本多猪四郎(映画監督)

登録日 :2011/06/27(月) 14:43:23
更新日 : 2016/04/05 Tue 00:00:51
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本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした


映画のために力いっぱい働き十分に生きて


本多らしく静かに一生を終えました


平成五年二月二十八日
黒澤明




本多(ほんだ)猪四郎(いしろう)は日本の映画監督。「ゴジラ」の生みの親の1人であり、数多の「ゴジラシリーズ」や東宝特撮映画を演出した監督である。
読みはいしろうだが、いのしろうと呼ばれることもある。


【生涯】
1911年山形県に生まれ、1933年PCL(後の東宝)に入社し、山本嘉次郎監督門下の助監督として活躍した。
同門に 黒澤明谷口千吉 がおり非常に仲が良く、特に黒澤明とは生涯の友となった。

その後戦争に召集され、 7年間を戦地で過ごし 、帰還中には原爆の被害を受けた広島も見ている。

その後東宝へ復帰、ブランクはあり黒澤明よりは遅れたが、1951年 「青い真珠」 で監督デビューとなる。
そして、「太平洋の鷲」で初めて円谷英二氏と組んでの製作となり、「ゴジラ」の監督を任されることとなった。

「ゴジラ」は大ヒットとなり、以降多数の特撮映画を手がけ、邦画が斜陽化してからはテレビの監督もこなし、「帰ってきたウルトラマン」等の作品も担当した。
その後「メカゴジラの逆襲」を監督した後は実質的に引退する。

その後黒澤監督に請われチーフ助監督(演出補)として黒澤映画に参加、一部の場面では黒澤監督の代わりに演出も行っている。
そして1992年にその生涯を終えた。



ゴジラの現場で

【監督として】
東宝特撮を多数撮っただけでなく、邦画黄金期には1年で4~5作演出する職人監督として東宝を支えていた。

その人柄は温厚で誠実であり、撮影中に叱られることはほとんど無く、その人に見合った指導をしており、
その人柄に応えようと頑張ったと当時の俳優達は語っている。

自然体でリアリズムを重視した演出が多く、またテンポが良く特撮との相性は抜群であった。
円谷監督とも画面の色調を合わせたりする等よく連携を取っていた。

誠実な人柄は作品にも反映され、避難する人を誘導する警察等によく表されているとされる。
黒澤監督が本多作品を見て、あんな状況じゃ警察だって逃げると言った所、
本多監督は警察はああじゃなきゃいけないんだと言ったというエピソードを土屋嘉男が紹介している。

また、脚本の執筆や演技指導も上手く、さらにコンテに演出プランを細かく書くことで、スタッフが仕事をしやすいように気を回す方だったとのことである。


【交友関係】


黒澤監督と

先述したように黒澤監督とは生涯の友であった。また、当時の映画会社では監督と俳優がある程度固定化されており、特に付き合いが深いのは○○組と呼ばれた。

本多組と呼ばれた俳優達とはよく本多監督の家で酒宴を開き、毎年新年会をする等非常に仲がよく、 猪さん と呼ばれていた。

主に本多組と呼ばれるのは佐原健二氏、平田昭彦氏、田島義文氏あたりである。

特に佐原氏はよく可愛がられ、佐原氏も応えるべく頑張ったそうである。
また、黒澤監督に叱られそうになった時も、友人の本多監督門下だからと多目に見てもらったというエピソードもある。

また、土屋義男氏は黒澤門下の俳優であったが、本多監督ならと、特撮映画への出演や宇宙人役を演じさせてもらったという話もある。


【余談】
DVD「メカゴジラの逆襲」には本多監督の夫人へのインタビューが収録されている。
夫人へのインタビューは少なく、監督の人柄が伺えるエピソードも聞けるので興味がある人はレンタル屋に行こう。
オーコメはカメラマンで、こちらも本多監督や円谷監督の話しを聞ける。

作品には真摯に接する人で、「妖星ゴラス」の時は大学に話しを聞きにいったり、上層部がマグマを出すと言った時に蛇足だと反対したが、
決まってからは特撮班とより良いマグマの演出について相談していたらしい。

1980年代は商業誌のインタビューだけでなく、ファンの同人活動へのインタビューも受けていた。亡くなった今となっては無理な話なため、うらやましい。

現在本多監督の公式サイトが存在する。親族や佐原氏が中核になり、高島忠夫氏や小泉博氏、水野久美さんといったゆかりの方からのメッセージも載せられている。
気になる人は本多猪四郎でググってみよう。


本多監督を知ってる方は追記・修正をよろしくお願いします。

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