のメークドラマに貢献するが、シーズン終盤に左手首に死球を受け骨折。これが後の日本ハム時代の低迷に繋がってしまう。
この年のオフに清原和博がFAで巨人に入団したが、その交渉の席でフロント陣があろうことか「同じ一塁でポジションの被る落合を解雇する」と示唆していたことが発覚。このことに憤慨した落合は自由契約を申し入れ、日本ハムに移籍する。
この経緯に関し、落合は移籍直後の著書「不敗人生 43歳からの挑戦」で「クビにしたいなら10月の時点で言ってくれれば良かった」「今年のジャイアンツのようなフロントは今まで見たことがない」と苦言を呈している。

97年には44歳にして史上最年長規定打席達成を果たすが、前年に死球を受けたことで起きた左手首の骨折の影響もあり、打率262、3本、43打点と衰えが徐々に隠せなくなっていく。なお、ここでも当時若手だった上田佳範を指導、東京最末期の主力へと育て上げた。

98年は最初こそ4番を務めるも首位ターンしたあとの後半戦での大失速、若き主砲・西浦克拓の台頭もあり出番が減少。惜しまれつつプロを引退した。
この年の最終戦は古巣ロッテ戦。上田利治監督は先発出場を勧めたが落合は「代打で始まったプロ野球人生、最後も代打で終わりたい」と固辞。代打出場した最終打席はセカンドゴロに終わった。

生涯成績は2236試合出場、2371安打、510本塁打、1564打点、65盗塁、打率.311。
獲得タイトルは首位打者5回、本塁打王5回、打点王5回、最高出塁率7回、ベストナイン10回、三冠王3回
とまごうことなき球史に残る大打者である。

選手としての特徴

打撃面は言わずもがな、守備面でもゴールデングラブの獲得経験こそないが、堅実でアウトに出来る範囲は確実にアウトにするスタイルだった。しかし、足があまり速くない為、守備範囲はやや狭かった。

監督としての落合博満

中日は落合が就任以前からAクラス入りは多かったが、リーグ優勝へ結びつくことは少なかった。

補強による強化ではなく、個々の能力の10%を底上げして優勝へ導く。と就任時語った。

モットーは「勝利こそが最大のファンサービス。」

04年…就任一年目にしてリーグ優勝へ導く。

05年…ウッズの出場停止やシーズン後半の失速が災いし二位に終わる。

06年…二度目のリーグ優勝。

07年…リーグ優勝は逃したが、この年導入されたクライマックスシリーズで勝ち抜き日本シリーズ進出。日本一の栄冠に輝く。

08年…福留放出、北京オリンピック派遣などの影響で、三位におわる。

09年…川上、ウッズが退団。穴を埋められず二位におわる。

10年…井端の怪我、ブランコの不調により順位に伸び悩んだが、シーズン最終戦でなんとかリーグ優勝を勝ち取る。この年球団連続監督就任記録を更新する。

11年…正式に退任が決定。最後の年にリーグ優勝を決める。日本シリーズは第7戦までもつれ込んだが、惜しくも日本一を逃す。


2011年11月22日、落合博満監督、勇退。

なお、2007年日本シリーズ第5戦で山井の完全試合での日本一直前に岩瀬にリリーフした采配に関しては当時多大な賛否両論を呼んだ。
これに関してはこの時山井のマメが潰れてしまい、自ら交代を願い出たと後に判明した。
その6年後、山井は4人走者を出しながらも正真正銘のノーヒットノーランを達成した。

いずれにせよ、はっきりと事実と言えるのは、監督としての実力は確かであること。
実際、中日の通算リーグ優勝回数9回のうち4回、日本一2回のうち1回は落合率いる中日が手にしたものである。
監督としての8年間、一度もBクラス落ちしていないのも圧巻。









……と我々とは程遠い人間に見えるが、案外そんな事もない。一つ、我らとの最大の共通点がある。






彼は重度なオタクなのである。

この性格はアニヲタ的意味にも応用されている。図式を表そう。

何気なく見たWガンダムにハマる。
過去のガンダム全シリーズを見る。
当時放送されていたガンダム00も見る。
グラハム・エーカーが好きになる。
中の人の中村悠一が好きになる。
中の人繋がりでCLANNADを見る。



……そう。典型的なオタク気質なのだ。

今まではソースが東スポ()だったため、あまり信用されてなかったが、息子のフクシくんが記者に語ったため、これは決定的。

落合曰わく「俺がアニメを見ているのはバラしてかまわんが、CLANNADまでにしてくれ。」てか、CLANNADはええのか

ひょっとしたら、某魔法少女や、某軽音楽部も見てるかもしれない。



現在まででほぼ視聴が確定的な作品は『マクロスF』(ガンダム禁止令のためやむを得ず見たらハマった)『working!!』『大正野球娘』『おおきく振りかぶって』など。自分でするだけじゃなくて*1全く関係ない他人が野球をしているのを見るのも好きなようだ。息子さんと野球見物に行ってたし。


フクシくんから基本システムだけ教わってウマ娘をプレイし、スピード・スタミナがSS+、総合Sランクのマヤノトップガンを誕生させていた。

「練習しないと伸びないんだろ?」

と、失敗率60%オーバーでも休息を与えずに練習させていた。その育成法は荒木雅博限定です、てかトップガンじゃなくてミホノブルボンの方がいいのでは?


ちなみに現代だと割と珍しい2世代住宅住みであり、たまにフクシくんのTwitterからおじいちゃんと孫たちの仲睦まじい交流の様子が上がってくる。
ウマ娘についても孫に育成方法を色々教わりながら四苦八苦している様子である。

落合博満武勇伝


記者「ガンダムになれる選手は?」
落合「なれるのは俺しかいないよ!」

落合「(ガンダム00を)録画したか?」←CSで巨人3タテ後のコメント
落合「試合に勝った後のガンダムは最高だな!」

幼いフクシくんに艶出しスミ入れを施したF91をプレゼント。記者の目の前で破壊され本気で悲しむ。

奥さんもラクス・クラインのコスプレをし出す。
監督室でガンダムエクシアを組み立てる落合博満。
そしてフクシくんはガチの声優になる。

落合の部屋にはZガンダムのプラモをはじめ、約20体が飾ってある。

ガンプラ工場視察の際
記者「野球やってるときより楽しそうでした。」

週刊誌にウイングガンダムが好きと書かれて困惑
落合「ウイングガンダムになってるな。俺が好きなのはウイングガンダムゼロカスタムなんだけど…」

あまりのオタクぶりに、バンダイから直々に落合博満専用ガンダムエクシアを与えられた。
紺と白のドラゴンズカラーに、中日ドラゴンズの球団ロゴ(CD)と背番号66をあしらったもの。普通にカッコイイ。


余談


日本人プロ野球選手初の一億円プレイヤーであり、後の年俸インフレの一因とも言われている。

高校時代は映画に没頭し練習に参加しなかったのに試合ではバカスカ打っていた。大学では理不尽な上下関係に嫌気がさし野球部を退部、同時に自主退学。

得意だったボウリングでプロを目指すも、交通違反をやらかして罰金を支払ったせいでプロテスト代が払えず挫折*2

何気なく始めた社会人野球で大成し、26歳というかなり遅いプロ入りだった。
この時、ロッテからはドラフト3位で指名されたが、実は巨人がドラフト2位で指名する予定だったと言う。
指名されなかった理由は、江川事件に関係するドラフトボイコットである。
もし巨人入りしていたら、落合の野球人生はかなり違ったものだったかもしれない。

また名球会創設者の金田正一とは若手時代にバッティングフォームを全否定された事がきっかけで、犬猿の仲となり、2000本安打を達成したが、名球会入りは拒否している。*3

落合のバットコントロールの巧みさを端的に物語っている逸話として、
バッティング練習中に近くで撮影するカメラマンに「そこにいたら当たるから」と警告(危ないから離れろの意)→カメラマン「狙っても当てられないっしょw」
落合「じゃあそこ(カメラ)狙うわ」→一発でテレビカメラのレンズにぶつけて破壊
という嘘のような実話がある。ちなみにこの時の録画は迫力もあって大評判になったとのこと。
監督就任後も打撃センスは衰えず、ノックでは狙ってセカンドベースにボールをぶつけていた。
現役時代は、デッドボールのお返しにピッチャーを狙ったバッティングをすることもたまにあったらしい。

2006年10月12日の試合、延長12回にウッズが放った満塁弾(痛烈一閃のアレ)で真っ先に泣き出したり、英智のエラーに「あいつが捕れないなら誰もとれないさ…」と語っていたりと…実はツンデレ。

江川卓曰く「落合さんの言葉は全て逆にとらえると意味が通じます。」


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  • 6
  • 遅咲き
  • 大打者
  • ゲーム
  • 70歳
  • 名打者兼名監督だがGМとしては……。
  • 1953年生
  • 2000安打
  • 500本塁打
  • 落合福嗣

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最終更新:2024年03月29日 21:29

*1 ただ割と頻繁に「仕事だからやってる、悪く言えばお金を貰えるからやってる。他の人はともかく、俺は好きだからやっているならここまで続けてないよ」と述べていたが

*2 免許取り立てなのに若葉マークを付けていなかったからと本人は言う。他にもスピード違反、無免許運転などいろいろな文献がある

*3 その金田も晩年に会の私物化疑惑が噴出して会員の不興を買い、金田派の谷沢健一、堀内恒夫とともに事実上追放に追い込まれた。