全国高等学校野球選手権大会

登録日:2011/07/24 (日) 15:38:03
更新日:2024/03/20 Wed 19:12:05
所要時間:約 10 分で読めます




アアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーアアアアアアア CV:柳沢慎吾ではなくサイレン音




-熱夏到来-



甲子園には魔物が棲んでいると言われるが



それは本当かもしれない



変わっていく時代の中で



毎年変わらない夏がある



ここを求めて戦う球児がいる



そんな甲子園の魅力こそが



まさに


魔物そのものなのかもしれない

全国高等学校野球選手権大会とは、毎年8月に開催される高校野球の選手権大会。
主催は大阪朝日新聞社→朝日新聞社。後援は毎日新聞社、特別協賛は大会開催球場である阪神甲子園球場。

通称は「甲子園」「夏の高校野球」など。

ちなみに春にも同様に甲子園で大会が行われるが、こちらは選抜高等学校野球大会(通称センバツ)と呼ばれ、主に秋の新人戦の結果を元に高野連が出場チームを選定する(こちらの主催は毎日新聞社である)。
が、センバツは出場出来ない都道府県も出てくるため、地方規模に及ぶ夏に比べると若干扱いが小さい。

そのため、本項でも夏に絞って解説していく。


概要

全都道府県からの代表校がトーナメント方式で戦い優勝を目指す。
他の部活でいえばIH(インターハイ)に当たり、高校の部活動の中でも全国的に最も扱いが大きい。
俳句の夏の季語としても「高校野球」が存在し、またスポーツに関わらず高校生の全国大会を「○○の甲子園」と呼ぶ例もあるなど、日本の夏の風物詩として定着している。

基本的に全国47都道府県から1校ずつが出場するが、北海道は南北に、東京都は東西にブロック分けがされ、2校ずつが出場し全49校がトーナメントで試合を行う。
過去には記念大会で最多56校が出場したことがある。
優勝したチームには優勝旗が授与され、これは「深紅の大優勝旗」と呼ばれ、これを得る事が全国の高校球児の夢である。

地方大会は概ね7月中に、各地方ローカルチャンネルで放送されているので、チェックしてみよう。
プロとは違い、まだ技術が未熟な高校球児達の試合ではプロでは考えられないようなミスが珍しくなく、ワンプレイごとに本当に気が抜けない。

圧倒的な点差がついていたかと思えば、ひとつのミスから逆転などザラであり、プロ野球とはまた違う面白さがあり、
だからこそ後の世まで語り継がれるドラマが生まれるのである。

ちなみに地方大会くらいになると、あまりに実力差があり過ぎて40-0などの超ビッグスコアなゲームになることも・・・。
98年の青森県大会の深浦-東奥義塾戦ではメジャーもびっくりの122-0という世界記録スコアが成立した。これもまた高校野球。


中継・配信

NHKおよび朝日放送がテレビ・ラジオ中継を担当する。

地上波では当初NHK総合テレビのみの中継だったが、延長戦に対応できないとの苦情が殺到したことから1974年以降は教育テレビでのリレー中継を開始した。以降は12~13時と18時以降、国会中継や夏季オリンピック開催時に教育テレビへのリレーを実施している。

民放では近畿圏の広域局で朝日新聞社との関わりも深い朝日放送(ABCテレビ)がほぼ全試合の生中継を行い、一部のカードは当地のテレビ朝日系列局でも中継されることもある。
かつてはABCのキー局であるテレビ朝日でも関東出場校の中継を実施していたが、NHKとの重複もありBS朝日開局後は徐々に中継を縮小、2014年の決勝を最後に試合の中継からは撤退し、現在は開会式のみの中継となっている。
一方ABCテレビではこの期間中、3週間にわたり大規模な番組の休止・変更が及ぶためそれに対する不満が多いことでも知られる(詳細は後述)。

なお、ABCテレビの中継はテレビ朝日系のBSデジタル局であるBS朝日およびバーチャル高校野球で視聴可能だが、前者については2021年の中継で苦情が殺到したことから*1、2022年より4K放送のみでの実施となった。


歴史

1915年(大正4年)に第1回大会が開催され、その後に戦争や米騒動事件などで中止になったりもしたが、2018年大会で100回目を迎えた。

第1回・第2回は現在の大阪府豊中市にあった豊中グラウンド、第3回~第9回までは兵庫県西宮市鳴尾にあった鳴尾競馬場内に設置された鳴尾球場で行われていた。
しかし鳴尾時代末期にはキャパシティオーバーに陥いるほどの人気になったため、高校野球の球場として阪神甲子園球場が建設され、第10回大会より移った。
なお、戦後第1回目の開催となった第28回大会は甲子園球場が進駐軍に接収されたため、阪急西宮球場で、記念大会として出場校が大幅に増えた第40回大会と45回大会が甲子園と西宮球場併用となったが、組み合わせの問題で甲子園球場でプレーできずに敗退するチームが出たため、以後は西宮球場を使うことはなかった。

近年では気候の変化による夏場の気温の上昇、屋外開催に伴う日程の不安定さ、1人のエースがプロではありえない間隔で連日100球を越える球数を投げるなどの選手を酷使する風潮が時代に即していないとして、球数制限などの改革の声が上がっている。

また、参加校も学校の統廃合や後述する様々な問題点の顕在化、スポーツ嗜好の多様化から年々減少傾向にあり、純粋な参加校数としては毎年冬に開催される高校サッカー選手権大会よりも少なくなった。


特筆大会

…さて、ここからは甲子園に潜むという「魔物」が生み出した、数々のドラマ、奇跡を記していこう。

気になった内容があれば、動画サイトなどで検索をかけてみよう。




…それは決して色褪せない、白球の記憶…



・1979年(第61回大会)


『高校野球史上最高の試合』

詳しくは箕島対星稜の項目を参照。


・1982年(第64回大会)


『やまびこ打線爆発』

「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」と蔦文也監督が徳島代表・池田高校を甲子園初出場に導いてから11年。畠山準・水野雄仁といった超高校級選手を擁してついに頂点にたどり着いた。
1番から9番まで隙のない打線で猛打を連発し、準々決勝では5期連続出場の荒木大輔擁する東東京代表・早稲田実業高校相手から実に14点も奪い、6戦合計85安打という当時の大会新記録を樹立。
この超攻撃的野球を見せた彼らについたあだ名は「やまびこ打線」。この年のクリーンアップを打っていた江上光治と水野はまだ2年生であり、その勢いは翌年の夏まで続くことになる。


・1983年(第65回大会)


『KKコンビ登場』

「やまびこ打線」の池田高校の快進撃は前年からずっと続き、準々決勝までで公式戦連勝記録を40まで伸ばしていた。しかし、準決勝でその快進撃を止めたのはなんとエース・4番共に1年生の大阪代表・PL学園高校だった。
この試合はPL学園の1年生・桑田真澄の独壇場だった。投げれば「やまびこ打線」を3塁すら踏ませぬ5安打完封の快投。打てばこれまで甲子園で被弾無しのエース・水野からレフトスタンドに放り込むホームラン。桑田は4月1日生まれのため、出場選手の中では最も若い選手。
後の甲子園およびプロでの実績を考えればこの結果もやむなし…と現在なら納得できるかもしれないが、この時点では1年生の大金星に騒然としたものである。
甲子園の歴史に残る最強チーム候補同士のドリームマッチでもあった。


・1985年(第67回大会)


『高校野球史上最高チームの有終』

1年生で優勝したKKコンビももはや3年生。優勝した後は、決勝まで行くものの優勝まではあと1歩届かないでいた。
「もう一度優勝を」と目指して5期連続で甲子園に乗り込んできたPL学園はさらにとんでもないチームへと変わっていた。
甲子園初戦となる2回戦では毎回得点を達成し計29得点をマーク。決して崩れない大エースととんでもない打力を誇る攻撃陣を兼ね備えた彼らは様々な大会記録を次々を更新する。
大会中の8月18日に18歳の誕生日を迎えた清原和博はそこから更に爆発。打率約8割・ホームラン5本をかっ飛ばす。ここまで甲子園通算20試合以上を4番でフル出場してきた選手だがそこからさらに進化するという恐ろしさを見せた。
準々決勝では高知代表・高知商業高校の中山裕章から歴史に残る特大ホームランを打つ。その直後、その夏に唯一5番を打った桑田もホームランを打ち、KKコンビ唯一の連続アベックホームランとなった。

決勝の山口県代表・宇部商業高校戦の前に桑田はそれまでの疲労からチームメイトに対して初めて「抑える自信がない。3点は覚悟してくれ」と弱音を吐くと、清原が「分かった。3点やな。俺が必ずそれ以上取ってやる。しかし、藤井(進)*2にホームランだけは打たすなよ。それを越えてやるからな*3」と答えたという。
果たして桑田は藤井に特大のスリーベースヒットこそ許したもののホームランは阻止し3失点で踏ん張り、清原は宣言通り2発の同点ホームランを打ち3打点の活躍。「甲子園は清原のためにあるのかー!」という実況はあまりにも有名。最後はサヨナラ勝ちを収め、KKコンビ2度目の優勝という形で有終の美を飾った。

この年のPL学園は3年生から実に5人ものプロ野球選手を輩出している。
加えて後に2年生からも1人、1年生からも4人プロ入りしているため、チームとしては合計10人を数えるという豪華さ。
特に1年生は立浪和義、野村弘樹、片岡篤史といったプロ野球の世界でも一流選手として結果を残した錚々たるメンツを擁していた。

清原は大会通算打率.440、13本塁打、29打点。
桑田は大会通算打率.333、6本塁打、28打点、5三振。20勝3敗、防御率1.55。


・1992年(第74回大会)


『勝利至上主義』

当時、最強のスラッガーと呼ばれた松井秀喜を擁した石川代表・星陵高校。
当然の如く甲子園にも出場したが、2回戦で対戦した高知代表・明徳義塾高校は松井との勝負を徹底して避け、回ってきた5打席全て敬遠
その際の実況アナウンサーの「勝負は、しません(激怒)!!」という怒鳴り声が、今も印象に残っているという方は多いのではないだろうか。

試合は星陵の敗退で終わったのだが、試合後に松井の活躍を楽しみに集まっていた観客から明徳義塾(特に監督の馬淵史郎)は凄まじいバッシングを受ける事となり、勝利後の校歌斉唱の際には、校歌が殆ど聞こえなくなる程にスタンド中から「帰れ! 帰れ!」とブーイングや野次を浴びせられ、スタンドから去る準備をする生徒たちに向かって空き缶やメガホンなどが投擲されるという事案が発生。学校にも抗議の電話が殺到した。
さらに騒動は明徳義塾の生徒達が逗留先の宿舎に戻った後も留まる事がなく、宿舎の周りには報道関係者のみならず試合結果に納得がいかない松井を支持する野球ファンが大勢詰めかけ、「馬渕を出せ!」「松井に謝罪しろ!」と怒りのシュピレコールを夜遅くまで上げ続けるなど収拾がつかなくなってしまった。
その結果、生徒達に危害が及ぶ可能性を危惧した学校関係者や高野連からの要請により、明徳義塾関係者は兵庫県警から派遣された機動隊の厳重警護の下で行動する事を余儀なくされるという異例の事態に。
騒動による心理的ストレスが原因になったのか定かではないが、明徳義塾は広島県代表・広島商業高校との3回戦では本調子を出せずに惨敗。それでも溜飲の下がらなかった観客からは最後まで野次を浴びせられ続け、逃げるように甲子園を去る事となった。
この騒動は勝負してもらえなかった松井の脅威を逆説的に示すと共に、あくまで教育の一環であるはずの高校野球において「勝利至上主義」をどう捉えるのかという大論争を巻き起こした。
30年近く経った現在でも未だに議論の種となる程、野球界のみならず社会を揺るがす一大事件として歴史に残る事となった。

試合後、馬渕監督は記者からのインタビューに対して

「(敬遠は)私が選手たちに命じた。高校生の中に1人だけプロの打者が混じっていた。」

と語っていた事から、当時の松井の実力と資質が他の高校生たちよりも遥かに化け物じみていたという事が分かるだろう。
とはいえプロの試合と違って一度負けただけで全てが終わってしまう以上、勝利至上主義に走るのは別に何も間違ってなどいない。
まして強打者を敬遠するのは野球の戦術の基本セオリーの1つであり、ルールでも故意四球は公式に認められている行為である。選手や監督に罵声を浴びせるなんてのは筋違いという物だろう。
まして周辺地域の迷惑を顧みずに夜中まで騒ぐなんてのは論外であるし、そもそも選手や監督に対して空き缶やメガホンを投げつけるなんてのは傷害の刑事罰に問われる立派な犯罪である。
なお松井本人はプロ入り後、この件について記者から話を振られた際、

「今となってはいい思い出ですよ。」

と語っている。

・1996(第78回大会)


『奇跡のバックホーム』

愛媛代表・松山商業高校対熊本代表・熊本工業高校の決勝戦は古豪同士の対決らしく3-3の好ゲームのまま延長戦に突入する。
10回裏、熊本工業が一死満塁の大チャンスを迎えると、松山商業の澤田勝彦監督は選手交代を宣言。
ここで投入されたのはここまで出番の無かった矢野勝嗣。返球での暴投が多くその事をいつも監督に怒られていたという選手だったが、後に澤田氏は「この場面、矢野ならもしかしたら…」という天啓が降りてきたと語っている。
そして打席には3番・本多大介が立った。初球を捉えた本多の打球は、交代したばかりの矢野の守るライト方向へと打ち上げられた。
ホームランかとも思われた打球は甲子園特有の浜風に戻され、矢野のグラブに収まった。だが犠牲フライには充分すぎる距離であり、3塁ランナーの星子崇はこれを見てタッチアップ。彼はチームで一二を争う俊足であったこともあり誰もがサヨナラを確信した。
だが、ライトの矢野からのバックホームは文字通り矢のような勢いとなり、あっという間に約80m先のキャッチャーへ到達。送球が3塁側にわずかにずれていたこともありランナーも刺殺。結果的にダブルプレーで敗退の窮地を脱した。
この後11回表、このスーパープレーの矢野が先頭打者で2塁打を放ち松山商打線が奮起、6-3と突き放してそのまま優勝の栄誉に輝いた。
普段の練習では大暴投ばかりしていたという矢野だが、この時ばかりは定位置より深いポジションであったことや浜風によって球速が加速したこともあってピンポイントな返球が可能となったとのこと。
投手2本柱の内1人がライトも守るためレギュラーでありながら控えに甘んじていた矢野だが、高校生活のすべてを出し切ったこのプレーにより多くの人の心にその雄姿が刻まれることとなった。


・1998年(第80回大会)


『怪物覚醒』

80回という節目を迎え、最多55校が出場したこの大会。

神奈川代表・横浜高校は「平成の怪物」松坂大輔を擁し快進撃。
準々決勝で南大阪代表・PL学園を17イニングにわたる壮絶な延長戦の末に下し、その勢いのまま準決勝の高知代表・明徳義塾戦では8回裏開始時点で6点ビハインドの状況から逆転サヨナラ勝利。
決勝の京都代表・京都成章高校戦では松坂がなんとノーヒットノーランを達成。代替わり後公式戦無敗という完璧な強さを見せ付け春夏連覇を果たした。
同年はこれ以外にも、神奈川大学の箱根駅伝優勝・関東学院大学の大学ラグビー選手権優勝・横浜ベイスターズの日本一など、スポーツ界において「神奈川フィーバー」が巻き起こった。



・2004年(第86回大会)


『深紅の優勝旗 北の大地へ』

南北海道代表・駒大苫小牧高校が鵜久森淳志・福井優也を擁するセンバツ覇者の愛媛代表・済美高校を破り、北海道勢として大会初制覇。
甲子園が始まってから初めて、深紅の大優勝旗が津軽海峡を越えた。

同校は翌年にも優勝し、二連覇という大偉業を達成。誰もが知る強豪校へ仲間入りを果たした。


・2006年(第88回大会)


『ハンカチフィーバー』

アイドル的人気を博していたハンカチ王子こと斎藤佑樹がエースの西東京代表・早稲田実業高校は、決勝戦でマー君こと田中将大を擁し、三連覇を狙う駒大苫小牧と激突。
「優等生vs野性児」という全く対照的な2人の壮絶な投げ合いは延長戦に入っても互いに一歩も譲らない展開となり、最終的に1969年(第51回大会)以来2度目となる決勝戦引き分け再試合に。決着は翌日に持ち越された。

翌日の試合も安定した斎藤のピッチングで失点を許さなかった早稲田実業は、対する田中を打ち崩し見事優勝。
最後は斎藤が三振で締めたが、この試合のラストバッターとなったのは、奇しくも最大のライバル田中であった。
この88年世代生まれは2人のほかにも坂本勇人・前田健太・柳田悠岐・秋山翔吾などプロ野球にて実績を残した選手が多く、「黄金世代」とも言われている。


・2007年(第89回大会)


『がばい旋風』

この年、決勝に進出したのは広島代表の古豪・広陵高校と、全く無名の県立高校である佐賀代表・佐賀北高校だった。

佐賀北は甲子園での勝利がこの大会まで無かったが、準決勝では「東の横綱」東東京代表・帝京高校をサヨナラで下すなど、まさに神がかり的な勢いだった。
しかし決勝戦では広陵に抑えられ、快進撃もここまでかと思われた…
だが、なんと8回裏・1-4という苦しい状況から満塁ホームランが飛び出し5-4と一挙に逆転。9回表にそのリードを守りきり優勝を果たした。
「ふつうの子」達が甲子園を制覇するに至ったこの「がばい旋風」は、私立にお株を奪われがちな全国の県立高校の球児に勇気を与えたことだろう。

余談だが佐賀北は県内では進学校であり、優勝の影響で2008年度入試から数年間、入学試験の倍率が跳ねあがったという。
ちなみにこの年の広陵のバッテリーは後年プロ野球でも活躍する野村祐輔と小林誠司。佐賀北の逆転勝利がいかに劇的なものであるかがお分かりになるであろう。


・2009年(第91回大会)


『魔物の呪縛』

この年は新潟代表・日本文理高校が初の決勝に進出。堂林翔太率いる愛知代表・中京大中京高校と戦うことになった。
だが有利に試合を進められず、10対4と6点ビハインドを背負って9回表の攻撃を迎えるが、簡単に2アウトを取られあっさり試合終了かと思われた…

が、そこから試合は予想外の展開を見せた。

1番・切手孝太が四球で出塁したのを皮切りに、普段から「1球打撃」というフルカウントを想定した場面での臭い球のカット・ボール球を見極める選球眼を徹底的に磨いてきたという打線は驚異的な粘りで食らいつき、点差をジワジワと縮めていく。
だが、4点差まで追い上げたところで迎えた4番・吉田雅俊がサードフライを打ち上げ今度こそ万事休す…と思われたが

「サードか?キャッチャーか?……取れない!!なんだどうした!?最後のアウトひとつが取れない中京大中京!!」

なんとサードとキャッチャーの両名がこの飛球を見失いファールとなる。*4
最後のアウトひとつが取れない中京大中京。
『甲子園の魔物』に魅入られたかのように日本文理にとってはドラマチックな、中京大中京には不可解としか言いようがない展開が生んだ球場の異様な雰囲気にのみ込まれ、動揺を隠せない堂林はこの直後に吉田を死球で出塁させてしまいついに降板。
続く5番・高橋義人も四球を選びなおも満塁。6番でキャプテンの伊藤直輝が打席に立つ時にはブラスバンドの演奏すら止まり、甲子園は伊藤コールの大合唱に包まれていた。
そして伊藤の打球は左中間を抜け、2人のランナーが返り2点差。この時に飛び出した「繋いだ!繋いだ!日本文理の夏はまだ終わらなぁいっ!!」というフレーズは、名実況として今日まで語り草となる。
続いて代打で登場した石塚雅俊もタイムリーヒットを放ち、とうとう中京大中京をあと1点までに追い詰める。

そして一打同点の場面でバッターはこの回先頭だったキャッチャー若林尚希。
芯を捉えた運命の打球は…


サードライナー。


あと数cmだけ右に逸れていれば外野に抜けたであろう痛烈な打球であった。

日本文理は準優勝に終わったものの、粘り強さが生んだ印象深い戦いぶりは長年「野球後進県」と言われ続けた新潟県への他県からの認識を大きく変えた。
「負けて悔いなし」という文理ナインの言葉が全てを物語っていた。
一方、優勝した中京大中京の堂林は試合終了後のインタビューで、チームが勝利したにもかかわらず途中降板に終わった悔しさをにじませ、涙を流していた。
勝者が泣き、敗者が笑うという他に類を見ない結末となったこの一戦は、「甲子園の魔物」は確かに存在するということを改めてファンに知らしめた。


・2010年(第92回大会)


『初優勝と6校目の春夏連覇』

「琉球トルネード」島袋洋奨を擁する沖縄代表・興南高校はこれまで島袋が1試合19奪三振を記録するといった健闘を見せながら打線が振るわないというパターンが多く、甲子園での成績はパッとしないものだったが、センバツで覚醒。
強打の和歌山代表・智弁和歌山高校を島袋が抑え、打線も打ち勝ち『貧打の興南』の汚名返上を果たした後は優勝候補を次々に撃破し見事センバツを制覇。

夏は投打共に更に変態度を増した上で出場。大会では神奈川代表・東海大相模高校の一二三慎太や福島代表・聖光学院高校の歳内宏明など多くの好投手と激突。打線の爆発と島袋の防御率1点台の好投で勝ち進み優勝した。
これにより上述の横浜高校以来6校目となる春夏連覇を達成、初めて深紅の大優勝旗が海を越え沖縄の地に渡った。

余談だが、この大会でとあるプロ注目投手が壮絶な大炎上を見せてしまったことにより「プロ注目=死亡フラグ」という図式が出来てしまった。

ちなみに翌年の2011年は春夏共にこの興南と決勝で戦って敗れた学校が優勝している。
そして遂に秋田県勢が14年振りに甲子園一勝を果たした年でもある。この年の秋田代表・能代商業高校(現:能代松陽)の戦いは高校野球ファンなら必見。



・2017年(第99回大会)


『乱れ飛んだ本塁打と生まれた新記録』

第100回の記念大会に合わせ深紅の大優勝旗が新調される事が発表され、第40回から使われてきた2代目優勝旗を最後に手にするのはどのチームかが大いに注目された。

今大会は、後にドラフト1位指名を受けた投手が4人もいた前年などに比べると投手は不作との前評判があったが、その分打線は例年にも増して活発であった。
各試合アーチが出るわ出るわで、通算ホームラン数は今までの最高記録60本(2006年)を大幅に更新する68本が甲子園に乱れ飛んだ。
岩手代表・盛岡大学付属高校と愛媛代表・済美の一戦ではグランドスラムの応酬という史上初の珍事も起こり、そのため「ボールが変わったのでは?」という疑惑も生まれたほどだった。
中でも広島代表・広陵の捕手である中村奨成は神がかり的な打棒を見せ、かの清原が保持していた1大会5本という記録を32年振りに塗り替える6ホームランを放った。
他にも17打点38塁打は最多記録、安打数19本も最多タイ記録とまさに記録づくめとなった。
中村フィーバーにも押された広陵は快進撃を見せ、強豪たちを次々と破り決勝進出を果たした。

そんな中村擁する広陵を決勝で破ったのが悲願の県勢初優勝の期待を背負った埼玉代表・花咲徳栄高校。
乱れ飛ぶアーチの嵐であった大会の全体像とは裏腹に、花咲徳栄は抜群の選球眼を武器に低く鋭い打球を連発。合計21二塁打はこれまたチーム最多記録を更新した。
ホームラン数はチームでわずか2本(2本ともソロ)ながら、49代表制になって以降初の全試合で9得点以上を記録して優勝したチームとなった。
また、綱脇慧・清水達也の両右腕の継投で6試合を投げ抜き、失点こそすれど許したホームランはわずかに1本だけであった。

大飛球が雨あられのごとく降り注いだ大会で、ホームランに頼らず得点を積み上げ、相手に一発を許さなかったチームが優勝をもぎ取ったのはある種皮肉なものである。


・2018年(第100回大会)


『金農旋風』

第100回目という節目の大会において、完全ノーマークのダークホースが突如として浮上。
ごく普通の県立高校、それも全員が地元出身者でありながら、甲子園常連の名門私立を相手に連戦連勝を続けたのである。
その名は秋田代表・秋田県立金足(かなあし)農業高等学校
大会優勝経験者も含む強豪校たちを相手に、エース・吉田輝星が見事な投球を見せ次々と勝利を収めていき、「一般人がエリートに勝つ」という庶民の心をくすぐる展開から全国的に注目を集めることになった。
予想以上に勝ち残ったせいで、応援団の滞在費が底を突いてしまい、同高校のOBに寄付を募るという珍事まで起きた。

決勝にて対峙したのは、過去優勝4回の北大阪代表・大阪桐蔭高校という超名門。そのメンバーも、日本全国からスカウトされた俊英ばかりで、まさにリアル海堂高校だと囁かれるラスボス感あふれる布陣であった。
1回裏にいきなり3失点し、3回表で何とか1点を返すもその後は次々と追い打ちをかけられるという展開で、最終的には2-13という大差で敗北することになったが、県立高校がここまで健闘しただけで大したものだと、観客からは惜しみない拍手が送られた。

…だが、「マスコミがあまりに金足農業に肩入れしすぎだ」として、報道の在り方も問われることになった。
対戦校とて、同じ高校球児であることに変わりはないし、中には名門校で野球に打ち込むために、親元を離れている子だっている。
「以前から頑張って結果を残してきた球児たちを、悪役扱いするのはいかがなものか」という意見も出た。
そもそも、金足農業とて、過去に春3回・夏6回の甲子園出場経験を持ち、最高成績もベスト4と秋田屈指の強豪であり、公立高校とはいっても普通科よりは野球に打ち込みやすい恵まれた環境にいる*5
「ごく普通の県立高校」というイメージは、報道によって必要以上に強調されたものであったことは否めない。


華やかな面の一方で・・・

本大会は「一応」通常の学生野球の全国大会ではあるものの、日本における野球人気や「感動」などの要素で
特に夏の大会は華やかさを見せる一方、問題点も全くないわけではない。
全般的に「大人の都合」「過熱する人気」「安全軽視」「深く根付いた根性論などの保守的な考え」あたりに原因がある。

主な問題点

「感動」や「ドラマ」優先で選手への負荷は二の次、三の次

プロのような興行ならともかく、本大会はそうではないにもかかわらず「ドラマ」や「感動」「熱闘」「伝統」といった言葉が並ぶのが特徴である。
その一方で40℃近い酷暑の中試合をすることになる選手への負荷については殆ど考慮されることはなく、それどころか「つらい目に遭っている姿を見て感動」というもはや見世物のような扱いになっている。「熱中症アラートが出ている中で試合をさせられる高校生」なんて文面だけ見ればギャグだが実際はとても笑えない状態なこともよく見られるようになった。
プレーについても選手の無理や多大な負荷を強いるようになりがちで、投手でいえば殆どの高校ではエースが試合開始~終了まで投げ切るのだが、延長に次ぐ延長で試合が長引き、その分投球数が嵩んだ場合それを美化する言葉が並んでしまう。
プロの試合では選手への負担を抑える為に先発、中継ぎ、抑えと投手の役割が確立しているのだが、高校野球では負けたらそこで終わりの一発勝負であるが故に、ほとんどの高校がエースのフル回転に頼り切っているというのが実情なのである。
投球数制限などの負荷軽減の提案が出ても一発勝負という性質や「感動物語」の機会が減ることを嫌うなどによりそういった言説は抑圧されてしまいがちである。
無理がたたって(場合によっては今後にも響く、治らないような)大けがを負ったとしても、「苦しみに耐えて頑張った」といった美辞麗句で埋められがちで、反省点などを踏まえ負荷を軽減するといった事態の改善には向かわないことが殆どである。

とはいえ、流石に運営側も無策というわけではなく、
  • 途中休養日の設定*6(2013年~)
  • 試合中の給水解禁(2018年~)
  • 延長13回以降のタイブレーク導入(2018年~)
  • 5回裏に10分間の休憩時間導入(2023年~)
といった負担軽減策を導入している。
それでもまだまだ改善や負荷軽減より遥かにドラマや根性論、伝統が優先されがちである。
アメリカの大リーグ関係者がこの実情を知って「選手を潰す気か!?」と苦言を呈した事も。

なお、これは本大会内での話で済んでいるが、ドラマや美談ならばまだマシ、と言う酷使形態が存在する(した)。…招待試合である…
招待試合とは、主に県高野連が特定の学校を地元に招待(交通費等の支給などして)し、指定する学校との練習、強化試合を組む事である。

何故これが酷使につながるのか?最も有名なのが「怪物」江川卓(栃木代表・作新学院)の例かと思われる。

1973年、江川が3年春の選抜高校野球大会で華々しい活躍をした後、栃木県高野連には作新学院への招待試合の申し込みが殺到したと言われる。
試合は主に土日に組まれるため、作新学院側は金曜の夜に出発し試合開催地へ移動→土日で試合をこなし日曜日の夜に帰路に就く…という強行軍で対応せざるを得なかった。
こんな状態が夏大会直前まで続いたため、遠征に帯同しない下級生の中には「ウチは夏の県予選を戦わなくても甲子園に行けると思ってた」という勘違いをする者まで出る始末。

だが、問題の本質はそこではない。(言うまでもなく上記の事態も十分おかしいものだが)
ただでさえ殺人的なスケジュールの中、押しも押されぬエースの江川は大半の試合に登板していたのだ。
何故なら…「作新学院の首脳陣が江川を登板させないという対応を取ったら、試合を組んだ県高野連から抗議が来たから」
招待試合により発生した収益は、日程を組んだ県高野連のものとなる。後はわかるな?そういう事だ。

これにより疲労を溜めこんでしまった江川は、夏の大会を迎える頃には全く本来の姿ではない状態まで調子を落としてしまった。
そんな姿で県予選無失点、ノーノー3試合、被安打2とか冗談みたいな成績を残してはいるのだが。もっと言えばその後大学で歴代2位の46勝、プロ通算135勝とか一体何なん?ってお話
その後江川は大学を経て紆余曲折の末プロ入りするも肩痛に悩まされた結果実働9年・32歳と比較的早期で引退したが、その遠因の一つにこの酷使があると考えられている。*7
江川本人は「大学2年時に肩の疲労骨折を起こして以降本調子に戻らなかった」と証言しているが、その故障が何によってもたらされたかを考える際、高校時代の連投に次ぐ連投の影響を否定することは難しいといえよう。

甲子園を目指す球児は「夏の甲子園で試合をする」事が目標であればこそ厳しい練習にも耐えられるのかも知れない。
が、それに乗じて大人が金儲けの具にする事には怒りを禁じ得ず、論外と記したい。


「教育」の名の下、時代錯誤の価値観が未だに強く残っている

本大会には教育的な位置付けもされているが、「教育」の内容が現代の価値観には沿わない内容が目立っている。

平たく言えば、昭和時代には当たり前だった根性論や苦労礼賛といった価値観が未だに基準となっており
選手の通称である「球児」像もこのあたりの価値観が強く見られる。
この価値観から外れた=現代的な価値観は「高校生らしくない」「教育上ふさわしくない」とされて
ペナルティや警告の対象とされることが未だよく起こっている。
もちろん相手を侮辱したり煽るような行為はどの競技でも厳しく咎められるが
本大会においては自チームへの鼓舞やナイスプレーに対して喜びを表現するパフォーマンスすら厳しく咎められがちである。
唯一ホームランで軽くガッツポーズをすることぐらいは「黙認」レベルでなんとか認められている程度である。

一応この手のルールはアメリカのカレッジフットボールにも存在し、あちらは最悪「得点自体の取り消し」まである重いペナルティが存在するため、
この問題は日本特有という訳では無いことは追記しておく。

このような認識のずれに対する指摘も挙がっているものの、やはり伝統を守ることが優先されてしまいがちである。


(出場選手以外の)生徒にかかわる問題点

応援側の負荷も大きい上、参加を強制させられる

風物詩化している多数の生徒による応援だが、彼らの交通費は通常自腹な上、試合のスケジュール上都度往復している。
特に遠方の学校だと、勝ち進めば進むほど長旅に伴う交通費や滞在費が膨らみ、家計への負荷も大きくなる。
にもかかわらず「応援に参加しなければ欠席扱いとする」といった事実上参加を強制される学校も少なくない。昨今はこのような野球部へのコスト投入に「野球人気による学校の宣伝」という意味合いも多分に含まれるため、このことが顧みられることはあまりない。

しかも、応援席には屋根が無い部分が割り当てられることから応援者は日光や雨にさらされっぱなしであり、選手よりは地味だが実は肉体的にも負荷が大きい。
「元々野球に興味なんて無いのに、無理矢理連れて行かれて野球が嫌いになった」と学生当時を語る方もおり、悪いイメージに拍車をかけてしまっている。

野球部が優先、優遇される一方で軽視されるほかの部活や生徒達

また華やかな応援のために全校生徒を会場に集めるのは野球部くらいしかやらない一方、(競技の性質や会場の都合もあるため一概に言えない面もあるが)このような大規模な応援は他の競技ではまず行われない。
そのため「なぜ野球(部)だけこんなに贔屓されるのか」という疑問を持つ者も少なくない。

他にも、他の部活の大会など予定がバッティングしたら高校野球への参加を強制させられて自分達の大会や予定を棄権、キャンセルしなければならなくなったという事態も発生している。
本来野球部専属ではないにもかかわらず事実上そのような扱いを受けがちなブラスバンドなどの音楽部が巻き込まれやすい。
巻き込まれた生徒としてはたまったものではないし、特に大体の3年生は夏は部活が出来る限界なのだが野球部の都合に巻き込まれてそのまま引退となり、涙を呑む羽目になっても彼らを顧みられることは全くない。また交通機関などのキャンセル料などの損害が発生しても補償は全くなく、彼らまたはその家族が負担することになる。
結局、「野球が人気なのだから仕方ない。だから我慢して受け入れろ」といった理不尽ともとれる理由からこのあたりの問題に対する反論の声もかき消されがちである。


関西地区限定の問題

ABCテレビの生中継

前述の通り大会はABCテレビでほぼ全試合生中継されるため、期間中はABCテレビおよびテレビ朝日が制作するレギュラー番組が休止または延期になる。
休止分は平日などに遅れで放送されるが、気象状況や試合展開で遅れ放送がさらに遅れることもあり、録画勢を悩ませる頭痛の種でもある。
本Wiki的な話題としてはおよびプリキュアが大好きなお友達にもこの事態が直撃しており、毎週日曜の楽しみが潰されることになってしまっている。*8
また、2021年からは国民的アニメもこの被害を喰らう羽目となり、毎回SNS等では関西のお友達による怨嗟の声が上がっていた。
現在では各作品が見逃し配信*9が行われるようになったため状況はかなり改善したものの、「リアルタイムで視聴したい」という人も当然多くいるため、根本的な解決には至っていない*10


余談

冒頭でも記した通り、1915年から大阪朝日新聞社が主催ではじめられた本大会だが、その4年前の1911年には東京を中心としたマスコミ・識者による
「野球害毒論」が展開される。主な著者は新渡戸稲造(後の国際連盟事務次長)乃木希典(陸軍大将)永井道明(東京高師教授)など、錚々たるメンバーが名を連ねている。

なお、そのキャンペーンの中心となった新聞社は「東京朝日新聞社」であった。


追記・修正は試合の途中にNHK総合から教育テレビに切り替えたことのある方にお願いします。


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最終更新:2024年03月20日 19:12

*1 この年は天候不順で中止や試合開始の遅延が相次いだことから急遽ナイターが編成されたが、21時以降は自社制作番組がすでに編成されていたため一部の試合が終了まで放送できなかった。

*2 その大会4ホームラン

*3 清原はその時点で大会3ホームラン

*4 この打席について、吉田は「去年亡くなったお母さんが守ってくれたんだと思います」と語っている

*5 実業系の高校は、普通科ではやらない科目も教えるため、それらの特殊な科目の指導員という名目で、部活の監督を招聘する予算が組める。スポーツ強豪校に工業高校が多いのはこのため。

*6 なお、プロ野球のピッチャーなら中5日程度空けるのは当たり前。仮に100球以上を投げさせられてもたった1日しか休みが設けられない事がいかに異常事態かが分かる。

*7 江川と対戦した事のある選手の多くが、江川の全盛期は高校2年秋~3年春と証言している

*8 ちなみに2017年までは7時半だったスーパー戦隊はギリギリ回避していたものの、同年10月の放送時間変更に伴いルパパトからは煽りを喰らう羽目になった。

*9 プリキュアは『スタートゥインクルより、仮面ライダーはギーツ25話より、スーパー戦隊シリーズは王様戦隊キングオージャーよりTVerで配信開始。

*10 解決策としては同時に2番組を放送する「マルチチャンネル方式」があるのだが、両番組の画質低下やスポンサーの問題から実施されていない。