五十嵐亮太

「五十嵐亮太」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

五十嵐亮太」(2024/03/18 (月) 19:25:16) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

&font(#6495ED){登録日}:2009/07/14 Tue 11:52:01 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- プロ野球選手。ポジションは投手。 1979年5月28日生まれ [[北海道]]留萌市出身 右投右打 ・[[東京ヤクルトスワローズ]](1997年~2009年) ・ニューヨーク・メッツ(2010年~2011年) ・[[福岡ソフトバンクホークス]](2012年~2018年) ・東京ヤクルトスワローズ(2019年~2020年) 現役を通してリリーフ投手として中継ぎ・抑えを務めた。 若い頃は剛速球で鳴らしメジャーにも挑戦、ベテランになってからは緩い変化球も習得し23年間というリリーフとしては非常に長い現役生活を全うした。 また明るい性格とタレント顔負けのトーク力、「球界のキムタク」呼ばれた甘いマスクでも人気があった。 【プロ入団まで】 中学時代までは一塁手としてプレイしていたが、敬愛学園高に進学後、五十嵐の強肩に惚れ込んだ監督が投手をさせた事で才能が開花していく事になる。 高校時代のチームは五十嵐のワンマンチームだったので、残念ながら成績を残す事は出来なかった。 その後、複数の球団から誘いがあったが1997年のドラフトにてヤクルトスワローズから二位指名を受け入団した。背番号は53。 【プロ入団後】 <ヤクルト時代> ・1998年 プロ1年目はファームで10試合に登板。 二軍ながら30奪三振を記録し、注目を集める。ファーム日本選手権でMVPを獲得。 ・1999年 4月20日に一軍初昇格。5月27日にはプロ入り初勝利をマーク。最終的には6勝をあげる。 最速154km/hの速球は大きく評価されたが、当然ながらコントロールが課題となった。   ・2000年 自身初の開幕一軍スタート。 この年の前半戦は勝利の女神に微笑まれたかのように勝ち星を挙げ、リリーフのみでオールスター戦前に11勝をあげた。監督推薦で自身初のオールスターゲームに出場を決めた。 またこの年のオフには、古田敦也とともに最優秀バッテリー賞を受賞したが、二人には年齢差が14歳あり、これは同賞では史上最大の年齢差でもあった。 ・2001年 キャンプ中に肉離れを起こしてしまい、更に五月には右肘痛を発症。チームが優勝する中、波に乗り切れないシーズンとなってしまう。   ・2002年 ファンからの公募によって同僚の[[石井弘寿]]と共に&font(#ff0000){『ロケットボーイズ』}の愛称が付き、不動のセットアッパーとしてチームに貢献。この年初めて年間を一軍で過ごした。防御率も球種がほぼストレートだけにもかかわらず、2.08と自己最高だった。 オールスターの話題は五十嵐で持ちきりであり、全盛期の中村紀洋やカブレラ相手に全球ストレートはかつてないほどエキサイティングであった。 [[松井稼頭央]]は三振を喫した後に首を傾げながらベンチで「ホップしてる!ホップしてるよ!」とチームメイトにジェスチャーし、解説の東尾は五十嵐が優秀選手にすら選ばれなかった事に「え?五十嵐は?五十嵐は入ってないのっ?」「いや〜五十嵐は本当に最高でしたけどね。何故入って(ry」とベタ褒めだった。   ・2003年 前年と同じく開幕から一年間一軍に定着。監督推薦で三度目のオールスターにも出場。 二年連続で60試合登板を果たしてチームに貢献した。 ・2004年 守護神だった石井弘が故障した事もあり、抑えに抜擢される。 6月3日の対阪神選で、今岡誠に対して自己最速かつ、当時の日本最速記録だった&font(#ff0000){『158km/h』}をマークする。更にストライキの翌日の試合では、同じく阪神の矢野に対して三球連続で158km/hを含む計四球を計測した。 この記録は[[プロ野球]]の日本人記録としては最速タイ(複数球投げたのは五十嵐のみ)である。 因みにこの年の五十嵐のストレートは数値上では異常であり、オープン戦からシーズン終了までの登板時&font(#ff0000){最速平均が『154.5km/h』}であったらしい…。 来年にも記録更新か!?‥と思われていたが…。 オールスターにも出場。37セーブをあげ、最多セーブ投手にも選ばれた。 しかし中日に対する弱さが露出し、以後は相当の苦戦を強いられる事になる。   ・2005年 2年続けての抑えの役割を期待されていたが、開幕前に大腿部を故障。開幕には間に合わせたものの不振に陥り、2001年以来の二軍落ちも経験。 成績はイマイチだったものの2年連続でファン投票1位に選ばれオールスターに出場。最終的には49試合登板を果たしたが、4年連続60試合登板はならなかった。 ・2006年 この年も抑えの役割を期待されたが右肘の靭帯断裂が発覚し、オフにトミー・ジョン手術を受ける。 この手術のリハビリの影響で2007年シーズンは絶望的となった。 ・2008年 開幕戦で約1年半ぶりに公式戦に復帰。球速も154km/hを記録し、無失点で切り抜けた。 以降はその年から抑えに抜擢された林昌勇へ繋ぐセットアッパーとしての起用が増え、9月には約2年半ぶりのセーブを記録。 手術前と比べて腕の振りに勢いがなくなったものの、球速は最速で157km/hをマークし、四死球も少なくなり安定感のある投球を披露した。   ・2009年 キャンプ早々インフルエンザで離脱するも、シーズン開幕からフル稼働。前年に続き林昌勇へ繋ぐセットアッパーとして150km/h超のストレートと140km/h前後のフォークを駆使して安定した投球を続け、6月21日の西武戦で21試合連続無失点の球団新記録を樹立。 海外へのFA権を手に入れ、オフに海外へのFAを宣言。新庄剛や松井稼頭央が所属したニューヨーク・メッツへの入団が決定した。 背番号は18。 <メジャー時代> ・2010年 メッツの抑えであり、メジャーシーズン最多セーブ記録を持つフランシスコ・ロドリゲスへと繋ぐセットアッパーとして期待されての入団だったが、思うような成績は残せなかった。 同年巨人からマイナー契約で入団した高橋尚成にあっという間に追い越されてしまい、先発から抑えまでフル回転した高橋とは対称的に、シーズンを通して敗戦処理として起用され、周囲の期待には応えられずじまいに終わった。 ・2011年 開幕を3Aで迎えるも、そこで結果を残し再昇格を果たした。 最終的に45試合に登板するも制球に苦しみ、防御率は4.66と活躍したとは言い難い成績であり、FAとなった。 ・2012年 ピッツバーグ・パイレーツのスプリングトレーニングに招待選手として参加したもののメジャー契約とはいかず、直後トロント・ブルージェイズに移籍。 3Aで好投して昇格を果たすも打ち込まれ戦力外通告を受けた。 今度はヤンキースへと移籍するもほとんど出場機会は得られず、メジャーでの登板は2チーム合わせて4試合にとどまった。 <ソフトバンク時代> ・2013年 昨オフに[[福岡ソフトバンクホークス]]と3年契約を結び、3年ぶりに日本球界復帰となった。 かつては荒れ球の剛腕というイメージが強かったが、ソフトバンク移籍後は制球が安定し、米球界時代に身に付けたナックルカーブが冴えわたった。 最終的に51試合に登板して防御率2.53と中継ぎとして活躍を見せた。 ・2014年 63試合に登板してリーグ最多の44ホールド、防御率1.52、WHIP0.86と圧巻のピッチングを見せチームの日本一に貢献。 ただ、シーズン終盤に疲れが見えたか&bold(){1イニング4押し出し}という大失態をやらかしてしまった。 ・2015年 過去2年と同様に安定して働き、54試合に登板して防御率は自己最高の1.38を記録し、チームの日本一連覇に貢献した。 移籍後の3年の活躍が認められてか、2015年オフには36歳というベテラン中継ぎ投手には異例の&bold(){2億円アップの3億5千万円の2年契約+出来高}という大型契約を提示され、契約更改した。 ・2016年 史上15人目となる700当番を達成したが、左太ももの肉離れなどの負傷もあり登板数は33試合に減少。また日本での登板では初めて勝ち星がつかないシーズンとなった。 オフにはメキシカンリーグにて武者修行を敢行。ベテラン選手としては異例中の異例である。また行った先の監督に&bold(){元メジャーリーガーの高橋尚成と勘違いされて先発起用される}という珍事もあった。 ・2017年 春先は絶好調だったのだが、またしても左足を痛め7月に離脱。 しかし終盤戦には復帰し重要な場面を抑え、最終的には46登板しチームの日本一に貢献した。 ・2018年 椎間板ヘルニアを発症し開幕に出遅れ、7月まで復帰に要した。また流石に加齢もあり球威の低下も顕著で、23登板の防御率4.50と成績を大きく落とし、同年オフに戦力外通告を受けることとなった。 しかし古巣のヤクルトが獲得に乗り出し、無事移籍が決まる。 <ヤクルト復帰~引退> ・2019年 古巣ヤクルトに復帰。背番号は変わらず53。 4月には救援投手でありながら4勝を挙げるなどラッキーボーイ的な活躍も見せた。 45登板の防御率2.98と見事に復活し、歴代7人目の800登板も達成。球史に名を残した。 ・2020年 シーズン前にコンディション不良で調整が遅れ、以降も昇格することなく、8月に今季限りでの引退が発表された。 10月25日の中日戦(神宮球場)で引退試合が行われる。セレモニーではかつてのロケットボーイズの盟友・石井弘寿投手コーチと抱き合うシーンがファンの涙を誘った。 神宮球場は彼の引退を惜しむ大きな歓声に包まれ、五十嵐もライトスタンドのフェンスによじ登りそれに応えた。 こうして記録にも記憶にも残る名リリーバーはユニフォームを脱いだのだった。 なお2021年からはテレビ朝日の解説員として野球中継に出演予定である。 <その他逸話> 以前五十嵐が日本最速記録を所持していた時、ヤクルトのファン感謝祭で&font(#ff0000){「日本最速を体感しよう」}というイベントが企画された。 ファンが五十嵐の投げる球を&font(#ff0000){実際に打席に立って見てみる}というイベントである。 イベント自体は面白いし、野球ファン・五十嵐ファンにとってはたまらない企画であったと思われる。 しかし、ただでさえ速球派投手はコントロールに難があることが多く、まして日本最速を体感させようとすれば五十嵐も全力で投げなければならず、 その分コントロールも甘くなってしまいがちなのだ。 案の定、五十嵐はコントロールミスをしてしまい、&font(#ff0000){ファンにボールをぶつけた。} 五十嵐はもちろんその場にいたスタッフやイベントを企画した球団職員は真っ青だったらしい。 プロ野球の世界は、そこらの石ころよりも硬い球をとんでもないスピードで振り回す、危険な世界なのである。 …いくらそういう企画でも、安全性などを考えてほどほどにしてほしいものである。   また彼に良く似たスワローズマンという親友がいる。 オフの間、五十嵐のトレーニングを手伝うつもりで[[北海道]]の留萌からやって来たらしい。 ブログもしておりたびたびイベントに登場しているが、親友という割に共演することはなく不仲説もある。 果たして共演する日は来るのだろうか。 以下ネタバレ スワローズマンの正体は彼である 追記修正をお願いします。 ---- &link_up(△)&aname(メニュー,option=nolink){メニュー} &link_edit(text=項目変更)&link_copy(text=項目コピー)&link_diff(text=項目変更点)&link_backup()&link_upload(text=アップロードページ) ---- #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600) } #center(){&link_toppage(-アニヲタWiki-)} - スワローズマンはスワローズマンだろ?何言ってだこいつ -- 名無しさん (2014-05-30 10:17:22) - 由規と大谷に記録塗り替えられた事と、今ホークスに居る事は書いた方が良いかも -- 名無しさん (2014-08-22 20:50:47) - まさか球速がこうもインフレするとは158kmを出した頃は想像もつきませんでしたわ -- 名無しさん (2024-02-21 05:57:28) #comment
&font(#6495ED){登録日}:2009/07/14 Tue 11:52:01 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- プロ野球選手。ポジションは投手。 1979年5月28日生まれ [[北海道]]留萌市出身 右投右打 ・[[東京ヤクルトスワローズ]](1997年~2009年) ・ニューヨーク・メッツ(2010年~2011年) ・[[福岡ソフトバンクホークス]](2012年~2018年) ・東京ヤクルトスワローズ(2019年~2020年) 現役を通してリリーフ投手として中継ぎ・抑えを務めた。 若い頃は剛速球で鳴らしメジャーにも挑戦、ベテランになってからは緩い変化球も習得し23年間というリリーフとしては非常に長い現役生活を全うした。 また明るい性格とタレント顔負けのトーク力、「球界のキムタク」呼ばれた甘いマスクでも人気があった。 【プロ入団まで】 中学時代までは一塁手としてプレイしていたが、敬愛学園高に進学後、五十嵐の強肩に惚れ込んだ監督が投手をさせた事で才能が開花していく事になる。 高校時代のチームは五十嵐のワンマンチームだったので、残念ながら成績を残す事は出来なかった。 その後、複数の球団から誘いがあったが1997年のドラフトにてヤクルトスワローズから二位指名を受け入団した。背番号は53。 【プロ入団後】 <ヤクルト時代> ・1998年 プロ1年目はファームで10試合に登板。 二軍ながら30奪三振を記録し、注目を集める。ファーム日本選手権でMVPを獲得。 ・1999年 4月20日に一軍初昇格。5月27日にはプロ入り初勝利をマーク。最終的には6勝をあげる。 最速154km/hの速球は大きく評価されたが、当然ながらコントロールが課題となった。   ・2000年 自身初の開幕一軍スタート。 この年の前半戦は勝利の女神に微笑まれたかのように勝ち星を挙げ、リリーフのみでオールスター戦前に11勝をあげた。監督推薦で自身初のオールスターゲームに出場を決めた。 またこの年のオフには、古田敦也とともに最優秀バッテリー賞を受賞したが、二人には年齢差が14歳あり、これは同賞では史上最大の年齢差でもあった。 ・2001年 キャンプ中に肉離れを起こしてしまい、更に五月には右肘痛を発症。チームが優勝する中、波に乗り切れないシーズンとなってしまう。   ・2002年 ファンからの公募によって同僚の[[石井弘寿]]と共に&font(#ff0000){『ロケットボーイズ』}の愛称が付き、不動のセットアッパーとしてチームに貢献。この年初めて年間を一軍で過ごした。防御率も球種がほぼストレートだけにもかかわらず、2.08と自己最高だった。 オールスターの話題は五十嵐で持ちきりであり、全盛期の中村紀洋やカブレラ相手に全球ストレートはかつてないほどエキサイティングであった。 [[松井稼頭央]]は三振を喫した後に首を傾げながらベンチで「ホップしてる!ホップしてるよ!」とチームメイトにジェスチャーし、解説の東尾は五十嵐が優秀選手にすら選ばれなかった事に「え?五十嵐は?五十嵐は入ってないのっ?」「いや〜五十嵐は本当に最高でしたけどね。何故入って(ry」とベタ褒めだった。   ・2003年 前年と同じく開幕から一年間一軍に定着。監督推薦で三度目のオールスターにも出場。 二年連続で60試合登板を果たしてチームに貢献した。 ・2004年 守護神だった石井弘が故障した事もあり、抑えに抜擢される。 6月3日の対阪神選で、今岡誠に対して自己最速かつ、当時の日本最速記録だった&font(#ff0000){『158km/h』}をマークする。更にストライキの翌日の試合では、同じく阪神の矢野に対して三球連続で158km/hを含む計四球を計測した。 この記録は[[プロ野球]]の日本人記録としては最速タイ(複数球投げたのは五十嵐のみ)である。 因みにこの年の五十嵐のストレートは数値上では異常であり、オープン戦からシーズン終了までの登板時&font(#ff0000){最速平均が『154.5km/h』}であったらしい…。 来年にも記録更新か!?‥と思われていたが…。 オールスターにも出場。37セーブをあげ、最多セーブ投手にも選ばれた。 しかし中日に対する弱さが露出し、以後は相当の苦戦を強いられる事になる。   ・2005年 2年続けての抑えの役割を期待されていたが、開幕前に大腿部を故障。開幕には間に合わせたものの不振に陥り、2001年以来の二軍落ちも経験。 成績はイマイチだったものの2年連続でファン投票1位に選ばれオールスターに出場。最終的には49試合登板を果たしたが、4年連続60試合登板はならなかった。 ・2006年 この年も抑えの役割を期待されたが右肘の靭帯断裂が発覚し、オフにトミー・ジョン手術を受ける。 この手術のリハビリの影響で2007年シーズンは絶望的となった。 ・2008年 開幕戦で約1年半ぶりに公式戦に復帰。球速も154km/hを記録し、無失点で切り抜けた。 以降はその年から抑えに抜擢された林昌勇へ繋ぐセットアッパーとしての起用が増え、9月には約2年半ぶりのセーブを記録。 手術前と比べて腕の振りに勢いがなくなったものの、球速は最速で157km/hをマークし、四死球も少なくなり安定感のある投球を披露した。   ・2009年 キャンプ早々インフルエンザで離脱するも、シーズン開幕からフル稼働。前年に続き林昌勇へ繋ぐセットアッパーとして150km/h超のストレートと140km/h前後のフォークを駆使して安定した投球を続け、6月21日の西武戦で21試合連続無失点の球団新記録を樹立。 海外へのFA権を手に入れ、オフに海外へのFAを宣言。新庄剛や松井稼頭央が所属したニューヨーク・メッツへの入団が決定した。 背番号は18。 <メジャー時代> ・2010年 メッツの抑えであり、メジャーシーズン最多セーブ記録を持つフランシスコ・ロドリゲスへと繋ぐセットアッパーとして期待されての入団だったが、思うような成績は残せなかった。 同年巨人からマイナー契約で入団した高橋尚成にあっという間に追い越されてしまい、先発から抑えまでフル回転した高橋とは対照的に、シーズンを通して敗戦処理として起用され、周囲の期待には応えられずじまいに終わった。 ・2011年 開幕を3Aで迎えるも、そこで結果を残し再昇格を果たした。 最終的に45試合に登板するも制球に苦しみ、防御率は4.66と活躍したとは言い難い成績であり、FAとなった。 ・2012年 ピッツバーグ・パイレーツのスプリングトレーニングに招待選手として参加したもののメジャー契約とはいかず、直後トロント・ブルージェイズに移籍。 3Aで好投して昇格を果たすも打ち込まれ戦力外通告を受けた。 今度はヤンキースへと移籍するもほとんど出場機会は得られず、メジャーでの登板は2チーム合わせて4試合にとどまった。 <ソフトバンク時代> ・2013年 昨オフに[[福岡ソフトバンクホークス]]と3年契約を結び、3年ぶりに日本球界復帰となった。 かつては荒れ球の剛腕というイメージが強かったが、ソフトバンク移籍後は制球が安定し、米球界時代に身に付けたナックルカーブが冴えわたった。 最終的に51試合に登板して防御率2.53と中継ぎとして活躍を見せた。 ・2014年 63試合に登板してリーグ最多の44ホールド、防御率1.52、WHIP0.86と圧巻のピッチングを見せチームの日本一に貢献。 ただ、シーズン終盤に疲れが見えたか&bold(){1イニング4押し出し}という大失態をやらかしてしまった。 ・2015年 過去2年と同様に安定して働き、54試合に登板して防御率は自己最高の1.38を記録し、チームの日本一連覇に貢献した。 移籍後の3年の活躍が認められてか、2015年オフには36歳というベテラン中継ぎ投手には異例の&bold(){2億円アップの3億5千万円の2年契約+出来高}という大型契約を提示され、契約更改した。 ・2016年 史上15人目となる700当番を達成したが、左太ももの肉離れなどの負傷もあり登板数は33試合に減少。また日本での登板では初めて勝ち星がつかないシーズンとなった。 オフにはメキシカンリーグにて武者修行を敢行。ベテラン選手としては異例中の異例である。また行った先の監督に&bold(){元メジャーリーガーの高橋尚成と勘違いされて先発起用される}という珍事もあった。 ・2017年 春先は絶好調だったのだが、またしても左足を痛め7月に離脱。 しかし終盤戦には復帰し重要な場面を抑え、最終的には46登板しチームの日本一に貢献した。 ・2018年 椎間板ヘルニアを発症し開幕に出遅れ、7月まで復帰に要した。また流石に加齢もあり球威の低下も顕著で、23登板の防御率4.50と成績を大きく落とし、同年オフに戦力外通告を受けることとなった。 しかし古巣のヤクルトが獲得に乗り出し、無事移籍が決まる。 <ヤクルト復帰~引退> ・2019年 古巣ヤクルトに復帰。背番号は変わらず53。 4月には救援投手でありながら4勝を挙げるなどラッキーボーイ的な活躍も見せた。 45登板の防御率2.98と見事に復活し、歴代7人目の800登板も達成。球史に名を残した。 ・2020年 シーズン前にコンディション不良で調整が遅れ、以降も昇格することなく、8月に今季限りでの引退が発表された。 10月25日の中日戦(神宮球場)で引退試合が行われる。セレモニーではかつてのロケットボーイズの盟友・石井弘寿投手コーチと抱き合うシーンがファンの涙を誘った。 神宮球場は彼の引退を惜しむ大きな歓声に包まれ、五十嵐もライトスタンドのフェンスによじ登りそれに応えた。 こうして記録にも記憶にも残る名リリーバーはユニフォームを脱いだのだった。 なお2021年からはテレビ朝日の解説員として野球中継に出演予定である。 <その他逸話> 以前五十嵐が日本最速記録を所持していた時、ヤクルトのファン感謝祭で&font(#ff0000){「日本最速を体感しよう」}というイベントが企画された。 ファンが五十嵐の投げる球を&font(#ff0000){実際に打席に立って見てみる}というイベントである。 イベント自体は面白いし、野球ファン・五十嵐ファンにとってはたまらない企画であったと思われる。 しかし、ただでさえ速球派投手はコントロールに難があることが多く、まして日本最速を体感させようとすれば五十嵐も全力で投げなければならず、 その分コントロールも甘くなってしまいがちなのだ。 案の定、五十嵐はコントロールミスをしてしまい、&font(#ff0000){ファンにボールをぶつけた。} 五十嵐はもちろんその場にいたスタッフやイベントを企画した球団職員は真っ青だったらしい。 プロ野球の世界は、そこらの石ころよりも硬い球をとんでもないスピードで振り回す、危険な世界なのである。 …いくらそういう企画でも、安全性などを考えてほどほどにしてほしいものである。   また彼に良く似たスワローズマンという親友がいる。 オフの間、五十嵐のトレーニングを手伝うつもりで[[北海道]]の留萌からやって来たらしい。 ブログもしておりたびたびイベントに登場しているが、親友という割に共演することはなく不仲説もある。 果たして共演する日は来るのだろうか。 以下ネタバレ スワローズマンの正体は彼である 追記修正をお願いします。 ---- &link_up(△)&aname(メニュー,option=nolink){メニュー} &link_edit(text=項目変更)&link_copy(text=項目コピー)&link_diff(text=項目変更点)&link_backup()&link_upload(text=アップロードページ) ---- #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600) } #center(){&link_toppage(-アニヲタWiki-)} - スワローズマンはスワローズマンだろ?何言ってだこいつ -- 名無しさん (2014-05-30 10:17:22) - 由規と大谷に記録塗り替えられた事と、今ホークスに居る事は書いた方が良いかも -- 名無しさん (2014-08-22 20:50:47) - まさか球速がこうもインフレするとは158kmを出した頃は想像もつきませんでしたわ -- 名無しさん (2024-02-21 05:57:28) #comment

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: