池沼

登録日:2010/04/04(日) 02:29:52
更新日:2018/04/02 Mon 16:27:49
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池沼(ちしょう)

池と沼の事。
池沼地帯、これ等の池沼は……等と使われる。





ネット上では知的障碍者の意として使われる事が多い。
以下はネット上での意味について述べる。

池沼とは知的障碍者を略し知障と呼ぶ際に、「基地外」と同じように、既にある同じ読みの言葉へ変換したものと思われる。

この事から本来の読みは『ちしょう』であるが、『いけぬま』と読む者も少なからず存在する。



ネット上での『池沼』だが、これは知的障碍者への蔑称である。が、知的障碍者全体に対する蔑称とは異なるという事に注意してもらいたい。

『池沼』とは、他人に迷惑をかける質の悪い知的障がい者を指す言葉であるからだ。

決して懸命に社会に適応しようと頑張っている知的障がい者までをも侮蔑している訳では無い。
もっとも、個々の状況を勘案せず「人間は社会に適応することが当然」などという態度も当事者でない健常者による同調圧力以外の何物でもないが

『池沼』という言葉を使うと、障碍者を馬鹿にするな、という発言が出る事があるが、それも状況と場合であり、
障碍者全体を侮蔑したのか、それとも一部の障碍者を侮蔑したのかというのを見極めてほしい。


例えば日本人が犯罪を犯し、それが外国で非難されたとして、日本人を非難するな、と言われたらどうかで考えてもらいたい。

これは文章にもよるが、普通ならば非難の対象は犯罪を犯した日本人であり、
この非難に対して日本人を非難するなと言うのは、日本人全体が犯罪者であるという認識の基の発言に捉えられ、
『日本人を非難するな』というのは、犯罪者ではない一般の日本人に対しての侮辱ではないだろうか。


これを踏まえ、『池沼』―他人に迷惑をかける質の悪い知的障碍者―について考えてもらいたい。





以下、池沼の例を挙げる。
これは知的障碍者全体の事ではなく、知的障碍者の中に存在する『池沼』に該当する者の例である。
知的障がい者と池沼は別物であると理解してほしい。


  • 駅のホームにて、サラリーマンが池沼に背中を押され線路に落ちた。
    この時駅には丁度電車が入る瞬間で、サラリーマンは電車に轢かれて死亡した。池沼は知的障害を持っている事から刑法第39条が適用されて、無罪となった。
    この池沼が、サラリーマンを電車が入るのを見計らって、つまりサラリーマンが電車に轢かれるのをわかって突き落としたのかはわかっていない。


  • 通学のために電車に乗っていた女子高生が居た。満席だったために通路に立っていた。電車の中には池沼がおり、女子高生のスカートに池沼が精液をかけた。
    それを見た乗客が池沼に注意をしたところ、近くに居た池沼の保護者が差別をするのかと怒鳴り、
    更に「その子が家の子を誘惑したのが悪い!」と女子高生を非難した。
    また乗り合わせた鉄道警察官も保護者の言い分を信用した。
    保護者は飼い主だったのだ。
    女子高生は突然の事で呆然としてしまい、池沼達は差別だ自分達は何も悪くない等と怒鳴り散らした後、次の駅で電車を降りてしまった。
    女子高生は学校まで行かずに電車を降り、近くの公園で泣きながらスカートの精液を洗った。
    こんなスカートで学校に行けるはずも無く、その日は学校を休んだという。
    池沼は飼い主に守られているという自覚でも一人前にあるのか、終始にやにやと笑っていた。


  • 通勤から帰宅途中の女性が電車の中で居眠りをしていた。人の気配を感じたが、そのまま目を瞑っていた。
    しかし、目を開けてみると、池沼が目の前で女性に陰部を向けて自慰をしており、女性は悲鳴をあげた。
    悲鳴を聞きつけた車掌が駆け付け、池沼を女性から離し事無きを得たという。


知的障碍者が池沼に変わってしまうのには理由がある。

第一の原因は周囲の環境である。

まず当事者が問題を起こすと、親までもがよく非難されることがあるが、
これは生まれつきの障碍であって親の育て方や躾が悪いわけではない場合が多い。
(だが稀に家庭もしくは人間関係が一番の原因である場合もある)

だが、何度同じ事を言っても言う事を聞かない、泣き出す子供に疲れ、
ついには子どもを育てることを諦めてしまう親もいる。

さらに、知的障碍を持った一部の子どもは自分が泣き出せば、わがままを通し理解していないふりをしていれば何をやっても許されるのだと学習してしまい、
結果自分の事しか考えず迷惑ばかり掛けてしまう池沼が誕生してしまうのだ。

また、子育てに疲れた親のところへ人権団体の名を語る営利団体が「大変でしたね。もう大丈夫ですよ」と甘い言葉で近づき、
文句を言う者には差別だと反論する等の間違った方向の助言をし、『親』を『飼い主』へと変えてしまうのも問題である。

ヨーロッパでは、親と同伴ではあるが自分でお金を出し買い物もできる等、知的障碍者は社会に適応ができている事実がある。
但し、日本では障がい者の基準が他の国よりも幅が極めて狭く、他の国のように行かない現状であるが。

彼等は障碍の程度にもよるが、
的確な指導と人からの支えがあれば物事を理解できる可能性は十分にあるのだ。

問題解決に重要である障碍者支援法の整備であるが、近年二転三転する政権と制度、法案に振り回され、支援施設の現場は大混乱に陥っており、
支援施設に頼る事も難しい現状も足を引っ張っている。

二才児でさえ言葉を理解できるのだから、知能が三才児並しかない等と悲観せず、知的障碍者を頭がおかしな人にしないためにも、教育を諦めてはいけない。

ただ重要なのは、保護者単独で教育・指導・周囲への謝罪や無理解に対応せよという過剰なストレスに耐え続けろと言っている訳ではなく、
人権団体を利用するなと言っている訳でもない事もまたご理解いただきたい。


しかし…


確かに上記の事例は事実であり、暴れまわる者を見かけて嫌悪感を感じるのは人間の心理なのでおかしいことではない。

しかし、だからといってこのような単語を使用しても構わないのかと言われると話は違ってくる。

それに特に問題なのは実際に障碍者であるかもわからないのに障碍者と決めつけることである。

いわゆる「レッテル貼り」である。
変なテンションの人を見て「池沼」、頭が悪い人を見て「池沼」、発狂している人を見て「池沼」…
これは障碍者はもちろん、健常者にも良い思いはさせないものである。

言うまでもないが、変なテンションだったり頭が悪かったり発狂していたりしている人でも、実際には障碍は一切持っていない健常者である可能性も十分にある。
このようなレッテル貼りは言われた本人が傷つく上に、障碍者に対する風評被害である。

また、池沼のほかにも「アスペ」「ガイジ」という単語が使われることもある。
前者は発達障碍の一種であるアスペルガー症候群の蔑称、後者はその書き方から分かる通り「障害児」の略称であり、
これらの単語もおかしな人や頭の悪い人に対して向けられることが多い。

ただ差別意識もなく発言する者も居るため、判断が難しいところである。

人は支え合って生きていくと言う。
当事者のことを理解し、支えることのできる人が存在することも大切なことである。

※筆者は医師でもなければ専門家でもありません。
知的障碍の症状や治療法について詳しく知りたい場合は、
専門のサイトを見たり病院で診断を受けることを推奨します。

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