ミホノブルボン(競走馬)

登録日 :2012/06/22(金) 02:18:56
更新日 : 2017/02/25 Sat 10:52:05
所要時間 :約 5 分で読めます




鍛えて最強馬をつくる


Mihono bourbon
1989年生
父 マグニテュード
母 カツミエコー
母父 シャレー
馬主 (有)ミホノインターナショナル
調教師 戸山為夫→松元茂樹
主戦騎手 小島貞博
通算成績 8戦7勝

「サイボーグ」「坂路の申し子」等のニックネームで知られた日本の競走馬。
92年の皐月賞とダービーを圧倒的な逃げ切りで制し、シンボリルドルフ以来の無敗での三冠制覇に挑戦した。


《誕生》
ミホノブルボン(以下ブルボン)は北海道門別の原口牧場に生まれた。
原口牧場は家族だけで経営するごく小規模な生産者で、血統に見るべきところもなく目立たない子馬だったブルボンはわずか700万円で取り引きされ栗東トレーニングセンター・戸山為夫厩舎に入厩することになる。

《シンデレラと魔法使い》
戸山調教師は進取的な思想で知られ、当時導入されたばかりの坂路コース(脚部に少ない負担で多くの運動量をこなせる)をいち早く調教に取り入れたパイオニアであった。
戸山師はブルボンが生まれながらに備えた傑出したスピードを見抜いたが、ただその長所を伸ばして育てるのではなく一つの持論を実行に移す。

「全てのサラブレッドは本質的にスプリンターであり、短距離レースと長距離レースの違いは陸上で例えれば100mとマラソンではなく100mと300m程度の違いに過ぎない。ブルボンのスピードに調教でスタミナを補強すればカール・ルイスのような万能ランナーになりうる……」

それは単に強い馬を作るというのではなく、究極理想のサラブレッド像への挑戦であった。

《デビュー》
一日四本の過酷な坂路調教で鍛え込まれたブルボンは戸山師の愛弟子・小島貞博騎手を背に中京芝1000mでデビュー。スタート出遅れから直線一気でレコード勝ちを収めまずはスピードを証明する。
次走からは先行策に転じ、1600mの条件戦と朝日杯3歳ステークス(G1)を連勝。世代の主役に躍り出た。

《常識は、敵だ》
ブルボンの父マグニテュードはすでに快速の桜花賞馬エルプスを出すなど成功していたが、産駒は1600mが限界と考えられておりブルボン自身も胴が詰まった筋肉質の典型的スプリンター体型だった。
しかし戸山師は「2000mまでは誰にも負けない」との自信を持ってブルボンを皐月賞へと送り出す。

……結果は2と1/2馬身差の勝利。
スピードの絶対値の違いで先頭に立ちただ自分のペースで走り、一度も前を譲らずゴールへ辿り着く。
「逃げ」ではなく勝利への進撃というべき走りはまさに最強馬のそれだった。

さらには未知の距離となる日本ダービー(2400m)をも4馬身差で制す。
限界という言葉はブルボンに無縁なものと見えた。

《夢の終わり》
夏を北海道でのリフレッシュにあてトライアル京都新聞杯を快勝したブルボンに菊花賞へ向けて死角はないかに思われたが、戸山師は
「3000mであろうと力で押し切れ。ブルボンはそれだけ鍛えてきたのだから」と指示する一方
「本当は使いたくない、菊花賞に出すのは人間の欲目だよ…」とも漏らしている。

迎えた菊花賞
キョウエイボーガンの玉砕的な大逃げに対して小島騎手は前を譲り戸山師が指示した1ハロン(200m)12秒ペースではなく13秒代の「普通の」ペースを選択した。
しかし先頭を奪われて行きたがるブルボンは無理に抑えられたことで消耗。
直線突き放しきれずライスシャワーの強襲に屈する。

長距離種牡馬リアルシャダイを父に持ち、小柄で胴の長いステイヤー体型のライスシャワーは戸山師が戦前最も恐れていた相手だった。

「血統が名馬をつくるのではない」
確かな血の力の前にブルボンと戸山師の挑戦は終わりを告げた。

《それぞれのそれから》
三冠を逃したとはいえ前年の二冠馬トウカイテイオーや海外の強豪との対決も含めさらなる活躍が期待されたブルボンだったが、筋肉痛ともいわれる詳細不明の故障で年末の諸戦を回避。さらに放牧先で骨折してしまう。

患っていたガンの再発で闘病生活に入った戸山師は93年5月29日、その年のダービー前日に肝不全で他界。
戸山厩舎の調教助手だった森秀行調教師が新たに開業して主な管理馬を引き継いだが、森師はブルボンを引き取らなかった。

「俺の悪いところを真似することはない。いいところだけ取って俺を越えなあかんよ」
森師は戸山師の遺言を自分なりに実行した。
戸山師が息子のように愛した小島騎手を全ての馬から降ろし、河内洋や武豊らフリーのトップジョッキーに乗せ換えた。

馬は馬主のもので調教師は馬主を喜ばせるのが仕事。大馬主と喧嘩してわずかな理解者から安馬を預かって鍛えるより
効率的に賞金を稼いで馬主に利益をもたらし高馬を預けてもらうのが勝ちに繋がる……

競馬に徹底したビジネス感覚を持ち込んだ森師にとってブルボン・小島的なものは捨てるべき非合理に他ならなかった。

松元茂樹厩舎に移籍したブルボンは結局ターフに戻ることなく現役を終え、生まれ故郷で穏やかな余生を送っている。

追われるようにフリーになった小島騎手は騎乗機会の減少に苦しみながらもタヤスツヨシで95年のダービーを勝ち、01年に引退。調教師に転じたが12年1月に厩舎の一室で自殺という形で生涯を終えた。

現在の競馬界では調整のほとんどを外部の育成施設で行うのが当たり前になり、馬作りに調教師の個性が反映する余地は失われた。
距離適性の分化も進み、この先第二第三のシンボリルドルフやディープインパクトは現れても第二のミホノブルボンが現れることはないだろう。

だからこそ彼らの戦いの記憶は尊くかけがえのないものとして語り継がれる。



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