欲動理論

登録日:2011/02/15 (火) 06:25:40
更新日:2023/09/08 Fri 07:11:56
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人間とは、本能が壊れた動物である。


とはフロイトの言葉だが、論理的に考えた時、確かに人間ほど非合理的な動物もいないだろう。

『生殖』に関して言えば、『感情』をもったばかりに非効率極まりなく、
『生存』に関しても、『思考』をもったばかりに、『生きる為』というよりは『殺されない為』寄りである。


そして人間が最も倒錯している点は、時に死を自ら肯定しようとする所である。
どうやら、人間にとって死というのは完全に否定的な物では無いようで、
コレをテーマにしたモノに惹かれる辺り、何処か生と切っても離せない関係にある様に感じる。


では、結局の所我々にとってとは、とは何なのか。
何処から来て何処へ向かうのか。
否定的な物なのか肯定的な物なのか。

生の欲動(エロス)、死の欲動(タナトス)の両欲動から解説する。


生の欲動(エロス)

まず人間が『生きる』という事について掘り下げた考えた時、それは

性の欲動(生殖)
自己保存欲動(生存)

の二つから成り立つ。
動物であれば生殖にしろ生存にしろ、本能に従い盲目的に目的へと向かうが、人間はここに『思考・感情』が入る為『欲動』として複雑化したのである。


『性の欲動(生殖)
これは、

『対象リビドー』
『自己リビドー』

から成り、快楽原則(快を求め不快を排除する)に従う。

α.)『対象リビドー』
対象に向かうエネルギーの様な物。
当たり前だが、人間の生殖というのは異性無しに有り得ず、対象間に愛等の『対象リビドー』がなければならない。

β.)『自己リビドー』
これは動物には無い人間特有のナルシシズム的なリビドーで、自己愛にあたる。
世界広しといえど、鏡が好きなのは人間だけだ。


▼『自己保存欲動(生存)』
自分を生存させようとする欲動で、これは現実原則(不快であっても現実に従順する)に従う。

人間社会で『生存』するには、多少不快であっても倫理やルールに従わなければならない。
快楽原則に従い、やりたい事だけをやっていては、結果的に多大な不快を招いてしまうからだ。

性格上、快楽原則現実原則は時に対立するが、それはより合理的な快を得る為の『戦略』であり、快楽原則を一部修正したものに過ぎない。
結局の所、人間を広い意味で動かしているのはより快を求める快楽原則という事になる。


つまり人間の生とは、

性の欲動(生殖)』
自己保存欲動(生存)』

ひいては

快楽原則
現実原則

の相互作用から成り、『性』と『生』を含む広い意味で『生の欲動』と呼ばれ、ただただ快を求める物とされた。


死の欲動(タナトス)

ところが、新たに生の欲動だけでは説明出来ない問題が浮上した。
例えば、

『異常な迄の自己懲罰』
『繰り返し見る悪夢(夢は通常、願望の充足)』
『狂気的なまでの愛』

等の脅迫的かつ破壊的な衝動だ。
何れも対象を非合理的に苦しめ、死へ向かわせるだけで快楽原則にも現実原則にも合致しない。
そこでこの様な、『生の欲動』と反対に『その生体(自己であれ他人であれ)を固有の死に向かわせる欲動』を『死の欲動』とした。

理由は省くが、『欲動』というのはそれの内包する『早期』を反復しようとする。
自己保存欲動(生存)』であれば、より長く生存する為に『若くありたい』と思う気持ちがそれに当たる。

そして『』の早期を突き詰めていくと、それは最終的に『生まれる前(無の状態)』に帰結する。
つまり人はを最大の目標として生きているのである。


生の欲動死の欲動

さて、死の欲動はその生体を固有の死へと歩ませ(攻撃的欲動)、純粋な死の欲動の前に人間は無力である。
対して生の欲動はそれに逆らおうとする。
死の欲動は静かで目立たないが、生の欲動は騒々しい。

そして、普段はそれぞれが単体で現れる事は少なく、明確な形で現れるのは、両欲動の混合物である。

例えば、性欲の中にはエロス的要素タナトス的要素が不可分に混合している。
具体的に述べると
『愛をもって接したい』と思っていながら

『困らせたい』
『独占したい』
『支配したい』

と思ったりだ。
そして、究極的には――『殺したい』。
(ニュアンス的にはこちら参照。)

『可愛さ余って憎さ百倍』ではないが、純粋な形のタナトスは非常に危険なので、普段はエロスにより中和されるのである。
そしてこのエロスが別離した時、人はキレる。


【結論】

人は何らかの不都合が生じた時、良く『死にたい』と口にするが、原因の対象が自己であれ他であれ、それは不都合から死をもって決別しようとする『死の欲動』によるものである。
また、それは同時にその不都合を解消し『より良く生きたい』と思う『生の欲動』の裏返しでもある。

つまり、良くも悪くも人間のとは『快楽に生きる』ものではなく『死の欲動との戦いに生きる』ものなのだ。





余談だが、戦争というのは前提として自己の生存を目的とする。
が、近代においては『生きる為に殺す』ではなく『殺されない為に殺す』であった。
結果、人間は互いの牽制により、人類を数回滅ぼせる量の核兵器を作りだしてしまったのだ。

では、理由はどうあれ生存を追求していった先に人類が辿り着く末路とは……


【欲動理論から見るヤンデレ】




ヤンデレ―――。
それは、純粋な好意無垢な狂気で我々を魅了する『究極の愛』。

行き着く所は死か、ソレに肉薄する何かでしかないというのに、その愛は一部の者を強く惹きつけて止まない。



さて、まずヤンデレのヒロイン像から考察する。
程度に差こそあれ、共通しているのは、

α.)『圧倒的な愛』
β.)『度を越えた独占欲』
γ.)『日常的ではない狂気』

の三つ。

αは性の欲動からくる愛であり、全ての根底である。

βは割合がどうあれタナトスエロスの混合物で、αから来る愛の現れである。

γについては純粋なタナトスであり、非常に危険であるが、常時とのギャップを演出する上で欠かせない要素になってくる。

多くの場合、当然だがどちらかといえば『害悪的』扱いを受けてしまう。


だが、考えてみて欲しい。
形はどうあれ、そこにあるのはただただ途方のない膨大な『愛』だ。

『私だけを見て欲しい』
『他の誰より貴方を愛している』

自己の欲動満足の為、障害となる他の一切を排除する様はある意味最も人間らしい。
結果の『死』にしても、受動的ではあるものの死の欲動と合致している。やや矛盾するが、第三者的には愛があれば問題無い。

行き過ぎた振る舞いについても、彼女達はただ――不器用なだけなのだ。
不器用なりに主人公を懸命に思い、例え結果が死であってもそこは圧倒的な愛で満ちている。


結局の所、我々がヤンデレを通して見ているのは、ありのままの人間模様なのだ。
そして、包み隠さない純粋で一途な思いというのは、例外無く我々に感動を与えるのである。


詭弁に感じるかも知れないが、そもそもフィクションというのは、現実の誇大解釈だという事を思い出して欲しい。
勿論、現実なら問題外である。




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最終更新:2023年09月08日 07:11