ハンニバル・バルカ

登録日:2010/05/07(金) 13:03:09
更新日:2024/02/25 Sun 01:55:45
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道はわれわれが見つけるか、でなければわれわれが作るのだ


ハンニバル・バルカ
――Hannibal Barca

紀元前247年生まれ。カルタゴ人。

同じくカルタゴの将軍、ハミルカル・バルカの息子。

『ハンニバル』は『バアル神(カルタゴの最高神)の恵み』。
『バルカ』は『雷光』の意。


◆カルタゴの興亡

カルタゴとは北アフリカの現チュニジア付近にあった国家である。
建国したのは商才に秀でた船乗りのフェニキア人。
フェニキア人はフェニキア語(ヘブライ語の近縁)を使用する中東系民族であり、
当時としては高い造船技術と金属加工技術を有しており、
共和制ローマ誕生時には、地中海最大の国家であった。

そのカルタゴだが、以前大きな戦争があった。

始まりは地中海に浮かぶシチリア島。
その大体逆三角形をしたようなシチリアの西半分はカルタゴの属領であり、
東半分は北東がメッシーナ、南東がシラクサの支配下にあった*1

あるときメッシーナとシラクサとの戦争が勃発した。
メッシーナはマメルティニー(マルスの子らの意味)という傭兵団に占拠されていた。
ロンガノス川の戦いで大敗したマメルティニーの一部は西のカルタゴに自らとメッシーナを引き渡そうとした。
しかしまた一部は小さな海峡を挟んだ先にあるイタリア半島――つまり当時、新興国であったローマに応援を依頼した。
ローマとメッシーナは同盟関係にはない。しかしローマ元老院はそれを引き受けた。

メッシーナはローマとカルタゴのクッションとして存在してきた。
もしここでメッシーナの依頼を断ればすぐに全シチリアはカルタゴの手に落ち、南イタリアを囲む制海権はカルタゴのものとなると思ってよい。

更にアテネが衰退を始めたこの時代において地中海世界第一位の海運国はカルタゴだった。
故に「ローマ連合」はメッシーナとの同盟を結ばざるを得ないのと同時に、海洋に進出する以上いずれ水上の戦争を行わなくてはならないのは明白であった。
この頃からローマとカルタゴの戦いは避けられなかったと考えられるのかもしれない。

そしてローマ及びメッシーナとシラクサとの戦争が始まる。

ローマはアッピウス・クラウディウスを指揮官として、
メッシーナへの渡航を行った。
マメルティニーは既に城塞を占拠していたカルタゴの司令官ハンノを「脅迫と策略によって(Polyb.1.11)」追放し、
アッピウス・クラウディウスに都市を引き渡した。
ここでカルタゴとシラクサは長年の敵対関係を解消し同盟を結び、
メッシーナを共同で包囲した。
まずローマ市民軍は傭兵が主体のシラクサ軍を撃破。
シラクサの僭主ヒエロンの南への敗走を見送り、
時をおかずに西に布陣されたカルタゴ軍を撃破した。
アッピウスの戦勝が届いたローマは2人の執政官を全軍勢とともにシチリアに送り出した。
ローマの援軍が届くとカルタゴとシラクサから大半のシチリア都市が離反した。
さらにローマ軍の力と量も考慮してローマ側有利と見たヒエロンは、
ローマ軍に講和を申し入れた。
ローマ側も補給の観点からヒエロンの講和を受け入れた。

こうして大国カルタゴとローマ連合による戦争は決定付けられることとなる。
この戦いは「フェニキア人との戦い」を意味する「ポエニ戦役」と呼ばれた。

そしてこの後22年間に渡る戦いにローマは勝利し、カルタゴはシチリア島から撤退。さらには終戦直後に、給料未払いへの不満から反乱を起こした傭兵への対処に追われている隙に、ティレニア海*2の制海権を盤石の物にしたいローマによってコルシカ島とサルデーニャ島を掠め取られた。
カルタゴは400年に渡り築き上げたものと利益、そして地中海西半分の海を失った。この時の戦を後世では「第一次ポエニ戦争」と呼ぶ。


◆ハンニバル現る

ポエニ戦役で奮戦した軍人ハミルカル・バルカは優秀な軍人だった。
しかし彼の奮戦とは無関係な海軍の敗北により、ローマとの交渉を余儀なくされたのだ。
そんな彼はローマへの雪辱を晴らすため、カルタゴ本国以外の力を手に入れるため、
ローマが戦いの神ヤヌスの神殿を閉めた*3と同時期に、カルタゴの植民地であったヒスパニア(スペイン)へと出向いたのだった。

彼の息子ハンニバルはその時9歳。
ハミルカルにスペインへの同行を頼み込む息子に対して父は、
バアルの神殿にて「生涯ローマを敵とすることを誓う」ことを条件に同行を許可した。

そしてそれから17年後。

カルタゴ・ノヴァ――新カルタゴとよばれるヒスパニアの大都市にて、バルカ一門の総督ハスドゥルバルが従僕に扮していたケルト人によって暗殺された。
ハスドゥルバルはバルカ一門へ婿として入ったものであり、今は亡きハミルカルの後継者でもあった。

父ハミルカルが没した時は18歳でしかなかったハンニバルだったが、
ハスドゥルバル退場の年には26歳。
もはや不足はない。

スペインのカルタゴ人は彼を総督として認め、本国カルタゴ政府もそれを承認。
全権を握ったハンニバルは足元を固めるためのスペインの制圧*4に1年を費やすこととなる。

そして紀元前219年

28歳となったハンニバルはスペイン東岸の町、サグントを攻撃する。アッピアノスなどはサグントをギリシア人都市としているが、スペイン種族の町である。
当時ローマとカルタゴはエブロ川を境として不可侵条約を結んでいた。サグントはエブロ川の南側(カルタゴ側)に位置する。
しかしハンニバルの動向に危機感を持っていたローマは、サグントと同盟を結びハンニバルを牽制しようとした。
そのサグントを攻撃したのだ。あくまでエブロ川の南側なので、この攻撃が不可侵条約に違反するかはグレーなところである。
サグントが陥落するのに8ヶ月の期間がかかっているが、この間ローマは軍事的に手を打たなかった。

ポリュビオスに記述はないが、リウィウスはローマは条約違反だとしてサグント陥落以前にカルタゴに抗議をしたがカルタゴはこれを拒否したとする*5
サグント陥落を知ったローマ使節団*6はカルタゴへ宣戦布告をする*7
開戦の知らせを聞いたハンニバルは一旦カルタゴ・ノヴァに戻り冬の間に準備を整えると、ガリア地域へ侵攻。
当然不可侵条約違反であるが、もはやローマとは戦争状態であり条約は破棄されたも同然であった。

こうして「ハンニバル戦争」とも呼ばれることとなる第二次ポエニ戦役の幕が切って落とされる。
この戦争の真意も、目的とする戦場も、この時点でそれを知るのは30に満たないこの男だけだった……。


◆アルプス越え

無論ローマ側もハンニバル出撃の情報を掴んではいた。
制海権はローマが握っていたので海上から攻撃されることはまず無いと判断し、イタリア半島の西側と南側に兵力を配置した上で、カルタゴ軍の動きを追っていたのだ。

しかしサグントを落とし、カルタゴ・ノヴァから出発したエブロ川を渡河しハンニバルがピレネー山脈を越えた辺りから動きを追えなくなってしまう。
ハンニバル率いる6万人の兵士と40頭の戦象は忽然と姿を消したのだった。
ガリア地方は深い森林が広がっていてただでさえ探索が困難であり、さらにハンニバルはあえて危険な渡河ルートを選択していた*8
ここで索敵中の少数のローマ兵が、渡河時の警戒に当たっていたハンニバル兵に半壊させられた事でようやく事態を察知したローマ軍であったが、
執政官*9スキピオ*10が軍を率いて駆けつけた際には、既にハンニバル軍は渡河を終え再び消失していた*11

ローヌ川を越えた後に沿岸地帯を通らずにイタリアに進軍する方法は1つしか無い。

伝説的なアルプス越えの開始である。

突如として北方から現れたカルタゴの大軍団。・・・いや、峻厳なアルプスはハンニバルの行く手にも牙をむいた。
敵対的な部族との戦闘に加えて季節は秋になっていた。
降った雪は昼に溶けて夜に凍るため、数多の兵士や象が足を滑らせて奈落の底に消えていった。
温暖な気候のイベリア半島出身の兵士は、10月末のアルプスの高度にも寒さにも慣れていなかった。
難行を果たすための代償は、カルタゴ軍半数の命を奪ったのである。

しかしそれほどの血を流してまで達成された戦略的奇襲は、それに値するだけの報酬をもハンニバルにもたらした。
彼の行く手に広がっていたのはガリアの森。ローマに反感を抱く民たちが住まう広大な大地。
ハンニバルはまず疲れ切ったカルタゴ軍を休めると共に広くガリアに声をかけ、共に戦う勇士を募ったのである。
しかしガリアは多くの部族に分裂して敵対しあってまとまりがなく、またローマに敵対していたとは言え戦う前から疲弊したカルタゴに味方した者は少なかった。

兄グナエウスをイベリアに送り出したスキピオ(父)はアルプスでの全滅を予測しながらも、ポー川流域の平野に陣営を置きハンニバルを待ち構えたが遭遇戦で破れてしまう。
さらに続くトレビアの戦いにおいてもハンニバルはもう片方の執政官相手に鮮やかな勝利をあげ、彼の名声は大きく高まることとなった。
そして続け様の勝利を見たガリアの民は今度こそ次々ハンニバルの下に集い、その軍勢は5万以上にまで膨れあがった。
アルプスで失われた兵は、ガリアの血により補われ、今や彼の軍はもとの勢威を取り戻していた。

こうして北イタリアに勢力基盤を築き上げたハンニバルはイタリア中部に進軍する。
これに対しローマ元老院は新たな執政官2人を向かわせるも、トラシメヌス湖畔の戦いでハンニバルの策にはまり軍はほぼ壊滅し片方の執政官が戦死してしまう。
さらにハンニバルはイタリア南部へと向かい、ローマの同盟都市への切り崩し工作を重ねていく。

ハンニバルのこの「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」戦術を前にしたローマは、ついにこれを国家存亡の危機と判断。
非常事態宣言を発した上で、独裁官としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスを任命し、ローマの全権を委ねたのだ。
通常、独裁官は執政官によって選ばれるのに対し、国民代表である元老院が直々に任命したという事態は異例である。

ファビウスは直接ハンニバルと戦っては勝ち目がないと冷静に見抜いていた。
彼はハンニバルの動きを抑えこむべく、カルタゴに本拠地を置くハンニバル軍の補給線が伸びきっていることに目をつけ、徹底した持久戦に持ち込む事を決断する。
つまりハンニバルの後を影のように追尾し、相手が攻めようとすると即座に撤収。進軍を無理に止めるようなことはしない。
さらに略奪を防ぐ為に、予想される進路の土地を焼き払う……という焦土戦術を繰り返したのだ。
この持久戦は「後に」ファビアン戦略と呼ばれ、やはり後世まで語り継がれる重要な作戦となった。

しかし、ハンニバルと睨み合うだけのファビウスはクンクタートル(のろま)と嘲られ侮られた。
焦土化される土地に住む人々はもちろん、政敵であるマルクス・ミヌキウス・ルフスや元老院までもが彼を批判した。
更にファビウスが進軍途上のカルタゴ軍を攻撃しようとして補足に失敗するという失態を犯したので、
彼はローマに召還され、一時的にミヌキウスが指揮を取ることになった。
そのミヌキウスが少なからぬ戦果を挙げたこともあって、ファビウスの評判は更に失墜していく。

というのも、ファビウスがハンニバルの強さを見抜き、弱点である補給を攻めたのと同様に、
ハンニバルもまたファビウスを強敵と認め、その弱点である民衆からの支持を攻撃したのだ。
あえて襲撃する際にファビウスの領地を狙わずにおいたり、
夜間に篝火をつけた牛の群れを囮とすることでファビウス軍の目の前を堂々と進軍したり。
そしてミヌキウスが戦果を上げたことによって、ミヌキウスに罠をかけると同時に徹底的にファビウスの支持率を下げるようにしたのだ*12

ローマ元老院の指示とミヌキウス自身の要求によって、ファビウスはやむなく軍の一部の指揮権をミヌキウスに譲渡。
ハンニバルは冬営地としていたゲロニウムの近くでミヌキウスを誘い出す罠を仕掛けると、
ミヌキウスはファビウスを「ハンニバルの家庭教師」とバカにし、その命令を無視して攻撃を敢行*13
対するハンニバルはあっさりとミヌキウスを包囲し殲滅にかかった*14
しかし惨劇が迫っていたローマ軍とミヌキウスを救ったのは、彼がバカにしたファビウスであった。
丘陵を先陣きって駆け降りてくる老将軍を見て、ハンニバルは笑いながらこう言ったと伝えられる。

私は以前から度々諸君に言っていただろう。
道山の頂にああいう雲がある時には、すぐに激しい嵐が襲ってくるものだとね。

そして戦の後、ファビウスの天幕を訪れたミヌキウスは跪いてこう述べた。

「父が私に与えた命を、今日、あなたは救ってくれた。
 あなたは私の第二の父である。私はあなたを優れた指揮官として認めます。」

だが、ハンニバルに対抗できるのはファビウスのみという事実に気付いた者は、未だ少ない。
6ヶ月の独裁官任期が切れ本来の執政官に指揮権が返上される。
その後元老院が決戦を望む声に押されて任命された執政官のうち片方は、ファビアン戦略を評価しなかったのだ。
――若きガイウス・テレンティウス・ウァッロである。


◆カンナエの戦い

2人の執政官は8万の大軍を率いてハンニバルの迎撃に向かう。
同じく執政官であったパウルスはハンニバルとの正面対決を避けるべきだと主張していたが、
ウァッロは決戦を望んでいた*15
紀元前216年8月2日、当日の最高指揮官*16であるウァッロが決戦を挑むと決定。野営地の守りに1万を残す。
カンナエの地でハンニバル軍5万、ローマ7万が激突した。
――カンナエの戦いである。

中央に重歩兵、前面に軽装歩兵、両翼に騎兵という陣形で対峙するローマ軍とカルタゴ軍。
ローマ軍は中央突破を狙い各中隊の隙間を狭くして中央部を厚くする陣形なのに対し、カルタゴ軍は真ん中が突出した弓なり型の陣形。
当時、主戦力である重歩兵に対しては騎兵で背後を突いて攻撃するというのが一般的であった。
その為ローマもこれを想定しており、予備戦力を後方に配置して防備を固めていた。
なにせカルタゴの主戦力たるヌミディア人*17の騎兵は精強であり、ローマの騎兵は然程でもなかったからだ。
しかしあくまでも戦の主力は重歩兵であり、単純勢力はローマ軍が敵の二倍。
ハンニバル側に勝ち目の薄い戦であるのは誰の目にも明らかだった。

実際に戦いが始まると、ハンニバル軍の中央戦力はやはり脆弱であった。
ローマ軍は勢いに任せて突き進み、予備戦力も投入。
一気に突き破って蹴散らしてしまおうと猛攻をかける*18
だから、ローマ軍は誰も気づいていなかったのだ。
ハンニバル軍は中央両翼に精鋭歩兵を配置しており、後退しながらも持ちこたえていたことに。
カルタゴ軍の両翼が前進をしていて、徐々にローマ軍の陣形がV字型になっている事に。
ようやくカルタゴ軍中央を突破できると思ったローマ軍が気付いた時には、既に左右の騎兵を殲滅したカルタゴ軍騎兵がローマ軍の後方に回りこんでいた。

あ…ありのまま 昔 起こった事を話すぜ!

「ローマ軍は ハンニバルを二倍の軍勢で攻撃していたと思ったら いつのまにか包囲殲滅されていた」

な… 何を言っているのか わからねーと思うが 
おれも 何をされたのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…

完全包囲されたローマ軍。密集していたローマ軍は外縁の兵以外が遊兵と化した。
無論まだまだ兵の優位は残っている以上、態勢を立てなおして包囲の薄い所を攻めて包囲網を破れば、十分に逆転の目はある。
だが当時の兵の練度はたとえ正規軍でも現代とは雲泥の差。
情報伝達の手段も太鼓や銅鑼・角笛、旗や狼煙といった単純な命令に限られる。伝令ではタイムラグが生じる上、密集ローマ兵の中では通り抜けすら一苦労である。
組織だった反抗など、到底望めなかった。
ローマ兵はパニックに陥り戦闘すらせぬまま圧死した兵もあった。

結果、ローマ軍は7万中6万人が戦死するという大敗。野営地に残されていた1万人は降伏し捕虜となった。
参戦した元老院議員のうち80名が戦死*19
慎重派であった執政官パウルス、中央の指揮を任された前執政官も戦死。
ハンニバル側の損失は5万中わずか6000人。
そのほとんどはヒスパニア・ガリア人傭兵であった為、主力への影響はほぼ皆無。

決戦を主張していた当日の最高指揮官ウァッロはなんとか逃走に成功。
その後は前執政官や法務官を勤め、エトルリアでハンニバルの弟のハスドゥルバルと対峙したりアフリカへ大使として赴くなどをした。

全体の戦力では負けていても、主要な兵科では勝り、最終的に個別の戦力に関しては相手より多い数で当たる。
この基本中の基本をハンニバルが徹底した結果で、ある意味では当たり前の勝利である。
だが、忘れてはいけない。
これは紀元前の戦闘である。
前記した通り相互の伝達手段が非常に限られているのはカルタゴも同じこと。
無線交信でリアルタイムに詳細な情報を共有できる現代とは比べようもない。
加えて当時の視線はせいぜい馬上からの俯瞰までで、地形を考えても戦場全体を見通すのは不可能に近い。
個々の兵も正規軍より傭兵などが多く、訓練して全体として動くことは望みにくい。
そんな状態で、こんな巧みな戦術を駆使して2倍の戦力に打ち勝てる男。

――ハンニバル・バルカが、史上最高の戦術家である事を証明した瞬間であった。


◆ローマの盾

ハンニバルの恐ろしさを実感したローマは、彼に対抗していたファビウスへの評価を改めた。
再び執政官へと任じられたファビウスは、中断していた持久戦略を徹底的に展開する。
そしてそれは着実に効果を発揮し始めていた。

ハンニバルは、攻城兵器や物資の不足から首都ローマ攻略を断念した。
そして彼はローマを直接陥落させるのではなく、周囲の同盟都市を落としていく事を決意する。
この時に部下から言われた有名な評価が「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」であった(Liv.22.51)。
事実、この時にハンニバルがローマ攻略を実行していたら、どの様な結果になったにしろその後の歴史は大きく変化していたに違いない。

一方、ファビウスは完全にハンニバルを抑えこむことに成功する。
一部を除いて同盟都市国家が離反しなかった事、カルタゴ本国が制海権をローマに握られていることもあってハンニバルへの支援を渋った事も功を奏し、
ファビウスはハンニバルの主力を封じた上で次々に補給線を各個撃破、断ち切っていった。
結果としてハンニバルをイタリア南部のカンパニア地方にほぼ封じ込めることに成功した。
かくしてクンクタトールという言葉は「のろま」から「細心・周到」という敬称に転じ、ファビウスは「ローマの盾」と称された*20

ハンニバルもアンティゴノス朝のピリッポス5世と同名を結びローマを内外から圧迫しようとするものの、ローマは国外の敵を各個に撃破。
さらにスキピオ・アフリカヌス、あのプブリウス・コルネリウス・スキピオの子によってハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略。
なんとか挽回のしようとアプリア地方に進軍するもタレントゥム(現ターラント)を失い、補給がおぼつかなくなり行動に大幅な制限がかかってしまう。
味方と合流をしようとするも、彼の指揮下にない勢力はローマ軍に勝つことができず、南イタリアでの主導権回復の手段を失ってしまう。

ハンニバルがアプリア地方に封じ込めるられている間に、スキピオはアフリカに攻め込むことを提案。
守りを重視するファビウスは反対するも、元老院は黙認に近い形でそれを認めた。
ハンニバルを無視していきなり現れた彼にカルタゴ政府は驚き、援軍のヌミディア王・シュファクスとともに戦うが敗北してしまう。

この事態に狼狽したカルタゴ政府は慌ててハンニバルを召還。
ハンニバルは十数年ぶりにアフリカの土を踏んだ。
そしてこの頃にローマの盾と呼ばれたファビウスは、終戦を迎える前に72歳で息を引き取った。

この時ハンニバル43歳。
そしてファビウスの跡を継いで彼の前に立ちはだかった人物こそ、スキピオ・アフリカヌス。
若くして軍団長を勤め、32歳で執政官となった若き俊英であった。


◆ザマの戦い

父がハンニバルに破れ自身も敗北を経験していたスキピオは、ハンニバルの戦術を徹底研究していた。
そんな彼は先述の通りローマ元老院の黙認を取り付けると、養成していた志願兵を連れて直接アフリカ大陸へ上陸したのである。
突如として本国に攻めこまれたカルタゴ側は、大慌てでハンニバルを本国召還した。
十数年ぶりに故郷へと戻ったハンニバルはスキピオと休戦交渉に入り、互いの才能を認め合うものの決裂*21
かくしてザマの地にて二人は激突することになる。

今度はカンナエの戦いの真逆であった。
そう、何もかもがあの時の戦いの再現であり、しかし勝敗だけが逆であった。
ローマ軍は4万の兵力で持って、カルタゴ軍5万を同様の方法で包囲殲滅した。
にこの時カルタゴ軍は歩兵の数はローマ軍を圧倒していたものの騎兵はローマに圧倒的に劣っていた。
後述するが、カンナエの戦いの勝利に貢献した騎兵の母国であるヌミディアは、先の敗戦の後に攻め込まれて親ローマになっていたのだった。
これカンナエの戦いとは真逆の状況だったため、実際には劣勢と見ても良いぐらいだった*22

本国内であるため戦象が存分に使えるというメリットはあり、そのためハンニバルも虎の子の戦象を前線に配置して打開しようとした。
しかしスキピオは戦象を察知し、歩兵配置によって戦象の突撃をかわす戦術を取った。
戦象は一直線にしか動けないため、敵陣に暴れ込めば重大な脅威だが、かわされると急な方向転換が難しい。
カルタゴ戦象部隊は配置を動かしたローマ軍により、敵のいない所を走りながら弓矢の餌食となり、ローマの前線はさして損害なく維持出来た。
このため、敵陣を混乱に陥らせて包囲することは出来なかったのである。
つまりハンニバルは自分の得意とする戦術にあっさりひっかかった訳ではなく、やむを得ない部分が大きいと思われる。
もちろん机上の空論においてはハンニバル側にも勝利の芽はあったと思われるが、実際に起きた過程と結果が全てある。

かくして大量の戦力を損失したカルタゴは完全に地中海での優位を失い、ここに第二次ポエニ戦役は終結した。

尚、言ってしまえばスキピオのこれは「ハンニバルのパクリ」なのだが、
前述の通りパクっても運用は超難しい上、そもそもパクること自体が難しい。
現代のようにネットも書籍もなく、参戦していた者の伝聞と情報しかない。
参戦者も多くが戦死したりパニックに陥っていたことからしても、得られた情報がどれだけ役に立ったかも疑わしい。
そんな中で相手がどういう意図でどう戦力を動かし、何をやったのかを調べて推測して把握し、
それを本家相手に実戦で行って勝利する。
こんな事をできる人間は、当時はハンニバル以外にはスキピオくらいしか存在しないだろう。

――とはいえ。

先述の通り「ローマの盾」ファビウス将軍は、スキピオのアフリカ遠征には反対を表明していた。
ファビウスの目的はあくまでも「ローマの防衛=カルタゴ勢力のイタリア完全撤退」であり、
スキピオの目指す「カルタゴ本国に対する勝利」はリスクが高すぎた為である*23
事実ザマの戦いでローマ側が負けていたならば、戦局はどうなっていたかわからないし*24
そもそもスキピオがアフリカへ遠征できたのも、ファビウスたちがそれだけの余裕を作ったためである。

ただ完全勝利していなかったら再起を考えられる可能性も高いので*25
スキピオのこの判断もリスキーであることは間違いなかったものの間違いとも言えない。
勝利のためにはリスクを取る必要があり、その時にリスクを取れる状況だったということだろう。

そして他にもスキピオの戦略を示すエピソードはある。
下準備としては徹底的にハンニバルを研究し戦術面で対抗出来るように努めたわけだが、
更に戦略面でもザマの戦い時点ではハンニバルに打てる手がほぼなく行動が読みやすくなっていた。
具体的に何をしたかと言うと、ローマ元老院の根強い反対意見を懐柔するために黙認という手段に出させ*26、身動きの取れないハンニバルを無視する形でアフリカ大陸に上陸。
そしてザマの戦いの前哨戦においては奇襲をかけてカルタゴ・ヌミディアの連合軍を破り、そのままヌミディア本国に攻め込むことで親カルタゴの王を捕虜にし親ローマの王を立てた。
このヌミディアこそがカルタゴ軍を支えていた騎兵の母体の母国である。

一方のハンニバルはこの敗戦の後に防衛のために呼び戻されたなどの事情があり、前述のハンニバルに戦略面で打てる手がほぼない*27という話に繋がる。

更に執政官になる前もハンニバルが居ない方面のカルタゴ軍相手に支援が薄い中で無双しており、イベリア半島方面を安定させた。
これが例外的な形で執政官とさせる最大のきっかけとなった。
執政官後の行動含めて一部評価の分かれる行動もあったものの、ハンニバルに対して勝機の薄い決戦に持ち込まざるを得ないようにしたのは彼だと言える。

このような感じでファビウスによるものも大きかったとは言えスキピオ自身もかなりの策を巡らしており、
ザマの戦いにおいて戦術・戦略の両面においてハンニバルを追い詰める絶好の好機を築き上げたことは疑いようがない。
スキピオは他にも大小様々な偉業を為しているが、戦略家として見ても間違いなく一流であったと言える。


少々脱線したが、
とにかく当時のローマにとってはそれだけハンニバルは生ける伝説であり、ひたすらに脅威だったのである。
そしてこのハンニバルとの一連の戦いでローマ軍は精強になっていき、戦術を学び、広大な地域と地中海の制圧という結果にも繋がり、
当時の欧州の覇権を握るきっかけとなった。


◆その後

ザマの戦いの後は政治家として祖国復興に尽力し、膨大な賠償金の支払いにも成功する。
ローマ側からすると少なくとも裁かれて当然なハンニバルが生き永らえることができたのは、スキピオの意向*28が大きかったとされる。

しかし、そうまでしてもその後の生活は決して明るくなかった。
ローマに危険視され、また強引な改革で国内からも敵視されたためにハンニバルはシリアへと亡命。
しかしそこでも疎まれたために、またハンニバルと戦うことで強大になったローマ軍にシリア軍は完敗したことで、各地を逃亡する生活を余儀なくされる。
そして黒海沿岸のビテュニア王国にて、身柄の引き渡しを求められた際に逃亡しようとするも果たせず。
最後には毒を飲んだ、あるいは奴隷に首を絞めさせたとされるが真相は不明。自害であることはほぼ確かである。

皮肉なことに、ハンニバルを破ったスキピオもその後色々あってローマに疎まれ*29
自ら隠遁した末にリテルヌムで死去したと伝わっている。
死因や葬儀の様子、先祖代々の墓に入るのを拒んだ彼がどこに埋葬されたのかも分かっていない。
しかし死去した時期だけは残っており、奇しくもハンニバルと同時期、おそらく同年である。



後年に再会したハンニバルとスキピオはこんな会話を交わしたという逸話がある。
スキピオ「あなたは史上もっとも偉大な指揮官は誰かお考えですか?*30
ハンニバル「1人目はアレキサンダー大王。2人目はピュロス王。3人目はこの私だ。」
スキピオ(微笑しながら)「では、もしザマであなたが私を破っていたらどうなっていましたか?」
ハンニバル(当然のように)「ピュロス王を上回り、アレキサンダーをも上回って、私が史上1番の指揮官となったろう」

…とは言えこのエピソードは後世の創作*31の可能性が高いと思われる。

敵であったローマにおいて強大で恐ろしい敵と恐れられつつも高く評価されており、
現代に残る彼についての記述はほとんどがローマによるものである。
子供が泣き止まなかったり駄々をこねたりすると「ハンニバルが来るよ!」と言っていたともいわれ、ある意味「遼来遼来」と似たようなものである。

そして、このハンニバルの優秀さは、ある意味でカルタゴの死命をも決することになる。
ローマはハンニバルの活躍によってカルタゴを非常に恐れ、従属させるだけでは安心できなくなってしまったのである。
戦後、ローマはカルタゴから領土を大幅に割譲させ、高額の賠償金を背負わせ、独立して交戦させない等厳しい監視下に置いた。
ところがそんな悪条件にもかかわらずカルタゴが賠償金を払いきってしまった*32ために、ローマはカルタゴを潰すしかないと考えるようになってしまった。
紀元前150年頃、ローマはカルタゴに続けざまに難癖をつけ、武器類を全て取り上げた挙句に、海洋国家カルタゴから港を引き払い内陸部へ都市ごと移住せよと言う要求を突きつける。
たまりかねたカルタゴはローマと戦端を開くが、往時の経済力も同盟国もハンニバルも失ったカルタゴに、ローマと戦う力などある訳もない。
カルタゴは3年近い抵抗の末に焼き払われ、大半の市民は死亡、生き残りは全て奴隷として売られた。*33
ハンニバルがローマに植え付けたカルタゴへの恐怖は、カルタゴという一つの国家を跡形もなく地上から消滅させたのである。*34
まあハンニバルの活躍に関係なく消滅させていた可能性も高いが。

その後は他でもないローマ自身が大規模な植民を行い、かつてカルタゴであった地に新たに都市を建設した。現在残っている古い遺跡は大体この時のものである。
ハンニバルをカルタゴから見た資料はこの時にことごとく焼き払われたと思われ、ほとんど無いのも当然である*35


◆ハンニバルの敗因

基本的にザマの戦い以外では常勝無敗のハンニバル・バルカ。
彼が負けた理由としては諸説あり、機会を逃さずローマを包囲殲滅すべきだったと言われるが、
成功したかどうかはわからない為、ハッキリと断言できる唯一の理由をあげる。
補給……そして政治である。

カルタゴ本国からの補給線が伸びきった結果、略奪によって現地調達する他に物資入手手段が無くなり、
さらにファビアン戦略によって尽く妨害されてしまった結果、徐々にハンニバルは消耗していったのだが、
これはカルタゴ政府の意思統一がされなかった為、積極的にハンニバルを支援できなかったのだ。
またハンニバルがローマ近隣諸国の切り崩しに失敗し、事実上孤立無援となったのも大きな原因である。
そして戦役後のハンニバルにおいても、改革方針こそ的確だったが強引な手法故に反発を産み、放逐されてしまった。

ここでハンニバルの人となりを示す文を引用したい。

暑さも寒さも、彼は無言で耐えた。
兵士と変わらない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚えればとった。
眠りも同様だった。
彼が一人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片づける事が、常に優先した。
その彼には夜や昼の区別さえもなかった。
眠りも休息も、柔らかい寝床と静寂を意味しなかった。
兵士達にとっては、樹木が影をつくる地面に直に、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは見慣れた光景になっていた。
兵士達は、そばを通るときは、武器の音だけはしないように注意した。



ハンニバルが本国の政治基盤をきちんと固めた上で出撃し、ローマ諸国の切り崩しを迅速に行っていれば。
損耗を恐れることなく首都ローマへと進軍し、早期に決着をつけることができていれば。
あるいは歴史の流れは大きく変わっていたに違いない。

なにせ新興国であったローマは、ハンニバルとの戦いで戦争を学び、やがて世界に覇を唱えて行ったのだから。
また、ハンニバルとの戦いの過程で自然と周辺地域の支配が固まったことも大きい。


ただ仮に無理にローマに進軍したとして、勝利出来ていたかと言うと怪しい部分がある。
ハンニバルは明らかに高度な戦略を練っているので、その彼が進軍しないと判断したということは補給などの都合で戦えない事情があったか、勝ち目が薄かった可能性が高い。
また、それをなんとかしてハンニバルが勝利できたとして、果たしてカルタゴ本国がまとまることができたのか、一介の将軍に過ぎないハンニバルが全権を握ることができたのか?という部分は怪しいところがある。
そしてローマほど長く存続出来たかと言うと怪しい。

もっともそれを言うならローマのスキピオだって大英雄にして執政官でもあったのに、晩年の活動がほぼ伝わっていないのだから、
ここだけ取り上げてもほとんど意味はない。
仮定の話をするならそれこそハンニバルが全権を握らずとも、カルタゴが欧州の覇を握ることになっていた可能性もあったりなかったりする訳だしいくら論じても意味があまり無い。





◆メディアでは

現在ヤングキングアワーズで連載中の「ドリフターズ」(作:平野耕太)に宿敵であるスピキオ・アフリカヌスと共に登場。

老いてはいるが、鋭い戦術眼は失われておらず、廃棄物(エンズ)に対して勝機はあるかと尋ねられると、「ゼロじゃないさ」と返した。そして揃って転生したスキピオと元気にケンカしていた

また、ヤングジャンプでも「アド・アストラ スキピオとハンニバル」というタイトルで、ハンニバルとスキピオを主人公にした歴史漫画が連載中である。

映画では1959年のイタリア・アメリカ映画『ハンニバル』(監督:エドワード・G・ウルマー、主演:ヴィクター・マチュア)
2006年のBBC制作映画『ガーディアン ハンニバル戦記』
などがハンニバルの生涯を描いている。

◆つまりどういう人?

現代人がタイムスリップして現代知識チート無双しようとしても勝つことは難しい超人
ぶっちゃけ存在自体がチート。
カンナエの戦いで行った包囲殲滅戦術が、
現代においても各国の軍で参考にされ教えられていると言えばそのチート具合が如何程か理解できるだろう。

もちろん当時における既存の戦術についても把握しており、騎兵や戦象を用いた戦術も活用している。
都市経営などにおいても手腕が優れていた。
当時並び立つものが居ない程の超人っぷりに戦争中も戦後もかえって議会からの支持には恵まれなかったが…。

あとは彼が政治面の根回しさえどうにか出来ていたら、ローマは本当に打つ手が無かっただろう。


あるいは彼と同等の能力のある将軍が別に居たなら、また話は違っていたかもしれない。
もちろんハンニバル以外にも有能な将兵は居たのだが、ここぞという時に敗戦してしまった。
そしてその敗戦も例の如くスキピオが多く関わっている。





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最終更新:2024年02月25日 01:55

*1 メッシーナとシラクサは、共にギリシャ人の植民都市である。

*2 イタリア半島西岸と、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島に囲まれた海域。ローマ市もティベレ川を通してティレニア海に面する。

*3 ローマでは戦争をしている時期にヤヌス神の神殿の扉を開け、戦争が終わったならば閉めると決まっていた。つまり終戦を宣言したのと同義である

*4 下記の通りエブロ川以南限定ではある

*5 ハンニバルの攻勢に調子に乗っていたからとも、絶大な人気を誇るハンニバルに手を出せなかったからとも言われる

*6 当然全権を任されていた

*7 なお、使節団を代表して宣戦布告をしたのが後に出てくるクィントゥス・ファビウス・マクシムスであるとリウィウスは言うが、この箇所の原文「クィントゥス・ファビウス」の「クィントゥス」は「マルクス」に読み換えるべきとする説が有力である、安井p33註(1),2014,西洋古典叢書

*8 ローマ兵やガリア兵の予想の裏をかくためである

*9 ローマの総理大臣兼最高司令官。通常2名

*10 プブリウス・コルネリウス・スキピオ。あのスキピオの父

*11 そもそも父スキピオはエブロ川~ピレネー山脈でハンニバルを迎え撃つように命令されていた。しかしイタリア半島の付け根に来た辺りでガリアの反乱が起こり、軍団はそれの鎮圧に回されてしまう。新たな軍団の結成は早かったが、彼の乗る軍船がマッシリア(現マルセイユ)に到達した頃にはハンニバルは既にローヌ川に肉薄していた。よってイベリア半島への遠征を取りやめ、ハンニバルのローヌ川渡河を阻止することにしていたのだ

*12 以前のハンニバルの敗戦はこの状況を作り出すための故意の敗戦とする説もあるが、流石に突飛すぎると思われる

*13 偵察に使うべき騎兵までも戦闘に投入したため、偵察手段を失いハンニバルの罠を見抜けなかった

*14 戦闘開始時点から戦場は完全にハンニバルにコントロールされており、ローマ軍には偵察や全体を考慮する時間は与えられなかった

*15 ローマ市民が決戦を望んでいたことも考慮すべきであろう

*16 当時のローマ軍は執政官が1日交代で最高指揮官になる制度である

*17 現在のアルジェリアの半遊牧民

*18 真ん中を突き破ってしまえば相手はまともに戦闘することができないし、それぞれを各個撃破してしまうこともできる。これは重装歩兵を中心とした軍隊の本来の目的であり、立派な戦術である

*19 当時の元老院議員は多いときでも300人を越えなかった

*20 その一方で彼の盟友であり、大規模な会戦こそしないものの攻撃を担当していたマルクス・クラウディウス・マルケッルスは「ローマの剣」と呼ばれた

*21 ハンニバルの内心は不明だが、カルタゴは無敵のハンニバルを呼び寄せたことで強気になっていたはずであり、スキピオの提示した条件を呑む事など無理筋だったと思われる

*22 当然のことだがお互いに騎兵は重要な戦力として数えており、相手の騎兵を減らし自分の騎兵を増やすための方策をお互いが練っている。ちなみに歩兵の質も傭兵や市民兵の数から全体的にはローマの方が質が良かったと思われる。

*23 事実、第一次ポエニ戦争においてもローマ軍はアフリカに上陸してカルタゴ本国を突く戦略を実行したが、紀元前255年のチュニスの戦いにおいてスパルタ人傭兵隊長クサンティッポスが率いるカルタゴ軍に大敗している。

*24 イタリアでのハンニバルの状況が大きく改善されるわけではないが、少なくとも状況はローマ不利の方向に動くだろう

*25 そもそも第二次ポエニ戦争自体がそうやって始まった

*26 黙認なので支援は出さない

*27 前哨戦で捕虜になったシュファクスの息子が騎兵とともに参戦しているがその数は2000。一方ヌミディアを実質占領しているスキピオは当然それ以上であり歩兵6000騎兵4000の援軍が来た。それ以外にもお互い集めた騎兵がいるが、最終的に8700と3000と大きく開いてしまった

*28 彼を生かしたほうがカルタゴの、そしてローマの戦後処理に役に立つとの考え

*29 主に政敵との政争に負けたとされる。本人に政争をする気がなかったのだが

*30 厳密に言うと古典ギリシア語に敬語はない。

*31 後世と言っても1世紀頃の話。日本ではプルタルコス著作の英雄伝とされているものだが、原題・内容からすると対比列伝と言うべきものであり人柄を示すかのような記述が多い。ハンニバルとスキピオに関しても比較した形の話が多い。もちろん古い書物なだけに史料的価値も大きいのだが厳密に正しいかどうかは結構怪しい。

*32 1万タレントの賠償金を、毎年200タレントずつ50年ローンで支払うことが条約で定められていたが、賠償金の支払いを前倒しで完済してしまうほどだった。この圧倒的な経済力も、ローマを恐れさせたであろう(いざとなれば、兵は傭兵を雇えば簡単に集められる)。

*33 なお、焼き払った跡には植物が育たないよう塩までまかれたという逸話があるが、これは後世の創作である

*34 以上の説明は「脅威-恐怖理論」と呼ばれるが、他にも様々な説が唱えられてきた。逆にカルタゴが弱すぎてヌミディアに併合されかねなかったため先手を打ったというものも存在する。また当時のローマは凱旋式の栄誉と高位の官職をめぐる支配層間の競争が起きており、カルタゴはその他の地中海都市と同様に凱旋式挙行のための「敵」とされただけとも

*35 ハンニバル関係に限らず、シチリア島をめぐってのギリシャ人植民都市との戦いや、カルタゴ自身の歴史など、カルタゴ人が書いた歴史資料の殆どが同様の運命をたどっている。