天下三名槍

登録日: 2011/12/13(火) 23:03:34
更新日:2023/08/27 Sun 20:08:19
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天下三名槍は室町時代に日本を代表する名と称えられた蜻蛉切御手杵日本号の三本である。





蜻蛉切(トンボキリ)

穂:一尺四寸(43.7cm)
茎:一尺八寸(55.6cm)
最大幅3.7cm/厚み1cm/重量:498g

戦国最強と称えられた本多忠勝の愛槍。
本来、主な攻撃手段が突くことにある槍にとって切れ味は必要とされない事が多い。
が、この槍の切れ味は凄まじく、刃先に止まろうとした蜻蛉がそのまま両断された程であったという。
この時、槍を立てていたそうなので、忠勝が切ろうとしていないにもかかわらず真っ二つになったのだからうかがい知れるというもの。

そんな蜻蛉切を作ったのは藤原正真という人物で、なんとあの徳川を呪った妖刀と名高い村正を作った村正一派の刀工である。
徳川を呪ったと同じ一派から生まれた槍を家康の懐刀といわれた男が愛用していたのは面白い。
まぁ、そもそもにおいて徳川を呪ったという話自体が、徳川家や関係者に村正の所持者が多かったから、結果的に村正で死ぬ事も多かったというのが元の一つなので順序が逆なわけだが。
元々伊勢桑名の刀工なので中部地方に村正の銘の刃は多く、農民の使ってた鍬や鋤ですら村正の銘の入った物もある。
当然、蜻蛉切の刃はそんな数ある村正の銘の中でも超一級品であるのは間違いないが、村正の刃自体は割と何処にでもある物だったらしい。

柄の長さは二丈余(だいたい6m)。なお、通常の槍が4.5mほど。
晩年に、「体力落ちて振りにくくなったな」と、三尺ほど切り落として短くしている(それでも5mほどあるけど)。
また刀身には「カ キリーク サ」の梵字が彫られている

現在は本多家の手を離れ個人が所有している。基本的に常設展での一般公開はされず、美術館や博物館での特別展に合わせて貸し出されるようだ。
レプリカが岡崎城の展示施設に、江戸時代の刀匠・固山宗次の作った「写し」が東京国立博物館に所蔵されている。

なお2015年は公開される機会が多く、1月9日~2月15日まで静岡県の佐野美術館にて11年ぶりに一般公開されたほか、3月に東京でも展示され、
8月下旬から11月下旬にかけても再び佐野美術館で一般公開されていた。


御手杵(オテギネ)

結城晴朝→結城秀康→松平大和守家

刃長四尺三寸、総長七尺と2mに及ぶ長い槍穂が特徴の大身槍。(前述の蜻蛉切は約55cm程)
鞘の形が民話で語られる中央のくびれた杵、手杵に似ている事が名の由来である。
結城晴朝は刀工・五条義助にこの槍を作るよう命じた際「戦時はその威容をもって敵に戦意を抱かせないよう、平時には平和の象徴となるよう」との願いを込めていたとされる。
その長い槍穂に似合ってかなり重い槍だったようだ。上級の武士は敵との交戦まで自身の槍を付き従う足軽に持たせていたのだが、
その重量ありすぎる御手杵は持たされる足軽には悩みの種であったといわれる。

そんな剛槍だが昭和20年5月25日。
B-29の空襲の前にあえなく焼失してしまった
故に三名槍で唯一オリジナルが現存しない悲劇の槍である。
しかしその後2003年に五条義助の故郷である静岡県島田市の有志の皆さんの尽力でレプリカが作られ、結城市に寄託された。
現在は結城市の結城蔵美術館に常設展示されているほか、2015年にはクマの毛で作られた鞘も完成した。



日本号(ニホンゴウ) ひのもとごう、にっぽんごう、とも。

福島正則→母里太兵衛→後藤又兵衛

「酒は呑め呑め、呑むならば、日の本一のこの槍を、呑取るほどに、呑むならば、これぞまことの黒田武士」
じさまばさまが酒の席でほろ酔い気分で唄うのがこの黒田節である。
この中で歌われる槍こそ日本号であり、そして歌どおり呑み取ってしまった槍である。


この槍、元々は太刀であったとされるが天皇家が所蔵した逸品であった。
秀吉が天皇より賜ったとされるが腰に佩刀するのは恐れ多いと槍につくりかえたのだという。
槍ならば頭上に掲げるためちょうどよいというわけだ。
また槍でありながら朝廷より正三位の位を賜っており、あの水戸黄門より偉い。控えおろう!
まぁ黄門様は明治時代には正一位まで階位が上がったが。
……そんな誉れ高き槍が、「呑み取り」、すなわち 酒席の失態 で奪われたんである。


この槍を所有していたのは秀吉の配下、天下に名高い猛将・福島正則であった。
呑み取ったのは母里太兵衛(母里友信)という男。
あの黒田官兵衛の部下であり、官兵衛が一目おく傑物であったようで、
合戦に出れば数十もの首をあげ、幕府が諸大名に無理矢理出費させんと命じた江戸城の改修工事においても、難しい箇所をやり遂げ、おもわず幕府も報酬をたまわしたという。


そんな男が正則に呑取り勝負を挑んだのはとある正月のこと。

主君の名代として挨拶に訪れた太兵衛であったが、正則は既に酔っぱらっておりさんざからみにからみ、
しまいには主君、黒田長政(官兵衛の長男)に対する暴言まで吐いたという。
これには太兵衛も堪忍袋がぶちギレ。
正則に呑み取り勝負をけしかける。

先ほどまで下戸同然だった太兵衛が怒りに我を忘れて挑んできたと正則も調子にのり、



正則「いいぜwwもしおまえが勝ったらなんでもやるよwwww」

大杯にとっかえひっかえ次から次と酒をついだ。
猛将正則、下戸相手になんとも大人げない男である。



下戸相手ならな




なんとこの太兵衛、実は相当な酒豪というか「ザル」、いやもはや「ワク」で、
主君から「人様の家で羽目はずすなよ」と釘を刺されていたため、ここまで下戸を装っていたのだった。


愕然とする正則を尻目に片っ端から酒を飲み干した太兵衛は、天下に名高い日本号を所望。

これには正則も涙目で、

正則「ちょ…ま…まてまってくれ…
ソレはまずいって…ほ、ほらこれはどうだ?こっちだって俺秘蔵の一品だぜ?」

天下の名槍を渡す訳にもいかず必死に他の槍を与えようとしたが、

太兵衛 「武士に二言は無いよな」

正則の抵抗むなしく天下の名槍をひっつかみ、酔っぱらった様子もなく意気揚々と引き上げたのであった。




で、この後の日本号。

朝鮮の役で窮地を救った礼として、母里太兵衛から後藤又兵衛(後藤基次)に贈られた。
黒田官兵衛の没後、又兵衛は出奔するのだが、この時に野村家*1に渡され、代々伝えられてきた。
大正時代に手放されるも、旧黒田藩藩士の2人が大枚はたいて購入、旧主黒田家へ献上した。
昭和になると黒田長礼侯爵の遺言で福岡市に寄贈、現在は福岡市博物館に展示されている。





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最終更新:2023年08月27日 20:08

*1 又兵衛の娘の嫁ぎ先。太兵衛の異母弟の家でもある。