加賀(航空母艦)

登録日 :2009/05/26 (火) 19:51:27
更新日 : 2017/01/18 Wed 10:57:18
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読み かが
加賀は旧大日本帝国海軍が保有していた航空母艦。
加賀型戦艦を改造して造られた改造空母で、命名規則に反して戦艦同様に旧国名の艦名を持つ。
真珠湾攻撃に参加した6空母の一隻。

竣工1928年3月31日
戦没1942年6月5日
除籍1942年8月10日

基準排水量 26,900t→38,200t
全長 238.5m→247.65m
全幅 29.6m→32.5m
最大速力 27.5ノット→28.3ノット
航続距離 8,000カイリ/14ノット →10,000カイリ/16ノット
乗員 1,269名
兵装 20cm(50口径)連装砲2基4門→20cm単装砲10門
20cm(50口径)単装砲6門→12.7cm連装高角砲8基16門
45口径12cm連装高角砲6基12門→25mm連装機銃11基22門



来歴

1920年、帝国海軍は長門型戦艦の拡大ハッテン…発展型として加賀型戦艦の建造に着手した。
しかし、1921年のワシントン軍縮会議により各国の保有戦力に制限が制定されてしまった為、進水こそしていたが戦艦としての艤装を身に纏うことなかった。

当初は起工済の戦艦の中で最も強力な加賀型の船体を確保しておく為に加賀型を空母改装の本命としており、加賀の空母改装案は天城型より先に検討され、様々な形の改装図が残されている。
しかし検討が進むにつれ、より船体が大きくて飛行甲板長が長く取れる上に、海軍が大正7年の時点で空母に必要と考えていた30knの速力発揮が可能なことをふくめて、より空母に適した能力を持つ「天城型」が空母改装対象艦として最終的に選択されることになり、「加賀型」二隻はいずれも廃艦する方針が固められた。 *1
※後世においても加賀の速力については様々言われていたが、実際のところ加賀の速力が艦隊行動や空母としての能力に悪影響をもたらしたという証言や資料はない。
後々、空母が30knもの高速を出すと安定性を著しく損ない発着艦の際に極めて危険であったとする見方もでてきている。実際30knで発着艦を行った空母はおらず成功例もない。しかも近年、真珠湾攻撃前の新型魚雷輸送の際の運用記録から明らかに28.3kn以上の速力を発揮していたとして偽装スペック説もでてきており、実際には30kn近く出せたのではとも言われている(偽装スペックについては米国のミリタリーオタクの青年が自費出版した本が出所と思われる)。

しかし、1923年関東大震災が発生。
条約に則り、横須賀で航空母艦に性転k…改造中だった巡洋戦艦「天城」が竜骨ボッキリという船にとっては死に等しい大打撃を受け廃棄が決定。
廃棄予定で係留されていた「加賀」を代艦とした。
なぜ加賀が選ばれたのか詳細ははっきりしないが、おそらく土佐の工事が遅れていた事が原因であるとされる。

なお、土佐は標的艦として「ポスト・ユトランド戦艦」の防御力データの提供をした後、艦名の由来となった土佐国・高知県沖ノ島沖に没した。

艦容の変遷

大型航空母艦設計のノウハウを持っていなかった帝国海軍は、
同時期改造中の赤城と共に様々な試験的技術を導入し、
空母の在り方を模索した。

最初期の加賀は、三段重ねの飛行甲板に、
重巡並の主砲を多数備えた異形の空母だった。
これは、最初期の航空機の性能は低く、
偵察などの補助的な任務を期待されていたことに起因する。
そう、
本 命 は 主 砲 だ っ た の だ 。

三段の甲板のうち、まともに使えたのは当然ながら一番上の段だけ。
発進にかろうじて三段目が利用できたものの、二段目は複葉機ですら発進出来ないアイデア倒れの代物だった。

また、ケツに煙突を配置したせいで排煙が気流を乱し、着艦に悪影響を及ぼす欠陥があった。
しかも煙路沿いは高温で夏季においては居住不可となる場合もあり、ついたあだ名が「海鷲の焼き鳥製造機」である。
???「七面鳥ですって!?冗談じゃないわ!」

後の大改装で三段式の飛行甲板を廃止。全通式に改められた。
ケツにあった煙突も右側面に移され、排煙問題も解決。
新たに島型艦橋が設けられた。
そして、速力も若干向上した。
…とはいえ、まだまだ空母としては不満はあったのだが排水量が猛烈に増えたため致し方なし、という事になった。
その代わり積載性が非常に高く、同時期の空母としては世界最高峰クラスであり
他にも巡洋戦艦出身の赤城に比べると安定感などに長けており波浪などには強く、真珠湾攻撃の初期案では加賀航空隊と翔鶴型に一・二航戦の精鋭パイロットを満載して向かう予定であった。
???「オイ、蒼龍と飛龍からパイロットだけ引き抜こうってのか?上等じゃあないか…」

整k…大改装で見違えるほどの性能向上を果たし、見違えるほど近代的な艦容へと変貌した。
やれば出来る子!

ちなみに某ブラウザゲームが流行りだしてから「加賀が大改装で予算をバリバリ貪り食ったから改装予算が足りなくなって、赤城の改装が不十分なものになった。」と言われるようになったが、 実はこうした記述のある資料はない。 逆に空母に改造する時に「赤城に予算を優先して使われていた事もあり加賀の改装はなかなか進まなかった」と記述している資料ならあったりするのだが… *2

二次改装時の工数がどの艦の改装工数よりも多かった事などから、
きっと沢山予算を食べたに違いない(まぁ確かに)→赤城は二次改装時に予算不足で改装が中途半端になった(事実)→加賀に優先して予算が割り振られて赤城は後回しにされた(事実)→この際加賀の改装に費用を使い過ぎたからじゃないか?
といった感じで一部でこの説が唱えられるようになったのが広まったと思われる。
実は赤城の予算不足の直接的な原因は昭和12年の建艦計画によるもの。 *3 *4
最も「なぜ赤城の改装が新艦建造と被ってしまったのか」と言うと「加賀の改装が優先されて赤城は後回しにされたから」なので、加賀に優先して予算が割り振られたことが原因の一つだったりすることもまた間違いではないのだが。
※改装費用自体は赤城の方が多く使っている。(詳細は赤城の項目を参照)

ただし、加賀が赤城より優先されたのはこの二次改装の時だけであり空母改造工事の際は赤城が加賀の改装費をつまみぐ(ry…赤城に改装費用が優先して使われており、加賀の改装が遅々として進まず、未完成のまま竣工 *5 、残工事が多かった為、竣工から実際に艦隊配備されるまで1年半以上かかっている。また「焼き鳥製造機」状態の加賀の改善は予算不足を理由に二次改装の時まで目処が立たなかったのだが、赤城はしっかりと近代化改修を受けている。最終的に天城型が本命として選ばれたんだから赤城優先は当然じゃね?とか言ってはいけない当然加賀は初陣の際も某煙突を引っ提げて戦闘をこなしている。

初期の加賀の改善が優先されていたら上海事変で鳳翔と共に"世界初の実戦投入された空母"という栄誉は受けられなかったであろうし、
そうなれば実績のない加賀が二次改装で優先されたかは微妙なところ、ある意味後回しにされ先に大失敗しておいたのが功を奏したという捉え方もできる。

艦内風紀

他の艦艇の例にもれず、加賀の艦内風紀もよろしくなかった。大型艦名物のシゴキや居住性の悪さ、備品・食料の横領やいじめの横行、また日中戦争における連日の出撃が搭乗員や乗組員のモラル意識の低下を招いていたようで、元加賀搭乗員の著書内でその無法地帯ぶりが記されている。
そのため、後世において加賀の艦内風紀は風通しの悪い大型艦の中でも特に乱れていたとされるが、"鬼の甲板長"板倉光馬曰く

「大型艦の陰湿な気風はどこも一緒」

…実際には他艦も大体似たようなものだった。
板倉氏が風紀改善に努めた結果、加賀の艦内風紀は他の大型艦より早期に改善され穏やかになっている。
しかし昔から戦記などにおいても風紀最低の艦として書かれることが多かったためか、"加賀=陰湿な艦内いじめ"というイメージは根強い。 *6 僚艦が第二次大戦期の栄光の空母機動部隊旗艦として国内外から人気が高いこともあってか、比較するように黎明期の欠陥やパラオでの触礁(セイロン沖海戦不参加)、ミッドウェー海戦で最初に被弾し(エンタープライズ機約30機が加賀に殺到)一番多くの戦死者を出したなどのマイナス面ばかりがクローズアップされ、引き立て役や汚れ役にされることもしばしばある。 *7

また 「加賀の艦内食が不味かったのが風紀が悪かった要因のひとつ!」 と言う説を唱える人が一部いるが、実はこれを裏付ける証言や資料は何処にも残っておらず、 証拠も根拠もない事実無根のデタラメ 。逆に、大型艦水準として豪華な食事であったと言う記録は多数残されている。
そもそも艦載機の操縦者の消費カロリーは凄まじいため、空母の艦内食は他大型艦に比べても高水準なものなのである。現場を知らない上官が空母の艦内食を削減しようとした際も、空戦訓練を体験させ、削減案を撤回させたという話があるほど。

と言うか、葛城のように特別な事情でもない限り、ただでさえ荒れやすい大型艦の艦内食が風紀悪化の一因になるほどマズイとかあり得ません…
この『加賀の主計メシマズ説』も「赤城の艦内食は機動部隊随一の美味しさであった。」という評価と比較し、通常水準以上の食事であるにも関わらず相対的に過小評価された、というのが現実である。 

戦歴

上海事変では、装甲巡洋艦『出雲』率いる第三艦隊で鳳翔と共に一航戦を編成、旗艦としておよそ2ヶ月の戦闘航海を行った。
その戦闘中、1932年2月22日、蘇州偵察に飛んだ加賀の攻撃機隊・小谷隊が米義勇兵のボーイング戦闘機に襲われており、
攻撃機隊を率いた指揮官・小谷進大尉が頭部と胸部に被弾し機上戦死、小谷機の射手を務めた電信員・佐々木節郎一等航空兵が脚部に貫通銃創を負うなどの被害を出しながらも、戦闘機隊の生田乃木次大尉、黒岩和雄三等航空兵曹、武藤一夫一等航空兵曹らの攻撃によりこれを撃墜している。加賀航空隊の初撃墜戦果となったこの機体は米義勇飛行士ロバート・ショートが操縦するボーイング218であったのだが、実はショート氏は純粋な民間義勇飛行士ではなく米国の退役陸軍パイロットであり、義勇兵として他国の戦争に参加したこの行動は国法に触れる違法行為であった。

ちなみに加賀航空隊の初撃墜戦果であるのは確かなのだが、この頃の第一航空戦隊は母艦ではなく陸上に設けた前進基地を利用しており、この時も前進基地からの発進だった。しかしこの運用法少し問題を抱えている。
この時代の航空機は行動半径100kmせいぜいの 木製複葉機 。全金属製機が主流となってからは簡単なカバーを掛けるだけで放置できるようになったが、木製機を陸上で運用するには格納庫が必須だったのだ。事実、母艦の格納庫を利用していた緒戦に比べて、陸上の前進基地を利用し始めてからの機体は露天に駐機しなければならない事から気温の変化と湿気、日光による紫外線の弊害を受け急速に痛み、その性能低下は顕著であったという。

そのため、2月26日に行われた杭州飛行場での大規模な「航空撃滅戦」では攻撃前日に航空隊を母艦に引き上げて整備し、あえて母艦から発進させている。
※木製機体に対する不満の声は他にもある。被弾した場合木製骨格は部分修理が出来ず一発の被弾で主翼換装に至る例もあり、特に木製プロペラの被弾に対する脆弱さが批判されていた。また鉛弾頭の機関銃弾は全金属製機の外板に浅い角度で当たると弾き飛ばされてしまうことから、機体を金属製に変えることで防御面での期待もあり、このため三式艦戦には空力的利点や発動機冷却の観点からではなく、『防弾』目的でカウリングの装備が要求されている。

上海事変における鳳翔・加賀航空隊の活動により、日本海軍航空隊は木製機との訣別を含め、将来の軍用機開発の指針を得た。


1937年8月15日、日華事変における最初の任務は中国空軍基地の集中爆撃であった。南京、広徳、蘇州の三ヶ所の飛行場を目標とし、
  • 九四式艦上爆撃機16機
  • 九六式艦上攻撃機13機
  • 八九式艦上攻撃機16機
合計45機を投入する大規模作戦であったが、この時「戦闘機不要論」を唱える上層部の意向から 護衛戦闘機の随伴のない裸の攻撃隊のみで目標に向かった。

結果として、広徳の爆撃に向かった八九式艦攻は、広徳飛行場上空で待機していたカーチス・ホークⅢに乗った"高志航"率いる飛行大隊、カーチス・ホーク戦闘機約20機の待ち伏せ攻撃を受け、6機が撃墜、被弾した2機も帰還途中で杭州湾に不時着となり、初戦にして一気に8機の攻撃機を失ってしまう
これに衝撃を受けた海軍航空隊は実用化間もない最新機「九六式艦上戦闘機」の派遣を要請、戦闘機隊を配備しやっと敵機と渡り合えるようになり、それ以後各地で激戦を繰り広げる事となる。結果加賀の艦載機隊は世界最凶の練度を誇る化け物に育った。
例を上げると飛龍などで大活躍した友永丈市。
また赤城の村田少佐や進藤分隊長、翔鶴の高橋飛行隊長、瑞鶴の嶋崎飛行隊長など、大戦時に各空母に配備されていた指揮官クラスのパイロットは大戦以前に加賀航空隊として空母航空戦の腕を磨いた者が多い。(第二次世界大戦以前にまともに戦闘経験がある空母は鳳翔、加賀、龍驤くらいなので当然と言えば当然だが)
他にも、単葉航空機の実験場として活躍し日本の航空機技術の向上に一役買った。

上海事変や日華事変において加賀航空隊が戦った相手は、コルセア、カーチス・ホークⅡ&Ⅲ(いずれも米国製)、I-16(ソ連)、グラディエーター(英国)、ドボアチン(仏国)、ユンカースK47(スウェーデン製・Ju87スツーカの前身的機体)。
ハインケルHe111A(独国)、ノースロップ2E(米国)、攻撃機だとカーチスA-12シュライク(米国)などの世界各国の戦闘機や爆撃機である。更にパイロットも他国のエースを教官として訓練を行ってきた中華民国(現台湾)空軍、フライングタイガースを始め各国の義勇兵、鍛えられもするだろう。

ちなみに加賀は一連の戦闘の中、1937年11月11日にノースロップ2Eに攻撃を仕掛けられた経験がある。
この時加賀の距離3000メートルの地点に水柱が立ち、攻撃を行った敵機に対し機銃・高角砲による対空戦闘が実施され緊迫の事態にあった。命中弾はなく被害は0、攻撃機3機の内2機が九六艦戦により撃墜されているが、これにより本艦は 敵機に狙われた最初の空母 になった。

長く戦闘に従事していたが、戦域が内陸に移り始めたため航空作戦は陸軍航空隊に任せることになり、1938年12月11日、母港佐世保に入港。約1年4ヶ月にわたる合計13回の作戦航海を無事終えた。

赤城の改装が終わると、赤城とローテーションを組んで第一航空戦隊旗艦を担う。

アメリカとの開戦が不可避の情勢に近づきつつあった頃には、龍驤と組んで演習にて連合艦隊のシンボル・戦艦長門と対峙。
かつて戦艦であった頃、長門型を超えるために発案された加賀は空母となっても熟達した艦載機隊の強烈な命中精度もあり
長門を一方的に叩き伏せ、空母の力を見せつけた。

太平洋戦争

加賀は開発の遅れていた魚雷を輸送する為、一番最後に単冠湾に向け出港した。(一番容量が大きく、必要な魚雷を一気に運べる空母だったため)

一足先に出発した機動部隊の面々を追いかけ出港した加賀の岡田次作艦長は、出港のおよそ2時間後、航空兵たちを艦橋の前に整列させると遠くに見える陸地を指さし
「あれは四国である。本艦はただいま重要な任務を帯びて某地へ航行中である。諸氏のうち何人かが、否、艦の全員が再び故国を見ることがかなわぬことになるやもしれない。ただいまより日本の本土に別れを告げる」
そう述べた。すべての乗員が陸地に向けて大きく手を振り、大きな声で叫ぶ者、黙々と手を振る者、それぞれのやり方で二度と土を踏めないかもしれない母国に別れを告げていた。

1941年11月24日、単冠湾にて機動部隊の航空兵たちは旗艦赤城に召集され、この時初めて
「米太平洋艦隊が停泊する真珠湾に開戦と同時に奇襲攻撃し、米国民の戦意を失わせ、早期講和に持ち込む。」
という方針が伝えられた。模型を使い、真珠湾周辺の防空陣地や飛行場、艦船の位置を示しながら、細かく作戦内容が説明され、加賀の攻撃隊は真珠湾に浮かぶフォード島周辺の戦艦群を攻撃するという方針も伝えられた。

11月26日午前6時、艦隊はハワイに向けて出港。艦内には大音量で軍艦マーチが流され、外では出撃を祝うかのように戦艦や巡洋艦が択捉島の山並みに向けて砲撃をしており、砲弾で氷雪が吹き飛ばされる光景は実に壮観であったと言う。

12月6日、真珠湾攻撃の2日前、夕食時の搭乗員室では艦長から整備員まで多くの関係者が参加した盛大な送別会が開かれた。飛行隊長を務める橋口喬少佐は、
「この酒宴を最後に、攻撃終了まで一切のアルコールを禁止する。だから今夕は心ゆくまで飲んで英気を養ってほしい」
そう訓示し、一同は作戦成功を祈って乾杯。
上下関係が厳しい海軍ではあるがこの日ばかりは無礼講の宴となり、部下に頭からビールを浴びせられた艦長や飛行隊長が、逃げ惑う姿が見られたという。

12月8日早朝、艦隊はハワイ沖に迫っていた。この時の朝食は普段の質素な食事と異なり、赤飯に尾頭付きと豪勢で美味なもので、艦内の緊張と士気は高まっていた。

 程なくして第一次攻撃隊183機による真珠湾攻撃が開始された。
この真珠湾攻撃において加賀航空隊は最も激戦区と予想された地域に投入され、そして15機の未帰還機を出した。
空母六隻の合計で29機のところ、過半数を超える未帰還を出した計算になる。加賀の航空隊が如何に練度を信頼され、無茶ぶりを受けたかがお分かりいただけるであろう。
この攻撃後、艦内には出撃した航空兵"全員分"の昼食が用意してあった。予定時刻を過ぎても戻らない航空兵たちの冷えきった昼食を、誰も片づけようとしなかったという。 *8

 その後加賀は一旦内地に帰ると、トラックに進出。ラバウル・カビエン・第二次ラバウル・ポートダーウィンを転戦。
ラバウル・カビエン攻略における功績は非常に大きく、緒戦の快進撃の一翼を担った。
しかしパラオに戻った時に港で座礁して傷を負う。座礁後もしばらく前線に立つが結局内地に戻り補修。
MO作戦への参加も検討されたが、翔鶴・瑞鶴の練度向上優先で参加見送りとなり、復帰したのはMI作戦であった。

運命の1942年6月5日、楽観的な気分で今日も勝てる感丸出しで適当な索敵を行っていたつけか、午前7時22分にエンタープライズから発艦したドーントレス隊の猛襲を受ける。
直掩の零戦はミッドウェー島からの攻撃隊への対処中で低空におり、高空から急降下爆撃を仕掛ける相手への対処は不能、一瞬のスキを突かれた形となった加賀には最も多くの敵機が殺到し9発の爆撃が投下される。
爆撃投下直前に敵の雷撃に対する回避行動をとっていた加賀になす術はないように思われたが、岡田艦長の一喝で右に転舵し急降下爆撃を3度かわし対空砲火で反撃を行った。しかし一歩及ばず、4発目が命中。艦橋付近のガソリン車に直撃した一発が特に致命的であり司令部が一瞬で全滅。最終的に4発の命中弾をくらった。(5発または10発以上という証言もあり)被弾後も機銃に飛び付き反撃を試みた者もいたが、壊れたのかポンポンと一発ずつしか弾が出ず、反撃と言うにはあまりに弱々しいものだったという。
護衛にあたっていた榛名からは7度に渡る爆発が観測され、副長が生存者を諦めるほどの状態であった。16時25分にメインのガソリン庫に引火し、二度の大爆発を起こし轟沈。
駆逐艦乗組員からは雷撃処分したという証言もあり、アメリカの資料においても駆逐艦『萩風』によって雷撃処分とされている。混乱の最中にあった為、目撃証言が一致せず
その沈み様は判然としない。

加賀とほぼ同時に蒼龍が急降下爆撃3発を浴び、すぐに放棄が決定するほどの損傷を負い轟沈。
赤城は急降下爆撃のダメージこそそこまで深刻ではなかったものの、兵装転換中で火気厳禁状態のところに爆撃を浴びたため、爆弾や魚雷が連鎖爆発してしまいそれが致命傷となり処分せざるを得なくなった。
唯一生き残った飛龍も決死の反撃でヨークタウンを撃破するが、数の差は如何ともしがたくやはり轟沈。
空母時代の幕を開けた栄光の存在は一瞬で全滅し、日本の前途を闇に包むのに十分な傷となったのであった…

現代における加賀

さすがに日華事変時のスーパーエースで、大日本帝国海軍の栄光の時代に大暴れした加賀は、
連合艦隊の象徴である長門 *9 ・戦後メジャーになった世界最大の戦艦大和同様に襲名は難しいと思われていた…のだが、最近の潮流を反映してか
いずも型護衛艦の2番艦として「かが」の名を採用した。
護衛艦史上最大の全通甲板装備のヘリ空母に、かつて南雲機動艦隊の一員として暴れた艦の名前を付けたのである。
やっぱり空母じゃないか…誰だこんな時間に…

カガハクウボデハアリマセン、ゴエイカンデスヨハハハ
F-35ナンテアツカエルワケガナイジャナイデスカ

フィクションでの加賀

戦略シミュゲーではシナリオにもよるが、序盤戦は十分に柱として活躍できることが多い。
提督の決断シリーズなどでは砲撃空母加賀や、本来の姿である八八艦隊三番艦加賀として活躍できたりもする。砲撃空母はACのロマンアセンとかそういうレベルの実用性である。
ただ、空母としては色々と問題があった史実が反映されてか最終的には一線を退くこともままある。

架空戦記では、八八艦隊物語では戦艦として就役するなど、空母としてより戦艦としての方が扱いが大きい。
空母としては紺碧の艦隊あたりで登場したが、紺碧では空母隊で真っ先に被弾して落伍している。
まあ、半端な改装空母より長門型を超える戦艦としての方がよく書きやすいしね…
何にせよ大和や改大和型その他諸々のほうが強いのでそのカマセという役割にはなるが。
一方、妹の土佐は名前だけ使われた超超ド級航空戦艦として無双していた。

艦隊これくしょんでも登場。現状最大の積載量を誇り、最強空母として君臨する強キャラ。
こだわり抜きならイベントでは欠かせない存在といえる。詳しくはこちら


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*1 丸・空母「加賀」"特集名空母の生涯"より

*2 福井静夫著『空母物語』、『丸』誌、『歴史群像シリーズ』など

*3 赤城の改装予算が不足になり中途半端な状態になったのは昭和12年の建艦計画(マル3計画・大和型2隻1億0793万3075円×2、翔鶴型8449万6983円×2その他)と重なった為 (歴史群像シリーズ・精密模型で見る帝国海軍艦艇集・赤城の解説より)

*4 加賀の改装予算案=昭和9年5092万円・10年4196万円、合計9288万円(長門型2隻・榛名などの主力艦・その他砲身・装備交換予算込み)・赤城の改装予算案=昭和11年5329万2千円・昭和12年1億1194万2千円昭和13年1809万9千円、合計1億8333万2千円(金剛型主機交換。比叡改装797万2342円などの改装予算込み、昭和13年が極端に少ないのは新艦建造に予算を割いたため)(海軍軍戦備より)

*5 福井静夫氏の著書によれば、レキシントンとサラトガ2隻の大型空母を保有する米国および諸外国への牽制(帝国海軍も大型空母2隻を完成させていると思わせたい)のため昭和3年の観艦式に加賀を出さなければならなかった為、竣工扱いとして引き渡さねばならなかった。とされている

*6 統計こそとられていないが、艦内いじめによる自殺者が最も多かったのは戦艦長門とされる。

*7 Wikipediaにおける『パナイ号事件』の項目で、何故か空母加賀によって起こされた事件であるかのように書かれていた時期があったりと、何かとネガティブイメージを押しつけられがちなようである。この事件は基地航空隊による誤爆であり、空母は関与していない。第三艦隊がパナイ号の位置確認にまごついた挙げ句、航空隊に"米国避難民を乗せた砲艦がタンカー3隻を随伴させて航行している"ことを通報し忘れていた事が事件発生要因のひとつとされる。

*8 週刊朝日2008年8月29日号に掲載された、元・加賀航空隊員"前田武二飛曹"のインタビュー参照。前田氏はインタビューの中で「こんな南国の楽園のような島に爆弾や魚雷を落としていいのだろうか。上空には敵機の姿はなく、砲台も攻撃してこない。宣戦布告前の『7日午前7時45分(ハワイ時間)より前には絶対に攻撃してはならぬ』と厳命されていた。だが、米軍のあまりの無警戒ぶりに、宣戦布告がちゃんと伝わっているのか、不安に思った。」と攻撃直前の心境を述べている。

*9 実際、ながとは海自史上最大の護衛艦の有力候補に上がったのだが、やはり長門という名の大きさ、時の首相の出身地であったことなどから沙汰やみとなり、いずもが採用された経緯があるとか