ハンニバル・バルカ

登録日 :2010/05/07(金) 13:03:09
更新日 : 2017/06/10 Sat 11:30:51
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道はわれわれが見つけるか、でなければわれわれが作るのだ


ハンニバル・バルカ
――Hannibal Barca

紀元前247年生まれ。カルタゴ人。

同じくカルタゴの将軍、『ハミルカル・バルカ』の息子。

『ハンニバル』は『バアル神(カルタゴの最高神)の愛する者』。
『バルカ』は『雷光』の意。


◆カルタゴの興亡

カルタゴとは北アフリカの現チュニジア付近にあった国家である。
建国したのは商才に秀でた船乗りのフェニキア人。
フェニキア人はヘブライ語を使用する中東系民族であり、
当時としては高い造船技術と金属加工技術を有しており、
共和制ローマ誕生時には、地中海最大の国家であった。

そのカルタゴだが、かつて大きな戦争があった。

始まりは地中海に浮かぶシチリア島。
その大体逆三角形をしたようなシチリアの西半分はカルタゴの属領であり、
東半分は北東がメッシーナ、南東がシラクサの支配下にあった。

あるときメッシーナとシラクサとの戦争が勃発した。
メッシーナは西のカルタゴか東のローマに応援を依頼することにし、
小さな海峡を挟んだ先にあるイタリア半島――つまり当時、新興国であったローマに応援を依頼した。
ローマとメッシーナは同盟関係にはない。しかしローマ元老院はそれを引き受けた。

メッシーナはローマとカルタゴのクッションとして存在してきた。
もしここでメッシーナの依頼を断ればメッシーナはカルタゴに応援を求める。
そうなったなら、メッシーナも実質カルタゴの手に落ちたようなもので、
南イタリアを囲む制海権はカルタゴのものとなると思ってよい。

更にアテネが衰退を始めたこの時代において地中海世界第一位の海運国はカルタゴだった。
故に『ローマ連合』はメッシーナの同盟関係を断ることができないのと同時に、
海洋に進出する以上、いずれ水上の戦争を覚えなくてはならないことになっていた。

この頃からローマとカルタゴの戦いは避けられなかったと考えられるのかもしれない。

そしてローマ及びメッシーナとシラクサとの戦争が始まる。

まずローマ市民軍は傭兵が主体のシラクサ軍を撃破。
シラクサの僭主ヒエロンの南への敗走を見送り、
西に布陣されたカルタゴ軍を『同盟国メッシーナへの進行』を宣誓の名分に襲撃した。
カルタゴ植民地の警備程度の人員しかなかったカルタゴ軍は、簡単に撃破されることとなる。
ここでシラクサのヒエロンも、また二つの選択を迫られることとなる。
ローマに完全に陥とされるか、その間にカルタゴに漁夫の利をさらわれるか。

そのどちらをも避けるには今すぐに、『ローマ』か『カルタゴ』かを選ぶ必要があった。
そしてヒエロンもまたメッシーナ同様にローマの支配下に行くこととなった。

こうして大国カルタゴとローマ連合による戦争は決定付けられることとなる。
この戦いは『フェニキア人との戦い』を意味する『ポエニ戦役』と呼ばれた。


そしてこの二十二年間に渡る戦いにローマは勝利し、カルタゴはシチリア島を撤退。
カルタゴは四百年に渡り築き上げたものと利益、そして地中海西半分の海を失った。


◆ハンニバル現る

ポエニ戦役で奮戦した軍人ハミルカル・バルカは優秀な軍人だった。
しかし彼の奮戦とは無関係な海軍の敗北により、ローマとの交渉を余儀なくされたのだ。
そんな彼はローマへの雪辱を晴らすため、カルタゴ本国以外の力を手に入れるため、
ローマが戦いの神ヤヌスの神殿を閉めた(つまり終戦したとローマ政府が宣言した)と同時、
カルタゴの植民地であったヒスパニア(スペイン)へと出向いたのだった

彼の息子ハンニバルは、その時9歳。
ハミルカルにスペインへの同行を頼み込む息子に対して父は、
バアルの神殿にて『生涯ローマを敵とすることを誓う』ことを条件に同行を許可した。

そしてそれから十七年後。

カルタゴ・ノヴァ――新カルタゴとよばれるヒスパニアの大都市にて、
バルカ一門の総督、ハシュドゥルバルが従僕に扮していたケルト人によって暗殺された。
ハシュドゥルバルはバルカ一門へ婿として入ったものであり、
今は亡きハミルカルの後継者でもあった。

父ハミルカルが没した時は十八歳でしかなかったハンニバルだったが、
ハシュドゥルバル退場の年には二十六歳。
もはやハンニバルに不足はない。

スペインのカルタゴ人は彼の総督を認め、本国カルタゴ政府もそれを承認。

全権をにぎったハンニバルはスペインの完全制覇に一年を費やすこととなる。

そして紀元前219年

二十八歳となったハンニバルはスペイン東岸のギリシャ人の町、サグントを攻撃する。
あえて八ヶ月という長時間をかけてサグントを陥落させる事で、
ギリシャ人と同盟を結ぶことの多いローマを、戦いの舞台へと引きずり出そうとしたのだ。

そしてローマ市民集会はハンニバルの思惑通り、宣戦布告を可決。
開戦の知らせを聞いたハンニバルは不可侵協約の結ばれたガリア地域へ侵攻。
しかしもはやローマとは戦争状態であり、それは協約違反ではない。

こうして『ハンニバル戦争』と呼ばれることとなる、第二次ポエニ戦役の幕が切って落とされる。

この戦争の真意も、目的とする戦場も、この時点でそれを知るのは三十に満たないこの男だけだった……。


◆アルプス越え

無論、ローマ側もハンニバル出撃の情報を掴んではいた。
だが ハンニバル率いる6万人の兵士と40頭の戦象は忽然と姿を消した のだった。
ガリア地方は深い森林が広がっていて探索が困難であり、さらにハンニバルはあえて危険な渡河ルートを選択していたのだ。
索敵中であった少数のローマ兵が、渡河時の警戒にあたっていたハンニバル兵に殲滅させられた事で、
ようやく事態を察知したローマ軍であったが、
執政官(ローマの総理大臣兼最高司令官、通常2名)スキピオ(父)が軍を率いて駆けつけた際には、既にハンニバル軍は渡河を終え、再び消失していた。
ローマ軍はハンニバルが進軍してくる事を確信し防備を固めていたが、若き将軍は誰もが予想しなかった行動に出る。

伝説的なアルプス越えの開始である。

突如として北方から現れたカルタゴの大軍団。・・・いや、峻厳なアルプスはハンニバルの行く手にも牙をむいた。
難行を果たすための代償は、カルタゴ軍半数の命を奪ったのである。

しかしそれほどの血を流してまで達成された戦略的奇襲は、それに値するだけの報償をもハンニバルにもたらした。
彼の行く手に広がっていたのはガリアの森。ローマに反感を抱く民たちが住まう広大な大地。
ハンニバルはまず疲れ切ったカルタゴ軍を休めると共に、広くガリアに声をかけ、共に戦う勇士を募ったのである。

ローマ軍はスキピオ(父)を筆頭に次々と軍隊を送り込んで迎撃するも尽く破れ、
続け様の勝利を見たガリアの民は次々ハンニバルの下に集い、その軍勢は5万以上にまで膨れあがった。
アルプスで失われた兵は、ガリアの血により補われ、今や彼の軍はもとの勢威そのままを取り戻していた。

ハンニバルの「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」戦術を前にしたローマは、ついにこれを国家存亡の危機と判断。
独裁官としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスを任命し、ローマの全権を委ねたのだ。
通常、独裁官は執政官によって選ばれるのに対し、
国民代表である 元老院が直々に任命した という事態は異例である。

ファビウスは直接ハンニバルと戦っては勝ち目がないと冷静に見抜いていた。
彼はハンニバルの動きを抑えこむべく、カルタゴに本拠地を置くハンニバル軍の補給線が伸びきっていることに目をつけ、徹底した持久戦に持ち込む事を決断する。
つまり大軍でもってハンニバルの前に立ちはだかり、相手が攻めようとすると即座に撤収。
さらに略奪を防ぐ為に、予想される進路の土地を焼き払う……という焦土戦術を繰り返したのだ。
この持久戦は ファビアン戦略 と呼ばれ、やはり後世まで語り継がれる重要な作戦となった。

しかし、ハンニバルと睨み合うだけのファビウスはクンクタートル(のろま)と嘲られ、侮られた。
ミヌキウス将軍が小規模な戦果を挙げたこともあって、ファビウスの評判は失墜していく。
というのも、ファビウスがハンニバルの強さを見抜き、弱点である補給を攻めたのと同様に、
ハンニバルもまたファビウスを強敵と認め、その弱点である 民衆からの支持 を攻撃したのだ。
あえて襲撃する際にファビウスの領地を狙わずにおいたり、
また夜間に篝火をつけた牛の群れを囮とすることでファビウス軍の目の前を堂々と進軍したり、
そしてミヌキウス将軍に戦果を与える事で、徹底的にファビウスの支持率が下がるように演出したのだ。

ローマ元老院の指示によって軍の一部の指揮権をファビウスから譲渡されたミヌキウスは、
ファビウスを「ハンニバルの家庭教師」とバカにし、その命令を無視して攻撃を敢行。
対するハンニバルはあっさりとミヌキウスを包囲し、殲滅にかかった。
しかしそんなミヌキウスがハンニバルに挑み、大敗を喫した時、彼を助けに現れたのもファビウスであった。
丘陵を先陣きって駆け降りてくる老将軍を見て、ハンニバルは笑いながらこう言ったと伝えられる。

私は以前から度々諸君に言っていただろう。
道山の頂にああいう雲がある時には、すぐに激しい嵐が襲ってくるものだとね

そして戦の後、ファビウスの天幕を訪れたミヌキウスは跪いてこう述べた。

「父が私に与えた命を、今日、あなたは救ってくれた。
 あなたは私の第二の父である。私はあなたを優れた指揮官として認めます!」

だが、ハンニバルに対抗できるのはファビウスのみという事実に気付いた者は、未だ少ない。
六ヶ月の独裁官任期が切れ、次に任命された執政官は、ファビアン戦略を評価しなかったのだ。
――若きガイウス・テレンティウス・ウァッロである。


◆カンナエの戦い

同じく執政官であったパウルスはハンニバルとの正面対決を避けるべきだと主張していたが、
ウァッロは聞き入れず、ついにハンニバルを徹底的に叩きのめすべく大軍勢を率いて出撃。
紀元前216年、カンナエの地でハンニバル軍5万、ローマ軍7万が激突した。
―― カンナエの戦い である。

中央に重歩兵、両翼に騎兵という陣形で対峙するローマ軍とハンニバル軍。
ハンニバル軍の弓なり型の陣形に対し、ローマ軍は中央突破を計画して戦力を中央に集中する。
当時、主戦力である重歩兵に対しては騎兵で背後を突いて攻撃するというのが一般的であった。
その為ローマもこれを想定しており、予備戦力を後方に配置して防備を固めていた。
なにせカルタゴの騎兵は精強であり、ローマの騎兵は然程でもなかったからだ。
しかしあくまでも戦の主力は重歩兵であり、単純勢力はローマ軍が敵の二倍。
ハンニバル側に勝ち目のない戦であるのは、誰の目にも明らかだった。

実際に戦いが始まると、ハンニバル軍の中央戦力はやはり脆弱であった。
ローマ軍は勢いに任せて突き進み、予備戦力も投入。
一気に突き破って蹴散らしてしまおうと画策する(※被害を抑える策としては全くおかしくなく、本来はこれも立派な戦術です)。
だから、誰も気づいていなかったのだ。
ハンニバル軍は中央両翼に精鋭歩兵を配置しており、徐々に陣形がV字型になっている事に。
そして気付いた時には、既に左右の騎兵を殲滅したハンニバル軍騎兵がローマ軍の後方に回りこんでいた。

あ…ありのまま 昔 起こった事を話すぜ!

「ローマ軍は ハンニバルを二倍の軍勢で攻撃していたと思ったら いつのまにか包囲殲滅されていた」

な… 何を言っているのか わからねーと思うが 
おれも 何をされたのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…

ローマ軍は7万中6万人が戦死するという大敗。
元老院議員(全部で300人)80名、慎重派であったパウルスも戦死。
ハンニバル側の損益は5万中わずか6000人。
そのほとんどは傭兵であった為、主力への影響はほぼ皆無。

当初こそ決戦を主張していたウァッロだったが、このあまりの惨状に逃げ出してしまい生還。
その後は執政官代理や法務官を勤め、アフリカへ大使として赴くなど文官として余生を過ごした。
慎重派だったが勇猛果敢に戦い、戦死したパウルスとは対照的である。

全体の戦力では負けていても、個別の戦力に関しては「相手より多い数で当たる」。
この基本中の基本をハンニバルが徹底した結果で、ある意味では当たり前の勝利である。

だが、忘れてはいけない。
これは 紀元前の戦闘 である。
相互の伝達手段は太鼓や銅鑼・角笛、そして旗や狼煙によるごく単純な意思疎通と、伝令を飛ばしての大きなタイムラグを生じる連絡。
無線交信でリアルタイムに詳細な情報を共有できる現代とは比べようもない。
加えて当時の視線はせいぜい馬上からの俯瞰までで、地形を考えても戦場全体を見通すのは不可能に近い。
そんな状態で、こんな巧みな戦術を駆使して2倍の戦力に打ち勝てる男。

――ハンニバル・バルカが、史上最高の軍略家である事を証明した瞬間であった。


◆ローマの盾

ハンニバルの恐ろしさを実感したローマは、彼に対抗していたファビウスへの評価を改めた。
再び執政官へと任じられたファビウスは、中断していた持久戦略を徹底的に展開する。
そしてそれは着実に効果を発揮し始めていた。

ハンニバルは、攻城兵器や物資の不足から首都ローマ攻略を断念した。
そして彼はローマを直接陥落させるのではなく、周囲の同盟都市を落としていく事を決意する。
この時に部下から言われた有名な評価が「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」であった。
事実、この時にハンニバルがローマ攻略を実行していたら、どの様な結果になったにしろその後の歴史は大きく変化していたに違いない。

一方、ファビウスは完全にハンニバルを抑えこむことに成功する。
同盟都市国家が離反しなかった事、カルタゴ本国がハンニバルへの支援を渋った事も功を奏し、
ファビウスはハンニバルの主力を封じた隙をついて、次々に補給線を各個撃破、断ち切っていった。
かくして「のろま」転じて 「ローマの盾」 *1 となったファビウスは、
ついにハンニバルをアフリカ撤退まで追い込むものの、終戦を迎える前に72歳で息を引き取った。

この時ハンニバル43歳。
そしてファビウスの跡を継いで彼の前に立ちはだかった人物こそ、スキピオ・アフリカヌス。
若くして軍団長を勤め、32歳で執政官となった若き俊英であった。


◆ザマの戦い

父がハンニバルに破れ、自身も敗北を経験していたスキピオは、ハンニバルの戦術を徹底研究していた。
彼はローマ元老院の黙認を取り付けると、即座に軍団を編成、 直接アフリカ大陸へ上陸した のである。
突如として本国に攻めこまれたカルタゴ側は、大慌てでハンニバルに帰国を要請した。
十数年ぶりに故郷へと戻ったハンニバルはスキピオと休戦交渉に入り、互いの才能を認め合うものの決裂 *2
かくしてザマの地にて二人は激突することになる。

今度はカンナエの戦いの真逆であった。
そう、何もかもがあの時の戦いの再現であり、しかしそれを行ったのはスキピオだった。
ローマ軍は4万の兵力で持って、カルタゴ軍5万を同様の方法で包囲殲滅した。
ちなみにこの時歩兵の数はローマ軍を圧倒していたものの騎兵はローマに圧倒的に劣っているというここらもカンナエの戦いとは真逆の状況だったため、
実際には劣勢と見ても良いぐらいだった *3
そのためハンニバルも虎の子の戦象を前線に配置して打開しようとしたところ、
スキピオは戦象を察知し、歩兵配置による対策で前線を維持出来たことも包囲を成功させる大きな要因となった。
つまりハンニバルは自分の得意とする戦術にあっさりひっかかった訳ではなく、やむを得ない部分が大きい(どこまでの読み合いをしていたかは不明だが)。
もちろん机上の空論においてはハンニバル側にも勝利の芽はあったと思われるが、世の中実際に起きた過程と結果が全てある。

かくして大量の戦力を損失したカルタゴは完全に地中海での優位を失い、
ここに第二次ポエニ戦役は終結した。

尚、言ってしまえばスキピオのこれは「ハンニバルのパクリ」なのだが、
前述の通りパクっても運用は超難しい上、そもそもパクること自体が難しい。
現代のようにネットも書籍もなく、参戦していた者の伝聞と情報から、
相手がどういう意図でどう戦力を動かし、何をやったのかを調べて推測して把握し、
それを本家相手に実戦で行って勝利する。

こんな事をできる人間は、ハンニバル以外にはスキピオくらいしか存在しないだろう。

――とはいえ。

先述の「ローマの盾」ファビウス将軍は、スキピオのアフリカ遠征には反対を表明していた。
ファビウスの目的はあくまでも「ローマの防衛=ハンニバルのイタリア完全撤退」であり、
スキピオの目指す「カルタゴ本国に対する完全勝利」はリスクが高すぎた為である。
事実ザマの戦いでローマ側が負けていたならば、一気に戦局はローマ不利に傾いていたろうし、
そもそもスキピオがアフリカへ遠征できたのも、ファビウスがそれだけの余裕を作ったためである。

ただ完全勝利していなかったら再起を考えられる可能性も高いので(ハンニバルの始まりからしてそうだし、結果として何か考えていたとしても戦後処理で動けなくなった)、
スキピオのこの判断もリスキーであることは間違いなかったものの間違いとも言えない。
そして他にもスキピオの戦略を示すエピソードはある。

下準備としては徹底的にハンニバルを研究し戦術面で対抗出来るように努めたわけだが、
更に戦略面でもザマの戦い時点ではハンニバルに打てる手がほぼなく行動が読みやすくなっていた。

具体的に何をしたかと言うと強い反対意見を半ば無理やり黙らせて(※つまりスキピオへの支援なし)ハンニバルを無視する形でアフリカ大陸に上陸(この時ハンニバルはイタリア地方に閉じ込められていた)。
そしてハンニバルが招集される前のザマの戦い前哨戦においては奇襲をかけてカルタゴ・ヌミディアの連合軍を破り、
圧倒的な数のヌミディア騎兵をカルタゴ軍から排除しただけでなく自軍の側に取り込めた。
このヌミディア騎兵こそがハンニバルも含めてカルタゴを支えていた騎兵の主な母体である。
更に言うならこれも無理やりな手法ではなく、(色々あったので省略するが)スキピオ側にヌミディアの亡国の王が居たので実にスムーズに移行した。
一方のハンニバルはこの敗戦の後に防衛のために呼び戻された(※直接戦闘はほぼ避けようがない&後手に回ってスキピオに戦略的に打てる手はほぼ抑えられている)などの事情があり、
これら全てをひっくるめて前述のハンニバルに戦略面で打てる手がほぼない *4 という話に繋がる。

ついでに言うなら執政官になる前もハンニバルが居ない方面のカルタゴ軍相手に支援が薄い中で無双しており、イベリア半島方面を安定させた。
これが例外的な形で執政官とさせる最大のきっかけとなった。
執政官後の行動含めて一部評価の分かれる行動もあったものの、
カルタゴを敗色濃厚にさせてハンニバルに対してどうしようもない所まで孤立するきっかけを作ったのも彼だと言える。

このような感じでファビウスによるものも大きかったとは言えスキピオ自身もかなりの策を巡らしており、
そしてザマの戦いにおいて戦術・戦略の両面においてハンニバルを追い詰める絶好の好機を築き上げたことは疑いようがない。
スキピオは他にも大小様々な偉業や行動を為しているが、戦略家として見ても間違いなく一流であったと言える。


少々脱線したが、
とにかく当時のローマにとってはそれだけハンニバルは生ける英雄にして生ける伝説でもあり、ひたすらに脅威だったのである。
そしてこのハンニバルとの一連の戦いでローマ軍は精強になっていき、戦術を学び、広大な地域と海洋権の制圧という結果にも繋がり、
当時の欧州の覇権を握るきっかけとなった。


◆その後

ザマの戦いで生き永らえた後は政治家として祖国復興に尽力し、膨大な賠償金の支払いにも成功する。
ローマ視点からすると処刑されて当然なハンニバルが生き永らえることができたのはスキピオの意向(※その方が総合的にローマの為になるという判断)が大きかったとされる。

しかし、そうまでしてもその後の生活は決して明るくなかった。
ローマに危険視され、また強引な改革で国内からも敵視されたためにハンニバルはシリアへと亡命。
しかしそこでも疎まれたためにまともに活躍などできず、各地を逃亡する生活を余儀なくされる。
そして最後には毒を飲んだ、あるいは奴隷に首を絞めさせ自害したとされるが真相は不明。

皮肉なことに、ハンニバルを破ったスキピオもその後色々あってローマに疎まれ(主に政敵にはめられたとされる)、
政争に巻き込まれて追放されてしまい、隠棲の末にどこで死んだのかもわからない。


晩年、再会したハンニバルとスキピオはこんな会話を交わしたという話もある。
「私の尊敬する人物は3人いる。
 1人目はアレキサンダー大王。2人目はピュロス王。3人目はこの私だ」
「あなたが私を破っていたらどうなった」
「アレキサンダーを上回って私が史上一番の軍略家となったろう」
…とは言えこのエピソードは後世の創作 *5 の可能性が高いと思われる。

敵であったローマにおいて強大で恐ろしい敵と恐れられつつも高く評価されており、
現代に残る彼についての記述はほとんどがローマによるものである。

というよりもローマはハンニバルの活躍によってカルタゴをとても恐れていたため、
ハンニバルが居なくなってしばらくした後の戦争(第三次ポエニ戦争)後にカルタゴはとにかく焼き払われ虐殺されまくり捕縛されまくった。
その後は大規模な植民が行われたり別の部族が占領したりしていて、今でも残っている古い遺跡は大体この時のものである。
カルタゴから見た資料はほとんど無いのも当然である。


◆ハンニバルの敗因

基本的にザマの戦い以外では常勝無敗のハンニバル・バルカ。
彼が負けた理由としては諸説あり、機会を逃さずローマを包囲殲滅すべきだったと言われるが、
成功したかどうかはわからない為、ハッキリと断言できる唯一の理由をあげる。
補給 ……そして 政治 である。

カルタゴ本国からの補給線が伸びきった結果、現地略奪する他に物資入手手段が無くなり、
さらにファビアン戦略によって尽く妨害されてしまった結果、徐々にハンニバルは消耗していったのだが、
これはカルタゴ政府の意思統一がされなかった為、積極的にハンニバルを支援できなかったのだ。
またハンニバルがローマ近隣諸国の切り崩しに失敗し、事実上孤立無援となったのも大きな原因である。
そして戦役後のハンニバルにおいても、改革方針こそ的確だったが強引な手法故に反発を産み、放逐されてしまった。

ここでハンニバルの人となりを示す文を引用したい。

暑さも寒さも、彼は無言で耐えた。
兵士と変わらない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚えればとった。
眠りも同様だった。
彼が一人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片づける事が、常に優先した。
その彼には夜や昼の区別さえもなかった。
眠りも休息も、柔らかい寝床と静寂を意味しなかった。
兵士達にとっては、樹木が影をつくる地面に直に、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは見慣れた光景になっていた。
兵士達は、そばを通るときは、武器の音だけはしないように注意した。



ハンニバルが本国の政治基盤をきちんと固めた上で出撃し、ローマ諸国の切り崩しを迅速に行っていれば。
損耗を恐れることなく首都ローマへと進軍し、早期に決着をつけることができていれば。
あるいは歴史の流れは大きく変わっていたに違いない。

なにせ新興国であったローマは、ハンニバルとの戦いで戦争を学び、世界に覇を唱えて行ったのだから。
また、ハンニバルとの戦いの過程で自然と周辺地域の支配が固まったことも大きい。


ただ仮にハンニバルが勝利してカルタゴ本国が一挙態勢になっていたとしたら。
果たして一介の将軍に過ぎないハンニバルが全権を握ることができただろうか?という部分は怪しいところがある。
そしてローマほど長く存続出来たかと言うと怪しい。

しかしそれを言うならローマのスキピオだって大英雄にして執政官でもあったのに、晩年の活動がほぼ伝わっていないのだから、
ここだけ取り上げてもほとんど意味はない。
仮定の話をするならそれこそハンニバルが全権を握らずとも、カルタゴが欧州の覇を握ることになっていた可能性もあったりなかったりする訳だしいくら論じても意味があまり無い。





◆メディアでは

現在ヤングキングアワーズで連載中の「ドリフターズ」(作:平野耕太)に宿敵であるスピキオ・アフリカヌスと共に登場。

老いてはいるが、鋭い戦術眼は失われておらず、廃棄物(エンズ)に対して勝機はあるかと尋ねられると、「ゼロじゃないさ」と返した。

また、ヤングジャンプでも「アド・アストラ スキピオとハンニバル」というタイトルで、ハンニバルとスキピオを主人公にした歴史漫画が連載中である。



◆つまりどういう人?

現代人がタイムスリップして現代知識チート無双しようとしても 勝つことは難しい超人
ぶっちゃけ存在自体がチート。
カンナエの戦いで行った包囲殲滅戦術が、
現代においても各国の軍で参考にされ教えられている と言えばそのチート具合が如何程か理解できるだろう。

もちろん当時における既存の戦術についても把握しており、騎兵や戦象を用いた戦術も活用している。
都市経営などにおいても手腕が優れていた。
当時並び立つものが居ない程の超人っぷりに戦争中も戦後もかえって議会からの支持には恵まれなかったが…。

あとは彼が政治面の根回しさえどうにか出来ていたら、ローマは本当に打つ手が無かっただろう。


あるいは彼と同等の能力のある将軍が居ればまた話は違っていたかもしれない。
もちろんハンニバル以外にも有能な将兵は居たのだが、ここぞという時に敗戦してしまった。
そしてその敗戦も例の如くスキピオが多く関わっている。





追記・修正はローマを滅ぼしてからお願いします。

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*1 余談ながら、彼の盟友であり攻撃を担当して「ローマの剣」と呼ばれたマルクス・クラウディウス・マルケッルスは、ハンニバル追討を行う前にシラクサの攻略を担当していた。この際、アルキメデスと対決。手出し無用の厳命を出していたにも関わらず、部下が彼を殺害してしまい、ひどく後悔した事で知られている。

*2 ハンニバルの内心は不明だが、カルタゴは無敵のハンニバルを呼び寄せたことで強気になっていたはずであり、スキピオの提示した条件を呑む事など無理筋だったと思われる

*3 当然のことだがお互いに騎兵は重要な戦力として数えており、相手の騎兵を減らし自分の騎兵を増やすための方策をお互いが練っている。ちなみに歩兵の質も傭兵や市民兵の数から全体的にはローマの方が質が良かったと思われる。

*4 前哨戦で敗走したヌミディア王の息子から騎兵の参戦を求めてはいるがその数は2,000。当然ヌミディアを実質占領しているスキピオにはそれ以上であり、その数6,000。それ以外にもお互い集めた騎兵が居るがそこにも開きがある。

*5 後世と言っても1世紀頃の話。日本ではプルタルコス著作の英雄伝とされているものだが、原題・内容からすると対比列伝と言うべきものであり人柄を示すかのような記述が多い。ハンニバルとスキピオに関しても比較した形の話が多い。もちろん古い書物なだけに資料的価値も大きいのだが厳密に正しいかどうかは結構怪しい。