数学的構成主義

登録日:2010/09/07 (火) 12:49:49
更新日:2023/05/06 Sat 02:35:40
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突然だが、この項目をご覧の紳士淑女の皆様方の中には「数学なんて大嫌い!」という方も多い事だろう。
しかし大学で学ぶ理系の学生ですら、数学特有の概念や考え方が肌に合わず理解不能に陥るなんて事は日常茶飯の出来事である。

それもそのはずで、数学とは数えきれないほどの先人たちがその人生を賭けて蓄積してきた知識の集合であり、
キツイ言い方をすればそれを年端も行かぬ若者が苦労せずにポンポン理解できるようなものではないのだ。
なので数学が難しいというのは恥ずかしい事でもなんでもなく、言ってしまえばそんなの当たり前なのである。

では、少し話を変えて、こんな風に考えた事はないだろうか?

「数学が自分の分かる範囲だけだったらいいのに……」と。

人間誰しも得手不得手が存在する。
数学も同様で人によって得意な分野は違うものだ。
なので、臭いものにフタが出来て、自分が分かんない所は飛ばせてしまえればこれほど楽な事は無い。
理解できない範囲なんかやる必要無いじゃないか、ヤな宿題はゴミ箱に捨てちゃえ、と。

そんな都合の良い数学なんてある訳が……と思いきや、実はそれを可能とする数学というか主義主張があるにはあるのである。
自分が認める範囲の数学のみで妥協し、それ以外を「構成的でない」と排他する主義……
人、それを『数学的構成主義』という。
この数学的構成主義、このような独善的な発想に繋がりかねない考え方に結果的に落ち着いてはいるが、
かつて数学という学問が立ち行かなくなりかけた際に登場した、ある意味で画期的な考え方であった。

以下では、この一見不思議な考え方である「数学的構成主義」について記述する。


◇数学は完全ではなかった
さて、我々が習った(ている)数学という学問は、大昔から多くの人達が培って来た理論の集大成である。

ここで少々昔話となるが、
数学という学問は19世紀に入った頃、数や関数を始めとした諸概念を全部集合の概念で表すようになっていった。
これは、「多様化しつつあった数学にも全数学が共通して基づく基盤があってもおかしくない」という発想があったからだ。
そして白羽の矢が立ったのが集合論だったのである。

このような流れになった背景には、二人の数学者の影があった。
まずデデキントという偉いおっちゃんが今まで暗黙の了解的に使って来た『実数』の概念をちゃんと定義し直したこと。
次に、その友達であるカントールというこれまた偉いおっちゃんが、デデキントの定義した実数を基に集合論を導いたこと。
これによって集合論というものが世に広まったのだ。まさに数学者の歴史である。

さらっと言ってはいるがこれは実はとんでもない大発明の連続である。
今までなんだかよくわかんねーけど使っていた、というシロモノだった実数がどういうモノなのかが定義された事はもちろん、
それによって全数学の共通基盤になりうる集合論が生まれてしまったのである。

この結果、19世紀は数学が集合論を基にさらなる飛躍を遂げる希望に満ちた時代となるはずだった……のだが、残念ながらそうはならなかった。
実は上記のカントールの唱えた集合論に、致命的な欠陥が見つかってしまったのである。
その欠陥とは、ラッセルというまたもや偉いおっちゃんが見つけた「ラッセルのパラドックス」である。

この「ラッセルのパラドックス」によって上記の集合論はおろか、今までの数学はめちゃくちゃにぶっ壊されてしまったのだ。

ちなみに、数ある指摘の中で最も強烈で有名になったのがラッセルのパラドックスだったというだけで、
ラッセル以外にも多くの数学者が集合論の問題点を指摘している。
それは集合論を唱えたカントール自身も例外ではなかった。
彼は「カントールのパラドックス」として自分自身の生み出した集合論の欠陥を指摘しているのである。
ただしカントール自身はこのようなパラドックスの存在は結果として集合論をより発展させていく材料になると考え、あまり問題視はしていなかったようだ。
(そしてそれはある意味正しいものだった)

◇ラッセルのパラドックスとは
ここで、このラッセルのパラドックスに興味ある人も多いと思うので簡単に説明する。
まず、カントールの作り上げた集合論というものは、大まかには「集合は数式であれば任意」という定義しかなかった。

つまり余計な制限が無いため、いくらでも自分で好きな大きさの集合を好きなだけ定義できるという、実にパワフルな理論だったのだ。
これによって誕生したのが「集合の集合を作ろう!」という考え方だったのだ。
PCで例えるなら、ファイルをまとめたフォルダをまとめたフォルダを作ろうとしたのである。
これは直感的に考えて妥当であると思うことだろう。

だが、ここにラッセルが『待った』をかけた。

ラッセル「ねーねー、自分自身を含まない集合ってさ、自分自身を含んでるの?含んでいないの?」

この問いの意味をかいつまんで説明すると、
『もの集まり』すべてが集合というわけではない」と指摘したのである。

このパラドックスは、次の問題から生じる。
「あるアニヲタの集いでたった一人の尻穴拡張師の冥殿は、
自分で尻穴を拡張しない全員の尻穴を拡張し、
それ以外の人(自分で尻穴を拡張する人)の尻穴は拡張しない。
この場合、冥殿自身の尻穴は誰が拡張するのだろうか?」

冥殿が自分で尻穴を拡張しなければ、彼は規則に従って、自分で尻穴を拡張しなければいけなくなり、矛盾が生じる。
しかし、冥殿が自分で尻穴を拡張するならば、「自分で尻穴を拡張する人の尻穴を拡張しない」という規則に矛盾する。
したがって、この規則は冥殿が自分の尻穴を拡張する・しないのどちらにしても矛盾してしまうことになる。

これは何を意味しているか?
まず、集合は「自分自身を含む集合」か「自分自身を含まない集合」のどちらかのはずだ。
しかし、上記の冥殿の尻穴の例は、
冥殿が「自分で尻穴を拡張する人間」「自分で尻穴を拡張しない人間」のどちらと仮定しても、
「冥殿は自分で尻穴を拡張する人間の集合には含まれない」
「冥殿は自分で尻穴を拡張しない人間の集合には含まれない」
となるため、冥殿は「自分で尻穴を拡張する人間」でも「自分で尻穴を拡張しない人間」でもない、
つまり「自分自身を含む集合」と「自分自身を含まない集合」のどちらにも含まれないことになってしまう。
そのため、結局のところ冥殿とは、「自分自身を含む集合」と「自分自身を含まない集合」のどちらの集合でもないのだ。
これは、『集合は「自分自身を含む集合」か「自分自身を含まない集合」のどちらかである』という前提に明らかに矛盾している。

もしここで「いやいや何言ってんの、冥殿は集合じゃなくて個人でしょw」とか思う方がいたら、
最初の問題を「アニヲタの集い」という集団(集合)の話に置き換えてもいいかもしれない。
「ある萌えランクでたった一つの尻穴拡張師集団であるアニヲタの集いは、
自分で尻穴を拡張しないサイトの住人全員の尻穴を拡張し、
それ以外の人(自分で尻穴を拡張するサイトの住人)の尻穴は拡張しない。
この場合、アニヲタの集いの住人の尻穴は誰が拡張するのだろうか?」

するとこちらも当然ながら矛盾を引き起こす。
「アニヲタの集い」という集合は「自分自身を含む集合」と「自分自身を含まない集合」のどちらにも含まれない。
つまりアニヲタの集いという集合は「自分自身を含む集合」と「自分自身を含まない集合」のどちらの集合でもなく、矛盾するのだ。

ということはこの問の前提が間違っていることになる。
この問の前提は「数学的であればどんな集まりも集合である」という点にあるため、「自分自身を含まない集合」という存在がそもそもおかしいということになる。

すると、ここからラッセルの唱えたパラドックスが浮き彫りになる。



(補足)
実は、この話にはもう1つの問題児がさりげなく登場している。
それが「自分自身を含む集合」である。

もしも自分自身を含む集合が作れたとしよう。
例えば、X={X,Y}という自分自身を含む集合を取り上げてみる。

するとX={X,Y}である以上、X={{X,Y},Y}={{{X,Y},Y},Y}=…と、
Xという中身が不明瞭なまま、Xという集合は無限に膨らんでいく。

しかし、これは大きな問題を秘めている。
本来集合の要素は「不確定ではなく、一意に決定できる」ことが大前提である。
例)トランプ={ハートA,ハート2,…,スペードA,…,ダイヤA,…,クローバーA,…,ジョーカー}
例)カレー={ごはん,ルー,福神漬け}

しかし、自身が要素である、
X={{X,Y},Y}={{{X,Y},Y},Y}=…
では、無限に発散してもXは不明瞭なまま。
つまり、Xは冥殿だろうがアナルだろうが同人DBだろうか根こそぎToolだろうがなんでもいい。
一意に定義できないのだ。

そのため、自身を要素に持つ集合はその性質を一切説明できないという点で、
そもそも集合として破綻しているのである。


話を戻そう。
以上のように、ラッセルのパラドックスによってカントールの集合論は否定された。
なぜなら、数学的なものの集まりでも集合にならないことがあるからだ。

19世紀の時代の数学は(カントールの)集合論を基に全てを表すようになっていた。
つまり、基盤に矛盾のある集合論を用いる事ができるという事は、既存の数学そのものに矛盾が存在してしまっているという事に他ならなかったのだ。
これは有史以来の前代未聞の大危機であった。

現在では集合はある種の条件(公理系)を満たすもののみを指すようになっており、「自分自身を含まない集合」の集合は集合でない他のものと考えられている。(ZF公理系などが有名)

◇なぜ数学的構成主義は生まれたか
ラッセルのパラドックスが世に出た後、数学者達はその矛盾を解消するためにそれぞれの手法を編み出し、大きく分けて3つの派閥に分かれてしまった。
1つ目が、数学に型(タイプ)という概念を持ち込み、この型の違いによって矛盾を排除しようとしたタイプ理論。
2つ目が、厳密に集合というものを定義し矛盾を排除しようと試み、最も多数派であった公理的集合論。
3つ目が最も少数派で、最も哲学的で、「構成主義者が2人揃えば構成主義は崩壊する」とまで言われた数学的構成主義である。

この数学的構成主義が生まれた背景にはブラウワーという、これまたとっても偉い数学者のおっちゃんの存在があった。
このおっちゃんは考えた。なぜ、集合論に矛盾が生じるのかを。
彼はその原因を今まで数学の世界で暗黙の了解であった「排中律」(後述)の概念だとし、徹底的に批判したのだ。
そして「数学の証明は構成的な数学によってのみ行われるべきだ」として数学的構成主義を唱えたのである。

ここで、構成的な数学とは、誤解を恐れずに言えば「実際に全ての結果や理論内容が観測・確認されなければその理論や考え方は信じない」とする数学のことである。
卑近な話に言い換えると、例えば構成主義っぽく「野菜が安全である」ことを認めるためには以下のように徹底していなくてはならない。
(おそらく本当はこれでも不十分であると思うが)
「産地はもちろん苗木や種がどういう経緯や由来を持つもので、
しかも育て始めてから出荷するまでの1日単位でのレポートと、出荷の方法や、出荷後の取り扱われ方とか全部分かっていない野菜は安全だとは認められません」
え?なんかクレーマーじみているし、そこまでやらなくてもいいじゃないかって?本当にそのとおりである。

数学に話を戻すなら、実数を扱うならば全ての実数を示さないとならないし、極限を認めるためにはある値に収束するまでの値の変化を全て示さないとならない。
つまり「構成主義」とは自分の手で触れられるもの、実際に確認ができるものしか扱わないのだ。
もちろん帰納法的な発想……つまりn番目、n+1番目というようなパターン的思考もNG。
言わずもがなかなりぶっ飛んだ考え方である。

なぜ、こんな突拍子もない考え方が生まれたかと言えば、それは上記のもう一つの聞きなれないワード「排中律」に関連する。
排中律とは、論理学の言葉で『Aであるか、またはAでない』という、あるかないか、イエスかノーかのような2つの論理式から解法を求める事を指す。
「俺はあの子が好きなのか?嫌いなのか?」なんかいい例かもしれない。

数学においては特に背理法の際にお世話になるのだが、実はブラウワーという数学者の最も嫌ったものがこの背理法であり、
彼は無限集合を舞台とする証明において背理法、すなわち排中律が用いる事を頑なに批判したという。

というのも
「ある命題Aが『Aであるか、またはAでない』という二元論に果たして分けられるのだろうか?AであるかAでないかが分からない場合もあるのでは?」
という疑問が拭えなかったからだ。
例えば「俺はあの子が好きなのか?嫌いなのか?」という問いに対して、
「あ、好きでもなければ嫌いでもないや。むしろどうでもいいヤツじゃんアイツ」という状態は起こりうる。
卑近な例ではこのような「例外」が目につきやすいが、相手は無限集合という何が何だかイメージしづらいよく分からん世界。
そのようなよく分からん世界では我々の常識はいとも簡単に崩れ去り、思わぬ例外が簡単に生まれるものだ。

実際ブラウワーは、ある命題が2つに分けられない例として、
「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」という例を挙げたとされている。
(またこれに続くエピソードとして、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受け、
それに対して「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えたという)

これは円周率への問だけにはとどまらない。
あらゆる証明問題における排中律にこの懸念が存在しているかもしれないのだ。

結局ブラウワーによる排中律への疑念が、このような主義を生むきっかけとなり、その後世に広まって行ったのだ。

◇数学的構成主義のあれこれ
以上のように、数学的構成主義は従来の数学が持っていた不安要素を無くそうといった考え方から出発をしている大変素晴らしい考え方ではあるのだが、
いかんせん哲学的でありすぎるため色々ネタ要素を含んでいる。
特に、上記の「構成主義者が2人揃えば構成主義は崩壊する」という点はその筆頭であろう。

上記のような厳格な数学的構成主義を信奉するお方は、恐らくいないだろう。
というのも、実数すらまともに使えないと算数並のことしかできないので、多くの場合構成主義者の構成主義への厳格さは人によってまちまちなのだ。
なので
「俺は実数くらいなら許してやるぜ!」
とか
「微積分無いと話にならないからそれくらいは許してよ」
のような差が生まれてしまうのだ。

つまり、主義としての基盤が人それぞれに差があるため、同じ「数学的構成主義者」を名乗っていても、
その厳格さの違いから、議論はおろか構成主義自体も崩壊しかねないのである。

数学の持つイメージからすると、ずいぶんとまぁユニークである。

それと最後に、冒頭のように自分にとって都合の良い数学しか信じないという程度の意味で「数学的構成主義者」を名乗るのは自由だし、ネタにもなると思われるが、
上述の通りこの数学的構成主義とは、
数学に本当に深い造詣があった人間が真理を追究しようという過程で辿り着いたある種の極みであるという事だけは忘れないで頂きたい。


追記・修正は構成的な手法を以ってお願いします。

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最終更新:2023年05月06日 02:35