ルサンチマン

登録日:2011/10/01(土) 22:13:18
更新日:2023/10/29 Sun 23:45:02
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ルサンチマン。(ressentiment, 仏語発音:[rəsɑ̃timɑ̃])
それは弱者が強者に対して抱く嫉妬、怒り、怨念などのドロドロとした負の感情である。

デンマークの思想家キルケゴールによって確立された概念で、ニーチェ、シェーラーの著書で一般に広まった。

さて、ルサンチマンについて詳しく説明していこう。
優れた人、強い人を見たとき、誰でも少なからず嫉妬や羨望を持つだろう。そして自分の非力さ、無力さを感じ、ルサンチマンを抱く。

こういった感情をバネに自らを高め、ルサンチマンを克服する者もいるが、そうでない者もいる。

後者の場合、自分がダメなのは仕方がないのだと開き直ってしまい、自分自身を正当化しようとする。
もっと言えば、何もできない自分を正当化するためのツールなのである。

ルサンチマン的思考には、強者に対する反発・不満から来るネガティブな感情がその根底にある。
そのため、まず不満の対象である強者を否定して悪とし、次にその対極にある我々(弱者)は悪ではないがゆえに(無条件に)善であるという態度をとる。
つまり、敵(悪)の存在を想定しなければ善が存在せず、善人を名乗るためには悪人の存在が必要不可欠なのである。
酷いときには、善人を名乗りたいがためだけに、無実の他人を悪人に仕立て上げることすら、さも当然のようにやってのける。

このように、弱者の価値基準(善悪)は、強者の価値基準のように独立したものではなく、
他者(強者)を否定することによってのみ成立しうる相対的な基準であるという点が特徴。
自らの内に価値基準を持たないため、それを外部に見出そうとする。
あくまで悪人(強者)の対になるようないわば"善人"像を描き出す必要があり、作り上げた"善人"像に従って価値判断を行う("善人"として振る舞おうとする)。
それゆえ、常に他人の目(評価)を気にして、それをもとに自己評価を下さなければならない宿命にある。
強者は自らの内に固有の価値基準を持っているため、その点において強者は、他人の評価に束縛されない"自由な"人間であるとニーチェは述べている。

ニーチェはこのことについて貴族道徳(君主道徳)と奴隷道徳という語を用いて対比させている。
強者の道徳である貴族道徳は、率直な自己肯定および評価によって成り立つ。
一方、弱者の道徳である奴隷道徳は、他者否定がまずその前提としてあり、かつそれこそがまさにルサンチマンの本質なのである。
強者(の性質)を妬み、自己弁護に走り、本来"良い"はずのものを"悪い"ものだと蔑みこき下ろすという歪んだ価値基準を持つに至る。
つまるところ、価値基準の逆転現象が起こってしまっているのである。

なお、ここでいう貴族奴隷と言う語はあくまで物の喩えで、それぞれ貴族的性格、奴隷的性格とでも呼ぶべきもので、
史実の貴族や奴隷の観察・記録・研究等から着想を得た概念ではないため注意が必要。
貴族の中にも奴隷道徳的な論理で動く人物はいるし、逆に奴隷の中にも貴族道徳的な論理で動く人物はいる。

ではなぜこのような価値の倒錯が起きてしまうのだろうか。
強者と弱者の現実での力関係は、具体的な行動を起こしているわけではないため、実際のところは何も変わっていない。
……というか、力で対抗できるならとっくにやっている。
そこで、実力ではなく価値観のほうをひっくり返すことによって、思想的、道徳的、倫理的な優位を確保し、(頭の中でだけは)強者を下に置くことが可能になる。
むしろ発想の順序としては、力でどうにもならないという自覚が(意識的にしろ無意識的にしろ)多少はあるため、せめて想像の中では優位に立とうとする、あるいは同列以下に落とそうとするのである。
「~を持っているからどうした」「~ができるから何なんだ」「~が(でき)なくても生きていける」といった文を唱えて(そう思い込むことで)安堵し平静を保つ。
時にはそれを通り越して侮ったり嘲笑したりすることすらやってのける。
日常で耳にする「けしからん」「みっともない」「見苦しい」といった発言は、しばしばルサンチマン的な色彩を帯びていることがある。
……無論、嫉妬や怨嗟とは真逆の感情で、本当にろくでもないものに対して言われる場合も多々あるのだが。

少し脇道に逸れるが、キリスト教が世界宗教にまでなったのはルサンチマンの支持を得た結果である。
弱者を肯定するその思想がそもそもルサンチマン的である。
もっとも、ニーチェはキリスト教に対してかなり辛辣で、私怨で必要以上に叩いている部分もあるのだが、指摘そのものは鋭い。
具体的な内容は彼の著書に譲るが、要するにキリスト教の存在は、
「弱者を懐柔し、奴隷道徳を擁護し、貴族道徳的な素直さ・高潔さを妨げる方向に作用し、人が本来持つべき価値基準を歪める」
……ものだと考えている。

フランス革命、ロシア革命、ファシズムの台頭などの歴史的事件のバックには民衆(のルサンチマン)の扇動がある。
乱暴な言い方をすれば、われわれは神が死に王が廃れルサンチマンが勝利した世界に生きているのである。

地獄への道は善意で舗装されている。
善人ほど悪い奴はいない。
自らの正義を信じて疑わない者、"正義"の名の下に従わない者を非難・迫害・弾圧する者らを信用してはならない。
それはすなわちギロチン台を囲んで歓喜し高笑いしている者に他ならない。


ルサンチマンをこじらせ続けたままでいると、"悪いのは自分ではない"という発想を起点にどんどん敵を増やしていくことになる。
そして個人に原因を求めたのでは収拾がつかなくなってくると、やがて集団を対象とするようになる。
自分をこんな風にした周りの人間、学校、会社、社会、国(政府)が悪いのだと、心の中に大量の敵の軍勢を作りだす。
果ては世界が悪いのだをも敵に回すというところまで行ってしまう。
そして見えない戦いを延々と続けていくのだ……。

例えば、

●自分が勉強ができない
→高学歴消えろ
あいつの教え方が悪い

●自分の容姿に自信がない
→イケメンは氏ね

●自分の収入が少ない
金持ちなんて能力がない癖に実家が裕福なだけだろ?
→公務員は高給取りばかり。給料下げろ

●仕事が見つからない
→不景気な社会が悪い
俺を認めない会社が悪い

●恋人ができない
→くっそリア充爆発しろよ。休日とかカップルでうろうろしてんじゃねえよ。クリスマスだからって律儀にデートなんかしてんじゃねえよ。目ざわりなんだよおおお!!!…まあ、俺にも嫁はいるし?てめーらなんかより俺のが幸せだけどな。ただ、画面から出てこないし触れられないんだ…ぐわあああん!!!!リア充なんて消えてなくなれえええ!!!!→以下ループ


他にも、
ゲームで遊んでいる最中に、思うように楽しめないあまり、「こんなクソゲーやる意味はない」などと投げ出すこともルサンチマンを抱いたことによる行動と言われる。


……が、実際のところは、

勉強ができるに越したことはないし、
容姿が優れているに越したことはないし、
収入は多いに越したことはないし、
仕事があるに越したことはないし、
生身の恋人がいるに越したことはないし、
ゲームを楽しめるに越したことはない

……だろう。

これらの例は、価値判断の個人差こそあれ、少なくともあって困るような要素ではないはずで、
プラスの価値を帯びた要素と言って差し支えないだろう。
割に合わないと感じる場合でも、満足できる水準でないというに留まり、価値が低いだけで価値の存在自体を否定しているわけではない。
よく「好きの対義語は無関心」と言われるように、興味・関心がなければわざわざ口汚く扱き下ろす必要など皆無で、話題にすらしないはずである。
つまり、どうしても否定しなければならないor否定したい理由・事情があるのである。
自分が持っていないもの、自分が手に入れられないもの、他人が持っているものを等しく無価値にしてしまえば、
そこに一切の貴賤は存在しない平和な世界が完成するという、典型的なルサンチマンの発想、すなわち"他者否定"と"価値の倒錯"である。
戦いに敗れたor追い詰められた悪役が道連れを企てる心理もこれに該当する、もしくはこの過程を経たものとみなせる。

価値を否定するという行為は、良いものを手に入れることが不可能(と思える)あるいは困難な現実を前にしたとき、
我々が取る心の守り方・自己防衛の一形態でもある。(酸っぱい葡萄)
そして、その帰結および究極形がニヒリズムだと捉えることもできる。別ルート*1もあるけどね。
この場合はニーチェが言うところの「消極的(受動的)ニヒリズム」に該当する。

しかしながら、ニヒリズムには価値判断の原点になるという効用もある。
全ての事物の価値をフラットにし一度リセットすることで、本能や理性の要請から来るよりピュアな価値を見出すことが可能になる。
万物の全てが本質的には無価値・無意味な存在だと前置きすることで、本当に欲しい物やしたいことが何なのかが逆に浮き彫りになるのである。
「永劫回帰」の概念もとい思考実験の話とも重なるが、
「あなたはたとえ夢の中であっても夢を見たいですかor悪夢を見たくないですか」とでも尋ねれば伝わるだろうか。
ニーチェは、一度の境地に至り、そこから新たに価値を生み出す(見出す)人間を指して「超人」と呼んでいる。


詳しくはいろいろググってください。


ルサンチマンはいつも我々を苦しめる。
では、これらから逃れるためにどうすればよいのか。

最もよいのは上述の通り、悔しさをばねに自らを高めることでルサンチマンを解消することである。

または、全ては無意味だと主張する(ニヒリズム、虚無主義とも)か、このどちらかである。

前者は理想的ではあるが、必ず成果が伴うとは限らない。
自分の不満の種がどこにあるのかを探ることが先決。
本当に憎い相手の中に原因があるのかどうか、痛みを恐れずに自分の心に問い質してみる必要がある。
不満を解消することばかりに気を取られて本質を見失っていると自分も他人も不幸にする。
自分の無知や人生経験の乏しさ、あるいは自分の狭量さ、器の小ささからくるまやかしの不満である可能性も大いにあるのだ。


ルサンチマンそのものが憎むべき諸悪の根源であるかのように書いてきたが、
人間なら誰しもが向き合わなければならない心の問題である。
いわゆるリア充・勝ち組と見られるような人達の中にも確実に(大小、濃淡こそあれ)ルサンチマンは存在し、
決して克服したり逃れたりできるような類のものではない。

むしろ、自分の中にあるルサンチマンの存在を認めたうえで、自分の中にある歪みを明らかにし、それと向き合うことが大切。
自らの価値判断がルサンチマンによってどのように歪められているかを少しでも知るor知る努力をすること、
そして、自らの価値判断に対して批判的に検証しようとする姿勢・態度が重要なのである。
むしろ自分を疑うことによって初めて、自分のことを信用するに足る材料・根拠を探り裏を取ることに繋がるのである。
自分のことも含め、あらゆる事物を無条件(無批判)に肯定・信用してしまう危うさを自覚していたからこそ、
人はそれを盲信(妄信)と呼び自戒してきたのではなかろうか。
それが面倒難しいかったるいと感じるなら、「自分は真っ当な人間」だと思うこと(自分を無条件に肯定すること)をやめるだけでも意義はある。
ただ単に卑屈になればいいってもんでもないが……。

要するに、己の第一感に盲目的に従うのではなく、己が理性でもってまず疑えということ。
あまりにも無邪気過ぎる自我は、ルサンチマンの脅威に対して無防備・無抵抗と言ってもいい状態であり、
いともたやすく負の感情にかき乱され呑み込まれ、理性による制御や抑制を受け付けなくなってしまうことだろう。
ルサンチマンに対する意識や警戒心の低さは、自分を見失い我を忘れ激情の奴隷となるリスクと隣り合わせなのである。
知らぬ間に歪められてしまった自分に振り回されているうちは、真の意味での自由などないのだ。


せっかくの人生、どうせならフラストレーションを武器に憎い相手に一矢報いたほうが楽しいだろう。

見えない敵を倒そう。敵は己の中にいる。いや、そもそも敵などどこにもいないのだ。



俺が追記、修正させられているのはwiki籠りのせい。

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最終更新:2023年10月29日 23:45

*1 デカルト的な思考を進めてもいいし、相対化の極限としても現れる。