斎藤隆

「斎藤隆」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

斎藤隆」(2023/11/08 (水) 22:21:28) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

&font(#6495ED){登録日}:2009/07/15(水) 07:30:02 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 8 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){&bold(){&font(#ff0000){この体、鍛え上げた先に奇跡があり、苦しい先に栄光があることを、学びました。}}} [[宮城県]]仙台市出身の[[プロ野球]]選手。 1970年2月14日生まれ。 身長188cm 体重97.5kg 右投左打 [[横浜ベイスターズ]]→ロサンゼルス・ドジャース→ボストン・レッドソックス→アトランタ・ブレーブス→ミルウォーキー・ブリュワーズを経て、アリゾナ・ダイヤモンドバックスに在籍しているメジャーリーガー。 声優の斎藤隆(故人)とは別人。 <NPB時代(横浜時代)> 東北高校時代は一塁手であったが、東北福祉大学2年時に投手に転向。1991のドラフト1位で横浜ベイスターズの前身・横浜大洋ホエールズに年俸900万円で入団。 ルーキーイヤーの1992年にプロ初登板を果たすと翌年からは先発ローテーションに入り、1994年にはオールスターゲームに初出場。 1996年にプロ入り初の2桁勝利を記録し、最多奪三振のタイトルも獲得した。 1997年、春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨を発見したため除去手術を行い、シーズンを棒に振る。 翌年は復帰し、4月29日には583日ぶりの勝利を味わう。この年13勝5敗1セーブの好成績で38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。セ・リーグのカムバック賞を受賞し、日本シリーズでも活躍。 史上9人目となる初登板初完封を記録し、横浜の日本一に大きく貢献。日本シリーズ優秀選手賞にも選ばれた。   2001年は当時の横浜の守護神、佐々木主浩がシアトル・マリナーズに移籍したため、当時の森祇晶監督の「俺はお前と心中する」という言葉でストッパーに転向。この年7勝1敗27セーブ、防御率1.67の成績を挙げる。 この時の経験が後の先発、そしてメジャーでの活躍に活きたと本人は述べている。 2002年のオフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍を模索したが、結局3年で総額7億3,000万円の契約を結んで横浜に残留。 しかしその後、先発に復帰するも度重なる故障などで本来の投球ができず、3年間でわずか11勝にとどまった。 <MLB時代> 2005年のオフ、「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と家族を説得し、再度メジャーリーグ挑戦を目指して自由契約となる。しかし36歳になる高齢であることや、不振が続いていたことから斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからず、所属先が決まらないまま新年を迎えた。 1月末、ロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約で春季キャンプ受け入れを表明。 斎藤は直ちに渡米し2月7日に契約、16日にキャンプインした。 レギュラーで調整が主であった日本でのキャンプと違い、アメリカではマイナー契約の一新人であり、登板予定が入っていてもメジャー契約の選手の都合で機会を奪われることもあった。 オープン戦で力を発揮できず、初年はマイナーからスタートした。 しかしシーズン開幕直後、クローザーを務めていたエリック・ガニエが故障者リスト入りし、入れ替わりで4月6日にメジャーに昇格。 9日にメジャー初登板、18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾った。当初はセットアッパーとして起用されていたが、登板8試合目まで無失点、4月の登板12試合を13回7安打1失点15奪三振で切り抜ける堂々のピッチングを見せ徐々にチームの信頼を勝ち取ると6月にはガニエの再度の故障を受けてクローザーに指名される。その後も確実にチームを勝利に結びつけ続け、ドジャースの新守護神として定着した。 9月18日のサンディエゴ・パドレス戦、チームのプレーオフ進出に向けて絶対に落とせなかった試合だったが、斎藤は9回表に1点ビハインドの状況からマウンドに上がるも制球が定まらず打ち込まれ、差を4点に広げられてしまう。 斎藤は横浜時代から自分が打たれて負けた試合に強く責任を感じてしまう性格だったので、ベンチに戻りガックリ下を向いていた。 しかしその時、チームメイトが、&font(#0000ff){「上を向け」「おまえがいたからここまで来られたんだ」「俺達が点を取ってやるから見てろ」}と言って斎藤を励ました。 そして9回裏、奮起したドジャース打線が反撃を開始、4番のジェフ・ケントから&font(#ff0000){4者連続でソロ本塁打}を打ち同点に追いつく。 この後10回表に再び1点を勝ち越されるもその裏、斎藤を一番に励ましていたという親友、ノマー・ガルシアパーラが&font(#ff0000){逆転サヨナラ2ランをレフトに放ち}、ドジャースは劇的な勝利を収めた。 同点に追いついたとき、斎藤はチームメイトの励ましに感動して涙したという。 9月22日にドジャースの新人球団記録に並ぶ21セーブ目、9月30日にはサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でシーズン24セーブ目を挙げる。この年はチーム最多の72試合に登板し防御率2.07、リリーフ投手の中では両リーグ最多となる107三振を奪う好成績を挙げ、ドジャースのプレーオフ進出に大きく貢献した。 後にメジャーに挑戦する桑田真澄は、斎藤の成功が自身にメジャー挑戦を決断させたと語っている。 オフに1年100万ドル(約1億1500万円)で契約を更新する。その年の活躍で年俸の倍増程度では低すぎると言われたが、斎藤の謙虚さはファンやチームメイトに好印象を持たれた。 2007年もクローザーの役割を担い、開幕から順調にセーブを積み重ねる。 6月26日のダイヤモンドバックス戦で日本人メジャー最高球速となる99mph(約159km/h)をマーク。 これは日本人選手の計測した球速としては伊良部秀輝、[[五十嵐亮太]]、山口和男を抜いて歴代最速となる。本人によれば日本での自己最速は153km/hであった。 また同日に記録したセーブによりメジャーデビュー以来48度のセーブ機会で45の成功を収め、初セーブ機会からの救援成功率で44/48のガニエを抜きメジャー新記録を樹立した。 前半戦だけで23セーブを挙げるなど変わらぬ安定感が評価され、7月11日に行われたMLBオールスターゲームに監督推薦で初出場。 最速97mph(約156km/h)を計時し1イニングを三者凡退に抑えた。 8月にも抜群の安定感を示し、月間MVPは候補に留まったものの、日本人投手初の快挙となる月間最優秀救援賞を受賞した。 シーズンも佳境となった9月19日、松井稼頭央の所属するコロラド・ロッキーズとのダブルヘッダー第二戦で1点リードの9回裏に登板。熾烈を極めるワイルドカード争いの中で迎えたこの一戦で、まさかの逆転サヨナラ2ランを浴びシーズン初黒星を喫する。 結果的にロッキーズはこの勝利から奇跡的な快進撃を続け、サンディエゴ・パドレスとのワンデープレーオフを制してワイルドカードを獲得。一方のドジャースは急激に調子を落とし、ワイルドカード争いから脱落することとなってしまった。 しかし斎藤はこの年ナ・リーグ3位の39セーブ、リーグのリリーフ投手の中で最も低い防御率1.40とメジャー全体で1位のWHIP(イニングあたりの安打+四球)0.72を記録するなど抜群の成績を残し、シーズンを通じて絶対的な存在感を示した。 また毎年オフに発表される現役メジャー格付けランキングにおいて、斎藤はナ・リーグの救援投手部門トップの評価を受けた。 このランキングでは[[イチロー]]も外野手部門でトップを獲得したことはなく、日本人メジャーリーガーでは初のランク1位となる。 2008年に更新したドジャースとの1年契約は約200万ドル(約2億1600万円)にまで跳ね上がっているが、リーグ最高のクローザーに対してはこれでも低すぎる年俸だと言われていた。 2008年から監督に就任したジョー・トーリも斎藤のピッチングを高く評価しており、38歳となったこの年もドジャース不動のクローザーとして活躍した。 2008年オフ、契約がまとまらずFAになった。翌年1月10日、ボストン・レッドソックスと1年契約を結んだ。 レッドソックスではクローザーが確立していたため、セットアッパーとしての起用が見込まれていた。 2009年6月11日に日米通算100勝目を挙げ、日米通算100勝100セーブを達成した。翌日も勝利投手となり、日本人メジャーリーガー初の2試合連続勝利投手になった。 2009年オフにはアトランタ・ブレーブスと1年契約を結び、セットアッパーとしての活躍を期待されている。 その期待に見事に応じ、ブレーブスのプレーオフ進出に貢献した他、日本人メジャーリーガー初の40代でのセーブも達成する。 2011年にはブルワーズに移籍。 春には故障者リスト入りするなど不安の出発となったが、夏に復帰して以降は活躍を見せチームのリーグ優勝に貢献した。  しかしチームはプレーオフで敗退し、斎藤は涙を隠すことが出来なかったのだった……。 2012年にはダイヤモンドバックスに移籍。日本人選手としては初のダイヤモンドバックス在籍選手となった。 だが前半戦は怪我に苦しみ、身体的劣化はあまり無かったが、復帰後も好成績を残すことが出来なかった。 斎藤がメジャーで成功を収めることができた要因として、伝家の宝刀である右打者の外角へ鋭く逃げる[[スライダー>スライダー(変化球)]]が、メジャーリーグの外に広いストライクゾーンに適合していたことが挙げられる。 右打者に対する被打率は.114で、これは現役のメジャーリーガーで最高の数字である。 加えて左打者へのバックドア(外のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるスライダー)や緩いカーブ、ツーシームも大きな武器になり、日本ではボールと判定されていたコースでストライクを取れるため、左右関係なく優位に対戦を進めることができ、左打者に対する強さもメジャーのリリーフでトップ5に入る。 また、日本のマウンドに比べてメジャーリーグのマウンドは粘土質で固いといわれるが、これが要因となって軸足がしっかりと固定することができ、腕の振り抜きが速くなったことで日本時代に比べて約10km/hも球速が増加し、スライダーの変化もより大きくなったという。 その一方で日本時代に投げていたフォークは封印し、緩いカーブとツーシームを多投するようになった。 <NPB復帰後(楽天時代)> 2012年末に、自身の出身地の球団である東北楽天ゴールデンイーグルスと契約。 2005年以来8年ぶりの日本球界復帰となったのだった。 復帰一年目は開幕こそ二軍スタートだったものの、5月の復帰時にNPBでは久々の勝利を記録。 その後はセーブも記録し、クローザーもこなしながら楽天のリリーフ投手としてフル稼働。 楽天も初のリーグ優勝と日本一に輝き、斎藤は楽天の日本一に大きく貢献することとなった。 よくよく考えてみると、弱小球団と呼ばれる楽天と横浜でリーグ優勝・日本一に輝いたわけである。 横浜の場合は当時マシンガン打線が強力であり、前年の97年からその片鱗は見せてはいたものの、投手力が今一つと言われていたため 優勝すると予想した人は過去の実績から言っても少なかったであろうし、 楽天はやはり当時の評価では「投手力はいい方だけど、打撃力が貧弱すぎてダメだろう」という予想が多かった。 まあ、その年は稀代の当たり外国人であるケーシー・マギー、チャンスに強いアンドリュー・ジョーンズが大活躍し、田中将大が24連勝という驚愕の数字を残すわけだが、 両リーグの弱小球団で優勝経験をするのはある意味相当難しい偉業かもしれない……。 2014年はチーム自体は低迷してしまう物の、斎藤自身は前年と変わらずリリーフ投手の一員として貢献する。 44歳4か月での勝利投手にもなり、NPB右投手最年長勝利記録を更新することにも成功している。 しかし2015年は二軍生活を送ることとなってしまう。 斎藤はその現状に自身の限界を感じたのか引退を決意し、2015年の名選手の引退ラッシュの一員となった。 引退試合となる2015年10月4日にコボスタでのソフトバンク戦。 斎藤は一点差を追う9回表に、観客の大声援に包まれながらプロ最後のマウンドに登板した。 斎藤はマウンドの上で大粒の涙を流しながら、対戦打者である細川亨に対してストレートを投げ込む。 全球ストレートの中、細川はただただ強くバットをスイングする。 二球で2ストライクとした後、斎藤が最後に投げたボールは138キロの大きく外れたストレートボールだった。 細川はただバットをスイングし、斎藤のプロ最後の登板結果は三球三振。 斎藤はこうして女房役の嶋と抱擁を交わし、降板が告げられる。 後続の松井祐樹にマウンドを託し、球場の大喝采に包まれながらベンチへと帰還していった。 引退セレモニーでは自身の体が限界であることを述べ、後輩に思いを託しながら第二の人生を歩むと語った。 ちなみに、最後の対戦相手の細川との対決に関しては『空気を呼んだ』気遣いであることは感じたらしく、後にホークスベンチに謝罪した模様。 こうして斎藤隆の長いプロ野球人生は終わりを告げたのだった。 <余談> [[ササキ様に願いを]]にて準レギュラーとして登場。 「タカシ」の相性で呼ばれ破天荒なササキ様に振り回される常識人キャラとして活躍した。 …なのだが、実際の斎藤氏の性格はどちらかというとかなりの負けず嫌いでありイケイケな性格だった。 余りにもイケイケ過ぎて高校時代は&bold(){先輩ではずの佐々木が優しく起こしていた}との事。 一応「引退直後にコーチやってもうまくいかないからスキルを身につけたい」と言う等真面目な一面もあったのだが、本質的には投手らしい負けん気の強さの持主である。 しかし失点し俯いた際にチームメイトから「おまえがいたからここまで来られたんだ」と言われたり、引退の際も若い芽を潰したくないのが一番の動機だった事から、リーダーとなってチームを引っ張るのが彼の本質と言えよう。 追記修正をお願いします。 ---- &link_up(△)&aname(メニュー,option=nolink){メニュー} &link_edit(text=項目変更)&link_copy(text=項目コピー)&link_diff(text=項目変更点)&link_backup()&link_upload(text=アップロードページ) ---- #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,3) } #center(){&link_toppage(-アニヲタWiki-)} #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - その年は稀代の当たり外国人であるケビン・ユーキリス、マギーの間違いじゃないか? -- 名無しさん (2017-05-06 20:40:28) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2009/07/15(水) 07:30:02 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 8 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){&bold(){&font(#ff0000){この体、鍛え上げた先に奇跡があり、苦しい先に栄光があることを、学びました。}}} [[宮城県]]仙台市出身の元[[プロ野球]]選手。 1970年2月14日生まれ。 身長188cm 体重97.5kg 右投左打 <経歴> [[横浜ベイスターズ]](1992~2005) ロサンゼルス・ドジャース(2006~2008) ボストン・レッドソックス(2009) アトランタ・ブレーブス(2010) ミルウォーキー・ブリュワーズ(2011) アリゾナ・ダイヤモンドバックス(2012) [[東北楽天ゴールデンイーグルス]](2013~2015) 声優の斎藤隆(故人)とは別人。 <NPB時代(横浜時代)> 東北高校時代は一塁手であったが、東北福祉大学2年時に投手に転向。1991のドラフト1位で横浜ベイスターズの前身・横浜大洋ホエールズに年俸900万円で入団。 ルーキーイヤーの1992年にプロ初登板を果たすと翌年からは先発ローテーションに入り、1994年にはオールスターゲームに初出場。 1996年にプロ入り初の2桁勝利を記録し、最多奪三振のタイトルも獲得した。 1997年、春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨を発見したため除去手術を行い、シーズンを棒に振る。 翌年は復帰し、4月29日には583日ぶりの勝利を味わう。この年13勝5敗1セーブの好成績で38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。セ・リーグのカムバック賞を受賞し、日本シリーズでも活躍。 史上9人目となる初登板初完封を記録し、横浜の日本一に大きく貢献。日本シリーズ優秀選手賞にも選ばれた。   2001年は当時の横浜の守護神、佐々木主浩がシアトル・マリナーズに移籍したため、当時の森祇晶監督の「俺はお前と心中する」という言葉でストッパーに転向。この年7勝1敗27セーブ、防御率1.67の成績を挙げる。 この時の経験が後の先発、そしてメジャーでの活躍に活きたと本人は述べている。 2002年のオフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍を模索したが、結局3年で総額7億3,000万円の契約を結んで横浜に残留。 しかしその後、先発に復帰するも度重なる故障などで本来の投球ができず、3年間でわずか11勝にとどまった。 <MLB時代> 2005年のオフ、「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と家族を説得し、再度メジャーリーグ挑戦を目指して自由契約となる。しかし36歳になる高齢であることや、不振が続いていたことから斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからず、所属先が決まらないまま新年を迎えた。 1月末、ロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約で春季キャンプ受け入れを表明。 斎藤は直ちに渡米し2月7日に契約、16日にキャンプインした。 レギュラーで調整が主であった日本でのキャンプと違い、アメリカではマイナー契約の一新人であり、登板予定が入っていてもメジャー契約の選手の都合で機会を奪われることもあった。 オープン戦で力を発揮できず、初年はマイナーからスタートした。 しかしシーズン開幕直後、クローザーを務めていたエリック・ガニエが故障者リスト入りし、入れ替わりで4月6日にメジャーに昇格。 9日にメジャー初登板、18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾った。当初はセットアッパーとして起用されていたが、登板8試合目まで無失点、4月の登板12試合を13回7安打1失点15奪三振で切り抜ける堂々のピッチングを見せ徐々にチームの信頼を勝ち取ると6月にはガニエの再度の故障を受けてクローザーに指名される。その後も確実にチームを勝利に結びつけ続け、ドジャースの新守護神として定着した。 9月18日のサンディエゴ・パドレス戦、チームのプレーオフ進出に向けて絶対に落とせなかった試合だったが、斎藤は9回表に1点ビハインドの状況からマウンドに上がるも制球が定まらず打ち込まれ、差を4点に広げられてしまう。 斎藤は横浜時代から自分が打たれて負けた試合に強く責任を感じてしまう性格だったので、ベンチに戻りガックリ下を向いていた。 しかしその時、チームメイトが、&font(#0000ff){「上を向け」「おまえがいたからここまで来られたんだ」「俺達が点を取ってやるから見てろ」}と言って斎藤を励ました。 そして9回裏、奮起したドジャース打線が反撃を開始、4番のジェフ・ケントから&font(#ff0000){4者連続でソロ本塁打}を打ち同点に追いつく。 この後10回表に再び1点を勝ち越されるもその裏、斎藤を一番に励ましていたという親友、ノマー・ガルシアパーラが&font(#ff0000){逆転サヨナラ2ランをレフトに放ち}、ドジャースは劇的な勝利を収めた。 同点に追いついたとき、斎藤はチームメイトの励ましに感動して涙したという。 9月22日にドジャースの新人球団記録に並ぶ21セーブ目、9月30日にはサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でシーズン24セーブ目を挙げる。この年はチーム最多の72試合に登板し防御率2.07、リリーフ投手の中では両リーグ最多となる107三振を奪う好成績を挙げ、ドジャースのプレーオフ進出に大きく貢献した。 後にメジャーに挑戦する桑田真澄は、斎藤の成功が自身にメジャー挑戦を決断させたと語っている。 オフに1年100万ドル(約1億1500万円)で契約を更新する。その年の活躍で年俸の倍増程度では低すぎると言われたが、斎藤の謙虚さはファンやチームメイトに好印象を持たれた。 2007年もクローザーの役割を担い、開幕から順調にセーブを積み重ねる。 6月26日のダイヤモンドバックス戦で日本人メジャー最高球速となる99mph(約159km/h)をマーク。 これは日本人選手の計測した球速としては伊良部秀輝、[[五十嵐亮太]]、山口和男を抜いて歴代最速となる。本人によれば日本での自己最速は153km/hであった。 また同日に記録したセーブによりメジャーデビュー以来48度のセーブ機会で45の成功を収め、初セーブ機会からの救援成功率で44/48のガニエを抜きメジャー新記録を樹立した。 前半戦だけで23セーブを挙げるなど変わらぬ安定感が評価され、7月11日に行われたMLBオールスターゲームに監督推薦で初出場。 最速97mph(約156km/h)を計時し1イニングを三者凡退に抑えた。 8月にも抜群の安定感を示し、月間MVPは候補に留まったものの、日本人投手初の快挙となる月間最優秀救援賞を受賞した。 シーズンも佳境となった9月19日、松井稼頭央の所属するコロラド・ロッキーズとのダブルヘッダー第二戦で1点リードの9回裏に登板。熾烈を極めるワイルドカード争いの中で迎えたこの一戦で、まさかの逆転サヨナラ2ランを浴びシーズン初黒星を喫する。 結果的にロッキーズはこの勝利から奇跡的な快進撃を続け、サンディエゴ・パドレスとのワンデープレーオフを制してワイルドカードを獲得。一方のドジャースは急激に調子を落とし、ワイルドカード争いから脱落することとなってしまった。 しかし斎藤はこの年ナ・リーグ3位の39セーブ、リーグのリリーフ投手の中で最も低い防御率1.40とメジャー全体で1位のWHIP(イニングあたりの安打+四球)0.72を記録するなど抜群の成績を残し、シーズンを通じて絶対的な存在感を示した。 また毎年オフに発表される現役メジャー格付けランキングにおいて、斎藤はナ・リーグの救援投手部門トップの評価を受けた。 このランキングでは[[イチロー]]も外野手部門でトップを獲得したことはなく、日本人メジャーリーガーでは初のランク1位となる。 2008年に更新したドジャースとの1年契約は約200万ドル(約2億1600万円)にまで跳ね上がっているが、リーグ最高のクローザーに対してはこれでも低すぎる年俸だと言われていた。 2008年から監督に就任したジョー・トーリも斎藤のピッチングを高く評価しており、38歳となったこの年もドジャース不動のクローザーとして活躍した。 2008年オフ、契約がまとまらずFAになった。翌年1月10日、ボストン・レッドソックスと1年契約を結んだ。 レッドソックスではクローザーが確立していたため、セットアッパーとしての起用が見込まれていた。 2009年6月11日に日米通算100勝目を挙げ、日米通算100勝100セーブを達成した。翌日も勝利投手となり、日本人メジャーリーガー初の2試合連続勝利投手になった。 2009年オフにはアトランタ・ブレーブスと1年契約を結び、セットアッパーとしての活躍を期待されている。 その期待に見事に応じ、ブレーブスのプレーオフ進出に貢献した他、日本人メジャーリーガー初の40代でのセーブも達成する。 2011年にはブルワーズに移籍。 春には故障者リスト入りするなど不安の出発となったが、夏に復帰して以降は活躍を見せチームのリーグ優勝に貢献した。  しかしチームはプレーオフで敗退し、斎藤は涙を隠すことが出来なかったのだった……。 2012年にはダイヤモンドバックスに移籍。日本人選手としては初のダイヤモンドバックス在籍選手となった。 だが前半戦は怪我に苦しみ、身体的劣化はあまり無かったが、復帰後も好成績を残すことが出来なかった。 斎藤がメジャーで成功を収めることができた要因として、伝家の宝刀である右打者の外角へ鋭く逃げる[[スライダー>スライダー(変化球)]]が、メジャーリーグの外に広いストライクゾーンに適合していたことが挙げられる。 右打者に対する被打率は.114で、これは現役のメジャーリーガーで最高の数字である。 加えて左打者へのバックドア(外のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるスライダー)や緩いカーブ、ツーシームも大きな武器になり、日本ではボールと判定されていたコースでストライクを取れるため、左右関係なく優位に対戦を進めることができ、左打者に対する強さもメジャーのリリーフでトップ5に入る。 また、日本のマウンドに比べてメジャーリーグのマウンドは粘土質で固いといわれるが、これが要因となって軸足がしっかりと固定することができ、腕の振り抜きが速くなったことで日本時代に比べて約10km/hも球速が増加し、スライダーの変化もより大きくなったという。 その一方で日本時代に投げていたフォークは封印し、緩いカーブとツーシームを多投するようになった。 <NPB復帰後(楽天時代)> 2012年末に、自身の出身地の球団である東北楽天ゴールデンイーグルスと契約。 2005年以来8年ぶりの日本球界復帰となったのだった。 復帰一年目は開幕こそ二軍スタートだったものの、5月の復帰時にNPBでは久々の勝利を記録。 その後はセーブも記録し、クローザーもこなしながら楽天のリリーフ投手としてフル稼働。 楽天も初のリーグ優勝と日本一に輝き、斎藤は楽天の日本一に大きく貢献することとなった。 よくよく考えてみると、弱小球団と呼ばれる楽天と横浜でリーグ優勝・日本一に輝いたわけである。 横浜の場合は当時マシンガン打線が強力であり、前年の97年からその片鱗は見せてはいたものの、投手力が今一つと言われていたため 優勝すると予想した人は過去の実績から言っても少なかったであろうし、 楽天はやはり当時の評価では「投手力はいい方だけど、打撃力が貧弱すぎてダメだろう」という予想が多かった。 まあ、その年は稀代の当たり外国人であるケーシー・マギー、チャンスに強いアンドリュー・ジョーンズが大活躍し、田中将大が24連勝という驚愕の数字を残すわけだが、 両リーグの弱小球団で優勝経験をするのはある意味相当難しい偉業かもしれない……。 2014年はチーム自体は低迷してしまう物の、斎藤自身は前年と変わらずリリーフ投手の一員として貢献する。 44歳4か月での勝利投手にもなり、NPB右投手最年長勝利記録を更新することにも成功している。 しかし2015年は二軍生活を送ることとなってしまう。 斎藤はその現状に自身の限界を感じたのか引退を決意し、2015年の名選手の引退ラッシュの一員となった。 引退試合となる2015年10月4日にコボスタでのソフトバンク戦。 斎藤は一点差を追う9回表に、観客の大声援に包まれながらプロ最後のマウンドに登板した。 斎藤はマウンドの上で大粒の涙を流しながら、対戦打者である細川亨に対してストレートを投げ込む。 全球ストレートの中、細川はただただ強くバットをスイングする。 二球で2ストライクとした後、斎藤が最後に投げたボールは138キロの大きく外れたストレートボールだった。 細川はただバットをスイングし、斎藤のプロ最後の登板結果は三球三振。 斎藤はこうして女房役の嶋と抱擁を交わし、降板が告げられる。 後続の松井祐樹にマウンドを託し、球場の大喝采に包まれながらベンチへと帰還していった。 引退セレモニーでは自身の体が限界であることを述べ、後輩に思いを託しながら第二の人生を歩むと語った。 ちなみに、最後の対戦相手の細川との対決に関しては『空気を呼んだ』気遣いであることは感じたらしく、後にホークスベンチに謝罪した模様。 こうして斎藤隆の長いプロ野球人生は終わりを告げたのだった。 <余談> [[ササキ様に願いを]]にて準レギュラーとして登場。 「タカシ」の相性で呼ばれ破天荒なササキ様に振り回される常識人キャラとして活躍した。 …なのだが、実際の斎藤氏の性格はどちらかというとかなりの負けず嫌いでありイケイケな性格だった。 余りにもイケイケ過ぎて高校時代は&bold(){先輩ではずの佐々木が優しく起こしていた}との事。 一応「引退直後にコーチやってもうまくいかないからスキルを身につけたい」と言う等真面目な一面もあったのだが、本質的には投手らしい負けん気の強さの持主である。 しかし失点し俯いた際にチームメイトから「おまえがいたからここまで来られたんだ」と言われたり、引退の際も若い芽を潰したくないのが一番の動機だった事から、リーダーとなってチームを引っ張るのが彼の本質と言えよう。 追記修正をお願いします。 ---- &link_up(△)&aname(メニュー,option=nolink){メニュー} &link_edit(text=項目変更)&link_copy(text=項目コピー)&link_diff(text=項目変更点)&link_backup()&link_upload(text=アップロードページ) ---- #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,3) } #center(){&link_toppage(-アニヲタWiki-)} #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - その年は稀代の当たり外国人であるケビン・ユーキリス、マギーの間違いじゃないか? -- 名無しさん (2017-05-06 20:40:28) #comment #areaedit(end) }

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: