馬謖

登録日:2010/06/10 Thu 00:09:16
更新日:2023/12/30 Sat 13:56:10
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馬謖(ばしょく)とは、後漢末期から三国時代にかけての人物。字は「幼常」。
荊州の名門豪族である馬家の出身であり、字に「常」が付く「馬氏五常」の一人。
なお、この五人のうちの四人目(馬謖のすぐ上)の兄が「白眉」の語源である馬良である。
馬良と馬謖以外は名前すら分からないが、完全に不明というわけでもない。判明していることは馬良の項目にて。


諸葛亮の第一回北伐の折り、兵法に固執して山頂に布陣し、北伐失敗の直接の引き金となったことから一部では、
「登山家」「Mr.生兵法」「三国版趙括*1」などと呼ばれているとかいないとか。


【出仕】

赤壁の戦い後のどさくさに紛れて、劉備は一度は曹操の勢力下にあった荊州南部を平定。
劉備一味はこの時期までは土地なしの傭兵部隊に過ぎず、内政や外交ができる人材の確保は急務であった。
また、荊州をまともに統治するにあたっては、実際に人民を束ね、徴税や徴兵の権限を握っている地方豪族たち*2を味方につける必要があった。

かつて荊州を統治していた劉表は、最初赴任した際に豪族たちの反抗にあって荊州に入ることすらできず
その後蔡瑁・蒯越らが「豪族間の抗争に勝つために」劉表を迎え入れたために、やっと荊州を収めることができた――といえば、この時期の豪族の強さがわかるだろうか。

その蔡瑁と蒯越はすでに魏国で出世街道を進んでいたが、劉備たちとしては荊州統治にあたって豪族の支援は欠かせない。
諸葛亮や龐統といった一部は味方に加えていたが、まだ足りないのだ。
そこで劉備が目を付けたのが、荊州の大豪族だった馬氏である。
それに諸葛亮はもともと馬氏の支援を受けていたらしく*3、馬良とは義兄弟の契りも結んでいたらしい。

劉備は徐州の陳登、荊州の蔡瑁など、これまでは大豪族にそっぽを向かれ続けていたが、今回はついに馬一族という大豪族との契約に成功。
馬良・馬謖を傘下に加えることに成功し、特に馬良は劉備にも気に入られ、重用されることになっている。


【劉備時代】

劉備が益州へと兵を進めると、馬謖もこれに随行。
無事に益州を平定すると、政府の首脳となった諸葛亮は馬謖の才気に大いに期待し、各地の県令や太守などを歴任させた。
馬謖自身もやはり自信と能力はあったようで、任地においてはよく統治することができていた


しかし馬謖が越雋郡の太守を任されていたとき、南蛮地方で反乱が多発し、それが彼の治めていた越雋郡にも飛び火した。
それで南蛮の長である高定が反乱を起こして領内を荒らしまわった。
この知らせを受けた馬謖は、防衛よりも軍議を優先
なんとか撃退に成功するも、劉備は眉をひそめたらしい。

ただ越雋郡は馬謖以前から反乱が多発し、またかなり後年になっても治まったり乱れたりを繰り返していた。
そのため、馬謖が無能だったというよりも誰であっても治められない難地であったというほうが的確*4である。

だが、このあたりで劉備は何か思うところがあったのか、夷陵の戦いで敗走し、白帝城にて諸葛亮らに後事を託すに及んで、わざわざ馬謖に言及している。
しかもそれは「馬謖は大言壮語の癖があるからあまり重用するな」というもので、諸葛亮の人物眼をけなし、その右腕というべき人物を批判するものであった。


【諸葛亮時代】

しかし、結果として諸葛亮はこの言葉を拒み、馬謖を参軍に取り立てて昼夜を問わず語り合ったとされるほどに重用。
これは、一つには荊州統治にあたっては依然として馬氏の協力は必要であり、今更切れないという事情や、
蜀漢内部における荊州グループの一員である諸葛亮にとって、馬謖は政治的にはスポンサーであり、権力的には後ろ盾でもあったという事情もある。

しかし、諸葛亮にとっては劉備への反発、という思いもあったではあろう。
劉備の遺言の場面では、劉備はわざとらしく劉禅がダメなら君が国を乗っ取れ」などと、わざわざ群臣の前で言い残している。
だが普通に考えて諸葛亮は「はいそうします」とは言えない。まして、その場には「丞相」と同じ権力を持つ「尚書令」李厳もいたのだ。
馬謖を槍玉に挙げたのも、圧倒的な権力を握ることが目に見えていた諸葛亮を警戒し、群臣の前であえてその人物眼をけなすことで、諸葛亮の権威を削る意図があった――とみることも可能だろう*5

それら全てを知っていた諸葛亮が、劉備への反発もあって馬謖を用いた--と考えても、不思議はない。
もっとも、それらを無視しても諸葛亮を中心とした体制を支えるという意味で馬謖の存在は依然大きく、彼の腹心として存在感を増していく。



劉備の死後、南蛮が度々反乱を起こすようになる。
上述したとおり、これまでも南蛮はことあるごとに反乱を繰り返しており、今回諸葛亮はいよいよ本格的な征伐を考えていた。
一つには、かつての荊州喪失や夷陵の大敗で、蜀漢は軍事体制そのものの変革を余儀なくされており、南蛮の戦力を吸収して、新たな兵源を確保する意味もあった。

馬謖はかつて南蛮の反乱を経験していたこともあり、諸葛亮は彼を招いて意見を聞いた。
そこで馬謖は「蛮族に対し、力でぶつかってもダメです。彼らの『心』を攻めれば、反乱も起きなくなるでしょう」と進言した。
これを聞いた諸葛亮は喜んで彼のプランを聞き入れ、七縱七擒の戦略で南蛮の王・孟獲を心服させ、南征に成功する。
兵力の確保にも成功しこれ以降の蜀軍では、南蛮の兵士たちがかなり活躍したらしい。

もっとも、その南蛮平定の成果をある意味で叩き潰すのが、ほかならぬ馬謖その人であろうとは、この時は知る由もなかった……


【北伐】

南方が安定して後顧の憂いがなくなり、また戦力の再編にも成功したことで、諸葛亮は劉禅にかの有名な「出師の表」を上奏。
第一次北伐を開始する。
魏国に寝返っていた孟達の再度の寝返りもあったが、これは司馬懿に鎮圧されてしまう。

一方、諸葛亮は軍を二つに分け、一方を趙雲に預けて箕谷へと進軍させる。こちらは陽動であり魏軍の戦力を分散させる狙いがあった。
趙雲の元には救援として名将・曹真が派遣されるが、その隙を突いて諸葛亮率いる本隊は祁山へと進出、天水・南安・安定の3郡を攻め落とす。
この報に泡を食った曹真は、北伐軍の機先を制する街亭に向けて、官渡決戦以来の百戦錬磨の名将・張郃を差し向けた。

街亭は祁山の北に位置する要衝であり、魏軍がここを抑えた場合、祁山の西を回り込んで蜀軍の後ろを攻撃することができた*6
それは祁山から東進して陳倉に抜け長安を目指したい諸葛亮本隊にとって補給線の分断という致命的な事態を招く危険性があった。

そこで諸葛亮は街亭の守備に馬謖を起用し、大軍を預けて急行させ、「城に拠って街道を堅守せよ」と厳命した。
ここを死守しておけば後ろを心配せずに涼州を攻められるし、張郃が街亭を攻めている間に陳倉を落とせば、逆に張郃軍の補給線を分断して包囲殲滅することが可能になる。
それに政治的に見ても、既に地盤を失っている荊州グループが躍進することは重要な意味を持っていた。

このように、街亭の守備は戦略的に非常に大きな意味があった。
そしてその大役を任された馬謖の部隊は張郃に先んじて街亭に到着することに成功する。到着するところまでは。


街亭についた馬謖は、その土地を見渡して、諸葛亮からの指示を無視して近くの山の上に布陣してしまったのだ


実はこの時諸葛亮幕下の諸将は、馬謖ではなく、経験豊富な魏延呉懿を街亭に送るよう推薦していた。
だが、諸葛亮はここで我意を通してしまう。
それでも諸葛亮は大事な一幕ということもあって、慎重さで鳴る王平を副官につけていたが、これもまた裏目に出た。
王平は卑賤な生まれから昇進した叩き上げだったが、「益州グループ」「異民族生まれ」「文字の読み書きができなかった」などのあたりが、
「荊州グループ」「名門出のエリート」「諸葛亮肝いりの謀臣」という馬謖のプライドをやたらと刺激したらしく、
馬謖は王平の再三の諫めを拒絶し、街道を外れる上に水の補給ができない山上に布陣してしまう。
その他の部下として張休や李盛、黄襲などもいたが、彼らも馬謖を止められなかった。


街亭を落とされた場合の影響を考えず、明確な弱点を持つ山上布陣を選択した馬謖だが、まだ挽回の余地はあった。適切な戦術を取っていけば街亭を守り切って結果オーライとなる可能性は残されていたのだ。
だが、馬謖はこれ以降も失策を重ねていく。

街亭に辿り着いた張郃は、馬謖軍の布陣を見て即座にその弱点を看破、蜀軍の包囲を始めた。
……が、なぜか馬謖はその動きを傍観する。
この時馬謖が採るべき行動は張郃の包囲の隙を見つけ、全軍で逆落としをかけ、そのまま山麓に陣を引くことである。そうすれば街亭の防衛は果たせるし、魏軍全体の出鼻を挫くことにもなっただろう。
また、せめて水源だけでも守りを固めておくか、あるいは水が十分あるかのようにハッタリを利かせるという手もあった。包囲されても持ち堪えられれば足止めという目的は果たせるし、水を絶つという目論見が外れたと誤解して焦った張郃が強攻をかけてくれば山上の優位が活かせただろう。
だが、ここで馬謖は決断し損なったか気づくのが遅れたか、はたまた大軍に恐れをなしたか包囲が完成するまで山上から動こうとしなかった。

結果、魏軍の包囲は完成し馬謖軍は山上で孤立する。これにより深刻化したのが前述の水不足である。
馬謖もようやくそのことに気付いたのか、慌てて麓の水源を奪還するよう命ずるが、急な方針転換のため指揮系統が混乱。
さらに張郃が馬謖軍の動きを予測していたためあっさり撃退されてしまう。

こうして水を断たれた馬謖の軍はほとんど戦わずに戦意を喪失
さらに時宜を見計らった張郃が総攻撃を仕掛けたことで、馬謖の部隊は壊滅。馬謖自身は戦場から脱出できたが、街亭は占領されてしまう。

これは上記の越雋郡の太守時代において防衛よりも軍議(撃退)を優先して劉備に眉をひそめられた時と同じ状況であった。
現代の我々にとって劉備の意図は知る由もないが、劉備の警告は的中した形となってしまったのだ

【処刑】

結局、この街亭の敗戦によって勝機を失った蜀軍は全滅の大ピンチに陥る。
馬謖とケンカして別行動をしていた王平が奮戦して魏軍の追撃を防いだため撤退の時間が稼がれ、辛うじて蜀軍全軍瓦解という最悪の事態は避けられた。

だが、魏は元々「関羽や劉備の死で蜀はもう恐れる必要なし」と判断しており、この北伐は魏が蜀に対して油断しているという好機を衝いたもので、実際それなりの戦果も挙がっていた。
この北伐失敗により、魏は蜀に対して警戒を強めてしまい、言わば千載一遇の好機がフイになってしまったのであった。
実際、この後も蜀軍は度々北伐を行うが、得られたのは戦術的勝利にとどまり、パワーバランスを動かすような大勝利は遂に得ることができなかった。

その直接原因を作った馬謖は、責任を取って斬首という結末になった。
この際、彼は舜が鯀を処刑しても、その子の禹を起用したように、一族を用いていただければ幸いです」と遺言し、諸葛亮も遺族を処刑することはしなかった。

諸葛亮にとっては大事な愛弟子であり、右腕であり、また義兄弟だった馬良の弟でもあったということで悲しみは大きかったし、できれば斬りたくもなかった可能性が高い。
だが、蜀は荊州出身者と益州出身者で派閥があったといわれ、諸葛亮も馬謖も荊州出身である。
そんな派閥抗争を法治国家として公平に治めることで、地盤的にも前の統治者を強制的に排除したという負い目がある中やってきた国である。
『これほどの大事に対し、法を守らず曲げて解釈してしまえば、益州派閥に荊州派閥が突き上げられて派閥抗争が激化し、最悪国が瓦解しかねない』危険性を孕んでいた、というのも考慮しなければならない。
私怨のあった者を勝手に捕らえ殺害するという完全にアウトな行為をしても功績が大きすぎて罪に問うことが出来ないのは非常に特殊なケースなのだ。

また正史「向朗伝」によると、敗北した馬謖は逃亡を計ったらしい
仲の良かった向朗は見逃してやるものの、結局馬謖は捕まってしまった。
なお、この見逃そうとしたことが原因で向朗は罷免の憂き目にあってしまう。

ただ、馬謖が死んだのは記述が一致しており間違いないのだが、正史においても死刑にしたという記述と獄死したという記述があったりしてその最期は意外と混乱している。
諸葛亮としては、馬謖は敗戦の責任を問うものの死刑にするつもりまではなく、処罰を受けさせてみそぎをさせたら再度登用しようと考えていたのに、
向朗伝にある通り、馬謖が逃げたために本当に死刑にするしかなくなったのではないかという説もある。

実際、李厳などは食糧輸送をきちんと行わず、しかもそれを覆い隠そうと嘘をついて蜀軍を撤退に追い込むという、
本人どころか三族皆殺しレベルの暴挙を行って、成果を上げていた北伐をつぶしたのに、庶民に落とされただけで死刑にはならなかった*8

馬謖が本当に有能であったかはともかくとして、「有能な人材をなくしてでもけじめをつけるのを優先する」か、「けじめにとらわれた結果有望な人材を失うのを惜しむべき」かは、常に難しい。
ただでさえ人材不足な蜀の場合、なおのこと人材を惜しむべきだったという後世の批判もある。
とはいえ、当時の馬謖は三十八歳。「これからの成長を待つ」には、当時の感覚としては年を取りすぎていた面もあるだろう。

戦いに参加した武将は困難な状況の中物資を無事に持ち帰った趙雲すら降格処分となった*9
諸葛亮自身も、この敗戦の責任を取って丞相を辞任、右将軍への降格処分となっている。
ベテラン起用説を蹴って私人に近い腹心を使い、その結果が国の命運を断ちかねない大失敗では、さすがに処罰は避けられなかった。
ほかに人材がいないため、後に戦果を挙げて丞相に復帰するまでの間も丞相代行を続けてはいたのだが。

街亭の戦いに参加した部下の将校も多くが死罪や軍権剥奪などの厳罰に処されたが、馬謖を再三諫め、戦場でも僅かな兵で敵を足止めした王平だけは、特別に昇進している。
また、馬謖の参謀に陳寿の父親がいたが、上司の馬謖が街亭の敗戦で処刑という結果になったため、連座(というかおそらくは補佐よろしきを得ずという罪)で髪を切り落とす刑となった*10
髪を切るなんて軽いと思うかもしれないが、「身体髪膚、これを父母に受く」、肉体を髪の毛さえ大事にする中国人にとって、この刑はなかなか辛いものなのだ*11
陳寿について「諸葛亮が嫌い(それで偏向した)」という疑惑があるのは、この父が受けた屈辱が原因ではないかと推察されることがある。
ただし、記述からして陳寿の諸葛亮への評価は別段低いものではなく、馬謖についても「諸葛亮の節度に背いた」とはっきり書いている。
父のために曲筆する気なら諸葛亮の指示ミスや馬謖の判断ミスと書けばよく、あえて諸葛亮の節度に反したと書く必要はないはずである。
また陳寿の父親が馬謖の参謀であるという出典は正確性に疑問が多いとされる「晋書」であることは留意しておこう。


なお、劉備は正史でも馬謖の起用に釘を刺す発言をしていたとされ、劉備の人物眼が諸葛亮に勝るかのように思われているが、劉備とて完璧だったというわけではない。
夷陵の戦いにおいて劉備は馮習という人物を総指揮官に抜擢したが、その馮習は連戦連勝で油断したために陸遜の前に敗死し全軍総崩れとなった。*12
そんな先達者からの警告を無視した結果再び同じミスを招く、これを皮肉と言わずなんと言おうか

【三国演義における馬謖】

史実の活躍とほぼ変わらないが、南蛮征伐の折、怪獣兀突骨が指揮する藤甲兵について火で焼き払う助言をしている。
また、北伐直前には司馬懿に対する流言を流していったん失脚させるという功績も上げさせている。

しかしのちの展開まで考えると、これはむしろ「馬謖を調子づかせる」「諸葛亮をして目を曇らせ、馬謖を重用させる」「謀略には長けても実践能力とは別であるというジレンマを抱かせる」という壮大なフラグであったといえる。
実際、街亭直前には「諸葛亮の腰巾着」「実戦を知らない」という陰口を叩かれ、それを本人も気にしているという、馬謖の心理状況も描かれている。
このあたりは羅貫中の手腕とみるべきだろう。

また、諸葛亮が馬謖処刑に涙する理由が変更されており、「愛した腹心を切った」から「先帝の言葉に背いて用いた結果、国家の大事を誤ったことが悔しい。己がふがいない」ということになっている。

一方、馬謖を街亭に派遣するにあたって、諸葛亮は王平のみならず高翔*13や魏延を抑えに派遣しているが、
先鋒で暴れてナンボと考えていた魏延が馬謖「ごとき」の支援に回されて不愉快になるという場面が加えられており、馬謖大敗の裏で、のちの諸葛亮と魏延の相克のフラグを立てるという、なかなか器用な展開ともなっている



【その他の馬謖】

  • コーエー三国志
史実や演技の描写の割には高能力であり、スキルが孔明とマッチする作品もあって比較的優遇気味。
とはいえ、能力値そのものは魏延や姜維といった一流どころには明らかに及ばず。
よく補佐できる二級武将といったところか?
とは言え、劉備や関羽、張飛、黄忠、馬超*14など有力武将の多くを失った終盤の蜀では、貴重な人材であることには違いなく、作品にもよるが、終盤の武将の少なさは蜀に限らず、これをどうするかは全体としての問題でもあり、どんなカス武将でも終盤まで存命というだけでも存在価値はあるくらいで、ステータスだけなら有能な馬謖でも第一線で出した方がいいだろう。蜀以外でプレーして、捕えて気に食わないから処刑というのも、軽々しくやってはいけない。

特に上記の特徴が顕著なのが『11』。
この作品では計略の消費気力を1にする「百出」という特技を持ち、自分より知力の低い部隊への計略が必ず成功+クリティカルという最強特技「神算」を持つ孔明と組めばほぼ無限に相手を混乱or偽報状態にできる無双プレイが可能。
だが馬謖自身は微妙な統率・武力、低い兵科適正、高いが計略担当としては心許ない知力、並程度の政治(戦場での建設力)しか持たない凡将に過ぎない。
「孔明に従えば無敵だが、独り立ちするとボロが出る」という彼の性質が如実に表れている。

なお、コーエーは馬謖を「口だけが達者なトーシロ」として呉の諸葛恪と同類に見ているようで
この二人は滅多に存在しない「高知力だが性格が猪突の武将」として設定されている。
特に『11』での似せ方は徹底しており、特技・性格・口調は全く同じで、合計能力値は1しか違っていない。

三國志14では全ての武将に何らかの「個性」が付けられたのだが、馬謖には「策士」「智嚢」といった軍師系の個性と共に
しっかりと「猪突」(敵が一定範囲内に近づくと勝手に敵に向けて移動してしまうマイナス個性)が付けられている。
「猪突」は基本的に脳筋タイプの武将に与えられている個性で、軍師タイプの武将に付いているのは極めて珍しい。
パワーアップキットでは固有戦法『才気煥発』を習得したが、それが公表された公式ツイッターで「著名な登山家」と紹介されてしまった。

さらに三國志14では銀河英雄伝説の登場人物をおまけ武将として使えるコラボが行われており、
銀英伝の人物には三國志の武将が親愛武将として設定されている(ヤン→諸葛亮、ユリアン→姜維、など)のだが、馬謖を親愛認定しているのは フォーク である。
君も高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に山に登ろう!

  • コーエー英傑伝
上記とは打って変わって冷遇気味。
英傑伝(無印)では、能力こそ高いものの 就いているクラスが士気回復しかできない軍楽隊 の為、そのままだとほぼ戦力外。クラス変更アイテムがあるので、それを使い他のクラスになることでカバーすることは一応可能。

孔明伝では「主人公である諸葛亮の側近」という重要な立場にあるにも関わらず能力が落とされ、クラスも歩兵隊(物理、策略ともに微妙)にされるなど、どうあがいても戦力外になるような調整がされた。
オマケに 姜維加入後は役割を奪われ たとえ街亭で戦力差を覆して司馬懿を蹴散らしても、敗戦扱いで処刑されそうになり(コンシューマー版だと不問になるが) しかも処刑の方がメリットが大きい(孔明以外のキャラ全員のLVが5上がる。攻略本でも「馬謖は殺そう」的な台詞が出ている) …と、露骨に冷遇されている。
このためニコニコしながら馬謖を斬る孔明が続出した

曹操伝では敵として登場、生意気だが迂闊な面が強調されている。
ルートしだいでは 孔明や姜維と共に劉禅を見捨てて逃亡する と言う展開になり、曹操に敗れて死亡した劉禅を姜維と共に罵倒すると言う描写がある(流石に孔明は二人を嗜めるが…)。
劉禅が不甲斐ないのは事実だとしても 「劉禅に徹底抗戦を示唆しておきながら逃げ出したお前達が言うな」 であるが。

  • 横山光輝三国志
劉備時代の描写が無く、遺言はカットされたがそれ以降の要点は押さえている。
しかし出番少。

ウザい感じのイケメン。劉備に冷たい目で見られる。まあそれを言うと諸葛亮のほうはもっとだが……

  • 三国志大戦
Ver1~2
コスト2弓 武4知7 伏兵
いくら弓の苦手な蜀とはいえ、数値上は全くいいところのないスペック。
計略は士気を消費して自分が撤退する代わりに士気上昇する(士気が増える)「泣斬馬謖(ないてばしょくをきる)」

Ver3
コスト1.5槍 武5知7 伏兵
同じ絵師なのに全く別のカードに生まれ変わり、かなり使いやすくなった。
というか3年目にして初めてのガチな馬謖。計略は範囲内の敵を引き寄せる「挑発」

軍師:転身再起(天)・山頂布陣回復奮陣(人)
3より導入された軍師システムの軍師カードとしても登場。
癖はあるが状況によっては強力な転身再起と範囲内の味方武将の兵力を徐々に回復する回復奮陣を所持してるなかなかの強カード。
特に回復奮陣は開幕に高武力武将を集めた前出しデッキや中盤以降に士気を回しながら長時間敵陣に居座るデッキが猛威を奮い、バージョンによっては覇権を取れたほどの強さを誇った。

Ver3.59
コスト1.5弓 武4知2 軍備
計略は懐かしい「泣斬馬謖」。ただし戦闘中一回しか使う事が出来ない。
ビックコミックスピリッツとのコラボカードであり、〇〇アフロ田中とのコラボなためアフロになっている。

新版
コスト1.5弓 武4知8征2 伏兵
計略はおなじみの「泣斬馬謖」。
当初は回数制限がなかったが、漢軍との混色で暴れまわったため、一回のみの制限が付いた。その代わり征圧力は1プラスされている。
それなりのポジションに落ち着いており、諸葛瞻&劉安楽のフルコンや宝石の国の諸葛瞻など蜀単で大量に士気を使うコンボに使われている。諸葛瞻好きだなオイ。

コスト2馬 武6知8征2 伏兵
計略は自軍の撤退した武将のコストに応じて武力と移動速度が上がる「仇討制度」
漫画家とのコラボカードで、絵はなんとあのNARUTO‐ナルト‐の岸本斉史!…の弟である岸本聖史。
やっぱり武力が頼りないが、計略が神速系の超絶強化でありながら他の武将に掛けることも可能なフレキシブルな点を買われ、高コストを2枚軸にしたデッキで散見される。

コスト1.5弓 武3知9征2 伏兵 魅力
裏書で丞相を超えたと言い放って憚らない愚か者。一応数値だけなら龐統に並ぶのだが…。
計略は蜀の全体強化である「山頂布陣」。英傑号令並みの武力上昇値と単体強化並みの士気の軽さが魅力だが、効果終了時に自信は撤退し、残った味方は死ぬまで移動速度ダウン、と凄まじいデメリットを持つ。
ただやっぱりスペック的にも計略的にも使いにくすぎる(特に計略を使ってしまうと1.5コス武力3のバニラになる)為かエラッタが入り、
武力+2・知力-2・伏兵魅力没収されて計略もいわゆる決死号令になった。


  • 白井式三国志
顔が面白すぎる。

「鮮烈なる俊英」馬謖ガンダム。演者は設定されていないが、リデコ元はストライクモチーフなので実質レジェンドホンタイさんと同じ演者である。
本編には登場しない武将の活躍を扱った外伝作品『武勇激闘録』にて登場。
独自に項羽ターンXに接触し、翔を裏切って独自勢力「楚」を興すという史実や演義もビックリな行動に出る。
案の定三国全てにフルボッコにされ、山頂に布陣するというお約束の行動に出た後「四面楚歌」で楚は滅びた。
こちらでは脱出しており、死にはしなかったものの以後の消息は不明。
公式が病気で有名な公式サイトの「今週の武将」コーナーにて、
劉備ガンダムに「馬謖が山頂に陣を敷き、項羽の周りから楚の歌が聞こえ始めたんだ。ヤバい臭いがプンプンしてるだろう?」と言われている。

本編未登場系外伝武将の例に漏れず、キットは『武者○伝3』に登場した武侍丸のリデコ。「馬」繋がりで血縁も無いのに馬超や馬岱と同じく青肌になっている*15
リデコ元のアイチェンジギミックも搭載されているが、地味にバーを倒す方向が逆になっている*16
また、リデコ元から存在する「いかにもリデコキットで使いそう」な胸元のスリットは今回も使われていない。なんでや!

  • 反三国志
前線でバリバリ戦うタイプではなく、荊州方面を担当する内政官僚扱い。
大活躍というほどではなかったが、善政を布いてしっかりと呉を牽制する程度の働きはしていた。

  • 流れよわが涙、と孔明は言った
孔明は泣いたが、馬謖のことは斬れなかった。
硬かったのである。



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最終更新:2023年12月30日 13:56

*1 中国戦国時代の趙の人物。現実を見ずに兵法書通りに軍を進めた結果40万の自軍を壊滅させ、「紙上に兵を談ず」の故事成句の元となった。

*2 武陵蕃など、異民族勢力を含む。

*3 余談だが、諸葛亮は蔡瑁とも縁戚である。

*4 蜀のみならず魏や呉も、領土に対して実効支配はロクにできていなかったらしい。

*5 後世の我々と違い、この当時の劉備たちに、諸葛亮が謀反を起こさないという保証はない。また、関羽も張飛も亡き後、諸葛亮が蜀漢の全権を握ると、後漢における曹操や魏における司馬昭のような結果になりかねない。劉備にとっては必要な警戒であった。

*6 この辺りは険しい山岳地帯であり、軍が移動できるルートは街亭を通るか、あるいはさらに北側を大回りするしかなかった

*7 分かりやすく言うと、戦略的には普通「食料補給路の確保」>>越えられない壁>>「敵の殲滅」である。その上敵主力を釘付けにするのは、敵軍の各個撃破に関わるものである

*8 ただし李厳については単純に馬謖と比べられない複雑怪奇な事情がある。例えば、「庶民降格」という明らかにヌルすぎる処罰にさえ、諸葛亮は大臣の半数の署名を集めてやっと持ち込んだとか、そもそも「皇帝と丞相の離間を図った」のに劉禅が処罰しなかったとか……これを述べると項目一つ分くらい必要になるのでやめるが、とりあえず馬謖にも処刑されない可能性ぐらいはあった。

*9 ただし諸葛亮は物資を持ち帰った趙雲を評価し労ったとされる

*10 蒼天航路で劉備が呂布にやられた「イカした髪型」である。

*11 三国志演義では、曹操が自らを罰する意味で「死罪に代えて」髪を切って見せたり、呉の周魴が二心がないことを示す意味で髪を切るなど、髪を切ることが冗談では済まされない行為でなければ成り立たないエピソードがある。三国志の時代からは千年以上後の話ではあるが、女真人の王朝である清が中国全土を支配した時も、漢民族の成年男子(後頭部すら髪が生えていない真正の禿頭と、頭を完全な丸坊主にする必要があった僧侶を除く)に清への服属の証として、女真人の伝統的な髪形である辮髪(後頭部以外の髪を剃り、後頭部の髪を長く伸ばして三つ編みにする)を強制している。制定当初は「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず」(辮髪を拒むものは、反逆者とみなして斬首刑に処す)と言われるほどの徹底ぶりであった。

*12 馮習は正史での記述もさほど無い人物であるものの、「夷陵の戦いで負けたのは馮習の油断のせい」と複数の史書で書かれてしまっている。

*13 史実では遠方の列柳城にて郭淮と交戦している。

*14 五虎大将では趙雲だけ存命だが、高齢で、史実だと馬謖の死のすぐ後に病死

*15 実はよく見ると馬超・馬岱とはボディの青成形色が微妙に(キットを並べてようやくわかる程度に)違う。

*16 武侍丸がマゲを前に起こす事で熱血漢らしい燃える目に変化するのに対し、馬謖ガンダムは後ろに倒す事で軍師らしい思索顔に変化する。