マイクロ波放電式ECR型イオンエンジン・μ10(宇宙工学)

登録日:2010/07/13(火) 15:28:33
更新日:2024/01/11 Thu 14:52:59
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はやぶさの帰還で一際知名度を得たいわゆる『イオンエンジン』システム。

各所で話題になっているが、正確にその仕様や、従来の化学エンジンに比べどこがどう優れているのかを知る機会は、残念ながら非常に少ない。
なので、ここでは深宇宙でのサンプルリターン計画に当たって必要不可欠であったイオンエンジンについて、
可能な限り詳細な情報を、可能な限り平易な言葉で解説したい。


そもそも、何故イオンエンジンの開発が必要であったのか?

まず、単純に従来の化学ロケットである『ヒドラジン・スラスタ』では重量がかさばりすぎ、
とんでもない低予算で設計・打ち上げられるロケットには乗せられないと言う問題があった。

また、ヒドラジン・スラスタなどには運用に当たって電極などの磨耗が避けられない部分があり、
超長期間の稼働に耐えるのは難しかったと言う原理的な問題もある。

そして何より、日本における宇宙開発事業は慢性的な予算不足があり、
極めて独創的であり、かつ実用的・現実的である計画』にしか予算審議を受け付けない、と言うお達しが政府から出されていた。
つまり、他国産の既存技術の猿真似では、下手をすると予算すら付けて貰えなかったのである。

しかし、実はこの『他国の猿真似を嫌う』と言うのは、
はやぶさの目標となった惑星イトカワの名の由来となった日本ロケット開発の始祖、航空工学の第一人者でもあり、
零戦に並ぶ日本最高の戦闘機『隼』の設計者でもある糸川英夫教授の最も基本的な研究姿勢である。



そうした背景から工学・理学・化学他あらゆる分野を集積した集大成こそが、この

マイクロ波放電式ECR型イオンエンジン・μ10

なのである。


構造

さて、では、その具体的な構造はどのようになっているのだろうか。
我々の身の回りの原子は、電気的に陽性な原子核が、電気的に陰性な電子をまとっており、ぴったり中性である。
この原子から電子を取り除けば、原子は陽性となる。この状態の原子を『陽イオン』と呼ぶ。

原子は高温下では、電子が原子核から遊離する。
これが気体だった場合、そこは陽イオンと電子がばらばらに飛び交う『プラズマ状態』となる。
例えば蛍光灯内部は、この状態にある。

電子・陽イオンなど、電気的に中性でない粒子を『荷電粒子』と呼ぶが、
この荷電粒子は磁力によって経路を曲げられ、磁力線に沿って模様を作る砂鉄のように規則正しく旋回運動をする。

これが『サイクロトロン運動』と言う運動で、
この時、旋回の周波数(これがマイクロ波の波長領域になる)に一致させた交流電場を加えると、この電場の持つ全てのエネルギーが無駄なく粒子を加速させるのだ。
これを『電子サイクロトロン共鳴(ECR)』と呼ぶ。

こうしてマイクロ波によって指向性を持たせた高速のプラズマの流れを、
制御フィルターを通してキセノンガス粒子にぶつけることで推進力を得られるのが、マイクロ波放電式ECR型イオンエンジンである。
これを開発したのが、宇宙研・宇宙輸送工学研究系スタッフと、リーダーシップを執った國中均教授である。
24時間体制の耐久試験と思考錯誤を15年に渡って繰り返した末の、世界に冠たる輝かしい研究成果だと言えよう。


利点

では、これには従来型と比べてどのような利点があるのだろうか?

まず、その噴射速度(≒推進力)に従来型との大きな違いがある。
先述のヒドラジン・スラスタの噴射速度が秒速3kmなのに対し、『μ10』は噴射速度が秒速30kmを記録している。
そして、イオン生成(プラズマ状態を作り出すこと)にECRを用いることは、運用により磨耗してゆく放電電極の不要化を意味する。
つまり、基本的な運用による磨耗が大幅に無くなり、総合的な耐久性が飛躍的に向上したのである。

また、失われた陽イオンの補給の為に外部に『中和機』を設け、ここから電子を噴射して差し引き電気的中性になるように工夫されている。
ここにもECRが活用されているので、エンジン全体の信頼性が著しく高められたのだ。

ちなみに片道30億kmを走破するに要するキセノンガスは、余裕を持たせてもたった66kgである。
しかも、供給エネルギー自体は殆ど全て太陽光から得られる(太陽光自体にも輻射圧と呼ばれる圧力があるが、それは後に問題になったり逆に利用されたりする)。
この結果、60億km/キセノンガス66kgと言う『恐るべき燃費の良さ』を実現したわけである。

はやぶさにはこのμ10が四機据え付けられていたが、この長時間に渡る三機同時運用が、まずはやぶさが打ち立てた世界初の記録である。


しかしこのμ10の運用には、極めて精密な軌道誘導が必須である。
太陽光が命綱である以上、太陽電池パネルは可能な限り太陽を睨んでいなくてはならないし、
予算や大きさの都合から、司令部と情報をやり取りするはやぶさのメインアンテナは『可動しない』ので、
アンテナの向きも常に自転する地球に合わせなくてはならない。

加えて日本は海外に宇宙基地を持っていないので、はやぶさに直接本部から司令が出せるのは日に8時間だけだ。

おまけに、地球の引力を用いた『スイングバイ』と呼ばれる加速ミッションや、
各惑星の引力を常に計算し、臨機応変かつ正確無比に軌道を決定してゆくと言う『曲芸』を年中無休で演じねばならない。

はやぶさはこれらの膨大で複雑な計算を自分で処理する頭脳を持った自律ロボットでもあるのだが、
最終的なGOサインはやはり司令部から出されるので、そのタイミングや判断を延々と続けた責任者と、
臨機応変にはやぶさの判断プログラムを次々その場で組み上げていった現場の人々の技術は、間違い無く世界最高のものである。

例えれば、自転車でユーラシア大陸を横断するようなものだ。
人が乗っていても非常に大変なことだが、はやぶさがやったのは、最初に『いってこい』と無人の自転車を押して、
遠隔操作と無人自転車そのもののみの力で故障や事故を乗り越えて、横断どころか往復して来てしまうようなものである。

また、イオンエンジンが次々と故障・停止した時も、生存した部分だけで推進機能を代替出来るように離れ業的な処置が可能であったのも、
『無いものは自分で作れ。機械に足りないものは人間がカバーしろ』を地で行っていた糸川教授の精神が生きていたからであろう。


このように、総括してとんでもない技術の塊であるサンプルリターン計画だが、エンジン一つ取っても、日本の狂気にも似た技術向上への執着が感じられる。
繰り返すが、これらは全て『破格の低予算』で生み出された成果である。

資金難に喘ぐNASAでさえ「そんな予算で探索機の開発が出来るのか?」と心配そうにこちらに尋ねてくるそうだ。
「違う。これは開発予算じゃなくて、打ち上げや運用全て合わせた予算だ」と答えると、もはや苦笑いしか返って来ない。
(尤も、これは本来必要なはずの予算が十分に支給されていない、特に運用について無報酬の時間外労働などの負担を現場のスタッフに極端なまでに強いていることを示すエピソードでもあるので、日本の宇宙開発は制度面からの改革を望まれている。)

『マリリン・モンローがボロ着をまとっているようだ』


日本最初のロケット発射実験場の司令部が山と海岸の狭間の掘っ建て小屋だったことや、
雨漏りすら珍しくないはやぶさ司令部のある宇宙開発基地を見た外国人研究者の言葉であるが、これこそが海外から見た日本の宇宙開発の総合的な評価でもある。


また、はやぶさに関する論文を複数掲載した科学誌『ネイチャー』の編集長は、
『我が誌面が世紀の研究成果発表の場になれたことを光栄に思い、はやぶさ運用スタッフに心から感謝する』と誌面に端書いている。



「大事なのは、決して諦めないこと」

はやぶさとその開発スタッフたちはそう示してくれたのだ。


以上。
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最終更新:2024年01月11日 14:52
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*1 この際に全く軍事技術に関係無い先進的な技術も失われ、当の米学会からさえ激しく批判された