多村仁志

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&font(#6495ED){登録日}:2011/03/24 Thu 16:10:31 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){&bold(){&font(#191970){もう痛い思いをしなくていいのかな}}} 多村仁志(本名:多村仁)とは元プロ野球選手でポジションは外野手。右投げ右打ち。背番号6 [[神奈川県]]厚木市出身。 1977年3月28日生まれ。 1994年に[[横浜ベイスターズ]]にドラフト4位で入団。2006年オフにソフトバンクにトレードされる。 遅咲きの選手であり、2004年にレギュラーを獲得してから打率.305、40本塁打、2005年は打率.304、31本塁打の成績を残しており、 ホークスに移籍した後も2010年にはチームキャリアハイの成績を残すほどの好打者。 かなりの虚弱体質なのか[[スペランカー]]と比喩されてしまっている。 本人もこのスペランカーのあだ名は把握しているらしく、こう呼ばれると烈火の如く怒り出すらしい。 【スペランカー多村の歴史】   ▼プロ入り前 体育祭のリレーで転倒、靱帯を痛めて救急車で搬送された 高校三年の夏、県大会優勝時に歓喜の輪に入ろうとダッシュ、しかし足が攣ってしまい輪に入れず。みんなが校歌を歌う中、マウンドで一人でうずくまる。 ▼1997年 痛めていた右肩にボルトを入れる手術を受ける ▼1998年 この年、ベイスターズは優勝し、日本一にもなったが、そのとき多村は入院していた。 ▼2003年 5/14 左手親指のじん帯断裂で二軍落ち 8/11 左手首痛でスタメン落ち 9/23 発熱でスタメン落ち 9/25 スタメン復帰、死球で途中交代 10/6 風邪でスタメン落ち。そのままシーズンが終了   ▼2004年 2/27 ポスター撮影中にジャンプして右足関節捻挫 4/30 試合中、突然カゼをひいて退場し診療所で点滴 5/ 3 キャッチボールでぎっくり腰、登録抹消 6/ 5 フェンスに激突、途中交代 6/23 試合で空振りした際に肩を痛めスタメン落ち 8/11 試合前の練習中に腰を痛めてスタメン落ち 8/28 ファインプレーをした際に膝を強打し途中交代 9/19 ストライキの際の握手会で左掌の炎症を起こし、その後2日連続スタメン落ち ▼2005年 1/ 1 初詣に行き家族の健康などを祈願するが、自分が風邪をひいてしまう。 2/11 野球教室を開き、肩に野球バックを掛けたまま何百人にサインした結果、左肩が内出血。 3/30 全試合出場を目標に掲げていたが、開幕直前にインフルエンザに罹り緊急入院 4/24 サードゴロを打ちヘッドスライディング敢行するもアウト。右肩負傷で途中交代。 5/20 センターからバックホームの際、右肘を痛める。 6/14 自打球を右足甲に当て途中交代。 6/21 靴紐を結ぼうとした際にぎっくり腰を発症し、自宅休養。翌日登録抹消。 6/29 練習場へ向かう途中、愛車が雨でスリップし、側壁に衝突。エアバッグの衝撃で左顔面と左肩を打撲。 8/28 健康診断で飲んだ造影剤で気持ちが悪くなり、試合を欠場 ▼2006年 4/20 打撃練習で左肋軟骨挫傷のため出場選手登録を抹消 6/3 打球を追いかけた際に左足首捻挫。途中交代。 6/7 捻挫からの復帰第一打席後、本塁突入の際、捕手と激突し古傷の左脇腹を痛めて退場。検査の結果左肋軟骨挫傷の疑い、前半戦絶望。 8/20 二ヶ月振りに一軍復帰も死球を受ける。20日には腰痛のためスタメン落ち 12/5 あまりの虚弱体質に球団もブチ切れたのか、実績では格下であった寺原隼人と1対1の交換トレードが成立、ホークスへ移籍   ▼2007年 2/12 右足かかとに異変→右アキレス腱周囲炎 3/13 自打球を左足に当てる→病院送り 3/17 試合前の守備練習で右手中指を負傷。 4/ 4 歩幅が合わずにやや大股でベースを踏むがすべって怪我 4/30 守備でボールを追っかけ、スライディングし左太もも裏を痛めてベンチへ退く 5/19 セカンドベースへスライディングし二塁手が倒れるも、下敷きになり負傷 6/20 視覚障害者を招待するも自打球を左ふくらはぎに当て、負傷で途中交代 11/22 野球日本代表に選ばれ、ヤフードームに凱旋の予定も腰痛が悪化し、練習キャンセルでスタメン落ち、そのまま日本代表から外れる ▼2008年 1/31 右肩違和感で二軍スタート 4/02 左ひじに死球を受け退く。 4/25 飛球を追い掛けて左翼手と接触し途中交代し右足の腓骨骨折で前半戦絶望 5/12 四週間で骨がつく予定だったが、レントゲンを撮っても再生すらしていない。 結局一軍復帰は9月上旬にまで延びた。その後足が万全でなく登録抹消。   ▼2009年 2/11 右肩に張りを訴えたため、シートノックを二日間休む 2/16 両足のすねなどの違和感で練習を早退。全体練習開始前にリタイヤ 2/26 左手首違和感で紅白戦回避 3/10 首を寝違えて、オープン戦を2試合欠場 3/24 全身の張りを訴えてオープン戦欠場。残り5試合には全て出ることを宣言。 3/25 帰塁の際、右肩を痛める。次の日のオープン戦全てを欠場。宣言は1日で潰えた。 3/29 右肩の違和感でオープン戦欠場 3/31 右肩が古傷の炎症のような症状を起こしているため、開幕戦の出場選手登録名簿から外される。 5/22 ようやく一軍登録。それに合わせて登録名を「多村仁志」に変更したが、この歳になっての登録名変更は成績悪化フラグであり、野球ファンにとっては「多村な上に仁志とか勘弁してくれよ」である。 5/23 一軍復帰後2試合目にして、守備中に逆シングルを突かれた影響で腰を痛め途中交代。 6/16 体調不良で欠場。 7/31 体調不良や背中の張りを訴え8/2までスタメンを外れる。 8/19 球界でインフルエンザが蔓延する中、気管支炎に罹りスタメンを外れる。 8/30 第三打席で川崎が牽制アウトになり、球団公式サイトの試合経過で多村「終了」と書かれる。 9/3 左太腿と左手首に2死球を受け、翌日スタメンを外れる。 9/29 スタメン出場するも、打席に立つこともなく守備につくこともなく、37度の発熱が原因で交代。 10/16 CS第一戦当日、この日になって左腰に違和感を訴える。球場にも向かわず、ホテルで試合観戦。 ▼2010年 3 /6 ボールを投げた時に人差し指の爪が割れた 3/30 全試合フルイニング出場を目標としていたが、秋山監督「今日は出さないよ。寝違えたみたい」とあっさり欠場。 5/13 中日戦で自打球により途中交替 5/30 再び中日戦で自打球を左臑に当てて途中交替 6/7 前日に途中交替し、首痛で欠場 &font(#ff0000){何か悪いものが憑いているかのようである。} ネタ選手にされがちだが、怪我さえなければとんでもない怪物であることは間違いない。 そう…。怪我さえ無ければ…。   彼が唱える6toolは野球選手に必要な打率・本塁打・脚・肩・守備の5toolという言葉にファッションセンスを足したもの(背番号も6なので)。 何故ケガしにくさを挙げなかった…。 目立つケガをしなかった2004年には3割40本100打点、翌年も3割30本を達成しているなど、まさしく「&bold(){ケガさえなければ活躍できる選手}」といえよう。 そして2012年オフ… ベイスターズ #center(){吉村・江尻・山本省吾} #center(){↑} #center(){↓} ホークス #center(){多村・吉川・神内} の3対3のトレードを経て古巣・横浜に復帰。 ちなみに、多村はかつて寺原とのトレードでソフトバンクに移籍したがその後、寺原が山本とのトレードでオリックスに移籍。さらに、FAで寺原がソフトバンク復帰濃厚となり、山本が多村とのトレードで移籍という奇妙な移籍ルートが成立した。 古巣では、年齢を考えれば大健闘といえる12本塁打を記録し親友の金城と併用され、スタメンでの活躍も多く6年ぶりの最下位脱出に貢献。7点差を逆転する伝説の巨人戦で2HR4打点を挙げ、プロ入り初のサヨナラホーマーとなった。 2014年はコンバートされた筒香嘉智などの台頭もあり、前年度よりも出場機会は少なかった。 右の代打としての出場が多かったが、前年度よりも一応打率は向上している。 2015年は一軍での出場がなんとわずか4試合。 この4試合中での成績も低迷し、二軍での成績は打率.319・7本塁打と結構好調だったが、若手育成の場においてベテランの存在は邪魔でしかなく、出場制限を設けられた。 この年、多村はついに戦力外通告を受けて退団することとなってしまったのだった。 多村は引退の道を選ばず、現役続行の意思を示した。 ▼2016年以降 当初は楽天が調査などの噂があったが、結局どこも獲得する球団は出てこず。 しかし多村はと言うと[[12球団合同トライアウト]]にも参加せず、松中や井川などと同様に他球団のオファーを待つ結果となる。 だが、年老いた選手を積極的に獲得するような球団はあるはずもなく、このまま2016年に突入した。 多村の動向が心配されて引退危機の可能性もある中、中日ドラゴンズと育成契約をしたことを発表。 背番号は215。まさかの育成選手からの再出発に多くのファンの注目が集まっていた。 しかし支配下登録される事無く10月に戦力外通告を受け現役を引退した。 中日入団後も早速右脹脛の肉離れなどを引き起こし、案の定怪我を重ねたのが痛かった……。 一応、二軍の試合では実戦復帰二戦目で決勝打を放つなど、かつての一流選手の面影を見せたこともあったが。 引退表明の会見では、項目冒頭の台詞を残した。 ネタにはされていたが、自身の体質への精神的な負担を抱え込んでいたが故の台詞であり、多くの野球ファンの涙を誘った。 とはいえ怪我ばかりしながらもなんやかんやで22年もプレイしていた事から&s(){「防御力は低いが再生力は高い」「怪我の仕方が上手い」}「怪我をして離脱してもその後の活躍で取り返せる」選手だったと言えよう。 ▼選手としての特徴 悲しいことに、%%怪我ばっかしてることを除けば%%多村がどのような選手だったかを語られることは少ない。 6ツールプレイヤーを自称していたように、走・攻・守に優れたまさに5ツールプレイヤー。秋山幸二と並び「メジャーに最も近い」と言われたことも。 三振はそれなりにするが、広角に打ち分ける技術を持ち、それでいてしっかり飛ばすパワーを兼ね備える。広いナゴヤドームや福岡ドームで逆方向やバックスクリーンに打てるのが多村の真骨頂。 2013年に打ったキャリア唯一のサヨナラホームランもライト方向へのホームランだが、このときの多村は37歳。この年で逆方向にアーチを描けるというのは多村の高い打撃技術を物語っている。 守備力も特筆するべき点で、ゴールデングラブ賞こそ獲得できなかったが、2003年からの四年間、金城龍彦と守った右中間は当時12球団一の鉄壁として知られる。後年の調べでは2004年の外野手のRF(守備範囲)ランキングがセ・リーグ1位だったそうな。 こちらも高い技術により守っていたため晩年まで衰えは少なく、2010年には当時34歳ながら右翼手としてリーグ二位のUZRを記録している。 97年に肩にボルトを入れる手術を受けたにも関わらず強肩も兼ね備えていた。 走力も高く、高い守備力を支えていたが盗塁は不得手で通算43盗塁に留まり、成功率も6割を切っている。 天運に恵まれなかったため日本シリーズ出場は2011年の僅か1回。しかしそのシリーズでは要所要所で重要な活躍をし日本一に貢献。また、第一回WBCでも3本塁打、9打点と打ちまくり、守備でもフェンスに直撃しながらもキャッチしたりするなど世界一に大きく貢献しており、大舞台に強かった。 その事もあってかあの野球大国キューバでは「伝説の人」扱いされており、アジア人……もとい[[ダルビッシュ有]]への差別的発言が物議を醸したユリエスキ・グリエルからも尊敬されている。 ちなみにプロ入り当時は脚と守備の人で、打撃についてはからっきしとされていた。 多村の打撃開眼のきっかけは[[落合博満]]からのアドバイスだと後に本人が語っている。 現役最終年に中日に所属したのは当時中日のGMだった落合の働きかけがあったとされている。 現在は野球解説者として大活躍。意外ないい声とデータマンぶりで親しまれている。 自身の所属したDeNA・ソフトバンク・中日戦の解説を務めることが多いが、データマンであることを買われMLBの日本向け中継の解説を務めることも。 DeNA戦だとTV局中継解説→翌日DAZN解説とチャンネルを変えて連続で解説を務めることも多い。 また近年はDeNAのOB代表としてイベントに登場する機会も多かったりする。 追記編集は怪我をしないようにプレーをしてから、お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,1) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 旧アニヲタWikiでは、「プロ野球界の[[ヅダ]]」なんて呼ばれてた記憶がある。 -- 名無しさん (2013-12-18 23:27:21) - 引退に追い込まれるような大怪我はしないんだよなあ -- 名無しさん (2014-07-02 17:44:56) #comment #areaedit(end) }
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右肩違和感で二軍スタート 4/02 左ひじに死球を受け退く。 4/25 飛球を追い掛けて左翼手と接触し途中交代し右足の腓骨骨折で前半戦絶望 5/12 四週間で骨がつく予定だったが、レントゲンを撮っても再生すらしていない。 結局一軍復帰は9月上旬にまで延びた。その後足が万全でなく登録抹消。   ▼2009年 2/11 右肩に張りを訴えたため、シートノックを二日間休む 2/16 両足のすねなどの違和感で練習を早退。全体練習開始前にリタイヤ 2/26 左手首違和感で紅白戦回避 3/10 首を寝違えて、オープン戦を2試合欠場 3/24 全身の張りを訴えてオープン戦欠場。残り5試合には全て出ることを宣言。 3/25 帰塁の際、右肩を痛める。次の日のオープン戦全てを欠場。宣言は1日で潰えた。 3/29 右肩の違和感でオープン戦欠場 3/31 右肩が古傷の炎症のような症状を起こしているため、開幕戦の出場選手登録名簿から外される。 5/22 ようやく一軍登録。それに合わせて登録名を「多村仁志」に変更したが、この歳になっての登録名変更は成績悪化フラグであり、野球ファンにとっては「多村な上に仁志とか勘弁してくれよ」である。 5/23 一軍復帰後2試合目にして、守備中に逆シングルを突かれた影響で腰を痛め途中交代。 6/16 体調不良で欠場。 7/31 体調不良や背中の張りを訴え8/2までスタメンを外れる。 8/19 球界でインフルエンザが蔓延する中、気管支炎に罹りスタメンを外れる。 8/30 第三打席で川崎が牽制アウトになり、球団公式サイトの試合経過で多村「終了」と書かれる。 9/3 左太腿と左手首に2死球を受け、翌日スタメンを外れる。 9/29 スタメン出場するも、打席に立つこともなく守備につくこともなく、37度の発熱が原因で交代。 10/16 CS第一戦当日、この日になって左腰に違和感を訴える。球場にも向かわず、ホテルで試合観戦。 ▼2010年 3 /6 ボールを投げた時に人差し指の爪が割れた 3/30 全試合フルイニング出場を目標としていたが、秋山監督「今日は出さないよ。寝違えたみたい」とあっさり欠場。 5/13 中日戦で自打球により途中交替 5/30 再び中日戦で自打球を左臑に当てて途中交替 6/7 前日に途中交替し、首痛で欠場 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走力も高く、高い守備力を支えていたが盗塁は不得手で通算43盗塁に留まり、成功率も6割を切っている。 天運に恵まれなかったため日本シリーズ出場は2011年の僅か1回。しかしそのシリーズでは要所要所で重要な活躍をし日本一に貢献。また、第一回WBCでも3本塁打、9打点と打ちまくり、守備でもフェンスに直撃しながらもキャッチしたりするなど世界一に大きく貢献しており、大舞台に強かった。 その事もあってかあの野球大国キューバでは「伝説の人」扱いされており、アジア人……もとい[[ダルビッシュ有]]への差別的発言が物議を醸したユリエスキ・グリエルからも尊敬されている。 ちなみにプロ入り当時は脚と守備の人で、打撃についてはからっきしとされていた。 多村の打撃開眼のきっかけは[[落合博満]]からのアドバイスだと後に本人が語っている。 現役最終年に中日に所属したのは当時中日のGMだった落合の働きかけがあったとされている。 現在は野球解説者として大活躍。意外ないい声とデータマンぶりで親しまれている。 自身の所属したDeNA・ソフトバンク・中日戦の解説を務めることが多いが、データマンであることを買われMLBの日本向け中継の解説を務めることも。 DeNA戦だとTV局中継解説→翌日DAZN解説とチャンネルを変えて連続で解説を務めることも多い。 また近年はDeNAのOB代表としてイベントに登場する機会も多かったりする。 追記編集は怪我をしないようにプレーをしてから、お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,1) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 旧アニヲタWikiでは、「プロ野球界の[[ヅダ]]」なんて呼ばれてた記憶がある。 -- 名無しさん (2013-12-18 23:27:21) - 引退に追い込まれるような大怪我はしないんだよなあ -- 名無しさん (2014-07-02 17:44:56) #comment #areaedit(end) }

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