ボカサ1世

登録日:2011/01/11 Tue 20:20:00
更新日:2024/04/24 Wed 08:40:21NEW!
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皆さんは皇帝がいた国と言えばどこを想像するだろうか?

古代中国、ローマ、ロシア…近年まではイランやエチオピアも帝政を敷いていた。
そしてアフリカ中部に位置する国・中央アフリカ共和国…かつてこの国も3年間だけ皇帝がいた事がある。
ただし、その治世は国民に認められた物では無かったが…


皇帝の名はボカサ1世。戴冠前のフルネームはジャン=ベデル・ボカサ(後にイスラムへの改宗によりサラ・アハメド・ボカサに改名)である。
通称袁術


生い立ち

ボカサは1921年に産まれた。
叔父は独立の父バルテレミー・ボガンダ、父もムバカ族の首長と名家の出だが、ボカサが6歳の時に奴隷として働いていた労働者を解放した為に処刑されている。
またボガンダは中央アフリカのみならずチャド、コンゴ、ガボンと言った周辺国を含めた連邦国家を提唱していた為、政敵に暗殺されている。
このように彼の周囲は錚々たる顔ぶれだったのだが…


フランス軍入隊~中央アフリカ独立

第二次世界大戦中は自由フランスに所属し、黒人としては最高位の大尉まで昇進。
その手腕を買われ、独立後は従兄弟である初代大統領・ダッコに軍の編成を任される。
…だが、程なくしてダッコ政権は腐敗。一党独裁下で賄賂が横行し、国民の間に不満が高まった…


大統領就任、そして…

65年にボカサはクーデターを決行、ダッコを大統領から引きずり下ろし自らが政権の座に就いた。
16あるポストのうち14がボカサに振り分けられたがダッコは処刑されるどころか政権の顧問として中枢部に残されている
72年には終身大統領となったが権力欲は留まる事を知らず、
自らを「アフリカのナポレオン」と称した彼は76年には国号を中央アフリカ帝国と改称、自らを皇帝ボカサ1世と名乗った

その戴冠式はとにかく豪華の一言で、
使われた物をざっと挙げると…
  • 200人の騎兵
  • 200人のシェフ、240トンの食材、300台の冷蔵庫(現地には調理器具すら無いのでシェフがフランスから持参した)
  • 数百台の高級車
  • ユーゴスラビア(当時)から輸入した八頭の白馬が引く馬車
  • ビロードとテンの毛皮を用いた長さ12メートルのマント
  • ワシを模した重さ3トンの金の玉座
  • 138カラットのダイヤをつけた王冠他多数の宝石
こんな戴冠式にかけた費用は国家予算の二倍とも言われる2500万ドル*1、ちなみに当時の中央アフリカの平均所得は155ドルである。

また彼は自分と対等な数少ない元首としてパフラヴィー朝イラン帝国のシャーや天皇陛下(昭和天皇)に出席を求め、ローマ法王に戴冠をお願いしたのだが全て断られている(それでも祝電は送っている)。
他の国々にも出席を呼び掛けたがことごとくスルー、政府関係者で出席したのはアフリカの沖合のインド洋にある島国、モーリシャスの首相とリヒテンシュタインの公族のみだった。
国の窮乏を顧みないあまりに豪勢な式典であったため国際的な非難が集中し、アメリカは直ちに援助を停止した。日本も「民主的な国を作る」条件でやっと改称を認めた。

もっともフランスジスカールデスタン大統領が蜜月関係を築いており、
ジスカールデスタンは中央アフリカのダイヤを買い付けただけでなくボカサを「親愛なる同胞」と呼んでいた。
元々ドゴール政権時からフランスと中央アフリカは仲が良く、
ドゴールが死去するとボカサはフランス軍の制服姿で現れ、「パパ」と呼びながら棺にすがり付いて号泣したそうだ。
戴冠式に莫大な費用を捻出できたのも、そもそも20世紀に「皇帝」を称するなどと酔狂な事ができたのも、
日頃の外交工作で五大国フランスの援助と後ろ盾を取り付けていたからに他ならない。
余談だが、式典で使用する馬も全てフランスのノルマンディーから借りてきたのだが、アフリカの暑さに耐えられず全頭死んでしまったという。


クーデター

大統領就任時から続いていた粛正と放漫な国家運営で中央アフリカ帝国の財政は破綻しまくり、フランスからの援助で何とか食い繋いでいた。
だが当のボカサは気に入った女を片っ端からハーレムに加え、30歳未満の国民を強制的に同国唯一の政党MESANに所属させ、
大学で社会学や政治学、憲法学を廃止するなど傍若無人な生活を送っていた。


そして1979年、事件は起こる。


ボカサは自分の一族が所有する工場で製造した小中学生用の制服を着るよう強制。
寡占状態で作られた為に国民が払える額ではなく、溜まっていた不満がついに爆発した。
直ぐ様ボカサは隣国ザイールから軍隊の派遣を要請し子供を含んだ反対者を鎮圧、流石のフランスも遂に我慢出来なくなり全ての援助を打ち切った。
困り果てたボカサはリビアを訪問、カダフィ大佐に新たな援助を取り付けて貰おうとするが時すでに遅く、中央アフリカにボカサの居場所は無かった…
ちなみにこの時のクーデター指導者はフランス、後任の大統領は何とダッコであった


亡命、そして…

ボカサはフランスへの亡命を求めるが勿論拒絶され、一旦は亡命先をコートジボワールへと変更。
改めてフランスへと逃げ込んだが、観念したのか86年に中央アフリカ本国に帰国。
裁判により死刑判決となったが後に強制労働に減刑され、1993年に釈放されてまたまたフランスへと逃亡。
フランス軍人の退役年金で食い繋ぎ、多数の請求書に追われながら1996年に息を引き取った。
その後2010年12月3日に名誉が回復され、12月18日には彼の住んでいた家が競売にかけられ8200万円で落札された。

ちなみに返り咲いたダッコ政権や中央アフリカが安定……するはずもなく、81年にコリンバ参謀総長(当時)がまたもクーデターを起こし大統領に。そのコリンバ政権は独裁を進めるも民主化要求に押され、選挙の末に下野。
ボサカの縁戚で、帝政時代には一時首相職にあったパタセがようやく民主的に選ばれたのだが支持基盤地域の優遇と公務員給料未払いと失敗国家のお決まりをやらかしクーデターや反乱が頻発。
その末に一時期は軍参謀長で、ボカサ政権下で准将を勤めていたボジゼのクーデターが成功して大統領になる…が、反政府勢力による首都制圧により失脚。
そのまま反政府勢力のジョトディアが暫定的に大統領になるが、配下を抑えきれずフランスやアフリカ連合の軍事介入を招いて失脚、結局短命政権に終わる。
2016年からはボジゼ時代の首相、トゥアデラが現在の大統領に就任した、が反政府勢力の動きは活発で、先行きが明るいとは言い難い……

なお、フランス亡命を拒絶された際には腹いせと言わんばかりに時の大統領ジスカールデスタンとの収賄工作を暴露して彼の人気を失墜させており、ミッテラン政権誕生の一端を担った。


余談

ボカサ1世の戴冠式に際して、昭和天皇が出席を求められた際、
宮内庁では「前代未聞の話で、相手側がどういう意図で呼んだのか、理解に苦しむ」と漏らしていた事が後になって明らかにされた。




追記・修正は皇帝に即位してからお願いします。

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最終更新:2024年04月24日 08:40

*1 ただし文献により「いや半分だ」「むしろ三倍だ」と異なる