ミハエル・シューマッハ

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&font(#6495ED){登録日}:2011/08/08(月) 20:29:46 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 7 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- ミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher)はメルセデスGP所属のレーシングドライバー。過去7度ワールドチャンピオンに輝き&font(#ff0000){「皇帝」}の異名を持つ。 生年月日/1969年1月3日 [[血液型]]/O型 出身地/ドイツ・ケルペン 【チーム遍歴】 1991年R11 ジョーダン 1991年R12〜1995年 ベネトン 1996年〜2006年 フェラーリ 2010年〜2012年 メルセデスGP *経歴 **F1デビューまで 1969年1月3日に、暖炉職人のロルフとその妻エリザベスとの間に産まれる。ロルフは本業と並行してカートコースの運営を行っていたため幼い頃から父のカート場で腕を磨き、1987年に、18歳でヨーロッパとドイツのカート選手権でチャンピオンを獲得。 1990年には、ドイツF3チャンピオン、マカオF3優勝に輝く。 その頃にはメルセデスのスポーツカーのジュニアチームとして更なる英才教育を施され、若手での評価も上がりつつあった。 しかし、当時メルセデスはF1に参戦しておらず、シューマッハがF1のシートを見つけるための「王道ルート」からは外れつつあったことも、また否定できない状態であった。 **F1デビューとベネトン時代 転機が訪れたのは91年のベルギーGP前。当時ジョーダンの正ドライバーだったベルトラン・ガショーが傷害事件を起こしチームを離脱。 代役として、メルセデスから多額の資金と実績を引っ提げたシューマッハが起用された。 フリー走行から目を見張る速を見せ、予選ではチームメイトのチェザリスを上回る7位を獲得。決勝はスタートから数百m走った所でクラッチが壊れてあっという間にリタイアしてしまったが、関係者からは将来チャンピオンになれる器の若手が登場したと注目されるように。   デビュー戦でのインパクトは大きく、次戦イタリアGPからはベネトンに移籍。様々な契約問題があったものの、正ドライバーになる。 翌年からは若きエースとしてチームを引っ張り、この年不調の[[アイルトン・セナ]]やこの年圧倒的な速さを誇っていたウィリアムズ勢を追い回すほどの速さを見せた。 デビューからちょうど一年後に第12戦のベルギーGP。シューマッハは不安定な天候を上手く読み取った上で完璧なタイミングでタイヤ交換を行ったことが功を奏し、F1初優勝を決めた。 93年にはハイテク満載のマシンにも順応し、[[アラン・プロスト]]、セナを追いかけるレースを幾度と見せる。9レースで表彰台に上がり、この年のポルトガルGPで自身2勝目を挙げた。 翌94年。プロストの引退によって空いたウイリアムズのシートに収まったセナがチャンピオン最有力と言われていた中、シューマッハは開幕から2連勝を飾る。[[第3戦サンマリノGP>1994年 F1世界選手権 第3戦 サンマリノGP]]では、決勝でセナがアクシデントにより還らぬ人となったのをはじめ、多くの死傷者が出る悲劇的なレースとなったが、ここでも気丈に優勝。 次戦モナコGPも初制覇し、開幕4連勝。 破竹の勢いでシーズンを染め上げかけた。 ところが、ベネトンのマシンにレギュレーション違反疑惑が持ち上がる(最終的には嫌疑不十分で無罪)と、FIAに揚げ足取りされる形になり、シーズン中盤は失格やそれに伴う出場停止で、かなりのポイントを取り損ねてしまう。この間にチャンピオン争いに加わったのは[[デーモン・ヒル]]。元はウイリアムズのセカンドドライバーだったが、セナ亡き後エースに昇格し、シューマッハに失格・出停止の処分が下ったレースを全て制してポイント差を急激に詰めてきていた。 王座決定は最終戦まで縺れ込み、ランキングトップのシューマッハと2位ヒルの差は僅か1ポイント。 レースは先頭を走るシューマッハを2位ヒルが追う展開。そして36周目。シューマッハがコースアウトして壁に接触。何とかシューマッハはコースに戻ってきたが、その隙にヒルがシューマッハを追い抜こうと並びかける。そして次のコーナーに2台が並んで飛び込んだ瞬間に2人のマシンが接触してしまう。シューマッハのマシンは一度宙に飛び上がって着地した後、タイヤバリアへ突っ込みストップし、そのままリタイアとなった。しかし、トップに立ったヒルもホイールが割れてタイヤがパンクした上にフロントサスペンションのアームが曲がってしまい、スローダウン。何とかピットに戻ってくるが、すぐに走れる状態までマシンを修復するのは不可能であり、そのままリタイアを決めた。これで結局2人揃ってノーポイントに終わったためシューマッハのチャンピオンが決定した。 しかし、 「シューマッハは両者リタイアでもチャンピオンになれたため、同士討ちを狙ってヒルにぶつけたのではないか?」 「そうでないにしても、追い抜こうとしたヒルに対するシューマッハの牽制が厳し過ぎたことが接触の原因だったのではないか?」 「シューマッハはコースアウトした際にマシンにダメージを負っており、後で追い抜くチャンスはいくらでもあったのに、慌てて追い抜きをかけたヒルのミスではないのか?」 など、このアクシデントは物議を醸した。 翌1995年。ベネトンがウイリアムズと同じルノーのエンジンを手に入れ、エンジンパワーにおけるライバルチームに対する劣勢の埋め合わせることができるように。 これにより、チャンピオン争いはシューマッハ優位と思われていたが、いざシーズンが始まると新型マシンのバランスの悪さに苦しむことに。しかし、マシンの改良が進んでからは、持ち前の勝負強さとチームの優れたレース戦略に助けられて連戦連勝を重ね、終わってみれば年間最多の9勝をあげることに成功。年間16戦のうち、実に過半数のレースを制するに至った。これで2年連続のチャンピオンをもぎ取る。 **フェラーリ再建 1996年、シューマッハはこれまで栄光を共にしたベネトンに別れを告げ、&font(#ff0000){フェラーリ}に移籍。フェラーリと言えば、F1が始まった1950年から参戦を続け、チャンピオン獲得数や優勝回数でも1位を誇る名門中の名門だが、当時は1勝以下のシーズンが5年も続いており、その間チャンピオン争いに絡むことすら出来ないという超暗黒期。そんな不振にあえぐ名門チームを復活させるという使命に挑んでいたのが、当時フェラーリのチームマネージャーだったジャン・トッドであり、シューマッハはトッドのオファーを受け入れて、共に名門復活を目指すこととなった。 しかし、この年シューマッハがドライブしたフェラーリ310は「想像以上に酷いマシン(本人談)」であり、結局シューマッハをもってしても、3勝をあげてランキング3位に入るのがやっと。 それでも、フェラーリのマシンが「スピードがない上に、1/3以上のレースをマシントラブルで落としてしまうほど信頼性も低かった」という、シューマッハが酷評するのも納得できるような代物だったことや、フェラーリがシューマッハ移籍前の4年間で2勝しかしていなかったことを考えると、大健闘と言ってよかった。 このシューマッハ効果は翌年から更にききはじめた。 翌1997年はベネトン時代からの付き合いであるテクニカルディレクターのロス・ブラウン、マシンデザイナーのロリー・バーンを招聘。 マシンの徹底的な信頼性向上と戦闘力アップの為にチームはそれまで以上に速さと強さに磨きをかけ、この年の本命だったジャック・ビルヌーブと一進一退の攻防を続け、チャンピオンシップを争った。 そして、王座決定は最終戦のヨーロッパGPまでもつれ込んだ。この時点でポイントリーダーはシューマッハ、それに次ぐのがビルヌーブ。予選ではビルヌーブとシューマッハ、そしてビルヌーブのチームメイトであるフレンツェンがポールポジションを争い、最終的には3人が全く同じタイムを叩き出し、最初にタイムを出したビルヌーブが辛うじてポールポジションを得るという熾烈なタイムアタック合戦が繰り広げられた。 決勝はスタートでビルヌーヴの前に出たシューマッハがレースをリードするが、ビルヌーブも離れずにそれを追いかけるという息詰まる展開。その中、48周目にビルヌーヴがシューマッハの前に出ようと追い抜きをかけるものの、シューマッハは並んだビルヌーブに向けてステアリングを切り、結果2台は接触。 シューマッハはマシンにダメージを負いリタイア、ビルヌーヴは傷を負ったマシンを労わりながらも走り続けて3位でフィニッシュし、チャンピオンとなる。シューマッハは敗れはしたものの、ビルヌーブと僅差のランキング2位を獲得した...はずだった。 F1を統括しているFIAは、最終戦における2台の接触は、双方リタイアとなればチャンピオンが決まっていたシューマッハが意図的に引き起こしたものであったと判断し、シューマッハは97年のドライバーズランキングから除外されてしまった。しかし、同年の優勝や獲得ポイントは記録に残ることになったため、シューマッハのドライビングだけでなく、それに対する制裁の妥当性に関しても、やはり物議を醸す結果となった。   98年はウイリアムズがルノーエンジンを失ったことで低迷。それと入れ替わるように台頭した、マクラーレン[[ミカ・ハッキネン]]とチャンピオンシップを争う。シューマッハとハッキネンはF3時代からの[[ライバル]]であり、F1でも双方の意地がぶつかり合う熾烈な優勝争いが繰り広げられた。 シーズン序盤こそハッキネンが優勢だったが、マシンの性能向上により中盤以降の猛チャージで、またしても王座決定は最終戦となった。 予選の結果、ポールポジションはシューマッハ、ハッキネンは2位。ところが、決勝ではスタート直前にシューマッハのマシンがオーバーヒートしてクラッチが誤作動を起こし、その反動でエンジンがストールしてしまった。これでスタートは延期になり、その原因を作ったシューマッハは最下位からスタートすることになってしまった。しかし、シューマッハは諦めることなく3位まで鬼神の如き追い上げを見せたが、32周目にクラッシュしたマシンの破片を踏んでしまいタイヤがバースト。ピットに戻れずリタイアとなる。 これで、ハッキネンがチャンピオンを獲得。シューマッハは敗れたものの、後味の悪かった前年と異なり、ランキング2位をしっかり手中に収めた。 1999年もフェラーリに残留。昨年の続きとばかりに、ハッキネンとチャンピオン争いを繰り広げた。 ところが、第8戦イギリスGPでシューマッハはキャリア史上最悪の事故に遇ってしまう。 レースがスタートすると、シューマッハは順調に4位を走行していたが、半周あたりでいきなりブレーキが効かなくなり、タイヤバリアへ正面から突っ込んでしまう。腓骨と脛骨を折り、その治療のために7レースを欠場。後に事故原因は、メカニックがブレーキの配管に付けられているボルトをしっかり締めていなかったことだったと発覚している。 しかし、復帰戦のマレーシアでは、予選でいきなりポールポジションを獲得し、決勝でもトップを快走。最後はチャンピオンの可能性が残っていたチームメートのアーバインにトップを譲るが、2位でレースを終えた。 この年の最終戦である日本GPでもポールポジションから2位に入り、その甲斐あってフェラーリはコンストラクターズチャンピオンを獲得。ドライバーズチャンピオンはハッキネンに奪われたが、シューマッハは7レースを欠場しながらもランキング5位を獲得し、面目を保った。 2000年、フェラーリは背水の陣でシーズンに挑んだ。 序盤に3連勝、中盤こそクラッシュなどでポイントをハッキネンに逆転させられたものの、第14戦イタリアGPはポールポジションから逃げ切り優勝。 様々なプレッシャーから開放されたシューマッハは、レース後の会見で涙を流した(この優勝でセナと同じ優勝回数に並び、その事で感極まったと言われているが諸説あり)。 第16戦日本GP、シューマッハはスタートでハッキネンに交わされるが、ピットストップで逆転、見事に3度目のタイトルをものにした。 **フェラーリ黄金時代〜一度目の引退 2001年もシューマッハは速く無敵と言ってよかった。 なんと17戦で9勝をあげて、シーズン13戦目でタイトルを決定。最終的には、123ポイントを稼ぎ出し、65ポイントを獲得してランキング2位となったクルサードに2倍近いポイント差をつけた。 翌2002年は更に圧倒的な強さを見せた。17戦全てのレースで表彰台に登り、うち11戦で優勝。年間史上最速の11戦目でタイトル獲得。この年のマシン、[[F2002>Ferrari-F2002]]によって、チームの完全制覇を成し遂げた。 03年は一転し苦戦、マシンバランスや新レギュレーションに苦しめられ、[[キミ・ライコネン]]とタイトルを最終戦まで争い、2ポイントの差で競り勝つ。 翌年は02年の再来と言えたシーズンだった。 他チームが苦戦する中、[[F2004>Ferrari-F2004]]に乗るシューマッハは&font(#ff0000){18戦中13勝}という圧勝ぶりで&font(#ff0000){シーズン5連覇}を達成。 05年は、この年マシンに関するレギュレーションが大幅に変更されたこと、フェラーリがそれに上手く対処できなかったことから、シューマッハのマシンは速さを失い、19戦中たった1勝(しかもタイヤメーカーの不祥事で、参戦している20台中6台しか出走できなかった異例のレース)という散々な結果に終わる。 チャンピオンを獲得したのは、ルノーのフェルナンド・アロンソ。この年の活躍で最年少チャンピオン記録を塗り替えた若手であり、いよいよ世代交代かという声も聞かれるようになった。 06年は、フェラーリが前年の反省を元にマシンを改良したことから戦闘力を取り戻し、前年チャンピオンとアロンソと一騎打ちのシーズン。序盤はアロンソに離されるも徐々に差を詰め、第15戦イタリアGPで勝利を挙げた後、引退を発表。 次戦の中国GPも優勝し、最大25ポイント差があったアロンソに並ぶ。 しかし、第17戦日本GPではトップ独走中の37周目にエンジントラブルでリタイア。このレースで優勝したアロンソが、最終戦で1ポイントでも獲得すればチャンピオンが決まるという、シューマッハにとっては絶望的な状況に。 迎えた最終戦、チャンピオン獲得には圧倒的不利な条件の中、シューマッハは予選で好タイムを連発しながらもマシントラブルに足下をすくわれて10位。決勝でも、他者との接触でタイヤがパンクし、ピットインしたことで、最下位にまで落ちてしまう。しかし、シューマッハはそこから前のマシンを一台、また一台と交わしながら、最後まで優勝とチャンピオンを目指し疾走した。結局、このレースで2位に入ったアロンソがチャンピオンを決めたが、一方のシューマッハは絶望的な状況から4位まで追い上げて引退レースを終えた。「まだやれるのではないか」と関係者やファンは思ったが、シューマッハは潔くF1のシートを降りていった。 07年からはフェラーリのアドバイザーとして度々サーキットに姿を見せていた(何故かそのレースではライコネンは勝てないばかりかリタイアを重ねていた)。 だが、09年にレギュラードライバーのフェリペ・マッサが重傷を負った際に復帰を噂され、自身も練習走行まで行ったが、直前になって過去に[[バイク]]レースの際に転倒した首の痛みによって出走を取り消すと発表…。 その後はルカ・バドエルと[[ジャンカルロ・フィジケラ]]が走行したが、結果は両者共に0ポイントで終わった(この年、テスト禁止や新しく導入されたKERSを搭載していた為、ドライブが難しいと言われた)。   **F1復帰と2度目の引退 2010年シーズン前にメルセデス・ベンツがF1チームに復帰をアナウンス。そのエースとしてなんとシューマッハが起用された。 心配された首のダメージはほぼ完治したと言われ、シーズンが開幕。しかし4年のブランクと年齢からか、中段争いが精一杯で表彰台すらも上がる事も無くシーズンが終わる。 翌11年、前年と変わらずのポジションとアクシデントの多さから現時点では復帰は失敗だと言われていたが、第13戦イタリアGPでルイス・ハミルトンと約20周近く熾烈な[[ドッグファイト]]を演じた。 2012年もメルセデスに残留。モナコGPでのポールポジションや、ヨーロッパGPでの3位表彰台など、速さを見せる場面もあったが、この年限りで2度目の引退を発表。最後のレースとなったブラジルGPを7位で完走すると、再びヘルメットを置いた。 **伝説の終焉 2013年末にスキー場のコース外、いわゆるバックカントリーを滑走していたシューマッハ。そんな彼が、突如として命を脅かす大事故に見舞われた。 &bold(){転倒して岩に頭を打ち、ヘルメットをしていたにもかかわらず外傷性脳損傷を負ったのだ。}それも[[ヘルメットが無ければ即死だった>シャア・アズナブル]]というほどの。 懸命な治療の末に一命は取り留めたものの、シューマッハが負った傷はそんな軽口すら言えなくなるほどに大きかった。 2019年までに明らかになっている情報によれば、&bold(){意識こそあるものの歩くことも喋ることもできず記憶障害が残っており、意思疎通が難しいという。} これでも&bold(){負傷の重さに比べれば}回復している方らしいが、これほどの重傷を負ってもなお意識があって、生きていることすら奇跡と言えるだろう。 今の彼を知る人々は、口を揃えて「ご家族の意志を尊重し、彼について語ることはできない。ご家族と共に静かに過ごさせてあげて欲しい」という。 最早「皇帝」の面影どころか、姿さえ見ることもできないかもしれない…… *余談 『[[新世紀GPXサイバーフォーミュラ]]』に登場するナイト・シューマッハのモデル。 まだ本人が頭角を現す前の話だったが、速さだけでなく、予選の妨害をしたり、スタートでフェイントを入れるなど、勝つ為には手段を選ばない所までなぜかその後のシューマッハそっくり。 容姿で特徴的だったのは長くしゃくれた[[顎>顎(アゴ)]]で、それが目立つのを気にしてか、横顔の写真を撮られるのが好きではなかったらしい。 しかし、この特徴的な顔ゆえ古舘伊知郎から「顔面ロマンチック街道」「顔面三浦半島」「顔面バナナノーズ」とニックネームをつけられていた。 また現役時代のタフさから、「機動戦士シューマッハ」「人間リポビタンD」なんて古舘が呼んでいたことも。 ヨーロッパでは[[SF映画の悪役>ターミネーター2(映画)]]と本人の名前を掛け合わせた「シューミネーター」というニックネームで呼ばれていたこともあった。 服のセンスが壊滅的に悪く、よくネタにされたりする。 慈善活動にも積極的で、04年のスマトラ島沖地震の際には1000万ドル(当時約10億円)も寄付をした。 弟のラルフもドライバー。F1後はDTMで活躍している。   大のサッカー好きとしても知られ、サッカーの腕前は趣味の域を超え、もはやプロ級。 実際に自宅近くのスイス3部リーグのチームに&font(#ff0000){選手として}所属していた。 [[イギリス]]の人気番組[[Top Gear]]に出演し、覆面ドライバー「スティグ」の中の人として紹介された。 が、彼の計測ラップの映像になるとコースを飛び出す、逆走する、カメラを破壊、挙げ句の果てに迷子になってしまうという終わり方(これは演出でシューマッハはゲスト出演だったと言われている)。 妻はコリーナ氏。二人の間には、娘のジーナマリアと息子のミックを設けている。そのコリーナ氏は、同じドイツ人の元F1ドライバーであるハインツ=ハラルド・フレンツェンの元恋人。その為、シューマッハがコリーナ氏を寝取ったのではないかとの噂も。 ミックもレーシングドライバーの道を選択し、2018年にヨーロッパF3で、2020年にはF2でチャンピオンを獲得。その実績が認められ、2021年にF1デビューを果たしている。 追記・修正はDEAD ENDの「Good Morning Satellite」を流しながらお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,5) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 人間的には評価の分かれる人物だが、ドライバーとしては間違い無くトップクラス。一人で一つの時代を作ってしまう様なドライバーはもう今後出て来ないかも知れない。 -- 名無しさん (2013-09-10 23:18:57) - いや出てくると思うよ。 -- 名無しさん (2014-05-16 19:39:04) - 浪花のシューマッハ!? -- 名無しさん (2015-01-12 00:33:52) - ハシリヤ!→パシリや! -- 名無しさん (2016-10-18 04:00:24) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2011/08/08(月) 20:29:46 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 7 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- ミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher)はメルセデスGP所属のレーシングドライバー。過去7度ワールドチャンピオンに輝き&font(#ff0000){「皇帝」}の異名を持つ。 生年月日/1969年1月3日 [[血液型]]/O型 出身地/ドイツ・ケルペン 【チーム遍歴】 1991年R11 ジョーダン 1991年R12〜1995年 ベネトン 1996年〜2006年 フェラーリ 2010年〜2012年 メルセデスGP *経歴 **F1デビューまで 1969年1月3日に、暖炉職人のロルフとその妻エリザベスとの間に産まれる。ロルフは本業と並行してカートコースの運営を行っていたため幼い頃から父のカート場で腕を磨き、1987年に、18歳でヨーロッパとドイツのカート選手権でチャンピオンを獲得。 1990年には、ドイツF3チャンピオン、マカオF3優勝に輝く。 その頃にはメルセデスのスポーツカーのジュニアチームとして更なる英才教育を施され、若手での評価も上がりつつあった。 しかし、当時メルセデスはF1に参戦しておらず、シューマッハがF1のシートを見つけるための「王道ルート」からは外れつつあったことも、また否定できない状態であった。 **F1デビューとベネトン時代 転機が訪れたのは91年のベルギーGP前。当時ジョーダンの正ドライバーだったベルトラン・ガショーが傷害事件を起こしチームを離脱。 代役として、メルセデスから多額の資金と実績を引っ提げたシューマッハが起用された。 フリー走行から目を見張る速を見せ、予選ではチームメイトのチェザリスを上回る7位を獲得。決勝はスタートから数百m走った所でクラッチが壊れてあっという間にリタイアしてしまったが、関係者からは将来チャンピオンになれる器の若手が登場したと注目されるように。   デビュー戦でのインパクトは大きく、次戦イタリアGPからはベネトンに移籍。様々な契約問題があったものの、正ドライバーになると、このレースで早速5位に入り、2レース目でF1初ポイントを獲得。チームメートの元ワールドチャンピオンであるネルソン・ピケの6位を上回り、その後の3レースでも2度の入賞を記録した。 翌年はピケが引退したことから若きエースとしてチームを引っ張り、前年チャンピオンの[[アイルトン・セナ]]やこの年圧倒的な速さを誇っていたウィリアムズ勢を追い回すほどの速さを見せた。 デビューからちょうど一年後に第12戦のベルギーGP。シューマッハは不安定な天候を上手く読み取った上で完璧なタイミングでタイヤ交換を行ったことが功を奏し、F1初優勝を決めた。 93年にはハイテク満載のマシンにも順応し、[[アラン・プロスト]]、セナを追いかけるレースを幾度と見せる。9レースで表彰台に上がり、この年のポルトガルGPで自身2勝目を挙げた。 翌94年。プロストの引退によって空いたウイリアムズのシートに収まったセナがチャンピオン最有力と言われていた中、シューマッハは開幕から2連勝を飾る。[[第3戦サンマリノGP>1994年 F1世界選手権 第3戦 サンマリノGP]]では、決勝でセナがアクシデントにより還らぬ人となったのをはじめ、多くの死傷者が出る悲劇的なレースとなったが、ここでも気丈に優勝。 次戦モナコGPも初制覇し、開幕4連勝。 破竹の勢いでシーズンを染め上げかけた。 ところが、ベネトンのマシンにレギュレーション違反疑惑が持ち上がる(最終的には嫌疑不十分で無罪)と、FIAに揚げ足取りされる形になり、シーズン中盤は失格やそれに伴う出場停止で、かなりのポイントを取り損ねてしまう。この間にチャンピオン争いに加わったのは[[デーモン・ヒル]]。元はウイリアムズのセカンドドライバーだったが、セナ亡き後エースに昇格し、シューマッハに失格・出停止の処分が下ったレースを全て制してポイント差を急激に詰めてきていた。 王座決定は最終戦まで縺れ込み、ランキングトップのシューマッハと2位ヒルの差は僅か1ポイント。 レースは先頭を走るシューマッハを2位ヒルが追う展開。そして36周目。シューマッハがコースアウトして壁に接触。何とかシューマッハはコースに戻ってきたが、その隙にヒルがシューマッハを追い抜こうと並びかける。そして次のコーナーに2台が並んで飛び込んだ瞬間に2人のマシンが接触してしまう。シューマッハのマシンは一度宙に飛び上がって着地した後、タイヤバリアへ突っ込みストップし、そのままリタイアとなった。しかし、トップに立ったヒルもホイールが割れてタイヤがパンクした上にフロントサスペンションのアームが曲がってしまい、スローダウン。何とかピットに戻ってくるが、すぐに走れる状態までマシンを修復するのは不可能であり、そのままリタイアを決めた。これで結局2人揃ってノーポイントに終わったためシューマッハのチャンピオンが決定した。 しかし、 「シューマッハは両者リタイアでもチャンピオンになれたため、同士討ちを狙ってヒルにぶつけたのではないか?」 「そうでないにしても、追い抜こうとしたヒルに対するシューマッハの牽制が厳し過ぎたことが接触の原因だったのではないか?」 「シューマッハはコースアウトした際にマシンにダメージを負っており、後で追い抜くチャンスはいくらでもあったのに、慌てて追い抜きをかけたヒルのミスではないのか?」 など、このアクシデントは物議を醸した。 翌1995年。ベネトンがウイリアムズと同じルノーのエンジンを手に入れ、エンジンパワーにおけるライバルチームに対する劣勢の埋め合わせることができるように。 これにより、チャンピオン争いはシューマッハ優位と思われていたが、いざシーズンが始まると新型マシンのバランスの悪さに苦しむことに。しかし、マシンの改良が進んでからは、持ち前の勝負強さとチームの優れたレース戦略に助けられて連戦連勝を重ね、終わってみれば年間最多の9勝をあげることに成功。年間16戦のうち、実に過半数のレースを制するに至った。これで2年連続のチャンピオンをもぎ取る。 **フェラーリ再建 1996年、シューマッハはこれまで栄光を共にしたベネトンに別れを告げ、&font(#ff0000){フェラーリ}に移籍。フェラーリと言えば、F1が始まった1950年から参戦を続け、チャンピオン獲得数や優勝回数でも1位を誇る名門中の名門だが、当時は1勝以下のシーズンが5年も続いており、その間チャンピオン争いに絡むことすら出来ないという超暗黒期。そんな不振にあえぐ名門チームを復活させるという使命に挑んでいたのが、当時フェラーリのチームマネージャーだったジャン・トッドであり、シューマッハはトッドのオファーを受け入れて、共に名門復活を目指すこととなった。 しかし、この年シューマッハがドライブしたフェラーリ310は「想像以上に酷いマシン(本人談)」であり、結局シューマッハをもってしても、3勝をあげてランキング3位に入るのがやっと。 それでも、フェラーリのマシンが「スピードがない上に、1/3以上のレースをマシントラブルで落としてしまうほど信頼性も低かった」という、シューマッハが酷評するのも納得できるような代物だったことや、フェラーリがシューマッハ移籍前の4年間で2勝しかしていなかったことを考えると、大健闘と言ってよかった。 このシューマッハ効果は翌年から更にききはじめた。 翌1997年はベネトン時代からの付き合いであるテクニカルディレクターのロス・ブラウン、マシンデザイナーのロリー・バーンを招聘。 マシンの徹底的な信頼性向上と戦闘力アップの為にチームはそれまで以上に速さと強さに磨きをかけ、この年の本命だったジャック・ビルヌーブと一進一退の攻防を続け、チャンピオンシップを争った。 そして、王座決定は最終戦のヨーロッパGPまでもつれ込んだ。この時点でポイントリーダーはシューマッハ、それに次ぐのがビルヌーブ。予選ではビルヌーブとシューマッハ、そしてビルヌーブのチームメイトであるフレンツェンがポールポジションを争い、最終的には3人が全く同じタイムを叩き出し、最初にタイムを出したビルヌーブが辛うじてポールポジションを得るという熾烈なタイムアタック合戦が繰り広げられた。 決勝はスタートでビルヌーヴの前に出たシューマッハがレースをリードするが、ビルヌーブも離れずにそれを追いかけるという息詰まる展開。その中、48周目にビルヌーヴがシューマッハの前に出ようと追い抜きをかけるものの、シューマッハは並んだビルヌーブに向けてステアリングを切り、結果2台は接触。 シューマッハはマシンにダメージを負いリタイア、ビルヌーヴは傷を負ったマシンを労わりながらも走り続けて3位でフィニッシュし、チャンピオンとなる。シューマッハは敗れはしたものの、ビルヌーブと僅差のランキング2位を獲得した...はずだった。 F1を統括しているFIAは、最終戦における2台の接触は、双方リタイアとなればチャンピオンが決まっていたシューマッハが意図的に引き起こしたものであったと判断し、シューマッハは97年のドライバーズランキングから除外されてしまった。しかし、同年の優勝や獲得ポイントは記録に残ることになったため、シューマッハのドライビングだけでなく、それに対する制裁の妥当性に関しても、やはり物議を醸す結果となった。   98年はウイリアムズがルノーエンジンを失ったことで低迷。それと入れ替わるように台頭した、マクラーレン[[ミカ・ハッキネン]]とチャンピオンシップを争う。シューマッハとハッキネンはF3時代からの[[ライバル]]であり、F1でも双方の意地がぶつかり合う熾烈な優勝争いが繰り広げられた。 シーズン序盤こそハッキネンが優勢だったが、マシンの性能向上により中盤以降の猛チャージで、またしても王座決定は最終戦となった。 予選の結果、ポールポジションはシューマッハ、ハッキネンは2位。ところが、決勝ではスタート直前にシューマッハのマシンがオーバーヒートしてクラッチが誤作動を起こし、その反動でエンジンがストールしてしまった。これでスタートは延期になり、その原因を作ったシューマッハは最下位からスタートすることになってしまった。しかし、シューマッハは諦めることなく3位まで鬼神の如き追い上げを見せたが、32周目にクラッシュしたマシンの破片を踏んでしまいタイヤがバースト。ピットに戻れずリタイアとなる。 これで、ハッキネンがチャンピオンを獲得。シューマッハは敗れたものの、後味の悪かった前年と異なり、ランキング2位をしっかり手中に収めた。 1999年もフェラーリに残留。昨年の続きとばかりに、ハッキネンとチャンピオン争いを繰り広げた。 ところが、第8戦イギリスGPでシューマッハはキャリア史上最悪の事故に遇ってしまう。 レースがスタートすると、シューマッハは順調に4位を走行していたが、半周あたりでいきなりブレーキが効かなくなり、タイヤバリアへ正面から突っ込んでしまう。腓骨と脛骨を折り、その治療のために7レースを欠場。後に事故原因は、メカニックがブレーキの配管に付けられているボルトをしっかり締めていなかったことだったと発覚している。 しかし、復帰戦のマレーシアでは、予選でいきなりポールポジションを獲得し、決勝でもトップを快走。最後はチャンピオンの可能性が残っていたチームメートのアーバインにトップを譲るが、2位でレースを終えた。 この年の最終戦である日本GPでもポールポジションから2位に入り、その甲斐あってフェラーリはコンストラクターズチャンピオンを獲得。ドライバーズチャンピオンはハッキネンに奪われたが、シューマッハは7レースを欠場しながらもランキング5位を獲得し、面目を保った。 2000年、フェラーリは背水の陣でシーズンに挑んだ。 序盤に3連勝、中盤こそクラッシュなどでポイントをハッキネンに逆転させられたものの、第14戦イタリアGPはポールポジションから逃げ切り優勝。 様々なプレッシャーから開放されたシューマッハは、レース後の会見で涙を流した(この優勝でセナと同じ優勝回数に並び、その事で感極まったと言われているが諸説あり)。 第16戦日本GP、シューマッハはスタートでハッキネンに交わされるが、ピットストップで逆転、見事に3度目のタイトルをものにした。 **フェラーリ黄金時代〜一度目の引退 2001年もシューマッハは速く無敵と言ってよかった。 なんと17戦で9勝をあげて、シーズン13戦目でタイトルを決定。最終的には、123ポイントを稼ぎ出し、65ポイントを獲得してランキング2位となったクルサードに2倍近いポイント差をつけた。 翌2002年は更に圧倒的な強さを見せた。17戦全てのレースで表彰台に登り、うち11戦で優勝。年間史上最速の11戦目でタイトル獲得。この年のマシン、[[F2002>Ferrari-F2002]]によって、チームの完全制覇を成し遂げた。 03年は一転し苦戦、マシンバランスや新レギュレーションに苦しめられ、[[キミ・ライコネン]]とタイトルを最終戦まで争い、2ポイントの差で競り勝つ。 翌年は02年の再来と言えたシーズンだった。 他チームが苦戦する中、[[F2004>Ferrari-F2004]]に乗るシューマッハは&font(#ff0000){18戦中13勝}という圧勝ぶりで&font(#ff0000){シーズン5連覇}を達成。 05年は、この年マシンに関するレギュレーションが大幅に変更されたこと、フェラーリがそれに上手く対処できなかったことから、シューマッハのマシンは速さを失い、19戦中たった1勝(しかもタイヤメーカーの不祥事で、参戦している20台中6台しか出走できなかった異例のレース)という散々な結果に終わる。 チャンピオンを獲得したのは、ルノーのフェルナンド・アロンソ。この年の活躍で最年少チャンピオン記録を塗り替えた若手であり、いよいよ世代交代かという声も聞かれるようになった。 06年は、フェラーリが前年の反省を元にマシンを改良したことから戦闘力を取り戻し、前年チャンピオンとアロンソと一騎打ちのシーズン。序盤はアロンソに離されるも徐々に差を詰め、第15戦イタリアGPで勝利を挙げた後、引退を発表。 次戦の中国GPも優勝し、最大25ポイント差があったアロンソに並ぶ。 しかし、第17戦日本GPではトップ独走中の37周目にエンジントラブルでリタイア。このレースで優勝したアロンソが、最終戦で1ポイントでも獲得すればチャンピオンが決まるという、シューマッハにとっては絶望的な状況に。 迎えた最終戦、チャンピオン獲得には圧倒的不利な条件の中、シューマッハは予選で好タイムを連発しながらもマシントラブルに足下をすくわれて10位。決勝でも、他者との接触でタイヤがパンクし、ピットインしたことで、最下位にまで落ちてしまう。しかし、シューマッハはそこから前のマシンを一台、また一台と交わしながら、最後まで優勝とチャンピオンを目指し疾走した。結局、このレースで2位に入ったアロンソがチャンピオンを決めたが、一方のシューマッハは絶望的な状況から4位まで追い上げて引退レースを終えた。「まだやれるのではないか」と関係者やファンは思ったが、シューマッハは潔くF1のシートを降りていった。 07年からはフェラーリのアドバイザーとして度々サーキットに姿を見せていた(何故かそのレースではライコネンは勝てないばかりかリタイアを重ねていた)。 だが、09年にレギュラードライバーのフェリペ・マッサが重傷を負った際に復帰を噂され、自身も練習走行まで行ったが、直前になって過去に[[バイク]]レースの際に転倒した首の痛みによって出走を取り消すと発表…。 その後はルカ・バドエルと[[ジャンカルロ・フィジケラ]]が走行したが、結果は両者共に0ポイントで終わった(この年、テスト禁止や新しく導入されたKERSを搭載していた為、ドライブが難しいと言われた)。   **F1復帰と2度目の引退 2010年シーズン前にメルセデス・ベンツがF1チームに復帰をアナウンス。そのエースとしてなんとシューマッハが起用された。 心配された首のダメージはほぼ完治したと言われ、シーズンが開幕。しかし4年のブランクと年齢からか、中段争いが精一杯で表彰台すらも上がる事も無くシーズンが終わる。 翌11年、前年と変わらずのポジションとアクシデントの多さから現時点では復帰は失敗だと言われていたが、第13戦イタリアGPでルイス・ハミルトンと約20周近く熾烈な[[ドッグファイト]]を演じた。 2012年もメルセデスに残留。モナコGPでのポールポジションや、ヨーロッパGPでの3位表彰台など、速さを見せる場面もあったが、この年限りで2度目の引退を発表。最後のレースとなったブラジルGPを7位で完走すると、再びヘルメットを置いた。 **伝説の終焉 2013年末にスキー場のコース外、いわゆるバックカントリーを滑走していたシューマッハ。そんな彼が、突如として命を脅かす大事故に見舞われた。 &bold(){転倒して岩に頭を打ち、ヘルメットをしていたにもかかわらず外傷性脳損傷を負ったのだ。}それも[[ヘルメットが無ければ即死だった>シャア・アズナブル]]というほどの。 懸命な治療の末に一命は取り留めたものの、シューマッハが負った傷はそんな軽口すら言えなくなるほどに大きかった。 2019年までに明らかになっている情報によれば、&bold(){意識こそあるものの歩くことも喋ることもできず記憶障害が残っており、意思疎通が難しいという。} これでも&bold(){負傷の重さに比べれば}回復している方らしいが、これほどの重傷を負ってもなお意識があって、生きていることすら奇跡と言えるだろう。 今の彼を知る人々は、口を揃えて「ご家族の意志を尊重し、彼について語ることはできない。ご家族と共に静かに過ごさせてあげて欲しい」という。 最早「皇帝」の面影どころか、姿さえ見ることもできないかもしれない…… *余談 『[[新世紀GPXサイバーフォーミュラ]]』に登場するナイト・シューマッハのモデル。 まだ本人が頭角を現す前の話だったが、速さだけでなく、予選の妨害をしたり、スタートでフェイントを入れるなど、勝つ為には手段を選ばない所までなぜかその後のシューマッハそっくり。 容姿で特徴的だったのは長くしゃくれた[[顎>顎(アゴ)]]で、それが目立つのを気にしてか、横顔の写真を撮られるのが好きではなかったらしい。 しかし、この特徴的な顔ゆえ古舘伊知郎から「顔面ロマンチック街道」「顔面三浦半島」「顔面バナナノーズ」とニックネームをつけられていた。 また現役時代のタフさから、「機動戦士シューマッハ」「人間リポビタンD」なんて古舘が呼んでいたことも。 ヨーロッパでは[[SF映画の悪役>ターミネーター2(映画)]]と本人の名前を掛け合わせた「シューミネーター」というニックネームで呼ばれていたこともあった。 服のセンスが壊滅的に悪く、よくネタにされたりする。 慈善活動にも積極的で、04年のスマトラ島沖地震の際には1000万ドル(当時約10億円)も寄付をした。 弟のラルフもドライバー。F1後はDTMで活躍している。   大のサッカー好きとしても知られ、サッカーの腕前は趣味の域を超え、もはやプロ級。 実際に自宅近くのスイス3部リーグのチームに&font(#ff0000){選手として}所属していた。 [[イギリス]]の人気番組[[Top Gear]]に出演し、覆面ドライバー「スティグ」の中の人として紹介された。 が、彼の計測ラップの映像になるとコースを飛び出す、逆走する、カメラを破壊、挙げ句の果てに迷子になってしまうという終わり方(これは演出でシューマッハはゲスト出演だったと言われている)。 妻はコリーナ氏。二人の間には、娘のジーナマリアと息子のミックを設けている。そのコリーナ氏は、同じドイツ人の元F1ドライバーであるハインツ=ハラルド・フレンツェンの元恋人。その為、シューマッハがコリーナ氏を寝取ったのではないかとの噂も。 ミックもレーシングドライバーの道を選択し、2018年にヨーロッパF3で、2020年にはF2でチャンピオンを獲得。その実績が認められ、2021年にF1デビューを果たしている。 追記・修正はDEAD ENDの「Good Morning Satellite」を流しながらお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,5) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 人間的には評価の分かれる人物だが、ドライバーとしては間違い無くトップクラス。一人で一つの時代を作ってしまう様なドライバーはもう今後出て来ないかも知れない。 -- 名無しさん (2013-09-10 23:18:57) - いや出てくると思うよ。 -- 名無しさん (2014-05-16 19:39:04) - 浪花のシューマッハ!? -- 名無しさん (2015-01-12 00:33:52) - ハシリヤ!→パシリや! -- 名無しさん (2016-10-18 04:00:24) #comment #areaedit(end) }

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