本多忠勝(戦国武将)

登録日 :2009/10/17(土) 20:00:06
更新日 : 2017/07/14 Fri 17:09:52
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この項目は戦国時代の人物としての本多忠勝について記述しております。
ゲームや漫画等、創作での本多忠勝について、この項目に記述するか別に製作するかは各人の判断にお待たせ致します。

本多忠勝(ほんだただかつ、1548~1610)は戦国時代の武将である。通称は平八郎。
三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれる。
本田、では無く、本多。本田、では無い。

松平家家臣として今川家に従属して居た。
初陣は桶狭間の戦い。この際、伯父に首を取って貰ったが之に憤慨、直後に自ら武将を討ち取って居る。

以後は徳川家の中核を担う武将として活躍し、徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑の一人に数えられる。
桶狭間、姉川、三方ヶ原、長篠、小牧長久手、関ヶ原と徳川家の命運の関わる合戦の殆どに参戦しており、まさに家康の懐刀。

関ヶ原以降も家康に信頼され、譜代大名では井伊家に次ぐ桑名10万石を有する大名になった。
桑名は主要都市の名古屋に隣接した東海道の宿場町であり、また東海の中でも大きな港町でもあったため交通の要衝であった。
そのためとくに信頼のおける忠勝を配したと考えられる。


就任後は藩政にも辣腕を発揮し、統治者としても優秀だったようだ。

ちなみに忠勝没後の江戸時代、本多家は数代ごとに各地を転々とする流浪の大名となり、また途中で当主急死→幕府の命で一族が後継者という経緯を辿ったため「10万石大名扱いながら領地は常に5万石台」という扱いに。
最終的に家康生誕の地「岡崎」を治める大名家として落ち着いた(一回離れたものの18世紀後半に返り咲き)。




★逸話

異名が多い。信長に「今張飛」、「花実兼備の将」と呼ばれた他、
三方ヶ原の戦い後、祝田坂撤退戦では殿を努め、敵の武田方より「家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭(舶来品の珍しい毛皮)に本多平八」と称えられた程。
又、秀吉には西国の猛将立花宗茂と共に「東の本多、西の立花」と称された。

本能寺の変が起こった際、家康ら一行は大坂に居た。
取り乱し、死ぬだの、今の人数で明智軍に攻め込むだの言っている家康を説得、伊賀越えを決意させたのが忠勝と言われる。

小牧長久手での池田・森隊への逆奇襲時には僅か500で主君不在の小牧山城を守り、秀吉を挑発するなどして、主君が奇襲を完遂するまで本隊を引きつけ続けた。

関ヶ原の戦いでは苛つく家康を宥め、西軍総攻撃の狼煙に毛利軍の動きが無い事から、彼らの内応を確信、戦線を押し上げる事を家康に薦めた。

生涯五十七度の合戦に出て一度として傷を負った事が無かったという。
非常に軽装だったのに傷を負わなかったのに対し、井伊直政は重装備に関わらず常に怪我をしていたのを批判している。
もっともこれは井伊が先陣をきって突撃する癖も関係しているだろう。

趣味は木彫りだったが隠居後、戦では傷ひとつつかなかった彼が木彫り中に誤って指を傷付けてしまう。
「傷を負うようでは本多忠勝もおしまいかな…」と呟いたとされる忠勝はその数日後、静かにこの世を去った。
歴戦の猛将も歳には勝てず、気付かぬうちに体が衰えていたということだろう。

武装は大鹿角の兜に黒鎧、斜に掛けた大数珠。
武器は槍「蜻蛉切」。止まった蜻蛉がそのまま真っ二つになったと言う。哀れな蜻蛉…。
この蜻蛉切は合戦や体調などにあわせて柄を取り替えてリーチの長さを変えて使用したとされている。

次男の忠朝は大阪の陣で酒の飲み過ぎで不覚を取って討ち取られたと言われる。

また娘の一人「小松(稲)姫」は後の松代藩初代藩主真田信之の元へと嫁いでおり、その縁から信之の父昌幸と弟信繁が関ケ原後家康によって極刑とされようとするのを懸命に防ぎ、流刑にのみ留めさせた。 

本多忠勝出演作品


小説

ドラマ
  • NHK大河ドラマ
    複数の作品に登場し、最新の登場となる2016年の『真田丸』では藤岡弘、が演じた。過去の演者も高田延彦等強面ないし肉体派の人物。

漫画
  • センゴク
  • センゴク天正記
  • へうげもの
  • 信長の忍び
    無傷が自慢で、細かい傷には言い訳がましい一面も。それでも実力は戦国最強に恥じない猛者。

ゲーム

他、多くの歴史ゲーム


追記修正は、あらゆる歴史ゲームで本多忠勝をノーダメでクリアを成し遂げてからお願いします

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