ミカ・ハッキネン

「ミカ・ハッキネン」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ミカ・ハッキネン」(2023/02/22 (水) 04:29:01) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

&font(#6495ED){登録日}:2011/09/12(月) 03:28:40 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- ミカ・ハッキネン(Mika Pauli Hakkinen)は元レーシングドライバー。過去2度F1ワールドチャンピオンに輝く。 生年月日/1968年9月28日 血液型/A型(B型説もあり) 出身地/フィンランド・ヴァンター 【チーム遍歴】 1991年〜1992年 ロータス 1993年R14〜2001年 マクラーレン 【経歴】 幼少の頃からカートで速さを見せ付け、1990年のイギリスF3チャンピオンを獲得。 その足でマカオF3にも挑戦し、後に生涯のライバルになる[[ミハエル・シューマッハ]]と出会う。 当時のマカオGPはレグ1とレグ2の二つのレースを決勝としておこない、その合計タイムで総合結果を決めていた。 予選ではアイルトン・セナのレコードタイムを塗り替えてポールポジションを獲得。 レグ1はそのままトップを一度も譲らず逃げ切る圧勝劇を披露。実力は伊達ではない事を見せ付けた。一方のシューマッハは2位にこそ入ったものの、ハッキネンに2秒も引き離されしまった。つまり、仮にシューマッハがレグ2で1位になっても、ハッキネンはそこから2秒以内の差でゴールすれば優勝を決められるという、シューマッハにとってかなり不利な状況が出来上がっていたのである。 レグ2ではシューマッハがトップのハッキネンを中盤で抜き去るものの、ハッキネンはそこから食らいついて差は開かず、ドッグファイトは最終ラップまで縺れ込んだ。 ファイナルラップのストレートでシューマッハを追い越そうとした瞬間、シューマッハはハッキネンを牽制するためにハッキネンと同じ方向に進路を変え、二人のマシンは交錯。そのはずみでハッキネンはクラッシュしリタイア。悔しそうに泣きながらコース脇を歩く彼を尻目に、マシンを傷めながらも何とか走り切ったシューマッハがそのまま優勝した。 ハッキネンはシューマッハを抜かずともレグ1のタイム差を考えれば優勝出来ていた為に無謀と批判された一方で、ハッキネンの追い抜きに対するシューマッハの牽制も危険だったのではないかという意見もあった。どちらにしろ、F1でも繰り広げられるライバル対決の序章がこのレースであったことは間違いなかった。   1991年に実力を見込まれチーム・ロータスからF1デビュー。 しかし当時のロータスは資金面で苦労し完走がやっとの状態だった。 翌92年はシーズン途中で石油会社のカストロールがメインスポンサーとなり、ある程度は余裕ができたものの、93年は[[アイルトン・セナ]]が離脱するマクラーレンへ移籍を決意。チームメイトはアメリカのレースで大活躍を見せていたマイケル・アンドレッティが加入する予定だった。 ところが、その予定が決まった後にセナがマクラーレン離脱を撤回してしまい、アンドレッティのシートを横取りするわけにもいかなかったハッキネンは、リザーブドライバー(所謂、補欠)として在籍することになってしまった。 その後、シーズン途中にアンドレッティがアメリカのレースに戻ることを決めてマクラーレンを離脱することが決まり、第14戦ポルトガルGPからようやくハッキネンがF1に復帰。予選ではセナのタイムを上回り、決勝でもトップ争いをするなど実力の片鱗を見せ付けた。   94年はエースに昇格。更にプジョーのV10エンジンで戦力アップしたと思われたが…、ハッキネンはこの年のレースの半分近くをリタイアで終えた。その原因の半分以上がプジョーのエンジンが信頼性不足で音を上げたことだった。ハッキネンは6レースで表彰台に上がり、ランキング4位を手にするものの、不完全燃焼の状態でシーズンを終えた。 翌95年は新たにメルセデス・ベンツがエンジンサプライヤーとなるものの、4レースでポイントを獲得し、2レースで表彰台を得るのがやっと。虫垂炎で1レースを欠場するなど、 極めつけは、最終戦オーストリアGPの予選初日に起きた事故で命の危機に晒された。タイムアタックの最中にタイヤがバーストし、ハッキネンのマシンはスピン。コントロール不能のまま250km/hの速度でバリアに激突。 その際の衝撃でハッキネンはステアリングに頭を強く打ちつけたうえに、舌を噛みちぎってしまい、一時重体となってしまった。当然決勝レースは欠場となったが、命を落としてもおかしくないほどの大怪我をしたことと、そこから奇跡的に生還できたことと比べれば、レースを走れなかったのは些細なことだったに違いない。 1996年、前年の負傷からハッキネンがレースに戻ってくるのは難しいと言われたが、実際には目立った後遺症も無く無事にドライバーに復帰することができた。11レースでポイントを上げ、4回の表彰台を獲得。前年以上の成績を残すことに成功する。 しかし、この年もマシンの戦闘力不足から優勝争いとは無縁に終わってしまった。さらに、マクラーレンをスポンサーとして支援していたマールボロがスポンサー契約を終了することを決め、同時に支援していたフェラーリに支援を集中することを決定。F3時代からマールボロの支援を受けていたハッキネンも同時にフェラーリへ移籍する噂もあったが、最終的には翌年もマクラーレンに残留することが決まった。   1997年は正念場のシーズンとなる。 シーズン半ばから&font(#ff0000){空力の鬼才}と呼ばれるエイドリアン・ニューウェイがチームに加入し、そこからハッキネンは速さを見せ始める。しかし、運がなかなかついてきてくれなかった。オーストリアGPでは、レース序盤にトップを独走でエンジンブロー。ルクセンブルクGPでもポールポジションを取り再びトップを快走するも、再びマシントラブルに泣きリタイア。初優勝のチャンスが度々やってくるようになったが、それを掴むことができないもどかしいレースが続いていた。 そんな中迎えた最終戦のヨーロッパGP。タイトル争いをしていたシューマッハとジャック・ヴィルヌーヴが接触し、トップを走っていたシューマッハはリタイア。入れ代わる様にヴィルヌーヴがトップに立つも、接触の際にダメージを受けたマシンを庇うためかペースを落とし始めた。ハッキネンはクルサードの後ろ4位を走っていたが、シューマッハのリタイアで3位に順位を上げていた。 更にはチームオーダーが発令されたことで、前に走るチームメイトのデビッド・クルサードに順位を譲られ2位。ファイナルラップでペースを落としていたヴィルヌーヴを抜き、ハッキネンはF1で初めてトップでチェッカーフラッグを受けた。念願の初優勝。表彰式では思わず涙ぐむ場面も見られた。F1デビューから初優勝までハッキネンが走ったレースは実に96戦。当時の最遅初優勝記録を更新したと考えれば、どれ程長い道のりだったか理解できるだろう。 1998年はシーズン前テストから好タイムを連発。この年からブリヂストンに履き変えた甲斐もあり、マクラーレンのマシンの戦闘力は大幅に上昇した。開幕戦ではなんと&font(#ff0000){クルサードと共に3位以下を全て周回遅れにする}離れ業を披露して優勝。ここでも表彰台で号泣した。 ハッキネンはその後も優勝を続け、気がつけばドライバーズランキングトップを独走していた。 しかし、ライバルたちも黙っていなかった。ミハエル・シューマッハとフェラーリのコンビがレースを重ねるごとに戦力を上げていき、最後にはハッキネン擁するマクラーレンに肉薄。ハッキネンとシューマッハのチャンピオン争いは最終戦まで縺れ込んだ。最終戦の予選はシューマッハが制しポールポジションを獲得、一方でハッキネンは2番手のグリッドから決勝をスタートすることになった。 そして決勝レース。スタート直前にエンジンストールを起こしたマシンがいたため、もう一度スタートを仕切り直すことになった。そしていよいよ2度目のスタート…というときに、直前で仕切り直しが決定する。これまたエンジンストールを起こしたマシンがいたのだ。それはなんとシューマッハのマシンだった。スタートを仕切り直す原因を作ったマシンは最後尾からスタートする規則であるため、シューマッハのポールポジションは水の泡と化し、一方でハッキネンは事実上のポールポジションからレースをスタートすることになった。 圧倒的に有利な条件でスタートを決めたハッキネンは、そのままトップを快走。一方のシューマッハは、最下位から鬼神の如くごぼう抜きを敢行し、一時3位まで順位を上げた。しかし、31周目にタイヤ(皮肉にもこのレースが最後となるグッドイヤー製タイヤ)がバーストしリタイアを余儀なくされた。 追われる相手が居なくなったハッキネンはそのまま優勝。初めてのタイトルを獲得した。 99年は相変わらずの速さを持ち「カーナンバー1」に恥じぬ走りを心掛けていた。マシントラブルで落とすレースもあったが、ハッキネンは7レース終了時点で3勝を上げてランキングトップをひた走っていた。 更に第8戦イギリスGPで最大のライバルであるシューマッハが負傷し、長期戦線離脱が決定。ハッキネンはチャンピオン争いでかなり大きな優位を得たと思われていた。 ところがマクラーレンチームは前年見せた圧倒的なスピードはなく、さらに今度はシューマッハのチームメートだったエディ・アーバインがチャンピオン争いに加わり、ハッキネン自身のチームメートであるクルサードも速さを見せ始め、今シーズン絶好調のジョーダン・無限ホンダを駆るハインツ・ハラルド・フレンツェンまでもがタイトル争いに名乗りを上げ、コースによっては他のライバルチームも優勝争いに絡み始めるなど、むしろ昨年と比べて戦わなければいけない相手が増えてしまったことから苦しいシーズン後半を過ごすことになった。 それを象徴していたのは第13戦イタリアGP。ハッキネンはトップ独走中にシフトミスから単独スピンを喫しコースアウト。怒りと悲しみとプレッシャーからか、思わずコース脇の木陰で号泣する場面を捉えられた。 そして最終戦日本GP。チャンピオン争いはハッキネンとアーバインに絞り込まれ、ポイントランキングはアーバインが1位、ハッキネンが僅差で2位の状況。ハッキネンが確実にチャンピオンを決めるには、ここで優勝するしかなかった。 予選ではハッキネンが2位。5位だったアーバインよりも上位につけることができた。 しかし、ポールポジションはシューマッハ。前戦のマレーシアGPで長期離脱から復帰しており、この時からチャンピオンの芽が残っているアーバインを完璧にアシストする仕事をしていた。このレースでも、ハッキネンの優勝を潰すことでアーバインのチャンピオン獲得をアシストするのがシューマッハの役目とされており、ハッキネンはシューマッハを抜かなければチャンピオンを手にできない状況にいた。 しかし、決勝レースではスタートを完璧に決めたハッキネンがシューマッハを抜き去るとトップを独走し、そのままチェッカーをくぐり抜けた。アーバインは3位まで順位を上げるのがやっとで、ポイントランキングは逆転。ハッキネンは二度目のチャンピオンを自身の優勝で飾った。 2000年、序盤こそはマシントラブルで思った結果が残せないでいたが、第12戦ハンガリーGPでシューマッハを逆転しランキングトップに。更には次戦ベルギーGPでは&font(#ff0000){シューマッハを周回遅れのマシン共々ブチ抜く}という離れ業を見せ付けた。 しかし、その後のイタリアGPとアメリカGPでシューマッハが2連勝。一方でハッキネンはイタリアでこそ2位に入るが、アメリカではエンジンブローによってリタイアしてしまい、ポイントランキングが再び逆転。おまけに、次戦でシューマッハが優勝すれば無条件でチャンピオンを決められる程のポイント差をつけられてしまった。 第16戦日本GPでは予選からデッドヒートを繰り広げ2番手に。決勝スタートでポールのシューマッハを逆転したが、2回目のピットストップで再度逆転され、その順位のままフィニッシュ。 3年連続チャンピオンの夢は打ち砕かれたものの、このシーズンを象徴する様な素晴らしい争いを見せた。   2001年は、昨年以上にマクラーレンのマシンの不調もとい信頼性不足に悩まされた。開幕戦のオーストラリアGPではシューマッハに次ぐ2位を走行していたが高速コーナーでサスペンションがいきなり壊れてクラッシュ。レースを失っただけでなく、危うく大怪我という恐怖を味わう羽目に。 第3戦ブラジルGPではスタートの際にマシンが動き出さず、順位争いに加わる前からレースを終えた。おまけに、同じトラブルはその後のオーストリアGPとフランスGPでも発生。つまり、1シーズン17レースのうち、マシントラブルによりスタートすらできなかったレースが3つもあったのである。 一方でフェラーリのマシンはずば抜けたスピードと信頼性を誇り、前年王者のシューマッハを止められるドライバーもいない。彼らはトラブルに苦しむマクラーレンとハッキネンを尻目に、第13戦のハンガリーGPで早々とダブルタイトルを決めてしまった。 この年、ハッキネンにとって最も悲劇的なレースだったのは第5戦スペインGPだろう。このレースではマシンの状態が好調で、終盤にシューマッハからトップを奪い独走状態に。一方でシューマッハは、珍しくマシントラブルのせいで2位を守りながら走り続けるのがやっと。ハッキネンを追うどころではなく、優勝はかなり難しい状況にあった。 ところが、最終ラップ。優勝に向けてひた走っていたハッキネンのマシンが白煙を吐きながらスローダウン。そのままコース脇に止まってしまう。結果上は9位完走となったが、ほぼ手中に収めていた優勝を失ったことに変わりはなかった。優勝したシューマッハも記者会見で「これもレースだ」と口にしながらも「ミカのマシンが止まっているのを見た時は悲しかった」と同情的なコメントも残していた。原因については、最初エンジンブローが疑われたが、後にクラッチの故障だったと判明した。 レースでの不振と、レースの合間に実施される多忙なスポンサー向けPR活動への疲れからか、ハッキネンはF1ドライバーとしてのモチベーション低下を訴えるようになり、最終的にはこのシーズンをもってF1ドライバーを休養をすると発表した。 結局、翌年にはそのままF1から引退することを発表し、その後の去就が注目されたが2005年にDTMに参戦。しかし2007年にレーシングドライバーとして引退も発表し「フライング・フィン」は翼を閉じた。 【余談】 優勝した時に表彰台で見せるガッツポーズが「かなり」特徴的で度々話題になる。 一輪車が得意で小学校の通学時にも利用していた。チャンピオンが決定した98年末にはサーカスの会場に一輪車に乗って観客を湧かせた。 予選でチームがこの程度だろうと決めたタイムを大幅に上回った時があり、担当エンジニアですら&font(#ff0000){「説明がつかない」}と絶句した。 「爆走!ミカ・ハッキネン」なるCDをリリースされたことがある。独特なメロディーと突っ込み所満載の歌詞などでいつの間にかF1マニアの耳に付いているかも知れない。   元妻はイリヤ氏。98年頃からレース中に姿を撮られているが、腕を組み仁王立ちをしてモニターを見ている様は貫禄たっぷり。ちなみにメルセデス・ベンツのCMにも恐妻家のハッキネンの一面がある作品が存在する。 追記・修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,4) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 離婚してたのか… -- 名無しさん (2020-11-17 21:45:36) - 数年前やってたクイズ番組で写真の人は誰か当てるかクイズでハッキネンが出題されて宮崎美子が正解していたな -- 名無しさん (2022-04-29 23:35:14) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2011/09/12(月) 03:28:40 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- ミカ・ハッキネン(Mika Pauli Hakkinen)は元レーシングドライバー。過去2度F1ワールドチャンピオンに輝く。 生年月日/1968年9月28日 血液型/A型(B型説もあり) 出身地/フィンランド・ヴァンター 【チーム遍歴】 1991年〜1992年 ロータス 1993年R14〜2001年 マクラーレン *【経歴】 **F1デビュー前 幼少の頃からカートで速さを見せ付け、1990年のイギリスF3チャンピオンを獲得。 その足でマカオF3にも挑戦し、後に生涯のライバルになる[[ミハエル・シューマッハ]]と出会う。 当時のマカオGPはレグ1とレグ2の二つのレースを決勝としておこない、その合計タイムで総合結果を決めていた。 予選ではアイルトン・セナのレコードタイムを塗り替えてポールポジションを獲得。 レグ1はそのままトップを一度も譲らず逃げ切る圧勝劇を披露。実力は伊達ではない事を見せ付けた。一方のシューマッハは2位にこそ入ったものの、ハッキネンに2秒も引き離されしまった。つまり、仮にシューマッハがレグ2で1位になっても、ハッキネンはそこから2秒以内の差でゴールすれば優勝を決められるという、シューマッハにとってかなり不利な状況が出来上がっていたのである。 レグ2ではシューマッハがトップのハッキネンを中盤で抜き去るものの、ハッキネンはそこから食らいついて差は開かず、ドッグファイトは最終ラップまで縺れ込んだ。 ファイナルラップのストレートでシューマッハを追い越そうとした瞬間、シューマッハはハッキネンを牽制するためにハッキネンと同じ方向に進路を変え、二人のマシンは交錯。そのはずみでハッキネンはクラッシュしリタイア。悔しそうに泣きながらコース脇を歩く彼を尻目に、マシンを傷めながらも何とか走り切ったシューマッハがそのまま優勝した。 ハッキネンはシューマッハを抜かずともレグ1のタイム差を考えれば優勝出来ていた為に無謀と批判された一方で、ハッキネンの追い抜きに対するシューマッハの牽制も危険だったのではないかという意見もあった。どちらにしろ、F1でも繰り広げられるライバル対決の序章がこのレースであったことは間違いなかった。   **F1での活躍 1991年に実力を見込まれチーム・ロータスからF1デビュー。 しかし当時のロータスは資金面で苦労し完走がやっとの状態だった。 翌92年はシーズン途中で石油会社のカストロールがメインスポンサーとなり、ある程度は余裕ができたものの、93年は[[アイルトン・セナ]]が離脱するマクラーレンへ移籍を決意。チームメイトはアメリカのレースで大活躍を見せていたマイケル・アンドレッティが加入する予定だった。 ところが、その予定が決まった後にセナがマクラーレン離脱を撤回してしまい、アンドレッティのシートを横取りするわけにもいかなかったハッキネンは、リザーブドライバー(所謂、補欠)として在籍することになってしまった。 その後、シーズン途中にアンドレッティがアメリカのレースに戻ることを決めてマクラーレンを離脱することが決まり、第14戦ポルトガルGPからようやくハッキネンがF1に復帰。予選ではセナのタイムを上回り、決勝でもトップ争いをするなど実力の片鱗を見せ付けた。第15戦の日本GPでは3位入賞の結果を残し、F1で初めて表彰台に登った。   1994年はセナがウイリアムズに移籍したことでエースドライバーに昇格。更にエプジョーからワークスのV10エンジンを手に入れて戦力をアップしたと思われたが…、ハッキネンはこの年のレースの半分近くをリタイアで終えた。その原因の半分以上がプジョーのエンジンが信頼性不足で音を上げたことだった。ハッキネンは6レースで表彰台に上がり、ランキング4位を手にするものの、不完全燃焼の状態でシーズンを終えた。 翌95年は新たにメルセデス・ベンツがエンジンサプライヤーとなるものの、4レースでポイントを獲得し、2レースで表彰台を得るのがやっと。虫垂炎で1レースを欠場するなど、レース内外で不運に見舞われた。 極めつけは、最終戦オーストリアGPの予選初日に起きた事故だった。タイムアタックの最中にタイヤがバーストし、ハッキネンのマシンはスピン。コントロール不能のまま250km/hの速度でバリアに激突。 その際の衝撃でハッキネンはステアリングに頭を強く打ちつけたうえに、舌を噛みちぎってしまい、一時重体となってしまった。当然決勝レースは欠場となったが、命を落としてもおかしくないほどの大怪我をしたことと、そこから奇跡的に生還できたことと比べれば、レースを走れなかったのは些細なことだったに違いない。 1996年、前年の負傷からハッキネンがレースに戻ってくるのは難しいと言われたが、実際には目立った後遺症も無く無事にドライバーに復帰することができた。11レースでポイントを上げ、4回の表彰台を獲得。前年以上の成績を残すことに成功する。 しかし、この年もマシンの戦闘力不足から優勝争いとは無縁に終わってしまった。さらに、マクラーレンをスポンサーとして支援していたマールボロがスポンサー契約を終了することを決め、同時に支援していたフェラーリに支援を集中することを決定。F3時代からマールボロの支援を受けていたハッキネンも同時にフェラーリへ移籍する噂もあったが、最終的には翌年もマクラーレンに残留することが決まった。   1997年は正念場のシーズンとなる。 シーズン半ばから&font(#ff0000){空力の鬼才}と呼ばれるエイドリアン・ニューウェイがチームに加入し、そこからハッキネンは速さを見せ始める。しかし、運がなかなかついてきてくれなかった。オーストリアGPでは、レース序盤にトップを独走でエンジンブロー。ルクセンブルクGPでもポールポジションを取り再びトップを快走するも、再びマシントラブルに泣きリタイア。初優勝のチャンスが度々やってくるようになったが、それを掴むことができないもどかしいレースが続いていた。 そんな中迎えた最終戦のヨーロッパGP。タイトル争いをしていたシューマッハとジャック・ヴィルヌーヴが接触し、トップを走っていたシューマッハはリタイア。入れ代わる様にヴィルヌーヴがトップに立つも、接触の際にダメージを受けたマシンを庇うためかペースを落とし始めた。ハッキネンはチームメイトのデビッド・クルサードの後ろ4位を走っていたが、シューマッハのリタイアで3位に順位を上げていた。 更にはチームオーダーが発令されたことで、クルサードに順位を譲られ2位。ファイナルラップでペースを落としていたヴィルヌーヴを抜き、ハッキネンはF1で初めてトップでチェッカーフラッグを受けた。念願の初優勝。表彰式では思わず涙ぐむ場面も見られた。F1デビューから初優勝までハッキネンが走ったレースは実に96戦。当時の最遅初優勝記録を更新したと考えれば、どれ程長い道のりだったか理解できるだろう。 1998年もマクラーレンに残留。チームメートもクルサードのまま。マクラーレンはこの年から導入されたレギュレーションに上手く適応したマシンの開発に成功し、また、この年からパートナーになったブリヂストンのタイヤも高い性能を誇ったことから、シーズン前のテストから好タイムを連発。その甲斐もあり、開幕戦ではなんと&font(#ff0000){クルサードと共に3位以下を全て周回遅れにする}離れ業を披露して優勝。ここでも表彰台で号泣した。 ハッキネンはその後も優勝を続け、気がつけばドライバーズランキングトップを独走していた。 しかし、ライバルたちも黙っていなかった。ミハエル・シューマッハとフェラーリのコンビがレースを重ねるごとに戦力を上げていき、最後にはハッキネン擁するマクラーレンに肉薄。ハッキネンとシューマッハのチャンピオン争いは最終戦まで縺れ込んだ。最終戦の予選はシューマッハが制しポールポジションを獲得、一方でハッキネンは2番手のグリッドから決勝をスタートすることになった。 そして決勝レース。スタート直前にエンジンストールを起こしたマシンがいたため、もう一度スタートを仕切り直すことになった。そしていよいよ2度目のスタート…というときに、再度スタートの仕切り直しが決定する。これまたエンジンストールを起こしたマシンがいたからだったのだが、なんとそれはシューマッハのマシンだった。スタートを仕切り直す原因を作ったマシンは最後尾からスタートする規則であるため、シューマッハのポールポジションは水の泡と化し、一方でハッキネンは事実上のポールポジションからレースをスタートすることになった。 圧倒的に有利な条件でスタートを決めたハッキネンは、そのままトップを快走。一方のシューマッハは、最下位から鬼神の如くごぼう抜きを敢行し、一時3位まで順位を上げた。しかし、31周目にタイヤ(皮肉にもこのレースが最後となるグッドイヤー製タイヤ)がバーストしリタイアを余儀なくされた。 追われる相手が居なくなったハッキネンはそのまま優勝。初めてのタイトルを獲得した。 99年は相変わらずの速さを持ち「カーナンバー1」に恥じぬ走りを心掛けていた。マシントラブルで落とすレースもあったが、ハッキネンは7レース終了時点で3勝を上げてランキングトップをひた走っていた。 更に第8戦イギリスGPで最大のライバルであるシューマッハが負傷し、長期戦線離脱が決定。ハッキネンはチャンピオン争いでかなり大きな優位を得たと思われていた。 ところが、今度はシューマッハのチームメートだったエディ・アーバインがチャンピオン争いに加わり、ハッキネン自身のチームメートであるクルサードも速さを見せ始め、今シーズン絶好調のジョーダン・無限ホンダを駆るハインツ・ハラルド・フレンツェンまでもがタイトル争いに名乗りを上げ、コースによっては他のライバルチームも優勝争いに絡み始めるなど、むしろ昨年と比べて戦わなければいけない相手が増えてしまったことから苦しいシーズン後半を過ごすことになった。 それを象徴していたのは第13戦イタリアGP。ハッキネンはトップ独走中にシフトミスから単独スピンを喫しコースアウト。怒りと悲しみとプレッシャーからか、思わずコース脇の木陰で号泣する場面を捉えられた。 そして最終戦日本GP。チャンピオン争いはハッキネンとアーバインに絞り込まれ、ポイントランキングはアーバインが1位、ハッキネンが僅差で2位の状況。ハッキネンが確実にチャンピオンを決めるには、ここで優勝するしかなかった。 予選ではハッキネンが2位。5位だったアーバインよりも上位につけることができた。 しかし、ポールポジションはシューマッハ。前戦のマレーシアGPで長期離脱から復帰しており、この時からチャンピオンの芽が残っているアーバインを完璧にアシストする仕事をしていた。このレースでも、ハッキネンの優勝を潰すことでアーバインのチャンピオン獲得をアシストするのがシューマッハの役目とされており、ハッキネンはシューマッハを抜かなければチャンピオンを手にできない状況にいた。 しかし、決勝レースではスタートを完璧に決めたハッキネンがシューマッハを抜き去るとトップを独走し、そのままチェッカーをくぐり抜けた。アーバインは3位まで順位を上げるのがやっとで、ポイントランキングは逆転。ハッキネンは二度目のチャンピオンを自身の優勝で飾った。 2000年、序盤こそはマシントラブル続きで思った結果が残せないでいたが、中盤に入るとシューマッハもマシントラブルやアクシデントでノーポイントを重ねたことから差が詰まりはじめ、第12戦ハンガリーGPでシューマッハを逆転しランキングトップに。更には次戦ベルギーGPでは&font(#ff0000){シューマッハを周回遅れのマシン共々ブチ抜く}という離れ業を見せ付けた。 しかし、その後のイタリアGPとアメリカGPでシューマッハが2連勝。一方でハッキネンはイタリアでこそ2位に入るが、アメリカではエンジンブローによってリタイアしてしまい、ポイントランキングが再び逆転。おまけに、次戦でシューマッハが優勝すれば無条件でチャンピオンを決められる程のポイント差をつけられてしまった。 第16戦日本GPでは予選からデッドヒートを繰り広げ2番手に。決勝スタートでポールのシューマッハを逆転したが、2回目のピットストップで再度逆転され、その順位のままフィニッシュ。 3年連続チャンピオンの夢は打ち砕かれたものの、このシーズンを象徴する様な素晴らしい争いを見せた。   2001年は、昨年以上にマクラーレンのマシンの不調もとい信頼性不足に悩まされた。開幕戦のオーストラリアGPではシューマッハに次ぐ2位を走行していたが高速コーナーでサスペンションがいきなり壊れてクラッシュ。レースを失っただけでなく、危うく大怪我という恐怖を味わう羽目に。 第3戦ブラジルGPではスタートの際にマシンが動き出さず、順位争いに加わる前からレースを終えた。おまけに、同じトラブルはその後のオーストリアGPとフランスGPでも発生。つまり、1シーズン17レースのうち、マシントラブルによりスタートすらできなかったレースが3つもあったのである。 一方でフェラーリのマシンはずば抜けたスピードと信頼性を誇り、前年王者のシューマッハを止められるドライバーは誰もいない。彼らはトラブルに苦しむマクラーレンとハッキネンを尻目に、第13戦のハンガリーGPで早々とダブルタイトルを決めてしまった。 この年、ハッキネンにとって最も悲劇的なレースだったのは第5戦スペインGPだろう。このレースではマシンの状態が好調で、終盤にシューマッハからトップを奪い独走状態に。一方でシューマッハは、珍しくマシントラブルのせいで2位を守りながら走り続けるのがやっと。ハッキネンを追うどころではなく、優勝はかなり難しい状況にあった。 ところが、最終ラップ。優勝に向けてひた走っていたハッキネンのマシンが白煙を吐きながらスローダウン。そのままコース脇に止まってしまう。結果上は9位完走となったが、ほぼ手中に収めていた優勝を失ったことに変わりはなかった。優勝したシューマッハも記者会見で「これもレースだ」と口にしながらも「ミカのマシンが止まっているのを見た時は悲しかった」と同情的なコメントも残していた。原因については、最初エンジンブローが疑われたが、後にクラッチの故障だったと判明した。 レースでの不振と、レースの合間に実施される多忙なスポンサー向けPR活動への疲れからか、ハッキネンはF1ドライバーとしてのモチベーション低下を訴えるようになり、最終的にはこのシーズンをもってF1ドライバーを休養をすると発表した。 結局、翌年にはそのままF1から引退することを発表し、その後の去就が注目されたが2005年にDTMに参戦。しかし2007年にレーシングドライバーとして引退も発表し「フライング・フィン」は翼を閉じた。 *【余談】 優勝した時に表彰台で見せるガッツポーズが「かなり」特徴的で度々話題になる。 一輪車が得意で小学校の通学時にも利用していた。チャンピオンが決定した98年末にはサーカスの会場に一輪車に乗って観客を湧かせた。 予選でチームがこの程度だろうと決めたタイムを大幅に上回った時があり、担当エンジニアですら&font(#ff0000){「説明がつかない」}と絶句した。 「爆走!ミカ・ハッキネン」なるCDをリリースされたことがある。独特なメロディーと突っ込み所満載の歌詞などでいつの間にかF1マニアの耳に付いているかも知れない。   元妻はイリヤ氏。98年頃からレース中に姿を撮られているが、腕を組み仁王立ちをしてモニターを見ている様は貫禄たっぷり。ちなみにメルセデス・ベンツのCMにも恐妻家のハッキネンの一面がある作品が存在する。 追記・修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,4) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 離婚してたのか… -- 名無しさん (2020-11-17 21:45:36) - 数年前やってたクイズ番組で写真の人は誰か当てるかクイズでハッキネンが出題されて宮崎美子が正解していたな -- 名無しさん (2022-04-29 23:35:14) #comment #areaedit(end) }

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: