伊達政宗(戦国武将)

登録日:2009/10/31 Sat 11:22:29
更新日:2024/01/18 Thu 20:32:39
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馬上少年過ぐ

世平らかにして白髪多し

残躯天の許すところ

楽しまずんばこれいかん


伊達政宗(だてまさむね)(1567~1636)は戦国時代武将・大名である。

●概要
有力な守護大名・伊達氏(役柄は奥州探題、鎌倉時代からの名門であり一応守護大名でもある)の17代として、米沢城で最上義姫と伊達輝宗の間に生まれる。
幼名は梵天丸
幼少時に天然痘に懸かって死にかけ、結局一命を取り留めたものの右目を失明してしまった。
眼帯をした姿は有名だが、本人もやっぱり気にはしていたようで、彼の肖像などは皆両目が健在な状態で描かれている。
右目を失った醜い容貌から母に疎んじられたが、父には厚く信頼され一流の教育を受け、後に父から家督を譲られる。
このとき、伊達家当主は5代連続で将軍からの偏諱を受けていたが、伊達家中興の祖と称えられる伊達宗家第9代当主政宗にあやかり政宗と名乗った。
しかし直後、二本松畠山義継の謀略により父を自ら見殺しにさせられる。更に四方の諸勢力を敵に回し、苦境に陥りながらも奥羽で版図を拡大する。

1590年。毒殺未遂に遭い、それを企てた母親を追放処分にし、弟の小次郎は斬殺
しかし、確かに母親の義姫は事件後出奔しているものの、それ以降も母子間で頻繁に手紙のやり取りをしていたり、
後の朝鮮出兵の際には義姫が無事の帰国を望む気持ちを込めた和歌を送り、感激した政宗から母親の下に朝鮮木綿が送られたりと、
暗殺未遂後も、同居こそしていなかったが仲の良い親子関係だったことがうかがえる証拠が残っており、本当に義姫が首謀者だったのか疑わしいとする声もある。
どころか最近では「実は小次郎は生きていて僧となってある寺に隠遁し、政宗や義姫との仲も良好だった」という説すらある。
別に『花の慶次』や『独眼龍改-ネオドラグーン-』の話ではない
この説では伊達家の家臣団の結束が諸々の事情で崩壊しかけていたのを政宗と義姫、小次郎等が極秘裏に芝居を打ち、小次郎を無礼討ちする(様に見せかける)事で
主従の上下の徹底と家臣の結束を狙ったものとされる。
小次郎を僧籍にしたのも万が一政宗が不意の事態で早逝した場合還俗して伊達家をすぐに立て直し維持し易くする為との事。
確認出来る範囲の史実でも伊達と芦名・佐竹との全面戦争は政宗が小次郎を芦名家の跡取りにゴリ押しした事が原因なので、少なくともこの時点では「弟を他の大名の名跡を継がせれば頼りになる同盟者になる」と政宗が確信する程度には兄弟仲は良好だった。

さらに同年、小田原征伐に慌ただしく参陣し秀吉の前に膝を屈した。
しかし以後も敵領内での一揆扇動疑惑等ちょくちょく怪しい動きを見せ、秀吉に殺されそうになるのはしばしばだった。

秀吉の死後は家康に接近。
関ヶ原の際は旧領の回復(その手形が通称100万石の御墨付き)を見返りに東軍につき、最上義光らなどと上杉勢と交戦。
その他に味方であるはずの南部領で客分の和賀忠親を暴れさせるなど第三勢力の拡大を目指したが、そのせいで家康からの100万石の御墨付きはパーに。
こうして彼の野望はここに潰えた。 

以降は家康の六男・松平忠輝の岳父という立場*1もあって幕府における有力大名となり、
後に忠輝は兄・秀忠によって改易される憂き目に遭っているが、政宗は幕府及び秀忠・家光に忠実に仕えたという。
また、海外にも興味を示し、関ヶ原後には家康の許可を得てスペインに遣欧使節を送っている。

そして、1636年5月、参勤交代中に体調を崩した政宗は、21日に江戸で家光から見舞いを受けた3日後、70歳(満68歳)で死去。
遺体は防腐処理を施されて仙台に帰った後、生前の彼の指示通りに今の瑞鳳殿に埋葬された。
その死に際して将軍家から江戸・京都の人々への服喪命令が下っているが、当時、御三家以外の大名の死に対する服喪命令が下るのは異例であった。

「もう10年早く生まれていれば、地方の覇権を争い天下を窺いえた人物」*2とされる政宗。
晩年残した漢詩「馬上少年過ぐ」には、そんな彼の無念さが垣間見える。


「独眼竜」の初出は実は死後200年近く経った天保期であり、幕府お抱えの儒学者・頼山陽による漢詩。
その文武に長けた逸材を「三国志の英傑曹操に匹敵する」と高く評価し、
唐王朝末期に最強と称された武将・李克用の別名である独眼竜を彼に冠したのである。
ただし同じ詩において劉備の髀肉之嘆を引き合いに出しているので、この時代にはすでに晩年メタボだった事が知られていたようである

●逸話
小田原征伐に参陣した際、切腹の覚悟を示すために白装束を纏って秀吉の前に現れ、
さらに遅参の詰問に現れた前田利家らに千利休に茶の指導を受けたいと申し出て、その振る舞いで秀吉たちを感嘆させたという。

また、一揆の煽動がバレて呼び付けられた時は白装束に加え金の十字架を背負って行ったとか。はりつけの覚悟(ry
結局転封(事実上の大減封)処分で落ち着いた。
源頼朝の奥州征伐以来の領地である伊達郡・信夫郡や生まれ故郷の置賜地方は没収されたけどね。

一般的なイメージとしては「右目に刀の鍔を撒いた姿」が有名であるが、実はあれは創作で、史書にはそのような事実は無い
実際は布の眼帯を撒いていた(佐竹氏文書)らしい。

かの有名な巨大な三日月の前立てが付いた兜が有名な鎧「黒漆五枚胴具足」は、現在国宝に認定されている。
そのデザインは海外でも人気で、『スターウォーズ』のダース・ヴェイダーのモデルにもなっており、
日本でもザンボット3ギルガザムネ仮面ライダー鎧武等がこれを模している。
オシャレ好き・派手好きなことでも知られ「伊達者」の語源にもなった。ただし、政宗本人は派手ながらも実用的な品を好む傾向に有り
現代の「伊達者」の意味の様な「派手だが見掛け倒しの役に立たない物で着飾った者」ではない点には注意。


有能な文化財クラッシャー。掛け軸を破いたり、天目茶碗を叩き割ったり…。

仲が悪かった蒲生氏郷と前述の一揆を鎮圧する際に毒を盛るという噂を自分で流し、警戒している氏郷をお茶に誘ってとんでもなく濃いお茶を飲ませ、
氏郷が慌てて薬を飲むのを見て笑うというDQNお茶目な悪戯をした。
その後氏郷は政宗の真意を疑いつつ、道沿いを放火しながら行軍したとか。当然だね。

世情が落ち着いてからは内政に力を入れ今にも続く穀倉地帯とし、水戸の黄門様の時代には実高62万石に対し内高は百万石にも及ぶ生産体制の基礎を築いている。
また三陸海岸沿いに大々的な港を作り、江戸との交易の基礎を作る。特に石巻の港は江戸や堺にも匹敵する大港として名高かったという。
そういう観点を考慮するならば「合戦に強い兵法者というより内政・経済に強い為政者タイプだった」と言えるだろう。

家康には警戒されていたが、2代秀忠・3代家光にはその忠勤ぶりから篤く信頼され、特に家光には祖父の如く敬愛されて「伊達の親父殿」と呼ばれた他、
将軍の御前での帯刀許可紫の馬の総の授与など御三家ですら許されなかった破格の厚遇を受けている。
家光の時代には既に戦国時代を生き残った武将のほとんどが鬼籍に入っていたため、貴重な生き証人として家光に秀吉や家康との思い出や合戦の話を請われたという。
また家光が鷹狩りに嵌っていた時には「私は外遊していた家康公の首を狙う算段ばかりしていた」と言って諌められ鷹狩りを控えたという。
アドバイスとは言え、既に徳川家で神格化されていた家康の首を狙っていたと将軍に言う辺りは元DQNならではの度胸かもしれない。
政宗が病の際には江戸城の御典医を宛がい寺社には祈祷をさせ、自らも伊達の上屋敷へと見舞いへ赴いていた。
いずれも幕府としては兎も角、家光本人からは譜代・外様どころか御三家をも超える厚遇を受けている。


2chでは戦国ちょっといい話/悪い話スレの逸話の常連。
DQN四天王の一人であり、どっちかっちゅーとやってる事が厨二病っぽい。
だが良い話スレでも逸話が出たり、まともに良い事してる時もあり、四天王ではわりと良識派である。


墓を暴かれた唯一の武将でもある。
隻眼で若輩ながら才気あふれる人間だったために優男や精悍なイケメンというイメージが定番になっているが、
骨などからの鑑定の結果とっても綺麗好きで、晩年はとってもデブだったようだ。
尤も戦国武将であり、平和な時代では身体を動かす事も減るだろうから引退した親方衆力士やプロレスラーみたいな感じだろうが。
頭蓋骨から顔が復元されたこともあり、隻眼による皮膚炎などを考慮しない場合であるが、現代基準で見てもなかなかのナイスミドルである。
なお、この遺骨は後に『独眼竜政宗』にライブラリ出演している
まさかの本人登場である。
ちなみに相棒である片倉景綱も晩年は太り過ぎで糖尿病が原因で没している。主従揃って何やってんだか。

渡り鳥を焼いて食べてたり、母から食事に毒を盛られたという逸話もあるため、政宗は食事に関して相当なグルメだったのであろう。
実際に、晩年の趣味は料理だったという。ずんだ餅作って食ってたしね。日本で味噌の大規模な量産体制を初めて拵えたのもこの人。
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という、現代にも通ずる料理観も持っており、
遊びに来た秀忠に手料理を出した際、毒味をしようとするお付きに「(自分にとって秀忠が)大切な客人だからこそ自ら料理したのだ」と激怒して秀忠を感激させたという逸話も。
酒も大好きだったようで、わざわざ仙台城に醸造所を作らせたり、よその有名な杜氏を招こうと手紙を何通も書いている(そしてその手紙が現存している)。
ただ、ホントかどうかは分からないのだが、酒の飲みすぎで失敗したという逸話が意外と多い。

あまり知られてはいない話だが、真田幸村のページを見ていただくとわかるが白石城当主・片倉小十郎重永(景綱の息子)が真田幸村の家族を受け取った時、
政宗へ報告に行った際に政宗は徳川には報告せず(捕虜や身内を他国で受け取った場合は報告するのが普通だった)静かな村へ隠すことを許可した。
この時小十郎に「徳川への報告はよいのですか?」と聞かれたのに対して政宗は

政宗(現代風訳)「いいべ。どうせこんな田舎じゃバレねぇんだから。徳川嫌いだし。手紙書いても俺、字が下手くそだから読めねえってバカにされるし。
        幸村もすぐ帰ってきて迎えにくるっしょー笑。それよりまだ福島から魚こないわけ?」

といい、徳川へは報告しなかった。



●彼を扱った作品
小説
「馬上少年過ぐ」
境界線上のホライゾン」:伊達・政宗(境界線上のホライゾン)
「織田信奈の野望」:外伝として「邪気眼龍政宗」では彼女が主役となっている。

漫画
へうげもの
「殿といっしょ」一応主人公だよ!一応ね。
「独眼竜改-ネオドラグーン-」
「烈!!!伊達先パイ」

ゲーム

「独眼竜政宗」(ナムコ)
戦国無双」:伊達政宗(戦国無双)
戦国BASARA」:伊達政宗(戦国BASARA)
装甲悪鬼村正」:伊達政宗(装甲悪鬼村正)
「戦国乙女」:伊達マサムネ(戦国乙女)
「戦国大戦」
「信長の野望」
「太閤立志伝」
「決戦」
「戦極」
モンスターストライク

ドラマ
独眼竜政宗


鉄道唱歌第3集 奥州・磐城篇」:27番の後半が「伊達政宗の築きたる 城に師団は置かれたり」


曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く
*3



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最終更新:2024年01月18日 20:32

*1 1607年時点で、家康の息子たちの中で忠輝は秀忠に次ぐ年長者であった

*2 ただし実際10年前に生まれていても、蘆名氏が東北の覇権を握っていたためそうなれたかは微妙とも言われる

*3 訳:何も見えない暗闇を照らす月の光のように、己の信念を光として、先の見えない戦国の世を歩いてきたのが自分の人生だった。