赤城(航空母艦)

登録日:2009/05/26(火) 19:50:12
更新日:2024/02/21 Wed 18:43:36
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航空母艦 赤城とは、大日本帝国海軍が保有していた航空母艦
同型艦に天城(未完)がある。

主に太平洋戦争において機動部隊の旗艦として任じられたが、1942年ミッドウェーにて敵攻撃により大破炎上し、雷撃処分された*1


建造経緯

日本海軍が計画した八八艦隊計画により、天城型巡洋戦艦2番艦として呉工廠にて建造進水した。然しながら、完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約を締結したことから、巡洋戦艦として完成させることは不可能となった。条約に従って廃艦処分を回避する為、ワシントン条約では補助艦艇とされていた航空母艦として天城型巡洋戦艦は改造される事となった。
しかし天城は関東大震災により竜骨を損壊し、破棄処分となった*2

単一甲板に至るまで

赤城を空母に改装するにあたり問題となったのが、その形状であった。当時は空母が出来たばかりの時代であったためどのような空母にするか検討した結果、イギリスのフューリアスを参考に三段式甲板を採用することとされた。
これは、発艦と着艦を同時に行うために考案されたもので、上段を190mの着艦専用とし、中段を戦闘機発艦用、下段を攻撃機発艦用と考えたものであった。また甲板上の艦橋は邪魔として、上部甲板に釣りさげる形で設置された他、煙突は右舷舷側から大きく下に湾曲したものを装備した。

赤城完成当時の航空機は航続能力が充分ではなかった為、空母であっても砲撃戦闘になりうるとの判断から、20cm連装砲が中段に備えられた。
しかし実際に運用してみると20cm砲は邪魔でしかなく、三段甲板は無用の長物で有ることが判明し、航空機の発達と伴に「加賀」及び「赤城」は、大近代化改修工事が行われることとなった。

改装空母の本命とされた赤城(天城型)は基本的に加賀より優先して改修が行われており、空母化に際しては予算不足を加賀の改装費を流用するなどして補い、「焼き鳥製造機」状態の加賀の改善は予算不足を理由に延び延びになる中で近代化改修を行っていた。
だが、この改修中に上海事変が勃発した為これに参戦することが叶わず、またこの戦闘航海により運用する上で問題が多過ぎる事がしっかり認識されたため、二次改装は加賀が優先される事になった…これが赤城に悲劇をもたらす事になる。

赤城の二次改装

加賀の二次改装が終了した後、1935年10月から赤城は佐世保工廠において二次改装を施され、排水量も公試41300tとなった。この時不評だった三段甲板は全通式甲板となり、下二段は格納庫となった。また煙突は一つに纏められ右舷中央部に設置された。艦橋は煙突との兼ね合いから左舷中央部に配置されたが、これは乱流が起き、事故が多発した為不評であった。しかも排煙が艦橋に入り込みやすく、見張りに支障をきたす事もあったとされる。
また、排気が流れ込む場所に居住区を作ってしまったため、窓を開けられなくなってしまい、結果、衛生状態が悪化。赤痢や結核などの病気が蔓延し、「人殺し長屋赤城」なる不名誉なあだ名がつけられたという。ちなみに旧石炭庫を居住スペースにするなどしていた為艦内が迷路状態になるおまけつき。
昭和9年に立て続けに起こった友鶴事件、第四艦隊事件に起因する艦艇の大規模性能改善工事に人手をとられ、昭和13年には新艦建造費(マル3計画)に予算をとられて改装前より不具合が増え「人殺し長屋」と化すなど踏んだり蹴ったりであった。

しかも赤城は加賀に比べて工期が長く、その分工員たちも長く雇わねばならない事もあり、改装範囲を出来るだけ最小に止めたにもかかわらず改装費用は加賀のそれを上回っている。*3

本来赤城の改装要求は加賀同様7項目だったのだが、前述の通り予算不足のため、改装要領について海軍省と軍令部で話し合い、結果、"対空兵装強化については、高角砲の換装は見送る"、"撤去する20センチ連装砲2基の換わりに、舷側部への砲廓式20センチ単装砲の増設は実施しない"、"機関部の大幅な改正は行なわない"などが決められ、武装は一切触れられなかった為、真珠湾攻撃時には、参加空母中最も対空火力が貧弱であった。唯一、近接防御力だけは25ミリ連装機銃14基装備と僚艦より強化されている。

僚艦に比べて改装範囲は少ないのだが、機関部や武装の改修以外は同じ位、場合によっては僚艦より手の込んだ改装を行っているところもいくつかある。
ひとつは昇降機。赤城は中央部に1基増設したのだが、元々ある前部昇降機は縦長で、この型式では格納庫に艦載機を出し入れするとき艦載機の向きをその都度変えなくてはならず、運用上不具合があった。このため前部昇降機を横長のものに改正したのだが、この改装のため最上甲板の昇降機の孔の大規模な補強工事が必要となり、甲板面のみならず、外板にも相当な補強工事が実施された。(加賀は前部に1基のみ増設)

また飛行甲板における木甲板部分。加賀蒼龍飛龍らとは違い、赤城の甲板はほぼ全面"木甲板"にされていた。木甲板にするには甲板を構成する鋼鈑に多数の孔を開け、大量の木材をコーキングしながら敷き詰め、ボルト止めするという工程が必要で、工費(人件費)・工期・資材が余計に掛かってしまう。そのため加賀などは滑り止め、遮熱、着艦時の緩衝材として必要な部分(格納庫部分・着艦区域)だけ木甲板化し、他の改装域に予算と人手を回していたようなのだが…そうすると赤城は何故か余り必要のない艦首・艦尾部分まで木甲板にしている事になる。理由としては「艦載機の艦首からの逆着艦」を考慮したのではとも言われている(赤城の艦橋が中央部にあるのも「逆着艦の為」との説もある)のだが、逆着艦はあまり現実的ではなかったようだ。人手不足と予算不足の中でこうした工事を行ったためか、「木製の板の隙間を埋める防水充填剤が板と板の間からはみ出てそれが甲板上に黒く硬くなって残る」など赤城の飛行甲板の仕上がりはかなり雑だった。

格納庫部分は上・中段を艦首方向に延長しただけでなく下段格納庫まで延長し新規追加された中部エレベーターと接続させていた。(加賀は上・中段のみ延長)ただし下段格納庫の延長は行われておらず、エレベーターと接続させただけという説もある。ちなみにこの下段格納庫は長さ53m・幅12mと零戦5機(零戦二一型の幅は12m・翼折り畳で11m、全長は9.06m)が何とか入る程度だったので、「補用機格納庫として使ったのではないか」と言われている。


日中戦争時代

赤城は長らくドックで改装を行っていた為、日中戦争における功績は加賀龍驤、鳳翔らとは大きく差がある。と言うか、赤城が改装を終えた時には既に戦域がだいぶ内陸に移行しており、航空作戦は陸軍航空隊の手に移り航空母艦からの航空作戦は本来終了していた。加賀が出撃していた時も、母艦からではなく陸上に設けた前進基地から空母航空隊を発進させる事があったように、パイロット達からすれば不安定な空母を使わなくて済むならその方が良い訳で…
まあ、ようするにわざわざ赤城が出撃する必要性はなかったのである*4

空母中心の航空艦隊結成

その巨体も相まって、三段空母の時の赤城*5長門*6と当時の少年たちの人気を二分しており、後の戦記やゲーム、アニメなどでも出てくるようになる程有名な空母であった。

当初、艦隊内での空母の地位は高いものではなく、敵主力艦攻撃の戦力として期待されていた存在ではなかった。そもそも歴史の浅い艦種であり、どう運用していけばいいか分からない最初期はとりあえず索敵が主任務とされていたが、当時実際に挙げた戦果は少ないものの、「空母さえ潰してしまえば観測機による戦艦の弾着観測が一方的有利」という現実は日米両軍ともに早期から認識されており、空母航空戦力の有効さを疑う余地は昭和初期、すでにして無かった。

もっとも、1935年*7位の航空戦力はエースが操る最新鋭機(もちろん複葉機)でも魚雷艇を沈めるのがやっと*8
が、昭和8年頃から航空機の性能増大から主力艦に与える打撃力の向上が著しいものとなり、空母のみならず、戦艦にも大きな戦果を望める事が明らかになると、空母の位置づけも変化していく。
蒼龍型翔鶴型が「敵空母と刺し違える」ことを主任務として計画・整備されていた一方で、後述の「主力部隊」に赤城と加賀が含まれたのも、「空母の航空戦力で敵戦艦に打撃を与える事」が期待できたからである。
具体的には赤城と加賀それぞれ、「敵戦艦一隻を撃沈、ないし三隻を撃破」することを求められていた。
*9

米国は1939年の大演習において、単一指揮官が指揮をとる空母集中運用が空母航空兵力による防空、制空、攻撃時の打撃力向上に極めて有効であると認識し、空母は「決戦兵力の中核」扱いとなり始めていた。これに対し、日本も遅れをとってはいたが空母の集中運用を独自に進め始めていた。

1940年、この時の空母の運用方針は敵空母部隊の撃破を目的とする「機動航空部隊」、敵戦艦の攻撃を主任務とする「決戦部隊*10」、主力艦の直衛を行う「直衛部隊」の3つに分割しての運用が考慮されていた。
しかし同年、赤城飛行長の淵田少佐が「航空主導の航空による艦隊決戦」を構想、一航戦司令官の小澤治三郎少将の許可を得て「母艦航空隊の集中攻撃」を研究項目に加え、一連の演習結果から「空母を集中運用しなければ大規模な航空兵力の円滑な運用は困難である」とし、小澤少佐の賛同を得て1940年6月9日、「航空隊編成に関する意見」を海軍大臣宛に正式に提出。

1941年4月には第一航空艦隊が建制として編成される。*11
この一航艦は空母を中心兵力として独立編成された世界最初の艦隊である。
また一航艦の司令官には第一艦隊、第二艦隊と同格の中将があてられた、つまりこの時初めて空母部隊が公的にこれらの艦隊と並ぶ決戦兵力扱いとなったのだ。*12
そして赤城は、加賀と共に航空艦隊の中核である一航戦となり、小型の艦橋で司令部を置きづらくあまり旗艦向きではなかった加賀と比べ艦橋の層が一つ多くて司令部を置き易く、また通信設備も幾らか優れていた事から一航戦旗艦に任命される。淵田中佐*13、村田少佐*14、板谷少佐*15の三飛行長を保有すると言う異例の高待遇を受け、正に航空艦隊の中心的存在となった。

赤城の戦果と終局と日本海軍航空隊崩壊の序曲

開戦と同時にハワイを空襲した赤城以下の第一航空戦隊は、敵主力を壊滅させ、ハワイ作戦本来の目的である、「南方への攻略妨害の阻止」を達成せしめる。
更に、MI作戦までに至る間、ウェーキやラバウルへの攻略支援のみならず、オーストラリアのポートダーウィンと、セイロン島・コロンボとトコンマリーを大空襲している。

ハワイ・オーストラリア・インドは米英が戦争計画として定めた「レインボー5」や「ABDA(南西太平洋方面連合軍最高司令部。当地の米英蘭豪の統合司令部)」にて、「策源地」とされており、本来戦場として想定していなかった場所である。
特にシンガポールやラバウル失陥、ニューギニア進攻といった、続く劣勢から国民士気が低下していたオーストラリア国民にとって、本土攻撃である一航戦のポートダーウィン攻撃は国民をパニック状態に至らしめ、ABDA司令部の作戦指導に相当な影響を与えた*16


1942年、無敵を誇った赤城は意気揚々とミッドウェーへ出撃する。ミッドウェー海戦は誰もが日本海軍勝利を疑わず、山本GF長官でさえ愛人(山本長官は妻子持ちである)に『ちょっとばかり全軍を指揮してくる。今回は面白く無いだろうから、終わったらすべて捨てて二人になろう』という手紙を堂々と送るほどの余裕であった(死亡フラグ)。

だが、そもそも作戦からして日本に都合が良く出来ており、南雲中将が「空母航空隊全体の著しい練度低下」などを理由に作戦の延期を意見するなど、現場の人間からは不安の声も少なくはなかったようだ。

「とにかく飛ばせる機体からじゃんじゃん飛ばせ」な米国の必死の攻撃が謀らずしも連続攻撃となり、索敵から攻撃、防空、全て丸投げされていた南雲機動部隊はこれを捌ききれなくなった。赤城は敵機が直上にいるにもかかわらず、気づかなかったのか回避も対空砲火による反撃も一切行うことなく2発の爆弾を受ける。
被弾直後は機関部へのダメージはなく、十分復旧可能な範疇であった筈なのだが、機銃や魚雷に誘爆、更に燃料に引火、甲板は火達磨となり、大破行動不能。最終的には雷撃処分となった。
こうして赤城率いる空母機動部隊は大きく勢力を減ずることとなる。約半年という短い栄光であった。

ミッドウェーに第一航空戦隊が散った事は日本海軍の連戦連勝神話を崩壊させ、太平洋戦争そのものの行方を変えてしまった。
これを境に日本海軍の戦機は失われ、戦争に敗北したのであった。




日本海軍航空隊の運命とIF


MI作戦以降、日本海軍は3か月ほどの大混乱を経て、空母の大拡張を実施することを決定。この時期に信濃伊勢型戦艦などの空母・航空戦艦などへの改装が決定している。
また、主力四隻を失った第一航空戦隊は解隊されるが、第五航空戦隊所属の翔鶴瑞鶴第一航空戦隊として中核に据え、「第三艦隊」として新たな空母部隊が建制として編成された。

しかし、予想外に早く連合国側の反攻が南東方面で開始され、それに対応した結果、海軍航空隊は消耗戦を余儀なくされる。
この戦いの中、海軍は整備・運用コストのみならず、喪失した際のリスクを鑑み、空母部隊よりも基地航空隊に戦力としての軸足を移していく。

そして昭和18年半ばに発令された、「大東亜戦争 帝国海軍第三段作戦」において、日本海軍は主力戦力を基地航空隊とすることを決定
水上艦隊はその補助戦力と位置づけられることとなり、大増勢が計画・実施される(航空隊の練度が低下したと言われる原因の一つは戦前の十倍以上に達するこの大増勢が大きな要因である)基地航空隊の基地群の間を泳ぐ遊撃戦力として活用されることとなる。空母部隊に付いては昭和20年年初に攻勢作戦である「神武作戦」が中止されるまで可能な限り積極的な運用がなされることとなる。



もともと、苛烈な攻撃を仕掛けまくって「もう戦いたくない」と米国に思わせ講和を結ぶ短期決戦に賭けていた日本にとって防戦一方でずるずると戦争が長引くことは敗北への道に他ならなかった。

空母航空隊として何らかの戦果を上げたのは南太平洋海戦まで、ただしこれも村田重治などのベテランを喪失しながら一時的に太平洋戦争における稼働可能な米空母を0にしたに止まり、本来の戦争目的を達するには至らなかった(但し、後に第三艦隊の航空部隊はラバウルに投入され、「い」号作戦などで戦果を収めている)。

赤城を含めた第一航空戦隊の練度は当時『世界最高峰』(誇張なし)と謳われ、米軍を恐れさせていた。その無敵ぶりは日本海軍航空隊関係者にマリアナ沖海戦での大敗後、『昔年の第一航空戦隊さえ健在なら……(´;ω;`)』と嘆かれるほどで、機体性能差を物ともしない超エースが揃っていた証であった。

後世の戦史家の間で『たとえミッドウェーの破局が無くても、絶対どこかでエセックス級の軍団に負けるから結局は同じさ( ´Д`)なにか?』と良く言われるが、赤城達が健在ならば、搭乗員の練度は最低でも飛行時間が1000時間、最高練度の者は2000時間に達するような怪物級である。

実際に質・量ともに絶望的に差が開いたはずの末期でさえベテラン勢は練度で性能差をねじ伏せていたので、一部の戦史家や、当事者達の間では『エセックス級とF6Fヘルキャットの登場前に戦争が終わった可能性も存在する!』とさえ言われていた。
このように、日本海軍は赤城達の戦没後、彼女達の見せた栄光の影を追い続けた。彼女達が健在時に見せた栄光に酔いしれていた上層部は、突貫工事で作った大鳳にその使命の再現を託していたし、マリアナ沖海戦の敗戦までの間、空母機動部隊を使い潰した。

とうとうミッドウェー後の日本の空母機動部隊には、赤城のように、祖国に栄光をもたらすモノは出現せずじまいであった。それは日本海軍が緒戦で見た栄光からは考えられない凋落の末路であり、マリアナ沖海戦敗戦時、誰もが思った。『昔年の第一航空戦隊さえ健在なら……』と。




艦船データ

起工 1920年12月6日
進水 1925年4月22日
竣工 1927年3月25日
戦没 1942年6月6日
除籍 1942年9月25日

竣工時(1927年)
排水量 (公)26900t
全長 261.21m
全幅 29.0m
吃水 8.07m
甲板長 190.2×30.5m(上部)
出力 131200hp
最大速力 31.0kt
航続距離 8000浬(14kt時)
乗員 1297名
主罐 ロ号艦本式罐重油焚×11基
同石炭重油混焼×8基
燃料積載量 重油3900t
石炭2100t
主機 技本式オールギヤードタービン8基4軸推進
武装 50口径三年式20cm連装砲×2基
同単装砲 6門
45口径12cm連装高角砲×6基
留式7.7mm機銃×2挺
搭載機 三式艦上戦闘機×12機 予備機×4機
一三式艦上攻撃機×24機 予備機×4機
一〇式艦上偵察機×12機 予備機×4機
合計 60機

第二次近代化改装後
排水量 (公)41300t
全長 260.67m
全幅 31.32m
吃水 8.71m
甲板 249.2m×30.5m
出力 133000hp
最大速力 31.2kt
航続 8200浬(16kt時)
乗員 2000名
主罐 ロ号艦本式罐重油焚19基
燃料積載量 重油5770t
主機 技本式オールギヤードタービン8基4軸推進
武装 (略)
搭載機 零式艦上戦闘機×18機 予備機×3機
九七式艦上攻撃機×27機 予備機×3機
九九式艦上爆撃機×18機 予備機×3機
合計 72機

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最終更新:2024年02月21日 18:43

*1 GF司令部は「赤城は敵航空機の攻撃を集めることが可能」として、一時撃沈を渋ったが、飛龍の沈黙により継戦不可として、海没処分措置となった。

*2 残骸は桟橋として近年まで存在したという

*3 加賀の改装1933年10月~1935年10月・改装費674万5104円、赤城の改装1935年10月~1938年9月・改装費731万7644円(明治百年史叢書第207巻『昭和造船史第1巻(戦前・戦時編)』)より

*4 ちなみに加賀航空隊が初撃墜戦果をあげたときも前進基地からの発進をしていた。ただしこの運用法によって少し問題が発生したため後の作戦では飛行隊は引き上げられ母艦からの発進を行うようになっている。(詳しくは加賀の項目を参照)

*5 反面、単一甲板になった姿はそこまで知られていなかった

*6 実際には(あわや廃艦かという状況だったため)名前がたびたび報道されていた陸奥の方が広く一般にその名が知れていたらしく、「陸奥と長門は日本の誇り」という謳い文句から陸奥の方が(先に名前が出ているから)人気があったとする人もいる。

*7 翔鶴型建造が計画された辺り、赤城は二次改装中

*8 1937年には基地航空隊(第二連合航空隊)が九九艦爆などの艦上機で米砲艦を撃沈した「パナイ号事件」なども起きていたが

*9 戦前の対艦攻撃研究では、敵戦艦を行動不能とするのに36機、撃沈には72機の攻撃機が必要と計算されている。陸上攻撃機に日本海軍が注力した理由の一つは、戦艦比率が日米で10:15のギャップの劣勢分、5隻分を引き受けることを計画していたからである。赤城と加賀も搭載機の性能向上で、この戦力に加えられたと見た方が自然だろう。

*10 動揺しやすい船体から海面状況による影響を受けやすく少しでも海が荒れると最大戦速の維持ができず、また航空資料によっては最大戦速を29ktとするものもある赤城は、巡洋艦と行動を共にするには速力が不足気味とされ加賀と共にこの部隊に配備される予定だった。

*11 太平洋戦争開戦直前には、第一艦隊の護衛任務に就く艦以外の6隻の空母が配備されていた

*12 『歴史群像シリーズ』を参考

*13 兵学校では源田参謀と同じく五十二期、前任は第三航空戦隊参謀。赤城飛行隊長は2度目で、いわば降格人事であった。齢40になろうという年での2度の飛行隊長任命に「いささかうんざりした」と戦後手記に書いている。

*14 赤城雷撃隊長、"雷撃の神様"の異名を持つ。明るくおおらかでどのような局面でも彼が姿を現すと座が明るくなったという。戦後草鹿参謀長は、「頭がキレるという男でもない、かといって凡庸な人物とはいえない。肚のすわった、いい隊長でした」と述べている。

*15 県下の俊秀と謳われ、陸軍士官学校と兵学校を同時受験し、陸士1番、海兵2番という抜群の成績で陸海軍が奪い合いを演じた逸材。

*16 本来インド防衛の為にビルマ方面へと投入される予定のオーストラリアの一個軍団を、豪州防衛に割くことをオーストラリア側が強く要求し、結果ABDA司令部解体の原因の一つとなった。また、英本国に「裏切られ」た形となったことから、オーストラリアはアメリカへの傾斜を強くし、戦後に至るまでその流れは続くこととなる