空(インド哲学)

登録日:2011/05/06(金) 18:33:48
更新日:2023/12/10 Sun 21:22:40
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◆空(くう)の思想とは


インド哲学が生み出した最大の哲学であり、事実上人間が到達しうる最高の知恵である。
大乗仏教が伝わり、仏像や御先祖に手を合わせている日本人にはピンと来ない人も多いが、仏教本来の根幹を成す思想。
(驚くべきことに、現代物理学の双璧である相対論・量子論によって、遥か紀元前に発見されたこの思想の正しさが裏付けられているのだ)
それ自体は釈迦が悟りを開いた紀元前4~5世紀ほどに既に完成された概念だったが、後に経典の整理や部派の対立と議論によって徐々に論理的に体系化されてゆき、
1世紀から2世紀ごろまでに成立・編纂されたいわゆる『般若経(般若心経はこの一種)』を龍樹(ナーガール・ジュナ)が注釈し、
その真髄を『中論』にまとめたことで現在存在する大乗仏教に直結する形で再完成されたと言える。


◆空ってなに?


空とは『実体・本質(つまり「我」)が無い』ことを表す言葉である。
某テニヌの内容はともかく、『無我の境地』の『無我』のことだと考えて概ね差し支えない。

では、『実体・本質が無い』とはどう言うことであろうか?
まず『本質』つまり『我』=『アートマン』の定義をしなくてはならない。
これはインド哲学では『単一のものからのみ成立し、他のあらゆるものに依存しない永遠不変の概念』である。
バラモン-ヒンドゥーに通じるインド哲学ではこれを重視しており、単に世俗的な個々人の人間性や嗜好については流石に否定するが、輪廻転生しても引き継がれる人間としての『個』はある筈だと考える。
即ち、これがアートマンであり人間としての個性を越えた『真我』であると解く。
バラモン-ヒンドゥーの系譜のヴェーダ哲学に於いては、この人間としての個性を宇宙の理である『梵』=『ブラフマン』と一体化させることこそが輪廻から逃れる道であり解脱であると考える。

……しかし、空の思想では、『そんなものは存在しない』と真っ先に切って捨てる。

例えば、『蚊』は一見はっきりした実体であり、万人が持つ『蚊』と言う概念として独立しているように思われるが、
実際には『その蚊を生んだ親の蚊』や『その蚊がぼうふらの頃に育った水溜まり』がなければ、当然その蚊は存在しえない。
つまり、他の存在に依存してしか存在しえないのである。

そもそも、それを『蚊』として捉え、認識するという行為が無ければ『蚊』は存在出来ない。『蚊』を『蚊』と認識しているのは、そのプロセスが無意識に遂行されているからだが、実際にはその判断の基準、思考の推移の段階とは、考えれば考える程にあやふやとなっていくのである。…そもそも『蚊』ってなんだよ?

例えば、眼の病を患って、常に目の前に蚊がいるように見える人がいたとする。
当然その人以外にはその蚊は見えない。その蚊は実体ではないからだ。
そして、その人が医者にかかり、その病がめでたく完治したとき、そこにはもうさっきの蚊はいない。

では、その蚊はどこから来たのだろうか?
幻覚なのでどこから来たわけでもない。
では、その蚊はどこに消えたのだろうか?
もともといなかったのでどこに消えたわけでもない。
だが、その患者には『確かに蚊が見えていた』のである。

では、世の中の全員が同じ病にかかってしまったとしたら、その全員に見える蚊は幻覚なのか実体なのか、誰に区別できるだろうか?
蚊だけではない。
足元に転がる石も、空に浮かぶ雲も、全てが白昼夢であるかもしれないのだ。

と言うか、空の思想では『全部幻のようなものだ』と断言している。

更に続けると、そこに一つの『木製の机』がある。
これは『木材』のほか、『螺子』や『釘』も構成要素である。
そしてこれに座ればこれは『椅子』となる。
斧で叩き割れば『薪』となる。
火にくべれば『灰』となる。
元々は『一本の木』である。
その『木』は様々な栄養分や、その木の『親』がいなければ存在しえない。
しかも、実は最初に見た机は幻かもしれない(幻では無いとは誰にも言えない)。

では、この机は『単一』でもなければ『永遠不変』でもなく、『実体』でも無い。
机に限らず、世界中の全てのものは行為や状況に応じて刻々と変化してゆくものであり、次々に生まれては次々に滅びてゆくものなのである。

即ち、『諸行無常』だ。

空の思想とは、あらゆるものに『独立性』『永遠性』『実体性』を認めないことなのだ。
この思想の強烈な点は、『この空と言う概念さえ、空である(次の瞬間には消滅したり変化したりする)』と断言してしまっている点であろう。
これは論理学の『自己言及の禁止』と言うルールには違反している(矛盾が生じてしまう)が、
これには『次の瞬間には新たな「空」が生じる』『結果として、それぞれの瞬間瞬間はやはり空である』と言う反論で解決したことになっている。

事実、上記の『蚊』に限らず、認識するという行為はあくまでも個々人の感覚器官を得て脳にもたらされた情報が処理されることにより得られるものだが、それが他人の認識と同じものであるのか否か、それどころか己の見ているものが夢ではなく現実であるのか否かすら、己には判断出来ないのである。
自己認識も幻、他者と認識した相手と共有している情報も幻、己が目覚めているか否かすらも本質的には判断出来ないという解答が導き出されることになる。
ついさっき、自分が子供の時からの記憶を持たされて生まれてきたばかりの人間だとしても、自分ではそれを判断出来ず、他人にそれを指摘されても認めることはないだろう。
故に、その瞬間は『空』であり、次に全く別の世界に変わっていたとしても不思議ではないことになってしまう。
事実、人間の脳等は感覚器官から得た情報を無意識に取捨選択してしまい必要な分だけを瞬間的に意識に上げるという行為をしているとバラされてしまっている以上、まさに『空』の概念は事実であると認めざるを得ないのである。


◆仏教との関係


仏教には『一切皆苦』と言う『諸行無常』に並ぶ基本的な考え方がある。
読んで字の如く、『この世は全て苦しみからできている』と言うことだ。

では、なぜ世の中の全てが苦しみなのだろうか?
それは、『執着』と『判断』のためである。

上記の通り、あらゆるものには実体も本質も無い。
なのに、人間は様々なものの『本質』を『判断』しようと試み、そしてその虚ろな幻に『執着』する。
しかし、結局はそれを失うことになったり、思い通りに手に入らなかったりする。
だから苦しむのである。

釈迦が得た悟りとは『執着を捨てること』だ。
全ては無我であり、虚ろな空であると認め、あらゆる執着を捨てることが出来れば、必然的に苦しむこともなくなり、
この雑然とした世界がそのまま静寂な涅槃に転じる、と言うのである。

だが、釈迦はこの悟りを開いた直後は『こりゃ人に言ってもわからんな』と一人ふて寝を始めてしまったのだ。
そこを宇宙の創造主であるがその役目から逃れられない宿命を背負う梵天に頼み込まれて、しゃーなしに布教の旅を始めたわけである。

仏教のこの認識をヴェーダ哲学は認めなかった。
前述の様に仏教は『無我』が出発点となり、彼等が個体真理と呼ぶアートマンを否定してしまうからである。
故に、仏教の導き出した『空』の次の瞬間には『空』が生じ、世界は瞬間的にただあるがままであるが次には無くなってしまうかもしれないという思想を唯物論者として非難し、それを非アーリヤ人の神であるアスラヴィローチャナと、自分達の神々の王であるインドラの問答という形で説話にしたのである。


事実、インドでは誕生直後より仏教は威勢を誇ることになるも、人として余りにも不安になる思想の深奥さ故に、最終的にはヒンドゥーに敗れ、仏教自体も釈迦の示した本来の実践的な思想から姿を変え、大乗化して他地域に移行していくことになってしまった。


◆なぜ釈迦はこの悟りを人に伝えられないと思ったのか?


まず注意しなくてはならないのは、釈迦はただの人間であると言うことだ。
釈迦は全知全能の神では無いのである(全知全能で永遠不変の神は、真っ先に空によって否定される概念の一つであり、輪廻転生から離れたとする『仏』すら、ただそれだけの存在なのだ)。

そもそも、人間の『判断』は『言葉』によるものだ。
様々な概念を言葉として扱い、そこから執着が生まれるのが人間である。
では、執着を捨てるにはまず『全ての言葉を捨てなくてはならない』。

つまり、言葉によっていくら説明してもこの空の思想、無我の境地に達することは原理的に不可能なのである。
だから釈迦はふて寝を決め込んだのだ。

では、釈迦以外の人間には悟りを得ること、空を体感することは不可能なのだろうか?
それが案外そうではない。
いわゆるヨガ(即ち『瞑想』)は言葉を捨てて真理を思惟する訓練のことであり、これを極めれば釈迦の悟りを言葉ではなく心で理解することが可能なのである。

例えば『』について瞑想する。
頭の中にただひたすら『光』をイメージし、『光』のみについて考えていると、次第に『光』と言う言葉は消え失せて、『光』の概念のみが残る。

この調子で世の全てを瞑想して行けば、あなたも晴れて言葉と執着を捨て去り、涅槃に入ることができるのである。
このあたりの詳しい手法は『仏説観無量寿経』などに記されている。



◆それってほんとに可能なの?


もちろん万人が出来る方法ではない。
と言うか、一部の達人以外には不可能である。そんなに簡単に悟れたら苦労は無い。

挙げ句の果てには『悟ることに執着するのもだめだかんね』と釘を刺されてしまう始末だ。

では、一体我々凡夫・衆生はどうすれば救われるのだろうか?

ここに来て、ようやく大乗仏教の『宗教的側面』が現れる。
その辺りは機会があれば『他力本願』の項目でも立てて詳しく説明したい。
取りあえず阿弥陀如来の項目でも見ておこう。



◆余談


所で、改めて考えて欲しい。
ここまでの概念はいずれも『実際に目に見える現象』を辿って得られたものだ。
どこにも超常現象ややオカルトは登場しないのである。

つまり広義の『科学』と言ってしまって差し支えない程度には、理路整然としており、しかも実際的な『学問』なのだ。

そして何より、冒頭にも書いた通りこの空の思想は現代物理学によって裏付けられている。

相対論によれば、そこに質量を持った物質がある限り無限遠の彼方まで届く『重力』がこの宇宙の全てのものに影響を与える。
つまり、単体で他のものの影響を一切受けずに存在出来る物質はありえないのだ。
全ての物質は、少なくともお互いの重力で干渉しあっているのである。
また、質量が無ければ重力は無く、重力とは『空間』そのものと同義であり、また質量はエネルギーと等価である。どれが欠けてもこの宇宙は成立しない。
このように、この宇宙の全ての事物は相互に依存・干渉しあって存在しているのだ。

更に、仏教(インド哲学)の中にも『極微』と呼ばれる原子論が存在するが、これも空の思想に則って『実体は無い』とされている。
あるかもしれないし、ないかも知れない、そんな幻のようなものだ。
これは完全に不確定性原理による素粒子のモデルと一致する。
詳しくは量子論の項目を参照してほしい。

西洋哲学における全ての原子論は、量子論と相対論によって根絶やしにされたが、空の思想だけは今日の物理学の世界観を見事に言い当てていたのである。
全く驚異としか言いようがない。






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