徳川四天王

登録日 :2010/02/08(月) 22:28:30
更新日 : 2017/08/31 Thu 07:03:30
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徳川四天王とは家康の天下取りに大きく貢献した四人の武将のことである。
類似品として大久保忠世、服部半蔵らを加えた徳川十六神将。酒井忠次没後の徳川三傑などがある。


●酒井忠次

四天王筆頭で、戦場では甕通(かめとおし)と呼ばれた槍を振るい、背中に目を持つと称された名将。

宴会の席では海老掬いという宴会芸を披露するひょうきんな面も。

家康の父、広忠の代から仕え、家康が今川へ人質に行った時からの最古参の将でほかの四天王とは親子ほどの年の差がある。
家康が独立すると石川数正と共に重用され、三河一向一揆討伐、吉田城攻めにて戦功を挙げ、吉田城主となる。

後も重用され、姉川、三方ヶ原と戦い抜き、長篠の戦いでは武田勝頼の背後を別働隊にて急襲、
勝頼の叔父を討ち取り、武田軍を前方に押し出し、鉄砲の掃射を浴びせるのに一役買う、という大功を上げる。

家康の寵愛を受けていたが、ある時に家康の嫡男であった信康の素行についての弁明の使者として大久保忠世と共に信長の元へ向かった際、
信康を弁護仕切れず、信康を切腹させてしまう。
家康はこの件は不問に帰したが、家康と忠次の間に小さくない溝が生まれてしまう。

以降も重用は続き、明智光秀討伐の兵を挙げた際に先鋒となり、天正壬午の乱、小牧長久手を歴戦。
1585年の石川数正の出奔の後は家康の最重臣として仕える。

1590年の関東移封の2年前に隠居したが、移封後の嫡子家次の禄高が三万石(他の四天王は十万石前後)であった為に抗議したが、
「お前も息子がかわいいか」と、信康のことを引き合いに出され、何も言えなかったと言う。

関ヶ原の4年前、1596年に京都の自宅にて死去。享年70才。

忠次の末裔たる酒井家は幕末まで2藩が残ることとなる。が大政奉還後薩摩藩を敵に回したせいで会津共々「官軍」のターゲットとされ(ちなみに他の四天王子孫はすぐ官軍に恭順)、井伊分家等と戦闘する羽目に…。
なお「家康の家臣だった酒井家」は他にも伊達騒動等に登場した「酒井忠清」らを輩出した「徳川二十将」酒井重忠の家系が存在するので混同に注意。

康政「くく…酒井殿がお亡くなりになったか」

直政「酒井殿は四天王筆頭、故に年上。つまりは一番亡くなるのが早いのは必定…」

忠勝「とりあえず甕通は貰っていきますね^^」


●榊原康政

知勇兼備且つ、筆も立ち、家康から度々代筆を任されていた将。

産まれは酒井氏の陪臣の子として。
幼少の時より家康に小姓として仕え、初陣は三河一向一揆討伐。
この時の活躍により「康」の字を与えられ、一揆に参加した兄を差し置き、榊原家の家督を次ぐ。

これ以降家康に同年の本多忠勝と共に旗本として家康に近事し、
姉川で別働隊を率い、徳川軍の倍近い朝倉軍を横から襲撃し、戦功を上げたのを始め、三方ヶ原、長篠でも活躍、高天神城攻めでは先鋒に抜擢される。

本能寺の変後も家康に近事、小牧長久手の戦いの折りには秀吉を罵倒する檄文である榊原状を自身の能筆の限りを尽くししたため、
それを各地に貼り付けると秀吉は激怒し、「この文をしたためた者の首を取った者には十万石を与える!」と言ったが、
康政は堀秀正に一度敗れはしたが三好勢を壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち取っている。

戦後は、その文で名を強烈に秀吉の脳裏に刻んでいた為に秀吉との使者としても活躍。

家康の関東移封時には十万石の所領を得、街道の整理と治水に力を注いだ。

関ヶ原時には秀忠の軍師として中山道を進んで美濃を目指した。
道中、「真田は無視するべし」と秀忠に進言するも聞き入れられず、結果、関ヶ原の戦いには参戦出来ずに終わる。
秀忠は家康の怒りを買い、嫡男としての地位を失いそうになるが、康政の必死の弁護により事なきを得た。

康政、忠勝、直政の3人で戦後に酒を酌み交わした際、誰が関ヶ原の一番の功労者かという話題になった時、
戦功を挙げた忠勝と直政の2人は躊躇いもなく「一番の功は戦後家中の争乱の火種を産むのを防いだ康政こそ功労者である」と語ったという。

その後、武官の例に漏れず冷遇を食らうが、ひっきりなしに来ていた老中就任や、加増の話を蹴り、
「老臣が権力を争うのは、亡国の証拠だ」という立場を崩さず、家康から感状を貰うこととなる。
この感状を得たことが、後に榊原家の首を繋ぐことに繋がった。

榊原家は江戸時代大小さまざまなトラブルに襲われるも何とかしのぎ、最終的に大名1家・旗本2家が幕末まで続いている。



●井伊直政

家康「直政を初めて見た時…その…下品なんですが…フフ…勃起…しちゃいましてね…」

勇猛果敢で容姿端麗、彼の率いた赤備えは戦国屈指の精鋭部隊であった。
また、政治・外交手段も類い希な物を有しており「小身ながら天下を取れる器」と諸大名から噂されていたが、家康への忠義は篤かった。
だが、その分自分にも部下にも厳しく、部下からは恐れられ、忠勝の下に逃げる者や、家康に旗本に自ら降格を願うほどの者が居た。

いつも敵陣に突っ込み、多数の傷を負っていたことをよく傷を全く負わなかったとされる本多忠勝と比較され、
一方的にライバル視されて仲が悪かったとされるが、関東移封後は次第と仲が良くなっていったらしい。

産まれは今川氏の家臣の子であったが、父親が謀反を今川氏直に疑われ殺されてしまい、まだ幼かった直政も氏直に命を狙われてしまう。
だが、家康に「ウホッ…いい男」と見初められ、小姓となる。

男色を武将としては珍しく嫌った家康が一目惚れするほどの容姿で、後に秀吉の妹が家康に輿入れした際の女中達は皆直政に一目惚れしたという。

その後に家康とくそみそしていた際に武田の忍者を討ち取ったり、高天神城攻めなど対武田戦にて主に活躍。
伊賀越えや後北条氏との交渉で活躍。武田氏旧領の甲斐・信濃を得ると山県昌景などの旧部隊を吸収して赤備えを復活させ、子飼いの部隊とする。

小牧長久手で活躍し、小田原城攻めでは唯一城内まで攻め寄せ、天下にその名を響かせる。

関東移封後は徳川軍最大の十二万石を与えられ、その政治手腕を振るう。

関ヶ原では軍規違反である抜け駆け(後に許される)を犯すが、活躍し、島津豊久を討ち取るなどするが銃弾を受けて落馬。
休む暇も無く戦後処理に忙しかった為に弾創から破傷風にかかり、1602年に死去する。
主に島津との外交に辣腕を振るい、島津家が取り潰しに合わなかったのは彼のおかげでもあろう。

井伊氏は彼の死後彦根三十五万石ら2家が幕末まで続き、幕府にて重きを成した。そして幕末の直弼含む五人の大老を産むが、直弼が桜田門外にて暗殺されると冷遇されてしまう。
なおこれは偶然であろうが、直弼の首を刈ったのは薩摩藩士(その直後深手を負い自刃)だった…。

赤備えは幕末まで残り、色んな意味で活躍しているので、興味があれば調べてみよう。


●本多忠勝

忠勝「あ、自分、単独項目あるんで^^」

三人「死ねよ」

本多家は大名家3藩・旗本1家が幕末まで続き、また本家は度重なる転封の果て何と家康の故郷岡崎に落ち着いた。




忠勝「追記、修正お願いしますね^^」

三人「うざ・・・」

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