津田恒実

「津田恒実」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

津田恒実」(2021/01/16 (土) 02:53:07) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

&font(#6495ED){登録日}:2009/06/08(月) 08:46:33 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &font(#6495ED){所要時間}:約 4 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 1960年8月1日生まれ 山口県都濃郡南陽町(現・周南市)出身 本名は「恒美」 背番号は15→14 通算成績:286試合登板 49勝41敗90セーブ 542奪三振 防御率3.31 80年代の[[広島東洋カープ]]の黄金期を支えた投手の一人。 闘志むき出しの投球スタイルや派手なガッツポーズが代名詞だった。 南陽工業高校では3年生の時に春・夏の甲子園に出場。その後、協和醗酵を経て1981年にドラフト1位で広島東洋カープに入団。アマチュア時代から速球派の投手として知られていた。 1年目から先発投手として11勝6敗で新人王を受賞。しかし2年目以降はルーズショルダーや右手中指の血行障害に悩まされ、登板機会が激減。 その後、1984年オフに&font(#ff0000){世界初となる中指の靱帯摘出手術}を受け復活。先発からストッパーへ転向。1986年のリーグ優勝の際は、胴上げ投手になった。 一時期は救援失敗が増え『サヨナラの津田』と呼ばれる事もあったが、1989年には最優秀救援投手賞に輝く。 高校時代は『ノミの心臓』とあだ名を付けられるほど、メンタル面に不安が有った。そんな自らの弱さを克服するため #center(){ &bold(){"弱気は最大の敵"} &bold(){"一球入魂"} } と書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板前にはそのボールに向かって気合いを入れていた((ちなみに普段の津田はひょうきん者で、ムードメーカー的存在であった。))。 ―それが結果として、プレイスタイルとして体現される事となる。 躍動感あふれるフォームから、縦横の鋭いカーブとピンチになればなるほど上がる豪速球(最速153km/h)を武器に打者に真っ向勝負で立ち向かう姿から、『&font(#ff0000){&bold(){炎のストッパー}}』と形容される。 特に全盛期の阪神のバースを相手に全て150km/h超のストレートで三球三振で仕留めた時は、 「津田はクレイジーだ!」 と言わしめるほどである。 ストレートの威力には凄まじいものがあり、巨人の原辰徳は津田の速球をファールした際、左手首を骨折した。 (決して津田の投げたボールや打球が手に当たった訳では無い) またその怪我が原因となり、原は他の怪我を併発しシーズンの残り試合をすべて欠場、フルスイング出来なくなり打撃フォームの改造を余儀なくされている。 後に「バッター原辰徳は終わった」と語るほど多大な影響を及ぼした対戦ではあったものの原はこの勝負を受けたことに関して後悔はないと当時も今も語っている。 このストレートを真っ向から受け止める、[[達川光男]]もスゴいが。 達川曰く、調子のいいときの彼のストレートは、ミットの上側に当たったという。 その後もストッパーとして活躍を期待されたが、頭痛を始めとした体の変調を徐々に訴え始める。 無理を押して登板した1991年の巨人戦は大乱調。わずか9球で1アウトもとれず降板。 最後のボールは144キロのストレートだった。 その後の精密検査の結果、脳腫瘍が発覚し現役を引退する事に。 津田の病を知った当時の山崎隆造選手会長は、すぐに全選手を集めその事実を知らせるとともに、「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう!」と涙ながらに訴えた。そして… カープは5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。 津田自身も一時期は奇跡的な回復を見せ、現役復帰を目指しトレーニングを始めるが、1992年の夏を境に体調が悪化して再入院。 1993年7月20日、32歳の若さで天国へと旅立って行った。 奇しくも、人生最後の試合となった巨人戦、津田に引退を覚悟させ人生最後の打者となったのは、津田により自身の全盛期に終止符を打たれた原辰徳であった…。 逝去した当日、東京ドームでオールスターゲーム第1戦が行われていた。そのため、津田の死は試合途中に速報で伝えられ、津田と親交の深かった実況中のアナウンサーは涙ながらに訃報を伝えた。 生前、津田は「俺は引退しても、ファンの記憶に残るような選手になりたい」と語ったことがあるという。 その言葉通り、真っ直ぐな人柄や激しく燃え尽きるような野球人生は、多くのファンに鮮やかな印象を残した。 広島市民球場にはその功績と人柄を讃え、 #center(){―直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために―} と刻まれたメモリアルプレートが設置されている。 大野豊を始めとした当時の投手陣は、このプレートに触れてからブルペンマウンドへ向かっていたという。 広島東洋カープが広島市民球場からマツダスタジアムに本拠地を移転する際、津田プレートも同時に移設された。 移転後も選手達は津田プレートに触れてからマウンドに向かっていることだろう。 そして、津田恒実は空高くから選手達を見守ってくれているはずである。 2000年には夫人の著書を原作にしたドラマ「最後のストライク」が放送された。 津田を演じたのは岸谷五朗。親友の森脇浩司は石黒賢が演じた。 このドラマではウグイス嬢や実況を当時の人がつとめ、端役で津田と共に広島でプレーした選手などが出演している。 追記、修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,4) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - とにかく責任感の強い人で、ある試合でリリーフで登板したが滅多打ちにされて後輩(確か清川?)の勝ち星を消してしまった事が有り、試合後に30分おきに後輩の部屋に謝りに行き、見かねた周りが止めたとかどうとか・・・ -- 名無しさん (2020-11-29 10:55:31) - インタビュー映像等を見ると、素朴で飾らない話し方や笑顔が印象に残る。 -- 名無しさん (2021-01-16 02:41:32) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2009/06/08(月) 08:46:33 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &font(#6495ED){所要時間}:約 4 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 1960年8月1日生まれ 山口県都濃郡南陽町(現・周南市)出身 本名は「恒美」 背番号は15→14 通算成績:286試合登板 49勝41敗90セーブ 542奪三振 防御率3.31 80年代の[[広島東洋カープ]]の黄金期を支えた投手の一人。 闘志むき出しの投球スタイルや派手なガッツポーズが代名詞だった。 南陽工業高校では3年生の時に春・夏の甲子園に出場。その後、協和醗酵を経て1981年にドラフト1位で広島東洋カープに入団。アマチュア時代から速球派の投手として知られていた。 1年目から先発投手として11勝6敗で新人王を受賞。しかし2年目以降はルーズショルダーや右手中指の血行障害に悩まされ、登板機会が激減。 その後、1984年オフに&font(#ff0000){世界初となる中指の靱帯摘出手術}を受け復活。先発からストッパーへ転向。1986年のリーグ優勝の際は、胴上げ投手になった。 一時期は救援失敗が増え『サヨナラの津田』と呼ばれる事もあったが、1989年には最優秀救援投手賞に輝く。 高校時代は『ノミの心臓』とあだ名を付けられるほど、メンタル面に不安が有った。そんな自らの弱さを克服するため #center(){ &bold(){"弱気は最大の敵"} &bold(){"一球入魂"} } と書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板前にはそのボールに向かって気合いを入れていた((ちなみに普段の津田はひょうきん者で、ムードメーカー的存在であった。))。 ―それが結果として、プレイスタイルとして体現される事となる。 躍動感あふれるフォームから、縦横の鋭いカーブとピンチになればなるほど上がる豪速球(最速153km/h)を武器に打者に真っ向勝負で立ち向かう姿から、『&font(#ff0000){&bold(){炎のストッパー}}』と形容される。 特に全盛期の阪神のバースを相手に全て150km/h超のストレートで三球三振で仕留めた時は、 「津田はクレイジーだ!」 と言わしめるほどである。 ストレートの威力には凄まじいものがあり、巨人の原辰徳は津田の速球をファールした際、左手首を骨折した。 (決して津田の投げたボールや打球が手に当たった訳では無い) またその怪我が原因となり、原は他の怪我を併発しシーズンの残り試合をすべて欠場、フルスイング出来なくなり打撃フォームの改造を余儀なくされている。 後に「バッター原辰徳は終わった」と語るほど多大な影響を及ぼした対戦ではあったものの原はこの勝負を受けたことに関して後悔はないと当時も今も語っている。 このストレートを真っ向から受け止める、[[達川光男]]もスゴいが。 達川曰く、調子のいいときの彼のストレートは、ミットの上側に当たったという。 その後もストッパーとして活躍を期待されたが、頭痛を始めとした体の変調を徐々に訴え始める。 無理を押して登板した1991年の巨人戦は大乱調。わずか9球で1アウトもとれず降板。 最後のボールは144キロのストレートだった。 その後の精密検査の結果、脳腫瘍が発覚し現役を引退する事に。 津田の病を知った当時の山崎隆造選手会長は、すぐに全選手を集めその事実を知らせるとともに、「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう!」と涙ながらに訴えた。そして… カープは5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。 津田自身も一時期は奇跡的な回復を見せ、現役復帰を目指しトレーニングを始めるが、1992年の夏を境に体調が悪化して再入院。 1993年7月20日、32歳の若さで天国へと旅立って行った。 奇しくも、人生最後の試合となった巨人戦、津田に引退を覚悟させ人生最後の打者となったのは、津田により自身の全盛期に終止符を打たれた原辰徳であった…。 逝去した当日、東京ドームでオールスターゲーム第1戦が行われていた。そのため、津田の死は試合途中に速報で伝えられ、津田と親交の深かった実況中のアナウンサーは涙ながらに訃報を伝えた。 生前、津田は「俺は引退しても、ファンの記憶に残るような選手になりたい」と語ったことがあるという。 その言葉通り、真っ直ぐな人柄や激しく燃え尽きるような野球人生は、多くのファンに鮮やかな印象を残した。 広島市民球場にはその功績と人柄を讃え、 #center(){―直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために―} と刻まれたメモリアルプレートが設置されている。 大野豊を始めとした当時の投手陣は、このプレートに触れてからブルペンマウンドへ向かっていたという。 広島東洋カープが広島市民球場からマツダスタジアムに本拠地を移転する際、津田プレートも同時に移設された。 移転後も選手達は津田プレートに触れてからマウンドに向かっていることだろう。 そして、津田恒実は空高くから選手達を見守ってくれているはずである。 2000年には夫人の著書を原作にしたドラマ「最後のストライク」が放送された。 津田を演じたのは岸谷五朗。親友の森脇浩司は石黒賢が演じた。 このドラマではウグイス嬢や実況を当時の人がつとめ、端役で津田と共に広島でプレーした選手などが出演している。 追記、修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,4) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - とにかく責任感の強い人で、ある試合でリリーフで登板したが滅多打ちにされて後輩(確か清川?)の勝ち星を消してしまった事が有り、試合後に30分おきに後輩の部屋に謝りに行き、見かねた周りが止めたとかどうとか・・・ -- 名無しさん (2020-11-29 10:55:31) - インタビュー映像等を見ると、素朴な話し方や笑顔が印象的。元気のない人を見かけると、茶目っ気たっぷりに声をかけるような人柄とも。そんな津田だから、闘病中に色々な人が彼の支えになってくれたのだろう。 -- 名無しさん (2021-01-16 02:41:32) #comment #areaedit(end) }

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: