光明電気鉄道

登録日 :2012/09/30 (日) 21:02:31
更新日 : 2015/03/22 Sun 23:03:49
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光明電気鉄道とは、かつて静岡県に存在していた地方鉄道である。
妙にかっこいい名前とは裏腹に、その歴史が非常に悲惨なものであった事で有名となってしまっている。

開業まで

元々この鉄道は遠州地方の木材や山間の鉱山からの鉱石の輸送を軸に、旅客営業を行うという計画の元、1925年に設立された。
光明という名前は、沿線を流れる天竜川にある村から付けられたもので、まずそこまで開業しようという意味合いもあったと言う。
さらにそこから路線を伸ばし、行く行くは信州地方、さらには日本海まで伸ばすという構想まであった。

…この時点で無謀すぎるのだが、当時こういった壮大な計画を立てて沿線の人からお金を集めるという手法を取った鉄道会社は多かったらしい。
まあ今も同じような事やってる企業は結構ありますけどね

だが、計画を出した時点でいきなり構想は暗礁に乗り上げた。
建設するはずの鉄道の終点が、肝心の鉱山よりもはるか遠い場所だったのだ。
鉱山側が出資や協力を断ったのは当然だろう。


…ここまでは、日本でもよくある計画倒れの鉄道路線の末路である。

だが、ここから光明電気鉄道は狂い始める。
資源元を失ったにもかかわらず、なんと そのまま建設を続行し続けたのだ

さすがに無謀すぎて株主や沿線の偉い人たちも「こんなの絶対おかしいよ」となり、資本金は全然集まらなかった。
関東大震災以後の不況の影響も大きく、さらにお金が無くなった。
危機的な状況で一致団結すればいいものを、会社内でも内紛が勃発、社長がどんどん代わっていった。
当時の静岡県知事も一時社長の座についたのだが、僅か2ヶ月で再び社長が交代するほどだったと言うのだから悲惨すぎる。

そんな散々な状況の中で、1928年に一部区間だけでも開業できたのはこの会社が得た僅かな奇跡かもしれない。
開業式典は重苦しい雰囲気だったそうだが。


開業後

…しかし、その開業した後も経営は良くなるどころかますます悪くなっていった。
確かに開業は出来たものの、一部路線だけの文字通り見切り発車、当然ながら金も無くなる。
だが、そんな中でも必死に建設を続け、1930年にようやく最終的な路線が完成した。

無茶しやがって…


…しかしこの時点でもう客はいなかった。

昭和初期は、日本各地でバス会社が多く設立され、各地の中小私鉄を脅かしていた頃。
当然ながら、光明電気鉄道でも並行するバス路線が存在していた。
さらに、「電気鉄道」というのも非常にまずかった。
架線柱や電気代など、その維持費が少ない資金を脅かしたのである。

…後にこれが、最悪の末路を招く事となる。


もうどうにもならない状況の中、会社が取った手段は…



路 線 の 延 伸

もっと内陸部に路線を伸ばせば、より多くの森林がある…鉱山もある…

まさに死に物狂いで、路線の建設を続けていたのである。
鉱山からは既に断られているのは言うまでも無い。だが、これしか生き残りの道は無かった。


もうやめて!光明電気鉄道のライフは0よ!
…という状況なのだが、ライフを0にしているのは他ならぬ光明電気鉄道自身である。


最期

血を吐きながらマラソンを続けていたこの鉄道にも、ついに終わりの時が来た。

その最終宣告を出したのは、国であった。その理由と言うのは…



国「どんだけ電気代払ってないんだよ、電気止めるぞ」(意訳)


…そう、電気鉄道にも関わらず、電気代を滞納し続けていたのである。
そして1935年、ついに電気が止められた。
すなわちそれは、二度と電車が走れない事を意味する。

同じ年、使い物にならなくなった路線は個人に売却され、そのまま土地や線路などの資産は競売に出された。
そして、光明電気鉄道の会社自体も1939年に解散した。
建設途中の路線はそのまま放棄されたのは言うまでも無い。


廃止後、車両は富山へ移り、1969年まで富山地方鉄道で活躍を続けた。
また、運転士は当時数少なかった電車を運転可能な人材と言う事で各地に転職する事が出来たと言う。
そして、競売にかけられた土地の一部は国鉄に買収され、現在も天竜浜名湖鉄道の一部区間として現役である。

確かに歴史は悲惨なものであったが、その中で育てられた様々なものは新たな場所で花開いたのである。
最初から最後まで良いとこなしだった鉄道の、数少ない慰めかもしれない。

そして、この鉄道の歴史は、一つの戒めになる。


ロマンだけでは、現実はやっていけないのだ。



追記・修正は将来をしっかり見極めた人がお願いします。

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