南オセチア紛争(2008年)

登録日:2012/09/16(日) 17:40:22
更新日:2023/01/24 Tue 21:26:28
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それは2008年8月初めのこと…


「やぁドミトーリ、夏休みはどう過ごすか決まったかい?」


「俺は家族と別荘でのんびり過ごすよ、プーは?」


「俺は北京五輪の開会式行ってくる、ついでに柔道も観てこようかなw」


「そういえば五輪あったなw お互い良い夏休みを過ごそうぜ」




「(これは…チャンスやん!?)」



そして8月7日。

「いやぁ開会式楽しいなぁ~来て良かったよ…ん?電話だ、もしもし?」











「なに!? グルジアが南オセチアに侵攻して来ただと!?」



南オセチア紛争とは、2008年8月7日~16日に起きたグルジア(現:ジョージア)と南オセチア、及びロシアの戦争。

8月戦争とも言われる。


【概要】

この戦争の背景にはソビエト連邦崩壊前後に起きた第一次南オセチア紛争から続く問題がある。

非常に端折りまくった説明をすると、元々この地方にはグルジア人(グルジア)オセット人(南オセチア)アブハズ人(アブハジア)といった民族がいたが、
ソビエト連邦が健在の頃はいがみ合いつつもそれなりに上手くやっていた。

しかしながら連邦崩壊と共にそれぞれの不満が噴出、各勢力が独立を主張するようになる。

そんな最中、グルジアが1991年4月にソ連からの独立を宣言、12月のソ連解体と共に正式に独立国へ。

第一次南オセチア紛争にて戦争中だったオセット人達とも1992年に停戦が合意、自治権が与えられ南オセチア自治州となった。

その後のグルジアはソビエトで外相も務めたシェワナルゼ大統領が、ぼちぼち国内をまとめ上げていたが2003年にバラ革命により失脚。

台頭して来たのがこの男、ミハイル・サアカシヴィリ。


親米派でありロシアへ対抗するためNATO加盟を望むサアカシヴィリは、国内の支配力を強めるため南オセチア自治州を威圧。

一方の南オセチア自治州は経済的に結びつきが強いロシア連邦への加盟を望み、国民投票にて99%の国民が独立に賛成した。

そんなこんなで非常に緊張状態が続いていたグルジアと南オセチア自治州だったが、遂に2008年8月7日、サアカシヴィリが行動を起こした。

南オセチア自治州へグルジア軍を侵攻させたのである。

この日は、上述のようにロシアのメドヴェージェフ大統領は休暇で家族と別荘に、プーチン首相は北京五輪の開会式に出席していたため、
その隙を突いての侵攻と言われている。

グルジアの南オセチア侵攻の一報を受けた激怒したプーチンはすぐさまクレムリンへ蜻蛉返り、


「サアカシヴィリめ…俺が相手だ(キリッ」


と、ロシア軍による反撃を開始した。


【戦闘経過】

8月7日の午後にロシアからの先制攻撃を理由にグルジア軍が南オセチアに侵攻、
首都ツヒンヴァリにBM-21等の多連装ロケット砲を用いて本格的に攻撃を開始した。

その後はツヒンヴァリを中心に激しい戦闘が行われるが、ロシア軍の空爆や砲撃、同じく独立を悲願とするアブハジアからも義勇兵が駆けつけ参戦したため、
グルジアは徐々に劣勢に追い込まれて行った。

またグルジア軍の拠点となっていたゴリ市もロシア空軍により空爆を受ける。

この空爆で少なくない民間人が犠牲になると同時に、8月11日にツヒンヴァリを奪われたグルジア軍はゴリから撤退、一路グルジア領内への敗走を始めた。

また、この戦争は全てにて戦闘が行われている。

8月8日、ロシア海軍黒海艦隊は旗艦「モスクワ」を始めとする艦艇数隻をアブハジア沖に派遣。

海上パトロールや輸送任務に従事していたが、8月10日にグルジア海軍と交戦、2隻のグルジア艦艇を撃沈している。

ちなみにロシア海軍が海戦を行ったのは、1945年以降でこの戦闘が初。

8月14日にはグルジア領ポチ市にロシア軍が進軍、占領した。


【和平合意、戦後】

そんなこんなでグルジアを返り討ちにしたロシア、返り討ちに遭ったグルジアはEU議長のサルコジ大統領が提案した和平合意に応じる構えを見せた。

その後はアメリカやNATOの介入もあり緊張状態が続いたが、8月22日にロシア軍はグルジア領内から撤退。

2008年8月26日にはメドベージェフが南オセチアとアブハジアの独立を承認した。




「とまぁ、これが南オセチア紛争の大まかな話だ」


「実際はこの後も、グルジアやアメリカとの睨み合いが続くわけだが」


「今回は端折る。では諸君、また会おう」




















【余談】

ロシアとの軍事力に圧倒的な差があるにも関わらず、グルジアが南オセチアに侵攻した背景には、
『サアカシヴィリがアメリカの介入を当てにしていたから』と言う説がある。

しかし目論見は外れ、アメリカが直接介入するような事態にはならずグルジアはロシアに敗北した。

これはフォークランド紛争時のアルゼンチン大統領、ガルチェリと同じ考え、同じ結末であることに注目されたし。

そしてこの紛争によるグルジア内での反ロシア感情の高まりは、この後外交関係を持つ諸外国へと
「これからロシア語のグルジアじゃなく、英語読みのジョージアって呼んで!」
と要請する事態に発展。これをうけて紛争から7年後の2015年4月、日本でも「ジョージア」と和名が変更された。
ちなみに当のグルジア…じゃないジョージア人は自らの国名を「Sakartvelo」としているが、なぜそっちの名前に対外名も変更してくれと要請しなかったのかは謎である(最近ではリトアニアがそうしているようだが)。


【追記】
上記のように紛争自体には勝利したロシアだが、戦術面ではグルジア軍の意外な善戦に苦しんだ様子が伝えられている。
これはオイルマネーにものを言わせて最新の装備を集めていたグルジア軍に対し、ロシア軍は装備の更新・近代化に遅れをとっていたためだ。
特に情報・通信関連の装備において隔たりが大きく、無人偵察機と最新の通信器材を活用して情報を集めるグルジア側に対し、
ロシア前線部隊は無線妨害や混信により通信システムが混乱。民間の携帯電話で連絡を取らざるを得なかった。
紛争の勝因は数によるごり押しであったといってよいだろう。(まぁロシア的にはいつものことだが)
この他にも
  • 正規教育をうけた士官の不足
  • 部隊充足率の低さ
  • 指揮系統の混乱
  • 兵の士気の低さ
などといった問題が露呈し、かつての二大軍事大国の一角とは思えないほどの凋落が明らかとなってしまった。
そのため紛争終結からしばらくして、ロシアは軍の規模縮小・指揮系統のスリム化・少数精鋭化・装備の近代化を柱とする大規模な軍制改革を本格的に開始している。










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最終更新:2023年01月24日 21:26