宦官

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&font(#6495ED){登録日}:2010/06/08 Tue 10:51:14 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 9 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){&font(b,#ff0000){「おめーら、それでもチ〇コ付いてんのかァ!」}} #openclose(show=▽目次){ #contents() } **&font(b,#994c00){【&ruby(かんがん){宦官}】} 古代中国やローマ、イスラム諸国などにおける官僚。 彼らは自身の[[男根、つまり&font(b,#994c00){チ〇コ}>外性器]]を切り落とし、その代わりに後宮に入ることを許された。 イスラム諸国においては[[玉>おいなりさん]]と竿のうち片方だけを落とす不完全去勢も多かったが、中国では丸ごと切断されることが多い。 日本では概念そのものは中国から輸入されてもおかしくなかったが、結局家畜を含めても「去勢」という概念が受け入れられなかったことからほぼ存在しなかった。 ちなみに「宦官」の語そのものは本来は役職名で男性器周りを落とした人間は「&ruby(えんじん){閹人}」と呼ぶのが正しいのだが、 時代を下るに従って宦官の職が閹人だけの職になった為「宦官」だけで通じる様になったとの事。 昔は刑罰(宮刑)としてチryを切られたり他国の捕虜となってチryを切られた者が宦官となっていたが、 宦官が権力を握るようになると自ら進んでryを切る者も出てきた。これを「自宮」という。 特に中国・唐代では、官僚になるには[[科挙]]に受かるか切るかしかなく、 科挙の倍率は司法試験もびっくりのものなので、官僚になるために自ら切っちゃった者も少なくない。 &font(#0000ff){うち3割は傷口が化膿して死んじゃったらしいけどね(´・ω・`)} ちなみに、清代末期になると西欧から外科手術法が取り入れられて、民間レベルでやるのもずいぶん安全になったとか……。 一方で刑罰の場合は古代から手荒だがかなり安全な手法が確立されており、これによる死者は殆ど出なかったという。 また、科挙もその倍率の関係から書物をしこたま読んで勉強するための時間とカネ、めでたく科挙に受かって官僚になった後も勉学中に築くコネが出世に必要な面があるので、 学はないけど媚びへつらいとかそういうのが得意という貧農出身者にとっては一発逆転を狙う唯一の方法という面があった。 五代十国の藩鎮国家の一つ、南漢では総人口100万の内宦官人口が&bold(){2万}もいたという。 もちろん、宦官同士の足の引っ張り合いや権力争いの余波、仕える者の気まぐれで理不尽に殺されたりすることもあるし、解雇される=ほぼ野垂れ死になので官僚とはいえかなりハイリスクな役職ではある。 というか、政治に関われるような権力を握れるものは最上位クラスだけであって、それ以外の者は当然過酷な競争に晒される。現代で言ういじめに近い行為もざらにあったようだ。 その地位は名目上『官僚』とはいえ&bold(){その実態は限りなく[[奴隷]]そのもの}であった。一応、国から給料は出るし退職もあるので奴隷とは違うが。 儒教的な倫理観に真っ向から反する存在でもある(後述)ため、実際の彼らの扱い・扱われ方は、そんじょそこらの社畜なんか目じゃないぐらいの悲惨さだったのだ。 宦官を登用する主な理由としては、 -後宮の女性に手を出せないので身の回りに置ける -子孫を残せないので権力が集中しても一代限り、皇帝の座を一族に乗っ取られる心配が無い この二点である。 また、後宮に勤めるということは日常的に皇帝に親しむということでもあり、 -権力を握る重臣に対抗するための、皇帝直属の戦力として行使できる -皇太子の教育を任せられる というメリットもまた存在する。 一方で、皇帝に権力が集中する政権では、裏で宦官が実権を握る事例が少なくなく、&font(b,#994c00){宦官=国を乱す悪というイメージ}がつくようになった。皇帝が暗愚であればなおのことであった。 もちろん、宦官といっても基本は宮廷勤めが許されるぐらいの有能な小役人であり、実際には&bold(){忠誠心に溢れ、かつ有能であった宦官はごまんといる。} しかし、正規な手段を踏まない(官界で推薦を勝ち取ったり、科挙などの試験を通ったりはしない)ままに君主の傍に仕えることは、&font(#0000ff){正規の手段で苦労して就職した役人たち}にとっては言うまでもなく&font(b,#0000ff){不快}であり、 そもそも&bold(){[[儒学>儒教]]}の倫理的には&font(#ff0000){「父母から授かった身を傷つけること」は}&font(b,#ff0000){不孝}、しかも&font(#ff0000){「子孫を残し父母・祖先の孝を未来に継ぐための器官を、自ら切り捨てる」ことは}&font(b,#ff0000){非道}であった。 そのため、宦官は史官を含めた役人・大臣からは嫌悪と侮蔑、嫉妬の的であり、およそいい感情を抱かれることはまずなかったのである。 なお、よく誤解されるのだが、&font(b,#ff0000){チ〇コを切っても性欲は無くならない。} 宦官は現代でいう&font(b,#f09199){おとなのおもちゃ}を使って性欲をぶちまけてたらしい。 それでも満足できないという宦官がチンコ復活しろ!と思って[[子供の脳を食べたりした>カニバリズム]]こともあったとか。 決して&font(b,#0000ff){永続的賢者モード}になるわけじゃないから絶対チ○コ切るなよ! お兄さんとの約束だぞ♪ ほかにありがちな勘違いとしては、宦官も結婚できる。時代によっては禁令が出たりもしたが、ほとんど有名無実だったそうだ。 もちろん妻とのあいだに子供は作れない((宦官になる前に結婚していたならもちろん別。))が、それだけに夫婦の関係は非常に細かいものになるという。 宦官は儒教徒の占める官界はもちろん、民間でも忌まれる傾向にあり、退職して亡くなっても一般の墓地には埋葬されないほどであったと言うが、 宦官専用墓地というものがあり、そこでは夫の冥福を祈る未亡人たちがいつも詣っていたという。 また歴史の中では女王に仕える者はまとめて宦官と呼ぶ文化もあり、 実際にはチ〇コがついたままの下僕も宦官と呼ばれていたケースもあるらしい。 **&font(b,#994c00){【有名な宦官】} &bold(){・&ruby(ロウアイ){嫪毐}} 初っ端からなんだが、こいつは宦官ではなく&font(#ff0000){ニセ}宦官。つまり&font(#ff0000){切ってない}。 秦王政=後の[[始皇帝]]の母親・趙太后に仕えた。 時の執政・呂不韋に&font(#ff0000){チ○コのでかさ}を見込まれて食客となり、 呂不韋の代わりに太后((呂不韋はもともと趙太后を愛人として囲い、「奇貨居くべし」の故事どおり政の父・子楚(荘襄王)に趙太后を送って取り入った。荘襄王が早世したことから呂不韋は密かに復縁し、太后の相手をしていた。この関係がバレるのはマズイと判断したことから嫪毐を雇ったという。))の性奴隷になって出世。 得意技は勃起したアレに車輪を通して回す芸。デカすぎィ! おい、チ〇コ切れよ。 最期は太后に子を生ませ、その子に秦を乗っ取らせようとして反乱を起こすが、秦王政に敗れて&bold(){車裂き}の刑。子供を含め一族皆殺しの憂き目にあう。 ちなみに、この一件から「呂不韋がニセ宦官を送り込んだ」ことまでバレ、呂不韋失脚・横死の原因ともなった。 &bold(){・趙高} 秦の始皇帝に仕えた宦官にして&bold(){悪宦官の代名詞}。 といっても始皇帝の生前にはあまり悪事を働いていない。というより始皇帝は自分にも周囲にも厳しい人物であり、悪事を働く余地がなかった。 しかし始皇帝が行幸先で死亡したときに素早く策謀を巡らせ、宰相の李斯を脅して自分に都合がいい胡亥を皇帝に擁立して実権を握り、大暴れ。 正統な皇位継承者の扶蘇と、始皇帝の一番の側近たる蒙毅、その兄で[[キン●ダム>キングダム(漫画)]]でおなじみの最大の名将蒙恬を&bold(){殺し}、 他にも&bold(){皇族・大臣・役人に冤罪を押し付け虐殺・粛清}。 さらに世界中から首都咸陽に兵士となる若者や労働者を掻き集めて食糧危機を招き、それを補うべく咸陽周辺の農民には作った穀物の自家消費を禁じ、 あげくは自分が宰相になりたいからという理由で&bold(){李斯まで粛清}したりとやりたい放題。 最期は子嬰を擁立しようと企み、&bold(){散々利用してきた胡亥を殺す}が、項羽たちが迫ってくると今度は&bold(){子嬰の首を差し出そうと目論み}生き残りを画策。 しかし自分の企みを見抜いていた子嬰とその部下に討たれ、一族も皆殺しにされた。 ついでに言うと本当は自分が&bold(){皇帝になりたかった}が、さすがに周囲の反対が強すぎてひっこめざるを得なかったようだ。 ちなみに&bold(){[[馬鹿]]の語源}でもあるらしい((趙高が宮中に鹿を連れて来て馬と言い張り、「いや、それは鹿だ」と自分に臆せずモノを言った官吏を後で軒並み粛清したという『指鹿為馬』という史記記載の故事よりという説。なお読み方などの理由から今ではあまり支持はされていないが、一番有名な説となっている。))。 なお近年発見された竹書『趙正書』などの記述から隷民であり&font(#ff0000){非宦官説}が出ている。 もっともこの『趙正書』は文章量自体が少ない上 ●始皇帝から胡亥への繋がり方が史記と違う ●始皇帝の本名を『政』ではなく『正』とする ●そもそも始皇帝を「王」として皇帝号を認めない ●『史記』では最前線で項羽と戦っていたはずの章邯がなぜか秦都咸陽でクーデターを起こして趙高を滅ぼしたことになっている(子嬰と取り違えた?) など、秦朝の記録と漢朝の公式資料に由来するだろう史記とは色々と内容が異なる。 あくまで一説であり、定説が覆されているわけではない。 &bold(){・司馬遷} その『史記』を書いた、歴史学的にもドえらい人。 漢の武帝に仕えたが、匈奴征伐に遠征して破れて降伏した友人・李陵をかばい宮刑(=チ〇コを切る)に。 その流れは大体↓みたいな感じ。 司馬遷「いや李陵は頑張ったのだ。ただ、援助が足りなかっただけだ」 ↓ 武帝「貴様、朕(チン)が悪いと言うのか? おい誰かこいつを切れ」 ↓ 司馬遷「え、何を切るんです?」 ↓ 武帝「首に決まっておろう!!」 ↓ 司馬遷「冗談じゃありません!!」 ↓ 武帝「金を出せば減罪してやろう」 ↓ 司馬遷「うちは貧乏なんです(´・ω・`)」 ↓ 武帝「じゃあおまえの『金』を出せ」 ↓ 司馬懿「いやん♡」 このような苦難((詳細には、庇った結果逮捕される→武帝冷静になって一旦許される→「李将軍(実は李陵ではない違う人)が匈奴に降伏したあと軍事教練を行っている」と伝わる→武帝ブチギレて李陵の一族を全員処刑。司馬遷もやっぱり死刑→死刑を逃れるために大金を収めるか宮刑か→略。この間約1年))を味わいながらもライフワークである史記を完成させ、歴史に名を残した。 当時、宮刑は人間に降りかかる様々な困難や恥辱の中でも最悪のものとされており、 司馬遷自身「&bold(){宮刑に処された者はもはや人間として扱われない}」とすら残しているほど。 それでも死刑や自害を選ぶことができなかったのは、父の遺言である&bold(){史記の完成という使命}があったからである。 ちなみに、司馬遷が書いた史記には史書としては珍しい「金儲けがうまい人物伝」である貨殖伝が載っている。 これは貧乏故に減刑を購えなかった遷の「金さえあれば……」という無念さの表れとも云われている。 また、史記は意外と漢皇室、特に高祖[[劉邦]]に対しての記載に遠慮がない((よく読んだら「父親の子ではなく、母親の不義の子」と読み取れる、など。))。 逆に始皇帝や[[項羽]]、呂后など漢にとっての大敵・逆賊にも詳しく書いている。 この辺は漢皇室への恨みがあったともされるが、おかげで史記は&bold(){歴史書にありがちな偏向が薄く、むしろ比較的中立な史書として知られている((劉邦へはわりと手加減されていて、武帝やその近辺へだけ厳しいという意見もある))。} &bold(){・蔡倫} 後漢和帝期から安帝期にかけて宮廷に仕えた宦官。 当時絹などの屑を使って不織布を作る技術があったのだが、それを応用することで 繊維くずや樹皮から&bold(){実用に耐える初の紙・蔡候紙の製造技術を開発した}ことで有名((紙自体は前漢時代に放馬灘紙という紙が存在していたが、薄くしたり白くしたりする技術は当時はまだ無かった。))。 紙の発明者と言われることもあるが、正確に言えば紙の改良者、&bold(){現在で言う「紙」の発明者}と言える。 この技法を洗練させ、材料も検討していくことで現在に通じる紙漉きという手法が生まれた。 これ以前は文章を記すといえば木簡や竹簡((木や竹でできた札。これに書き込み、ばらばらにならないように紐でまとめる))、もしくは絹織物(帛書)((蔡倫以前はこれのことを「紙」と呼んでいた))を使っていた。 しかし竹簡や木簡はかさばるし重い、絹織物の「紙」は高価であるという問題点があった。 蔡倫の発明した紙はどうしても高額になってしまい、即座に竹簡などを駆逐するとは行かなかったものの、後続の者たちにより改良が行われていった。 そして後漢後期から晋の頃には紙の長期保存が可能になり普及していった。 紙の普及は、木簡などではなかなか出来なかったことを可能にした。 例えば、懐から取り出してその場で詩を書き留めたり、戦場では伝令を使った即興での作戦変更の伝達をより簡単にした。 三国時代の建安七子の誕生や、[[諸葛亮]]と[[司馬懿]]の縦横無尽の策の巡らせ合いを生み出したのは彼の技術あってこそ。 また紙とその製造法は東南アジアや中央アジア、イスラム世界やインド、ヨーロッパへと伝わっていくことになり、文化の発展に大いに貢献した。 他にも武器製造など様々な技術開発に従事した超優秀な技術者であった。 このような偉業から、『世界史に影響を与えた人物ランキング』ではなんと&bold(){7位}という驚異的順位である。 これは始皇帝(17位)や老子(73位)をも超え、中国人だけで見ても孔子(5位)に次ぐ。 &bold(){・梁商} 後漢の順帝に仕えた名宦官。順帝の即位に尽力、その後も国をよく支え続けた。 皇帝の秘書官としてはメッチャ優秀。 しかし順帝がその功を称え、&font(#ff0000){宦官に養子を許す}というとんでもない大ポカをやらかし、しかも養子に貰ってきた梁冀は悪代官という最悪の事態。 おかげで梁一族が後漢の実権を握り、権威は失墜。三国時代到来の原因を作ってしまう。 &font(#ff0000){よくやった順帝。} &bold(){・曹騰} 梁商と共に順帝に仕えた名宦官。以後も陰ながら後漢を支え続けた。 彼の養子の子供、つまり孫があの[[曹操]]。養子を取れたのは上記の梁商と同じ経緯。 &font(#ff0000){マジで順帝よくやった。} &bold(){・十常侍} 後漢の霊帝に仕えた10人の宦官だが、[[実は12人いる>軍艦5人衆]]。 民から搾取→黄巾の乱。 少帝擁立→清流派の反乱→董卓やってくる→大将軍の何進を暗殺。 など、三国時代の幕を開いたのはあるいは彼らなのかもしれない。 しかし大将軍の暗殺はさすがにやりすぎ。この機を逃さなかった[[袁紹]]のクーデターで粛清されることとなった。 ちなみに蹇碩が十常侍というのは演義の創作。実際はその下の中常侍である。 なお、『三国志大戦』では武将として1に登場、その後3では軍師として登場し、リブート後は再び武将として登場している。 1では伏兵と防柵を持っているので&bold(){伏兵なのに開幕から初期位置がバレている}という意味の分からないことをやらかしている。 しかしリブート後は宦官以外にも伏兵と防柵を持つ武将が出てきたので武力+知力が10で征圧は0という能力と十常侍奥義という計略を得ている。 &bold(){・[[黄皓]]} 蜀のバカ殿さ(ry……[[劉禅]]に仕えた宦官。 三国志演義では、まさに国を滅ぼしたイエスマンな悪宦官として描かれている。 [[姜維]]を追放しようとしたり、巫女のお告げとか言って魏が攻めてるのに酒宴しまくったり。 史実では演義とは違い諸葛亮存命中どころか、諸葛亮の直接の後継者が生きてる頃にはほぼ出てこない。 蜀の人材が全体的にアレになった頃に出てきて、益州出身者と非出身者の争いに乗じて人事に介入している。 コーエー三国志では何故かネコミミ帽子を被っている。 『三国志大戦2』でも登場。 愚かな転身と言う武力の一番高い味方を城に戻すという微妙な計略を使う。 これで生姜&footnote(特に時間経過で2段覚醒したSR版)を戻したりできる。やったね。 リブート後は自軍の士気が増える計略が使える。ただし味方が弱体化したり敵を強くしたりしてしまう。 どちらもニッチな需要があり、士気を安定して増やす方法が開発されている。 &bold(){・高力士} 武周の則天武后・唐の玄宗に仕えた宦官。幼い頃は美少年で知られていたらしい。 彼自身は慎み深くさらに忠義心と理知に溢れた人材であり、高句麗出身の名将高仙芝ら有能な人材を多数推挙した。 それでいて、自身が推挙した宇文融・李林甫たちが名宰相の張説を弾劾した際には、張説を支持・弁護して赦免させたという、私党を優先しない公平さも持つ。 宮廷で寝起きするほどの仕事熱心通り越したワーカホリックで、 玄宗曰く「高力士がいるからこそ安心して眠れるのだ」と言わしめるほどの大量の仕事を捌いていた。 しかし、彼が推挙した節度使である楊国忠と安禄山は世界帝国・唐の終わりの引き金を引いてしまう。 彼は楊国忠の専横について玄宗を諌めたり、朝廷と安禄山の間に立って調停に尽力したりはしていたのだが……。 全体的に玄宗個人を優先しすぎて国を揺るがしてしまった感がある。 兵の反乱で助けられなくなった楊貴妃を縊死させたのも彼。 また詩仙・李白は嫌い、讒言して追放させた(李白本人にも問題は山ほどあり、と言うか本人も役人暮らしは性に合わなかったようなのだが)。 乱後は玄宗を退位させた粛宗の時代に陥れられて流罪となる。 最期は恩赦により帰還中に玄宗の死を知り、&bold(){慟哭して血を吐いて死亡した}という。 &bold(){・童貫} 『水滸伝』でも有名な、北宋のサブカルオタク皇帝徽宗に仕えた悪臣の一人。 既にナニが無いくせに&bold(){筋骨隆々でヒゲまで生えていた}とんでもないヤツで、 公金を懐に収めまくって、美女や養子をかこっていたという本当に宦官なのかすら怪しい男。 基本的に文官である宦官のくせに&bold(){戦争が大好き}で&bold(){敵兵どころかその領民まで殺しまくる}というヤバい人で、禁軍を掌握して北伐を行った。 宰相の「四絶」と称される文筆家の蔡京、腹心であるサッカー大好き高俅といった奸臣たちと一緒に徽宗を甘やかし 国民から莫大な税を毟り取って私腹を肥やし好き放題に悪政を敷いていたが、遂に北の異民族に完敗を喫してしまい、 &bold(){部下を見捨てて自分だけ逃げようとした}ためボコボコにされてとっ捕まり、流刑の最中に暗殺された。 しかし&bold(){マッチョすぎて首が鋼のように固く斬首するのがめっちゃ大変だった}という。 &bold(){・鄭和} 明の航海王子。別に王子じゃないんだけど、どっかのエンリケ航海王子にならってこう呼ばれる。 元々は元に仕えた雲南のイスラム貴族で、&bold(){捕虜になりチ〇コを切られ}永楽帝に仕えたという感じ。 南シナ海やインド洋を股にかけ、アフリカ大陸のモガディシュや聖地メッカ巡礼に至る大航海を敢行し、 キリンなどアフリカの文物を持ち帰り、明の勢威を各地に広めるなど活躍した。 &bold(){・劉瑾} 明の正徳帝に仕えた悪宦官。 皇帝を享楽に耽らせ国政を壟断し、当時の&bold(){政府歳入の10年分に相当する}というとんでもない不正蓄財を行った。 しかし皇位簒奪を企てたとして1510年、「凌遅三日」……すなわち&bold(){三日かけて行う[[凌遅刑]]}に処された。 処刑場には彼を憎む民衆が押し掛け、屋台まで開いていたという。 また切り取られた肉片は彼に殺された者の遺族に配られ、位牌に捧げるものや、憎さのあまり食う者もいたという。 &bold(){・魏忠賢} 明の天啓帝に仕えた邪悪宦官。 財を蓄え、さらに配下の都合の悪いことも賄賂を貰って握りつぶすなど万暦帝が浪費出兵アンドニートで殺した明に死体蹴りを敢行した人間の屑。 その屑っぷりは&bold(){党争を利してライバルも恩人も出世の邪魔になるならば容赦なく葬り}、絶対的な権勢を得ると、 自身を[[尭天舜徳>尭/舜/禹]]至聖至神と称し、聖人であると言わせ、&bold(){九千歳}((万歳は皇帝専用の為、流石に使えなかった。なお末期には九千九百歳まで増やしたという。))と唱和し讃えさせた。 彼と彼を止められない天啓帝の悪政の中、民の怨嗟は危険水域に高まり、 ヌルハチにより建国された満州女真族国家後金の勢威はもはや明にも手を付けられないレベルになった。 だって&bold(){ヌルハチに負けても賄賂で勝った体に出来ちゃう}んですもの、まじめに戦うはずがないわな。 最期は天啓帝の後に即位した崇禎帝により、逮捕される前に自殺した。 明特有の代替わり時の佞臣粛清システムはここでも機能はしたのである。 崇禎帝は必死に明を支えようとしたが、既に満身創痍の明は立て直しが利かず、 崇禎帝も洪武帝並に猜疑心が強く((崇禎帝が誅殺した重臣は10人を超えている))、後金の攻撃を防いでいた袁崇煥を殺してしまうなどミスも多く((袁崇煥を殺したのも、後金のホンタイジが明の宦官を賄賂で買収し袁崇煥が謀反を企てていると崇禎帝に吹き込ませたため))、最後の皇帝となってしまった。 しかし… &bold(){・王承恩} そして明最後の皇帝であった崇禎帝に仕えた宦官。 王朝内部が乱れて宦官にも賄賂が横行していた((上記の袁崇煥が殺されたのとか))頃にも崇禎帝に忠実であった。 既に李自成の反乱軍が北京に迫り、多くの宦官どころか文武百官全てが寝返りや逃亡をしている中、ただ一人最後まで皇帝の側で仕えた。 皇帝の王子・王女の逃亡先を全て仕切り、皇帝が自殺した側で自らも首を吊って殉死した。 朝鮮半島や海を越えた江戸幕府にもこの話は伝わっていたようであり、明最後の忠臣としてその生き様を現代まで評価されている。 世間一般的に考えられる宦官の悪評とは完全に無縁な忠臣である。 いつまでも皇帝に仕えられるようにと、墓もすぐ側に作られたとか。 &bold(){・董海川} 清朝の宦官で、武術の達人。 『[[NARUTO‐ナルト‐]]』に登場する[[八卦六十四掌>日向ネジ]]の元ネタである&bold(){八卦掌の創始者}と言われ、絶技的武林大師と呼ばれるように。 実は王族の暗殺を狙っていたとも言われる。 &bold(){・李蓮英} 清朝の高級宦官で、中華帝国最後の宦官と呼ばれている。 子どもの頃から52年間清朝に仕え、清朝の事実上の支配者だった[[西太后]]の下で宦官のトップにまで上り詰める。 清王朝が滅び中華民国が建国されると、民衆から搾り取って貯めた金で広大な土地を手に入れて豪邸を建て、もう無用だとばかりに自らの官職を銀1万両で売り飛ばした。 彼の所有する財産は、各種の動産まで含めると諸王に匹敵するほどの巨万の富であったという。 &bold(){・孫耀庭} 清朝の宦官で、1994年に86歳で没した文字通りの最後の宦官。 こちらも子どもの頃から仕えており、後年賈英華という作家のインタビューを受けてその半生が記された本が書かれ、 日本でも和訳したものが「最後の宦官秘文」として出版されている。 &bold(){・清の下級宦官} ぶっちゃけ何をしたわけでもないが世界史の教科書、資料集に引っ張りだこ。 一般に宦官のイメージと言えばこの人。 写真が残っているのが彼らしかいないから仕方がない。&s(){Wikipediaには股間の写真まである。} &bold(){・ナルセス} 東ローマ帝国のユスティニアヌス1世に仕えた宦官。本職は官僚だが軍隊も指揮する。 宦官なら独立して自分の王国建てたりしないだろうと、イタリア遠征軍を率いて出陣、 イタリアを領有する東ゴート王国軍を粉砕した後、返す刀で火事場泥棒狙いのフランク王国軍を撃退。 20年近くかかったイタリア戦争を勝利で終わらせた名将。ちなみにイタリア征服時御年75歳。 そもそもユスティニアヌスがベリサリウスを猜疑心から何回も解任したり呼び戻したりしなけりゃご老体のナルセスを起用せずにすんだのは内緒だ。 **&font(b,#994c00){【宦官の類似例】} &bold(){・カストラート} 欧州において声変わりを防せいでボーイソプラノを保つための男性ホルモン抑制を目的として、タマを切った歌手。 当然声変わりしてからでは手遅れなので、処置を受けたのは聖歌隊や音楽院に在籍していた7~11歳の少年たちである。 ルネサンス期より一般化したらしい。 こちらは刑罰ではなく家畜の去勢方を転用したため、タマの中身(精巣)だけを除去するのでチ〇コは残る。 成人男性の胸郭の広さと強靭な肺活量を持ったまま、ボーイソプラノやアルト声を出せるため、女性が声を出せない事になっていた教会の聖歌隊で重宝された。 数公演で首相なみの収入を得られる人気歌手も出たほどで、ナポレオンが禁止令を出しても後を絶たなかったが、1878年に時の教皇による禁止令が出てようやく沙汰止みとなった。 最期のカストラートは1922年まで生存していたらしい。声を録音した音源も残っているが、全盛期過ぎだとか。 現在、カストラート前提で作られた楽曲はソプラノ歌手やボーイソプラノ、あるいはソプラニスタやカウンターテナー(米良美一さんのパート)で代用されている。 一応今でもカストラートに準じた存在はちょくちょく出るが、切ったわけではなくホルモン分泌異常でカストラート状態になっただけである。 追記・修正はチ〇コを切ってからお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,16) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - ちなみにヨーロッパのはカストラートといいます。かのベートーベンも危うく去勢されてカストラートになる所だったとか。 -- 名無しさん (2013-08-31 17:10:35) - 曹操の爺さん めっちゃ評価されてるな -- 松永さん (2013-09-14 01:31:31) - 因みにブツの切り方は、1.まず縄で根元を縛ります 2.血が止まり、神経が死に、痛みが少なくなります 3.体を固定し、石斧(石剣)で勢いよく切り落とす。 という方法が一般的らしい。 -- 名無しさん (2014-01-30 17:42:20) - やめてくれ。聞くだけで痛い。 -- 名無しさん (2014-01-30 18:37:54) - ↑2 マイボールがキュッてなった -- 名無しさん (2014-01-30 20:12:25) - ちなみに傷口には消毒と止血の為に石灰なんかをまぶしたらしい。聞くと痛いけど切り方とかが確立するまでは半分も生き残れなかったからね… -- 名無しさん (2014-01-31 10:49:05) - 張承業という人も唐朝に忠節を尽くした名宦官だったとインターネットで見たけど、忠誠心のある宦官よりもろくでもない宦官のほうが目立つせいで宦官全体のイメージが悪すぎる。 -- 名無しさん (2014-01-31 13:23:40) - ↑唐朝といえば玄宗皇帝に仕えた高力士も有名だな。力士自身は優秀な人物だったけどその後に彼の権力基盤を継いだ宦官がそろいもそろってろくでなしだったので結局国が腐っちまった。 -- 名無しさん (2014-03-22 18:24:42) - 蒼穹の昴という本で虚勢について詳しく書かれてたな… -- 名無しさん (2014-03-22 18:56:17) - 刃物で切るのではなくワイヤーや糸をきつく巻きつけて壊死させて落とすと聞いたことがある。 -- 名無しさん (2014-03-22 19:06:58) - 1.チンコだけ 2.キンタマのみ 3.チンコとキンタマ両方 -- 名無しさん (2014-03-22 20:44:58) - ↑確か3を↑×2の方法で去勢すると書いてあったような。 -- 名無しさん (2014-03-22 22:14:46) - 権力握ったのはごくごく一部だったから歴史に名を残しているのであって99%は奴僕として一生を送った。 -- 名無しさん (2014-03-23 23:44:05) - ヒストリエにも去勢された奴隷が出てきてたな。エウメネスも危なかった -- 名無しさん (2014-05-12 05:13:49) - 宦官は去勢で尿道が短くなったせいで失禁しやすくなって常に悪臭を放ってたとか -- 名無しさん (2014-11-23 12:23:18) - もうそんな時代じゃないがやっぱり日本に生まれてよかったよ俺ぁ… -- 名無しさん (2014-11-23 12:49:22) - でも、成功率7割って結構当時のタマとりは結構成功率高いんだな。もっと死亡率高いと思ってたが。 -- 名無しさん (2016-08-02 08:56:36) - ↑2 科挙の合格率の低さは教育制度がなってないのに高い知性を求めるっていうかなりの無茶ぶりも原因だからな、なんだかんだ言って日本の教育には感謝よ -- 名無しさん (2016-10-04 15:03:10) - 確か、チンコ切った後で、入口が癒着して塞がらないように尿道にコヨリ入れるんだっけ? -- 名無しさん (2017-05-21 14:42:50) - 横山光輝「史記」の「司馬遷」の章でも宮刑のやり方が描かれていたな。でも流石に「手荒な手術だったが、死んだ者はほとんどいなかったという。」は嘘だな? -- 名無しさん (2017-06-07 07:41:07) - 割とタマ壊死させるだけのも多い -- 名無しさん (2017-06-14 02:55:19) - ↑↑(術後のケアが行き届いていたから刑としてちゃんとやれば)手荒な手術だったが死んだ者は殆どいないのであって、科挙にも受からないような貧乏人がセルフでちんこ切ったところで術後のケアが行き届くはずがないということで、この記事にあるように3割は化膿で死んだということだと思ったんだが -- 名無しさん (2017-06-14 04:16:44) - 去勢したので女中に手は出さなかったけど、国政に手を出しましたとさ -- 名無しさん (2017-11-24 14:52:03) - 宦官は独占欲とか金銭欲が強くなる方向性があるから -- 名無しさん (2017-11-24 15:43:57) - 設定のみだけど、ジンライガーでチンコナッシという名前の宦官がいるし -- 名無しさん (2018-07-04 11:22:11) - 三国志疎いから教えてほしいんだけど、なんで順帝よくやったって言われてるの? -- 名無しさん (2018-07-04 14:16:25) - 現在の中国の官僚制度とかはどうなってるのかな?w 実は高級官僚のほとんどが玉無しだったら笑えるが。 -- 名無しさん (2018-07-04 14:30:13) - ↑2 順帝が宦官の養子取りを容認する→大宦官の曹騰が曹嵩を養子に取る→曹嵩が曹操を産む→曹操という三国志の英雄が誕生。  この流れだと、「曹操」と「三国志」を生み出したのは、ある意味で順帝だ(順帝が宦官養子取りを許可しなければ歴史に曹操は生まれず、三国志もつまらなくなる)、という意味。たぶん。 -- 名無しさん (2018-07-04 14:39:48) - キラーコンドームは男性を無差別に宦官に変える恐怖のクリーチャー -- 名無しさん (2018-07-07 13:46:10) - 当たり前だけど、男性ホルモンのほぼ全てが男のアレに集中しているため、去勢するとその男の人は髭は生えなくなり、声は高くなる -- 名無しさん (2018-08-21 21:39:35) - 梁商って宦官だっけ?普通に外戚の梁一族じゃなかった? -- 名無しさん (2019-02-01 23:14:44) - >チ〇コがついたままの僕も宦官 一瞬ぼくと読んで「お前かよ!?」と思ってしまった -- 名無しさん (2019-02-04 01:10:19) - ヨーロッパ方面ではどうして早々に廃れてしまったんだろうか。 いやただ単に中国(と朝鮮)で長く続きすぎただけなのかもしれないけど。とはいえ「卑しい身分ながら権力者と距離が近い者」としてジェスター(宮廷道化師)が中世ヨーロッパで広く存在していたあたり、遠く離れていても考え方は同じだったのかも。 -- 名無しさん (2019-05-22 18:43:38) - 腐マンガでたまに見かける「女みたいな宦官」は第二次性徴前に切っとく必要があり、実際には全くと言って良いほどいなかったそうな。男のまんまでも女みたいに綺麗な美少年はいるしね。 -- 名無しさん (2019-07-21 00:21:00) - 蔡倫は最後は自殺に追い込まれたそうだね。宮城谷三国志の後漢の宦官たちが権勢を強めていく理由の描写は面白かった -- 名無しさん (2020-09-22 17:00:05) - 読んでるだけで下半身の血の気がひいてくる -- 名無しさん (2021-03-10 20:20:00) - うわぎゃぁぁ!タタタタ・・・タマがねぇ・・・!チ・・・チンも! -- 名無しさん (2021-10-23 00:59:48) - ♪大きなチン○のロウアイくん 太后さんの(性)奴隷~ 毎晩休まずに ギシギシアンアン -- 名無しさん (2022-03-23 14:48:05) - >決して永続的賢者モードになるわけじゃないから絶対チ○コ切るなよ! お兄さんとの約束だぞ♪  それを差し引いても自分にとっては存在自体が邪魔なことと、主に「執拗に男らしさを押し付けた」父への恨みを晴らすために切断費用60万目安に今がんばって貯めてるんだが? -- 名無しさん (2022-06-05 13:36:20) - 宦官がいると国が乱れて、いなくなると国が機能しなくなるジレンマ -- 名無しさん (2022-06-05 13:46:49) - 宦官は閹人(去勢した男子)でないと駄目と定めたのは後漢の光武帝で、これ以前は宦官=去勢ではないから嫪毐も別にニセ宦官って訳ではないんだよな。 -- 名無しさん (2022-09-05 14:19:11) - 補足すると「宦官」という用語自体が後漢以降のものでそれ以前は「宦人」。「官」として仕えた訳ではないので。 -- 名無しさん (2022-09-05 14:37:05) - ↑2 -- 名無しさん (2023-02-09 00:08:55) - ミス ↑3 嫪毐の場合、去勢を偽造したと言う記録が残っているから「ニセ」で間違いないと思うよ。推挙した呂不韋も処罰されてるしね。 -- 名無しさん (2023-02-09 00:11:54) - 竿がなくなった代償行為なのか致す時にはめっちゃ噛んだりするってどっかで読んだ覚えあるけどどうだったかな -- 名無しさん (2023-02-15 12:21:02) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2010/06/08 Tue 10:51:14 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 9 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){&font(b,#ff0000){「おめーら、それでもチ〇コ付いてんのかァ!」}} #openclose(show=▽目次){ #contents() } **&font(b,#994c00){【&ruby(かんがん){宦官}】} 古代中国やローマ、イスラム諸国などにおける官僚。 彼らは自身の[[男根、つまり&font(b,#994c00){チ〇コ}>外性器]]を切り落とし、その代わりに後宮に入ることを許された。 イスラム諸国においては[[玉>おいなりさん]]と竿のうち片方だけを落とす不完全去勢も多かったが、中国では丸ごと切断されることが多い。 日本では概念そのものは中国から輸入されてもおかしくなかったが、結局家畜を含めても「去勢」という概念が受け入れられなかったことからほぼ存在しなかった。 ちなみに「宦官」の語そのものは本来は役職名で男性器周りを落とした人間は「&ruby(えんじん){閹人}」と呼ぶのが正しいのだが、 時代を下るに従って宦官の職が閹人だけの職になった為「宦官」だけで通じる様になったとの事。 昔は刑罰(宮刑)としてチryを切られたり他国の捕虜となってチryを切られた者が宦官となっていたが、 宦官が権力を握るようになると自ら進んでryを切る者も出てきた。これを「自宮」という。 特に中国・唐代では、官僚になるには[[科挙]]に受かるか切るかしかなく、 科挙の倍率は司法試験もびっくりのものなので、官僚になるために自ら切っちゃった者も少なくない。 &font(#0000ff){うち3割は傷口が化膿して死んじゃったらしいけどね(´・ω・`)} ちなみに、清代末期になると西欧から外科手術法が取り入れられて、民間レベルでやるのもずいぶん安全になったとか……。 一方で刑罰の場合は古代から手荒だがかなり安全な手法が確立されており、これによる死者は殆ど出なかったという。 また、科挙もその倍率の関係から書物をしこたま読んで勉強するための時間とカネ、めでたく科挙に受かって官僚になった後も勉学中に築くコネが出世に必要な面があるので、 学はないけど媚びへつらいとかそういうのが得意という貧農出身者にとっては一発逆転を狙う唯一の方法という面があった。 五代十国の藩鎮国家の一つ、南漢では総人口100万の内宦官人口が&bold(){2万}もいたという。 もちろん、宦官同士の足の引っ張り合いや権力争いの余波、仕える者の気まぐれで理不尽に殺されたりすることもあるし、解雇される=ほぼ野垂れ死になので官僚とはいえかなりハイリスクな役職ではある。 というか、政治に関われるような権力を握れるものは最上位クラスだけであって、それ以外の者は当然過酷な競争に晒される。現代で言ういじめに近い行為もざらにあったようだ。 その地位は名目上『官僚』とはいえ&bold(){その実態は限りなく[[奴隷]]そのもの}であった。一応、国から給料は出るし退職もあるので奴隷とは違うが。 儒教的な倫理観に真っ向から反する存在でもある(後述)ため、実際の彼らの扱い・扱われ方は、そんじょそこらの社畜なんか目じゃないぐらいの悲惨さだったのだ。 宦官を登用する主な理由としては、 -後宮の女性に手を出せないので身の回りに置ける -子孫を残せないので権力が集中しても一代限り、皇帝の座を一族に乗っ取られる心配が無い この二点である。 また、後宮に勤めるということは日常的に皇帝に親しむということでもあり、 -権力を握る重臣に対抗するための、皇帝直属の戦力として行使できる -皇太子の教育を任せられる というメリットもまた存在する。 一方で、皇帝に権力が集中する政権では、裏で宦官が実権を握る事例が少なくなく、&font(b,#994c00){宦官=国を乱す悪というイメージ}がつくようになった。皇帝が暗愚であればなおのことであった。 もちろん、宦官といっても基本は宮廷勤めが許されるぐらいの有能な小役人であり、実際には&bold(){忠誠心に溢れ、かつ有能であった宦官はごまんといる。} しかし、正規な手段を踏まない(官界で推薦を勝ち取ったり、科挙などの試験を通ったりはしない)ままに君主の傍に仕えることは、&font(#0000ff){正規の手段で苦労して就職した役人たち}にとっては言うまでもなく&font(b,#0000ff){不快}であり、 そもそも&bold(){[[儒学>儒教]]}の倫理的には&font(#ff0000){「父母から授かった身を傷つけること」は}&font(b,#ff0000){不孝}、しかも&font(#ff0000){「子孫を残し父母・祖先の孝を未来に継ぐための器官を、自ら切り捨てる」ことは}&font(b,#ff0000){非道}であった。 そのため、宦官は史官を含めた役人・大臣からは嫌悪と侮蔑、嫉妬の的であり、およそいい感情を抱かれることはまずなかったのである。 なお、よく誤解されるのだが、&font(b,#ff0000){チ〇コを切っても性欲は無くならない。} 宦官は現代でいう&font(b,#f09199){おとなのおもちゃ}を使って性欲をぶちまけてたらしい。 それでも満足できないという宦官がチンコ復活しろ!と思って[[子供の脳を食べたりした>カニバリズム]]こともあったとか。 決して&font(b,#0000ff){永続的賢者モード}になるわけじゃないから絶対チ○コ切るなよ! お兄さんとの約束だぞ♪ ほかにありがちな勘違いとしては、宦官も結婚できる。時代によっては禁令が出たりもしたが、ほとんど有名無実だったそうだ。 もちろん妻とのあいだに子供は作れない((宦官になる前に結婚していたならもちろん別。))が、それだけに夫婦の関係は非常に細かいものになるという。 宦官は儒教徒の占める官界はもちろん、民間でも忌まれる傾向にあり、退職して亡くなっても一般の墓地には埋葬されないほどであったと言うが、 宦官専用墓地というものがあり、そこでは夫の冥福を祈る未亡人たちがいつも詣っていたという。 また歴史の中では女王に仕える者はまとめて宦官と呼ぶ文化もあり、 実際にはチ〇コがついたままの下僕も宦官と呼ばれていたケースもあるらしい。 **&font(b,#994c00){【有名な宦官】} &bold(){・&ruby(ロウアイ){嫪毐}} 初っ端からなんだが、こいつは宦官ではなく&font(#ff0000){ニセ}宦官。つまり&font(#ff0000){切ってない}。 秦王政=後の[[始皇帝]]の母親・趙太后に仕えた。 時の執政・呂不韋に&font(#ff0000){チ○コのでかさ}を見込まれて食客となり、 呂不韋の代わりに太后((呂不韋はもともと趙太后を愛人として囲い、「奇貨居くべし」の故事どおり政の父・子楚(荘襄王)に趙太后を送って取り入った。荘襄王が早世したことから呂不韋は密かに復縁し、太后の相手をしていた。この関係がバレるのはマズイと判断したことから嫪毐を雇ったという。))の性奴隷になって出世。 得意技は勃起したアレに車輪を通して回す芸。デカすぎィ! おい、チ〇コ切れよ。 最期は太后に子を生ませ、その子に秦を乗っ取らせようとして反乱を起こすが、秦王政に敗れて&bold(){車裂き}の刑。子供を含め一族皆殺しの憂き目にあう。 ちなみに、この一件から「呂不韋がニセ宦官を送り込んだ」ことまでバレ、呂不韋失脚・横死の原因ともなった。 &bold(){・趙高} 秦の始皇帝に仕えた宦官にして&bold(){悪宦官の代名詞}。 といっても始皇帝の生前にはあまり悪事を働いていない。というより始皇帝は自分にも周囲にも厳しい人物であり、悪事を働く余地がなかった。 しかし始皇帝が行幸先で死亡したときに素早く策謀を巡らせ、宰相の李斯を脅して自分に都合がいい胡亥を皇帝に擁立して実権を握り、大暴れ。 正統な皇位継承者の扶蘇と、始皇帝の一番の側近たる蒙毅、その兄で[[キン●ダム>キングダム(漫画)]]でおなじみの最大の名将蒙恬を&bold(){殺し}、 他にも&bold(){皇族・大臣・役人に冤罪を押し付け虐殺・粛清}。 さらに世界中から首都咸陽に兵士となる若者や労働者を掻き集めて食糧危機を招き、それを補うべく咸陽周辺の農民には作った穀物の自家消費を禁じ、 あげくは自分が宰相になりたいからという理由で&bold(){李斯まで粛清}したりとやりたい放題。 最期は子嬰を擁立しようと企み、&bold(){散々利用してきた胡亥を殺す}が、項羽たちが迫ってくると今度は&bold(){子嬰の首を差し出そうと目論み}生き残りを画策。 しかし自分の企みを見抜いていた子嬰とその部下に討たれ、一族も皆殺しにされた。 ついでに言うと本当は自分が&bold(){皇帝になりたかった}が、さすがに周囲の反対が強すぎてひっこめざるを得なかったようだ。 ちなみに&bold(){[[馬鹿]]の語源}でもあるらしい((趙高が宮中に鹿を連れて来て馬と言い張り、「いや、それは鹿だ」と自分に臆せずモノを言った官吏を後で軒並み粛清したという『指鹿為馬』という史記記載の故事よりという説。なお読み方などの理由から今ではあまり支持はされていないが、一番有名な説となっている。))。 なお近年発見された竹書『趙正書』などの記述から隷民であり&font(#ff0000){非宦官説}が出ている。 もっともこの『趙正書』は文章量自体が少ない上 ●始皇帝から胡亥への繋がり方が史記と違う ●始皇帝の本名を『政』ではなく『正』とする ●そもそも始皇帝を「王」として皇帝号を認めない ●『史記』では最前線で項羽と戦っていたはずの章邯がなぜか秦都咸陽でクーデターを起こして趙高を滅ぼしたことになっている(子嬰と取り違えた?) など、秦朝の記録と漢朝の公式資料に由来するだろう史記とは色々と内容が異なる。 あくまで一説であり、定説が覆されているわけではない。 &bold(){・司馬遷} その『史記』を書いた、歴史学的にもドえらい人。 漢の武帝に仕えたが、匈奴征伐に遠征して破れて降伏した友人・李陵をかばい宮刑(=チ〇コを切る)に。 その流れは大体↓みたいな感じ。 司馬遷「いや李陵は頑張ったのだ。ただ、援助が足りなかっただけだ」 ↓ 武帝「貴様、朕(チン)が悪いと言うのか? おい誰かこいつを切れ」 ↓ 司馬遷「え、何を切るんです?」 ↓ 武帝「首に決まっておろう!!」 ↓ 司馬遷「冗談じゃありません!!」 ↓ 武帝「金を出せば減罪してやろう」 ↓ 司馬遷「うちは貧乏なんです(´・ω・`)」 ↓ 武帝「じゃあおまえの『金』を出せ」 ↓ 司馬懿「いやん♡」 このような苦難((詳細には、庇った結果逮捕される→武帝冷静になって一旦許される→「李将軍(実は李陵ではない違う人)が匈奴に降伏したあと軍事教練を行っている」と伝わる→武帝ブチギレて李陵の一族を全員処刑。司馬遷もやっぱり死刑→死刑を逃れるために大金を収めるか宮刑か→略。この間約1年))を味わいながらもライフワークである史記を完成させ、歴史に名を残した。 当時、宮刑は人間に降りかかる様々な困難や恥辱の中でも最悪のものとされており、 司馬遷自身「&bold(){宮刑に処された者はもはや人間として扱われない}」とすら残しているほど。 それでも死刑や自害を選ぶことができなかったのは、父の遺言である&bold(){史記の完成という使命}があったからである。 ちなみに、司馬遷が書いた史記には史書としては珍しい「金儲けがうまい人物伝」である貨殖伝が載っている。 これは貧乏故に減刑を購えなかった遷の「金さえあれば……」という無念さの表れとも云われている。 また、史記は意外と漢皇室、特に高祖[[劉邦]]に対しての記載に遠慮がない((よく読んだら「父親の子ではなく、母親の不義の子」と読み取れる、など。))。 逆に始皇帝や[[項羽]]、呂后など漢にとっての大敵・逆賊にも詳しく書いている。 この辺は漢皇室への恨みがあったともされるが、おかげで史記は&bold(){歴史書にありがちな偏向が薄く、むしろ比較的中立な史書として知られている((劉邦へはわりと手加減されていて、武帝やその近辺へだけ厳しいという意見もある))。} &bold(){・蔡倫} 後漢和帝期から安帝期にかけて宮廷に仕えた宦官。 当時絹などの屑を使って不織布を作る技術があったのだが、それを応用することで 繊維くずや樹皮から&bold(){実用に耐える初の紙・蔡候紙の製造技術を開発した}ことで有名((紙自体は前漢時代に放馬灘紙という紙が存在していたが、薄くしたり白くしたりする技術は当時はまだ無かった。))。 紙の発明者と言われることもあるが、正確に言えば紙の改良者、&bold(){現在で言う「紙」の発明者}と言える。 この技法を洗練させ、材料も検討していくことで現在に通じる紙漉きという手法が生まれた。 これ以前は文章を記すといえば木簡や竹簡((木や竹でできた札。これに書き込み、ばらばらにならないように紐でまとめる))、もしくは絹織物(帛書)((蔡倫以前はこれのことを「紙」と呼んでいた))を使っていた。 しかし竹簡や木簡はかさばるし重い、絹織物の「紙」は高価であるという問題点があった。 蔡倫の発明した紙はどうしても高額になってしまい、即座に竹簡などを駆逐するとは行かなかったものの、後続の者たちにより改良が行われていった。 そして後漢後期から晋の頃には紙の長期保存が可能になり普及していった。 紙の普及は、木簡などではなかなか出来なかったことを可能にした。 例えば、懐から取り出してその場で詩を書き留めたり、戦場では伝令を使った即興での作戦変更の伝達をより簡単にした。 三国時代の建安七子の誕生や、[[諸葛亮]]と[[司馬懿]]の縦横無尽の策の巡らせ合いを生み出したのは彼の技術あってこそ。 また紙とその製造法は東南アジアや中央アジア、イスラム世界やインド、ヨーロッパへと伝わっていくことになり、文化の発展に大いに貢献した。 他にも武器製造など様々な技術開発に従事した超優秀な技術者であった。 このような偉業から、『世界史に影響を与えた人物ランキング』ではなんと&bold(){7位}という驚異的順位である。 これは始皇帝(17位)や老子(73位)をも超え、中国人だけで見ても孔子(5位)に次ぐ。 &bold(){・梁商} 後漢の順帝に仕えた名宦官。順帝の即位に尽力、その後も国をよく支え続けた。 皇帝の秘書官としてはメッチャ優秀。 しかし順帝がその功を称え、&font(#ff0000){宦官に養子を許す}というとんでもない大ポカをやらかし、しかも養子に貰ってきた梁冀は悪代官という最悪の事態。 おかげで梁一族が後漢の実権を握り、権威は失墜。三国時代到来の原因を作ってしまう。 &font(#ff0000){よくやった順帝。} &bold(){・曹騰} 梁商と共に順帝に仕えた名宦官。以後も陰ながら後漢を支え続けた。 彼の養子の子供、つまり孫があの[[曹操]]。養子を取れたのは上記の梁商と同じ経緯。 &font(#ff0000){マジで順帝よくやった。} &bold(){・十常侍} 後漢の霊帝に仕えた10人の宦官だが、[[実は12人いる>軍艦5人衆]]。 民から搾取→黄巾の乱。 少帝擁立→清流派の反乱→董卓やってくる→大将軍の何進を暗殺。 など、三国時代の幕を開いたのはあるいは彼らなのかもしれない。 しかし大将軍の暗殺はさすがにやりすぎ。この機を逃さなかった[[袁紹]]のクーデターで粛清されることとなった。 ちなみに蹇碩が十常侍というのは演義の創作。実際はその下の中常侍である。 なお、『三国志大戦』では武将として1に登場、その後3では軍師として登場し、リブート後は再び武将として登場している。 1では伏兵と防柵を持っているので&bold(){伏兵なのに開幕から初期位置がバレている}という意味の分からないことをやらかしている。 しかしリブート後は宦官以外にも伏兵と防柵を持つ武将が出てきたので武力+知力が10で征圧は0という能力と十常侍奥義という計略を得ている。 &bold(){・[[黄皓]]} 蜀のバカ殿さ(ry……[[劉禅]]に仕えた宦官。 三国志演義では、まさに国を滅ぼしたイエスマンな悪宦官として描かれている。 [[姜維]]を追放しようとしたり、巫女のお告げとか言って魏が攻めてるのに酒宴しまくったり。 史実では演義とは違い諸葛亮存命中どころか、諸葛亮の直接の後継者が生きてる頃にはほぼ出てこない。 蜀の人材が全体的にアレになった頃に出てきて、益州出身者と非出身者の争いに乗じて人事に介入している。 コーエー三国志では何故かネコミミ帽子を被っている。 『三国志大戦2』でも登場。 愚かな転身と言う武力の一番高い味方を城に戻すという微妙な計略を使う。 これで生姜&footnote(特に時間経過で2段覚醒したSR版)を戻したりできる。やったね。 リブート後は自軍の士気が増える計略が使える。ただし味方が弱体化したり敵を強くしたりしてしまう。 どちらもニッチな需要があり、士気を安定して増やす方法が開発されている。 &bold(){・高力士} 武周の則天武后・唐の玄宗に仕えた宦官。幼い頃は美少年で知られていたらしい。 彼自身は慎み深くさらに忠義心と理知に溢れた人材であり、高句麗出身の名将高仙芝ら有能な人材を多数推挙した。 それでいて、自身が推挙した宇文融・李林甫たちが名宰相の張説を弾劾した際には、張説を支持・弁護して赦免させたという、私党を優先しない公平さも持つ。 宮廷で寝起きするほどの仕事熱心通り越したワーカホリックで、 玄宗曰く「高力士がいるからこそ安心して眠れるのだ」と言わしめるほどの大量の仕事を捌いていた。 しかし、彼が推挙した節度使である楊国忠と安禄山は世界帝国・唐の終わりの引き金を引いてしまう。 彼は楊国忠の専横について玄宗を諌めたり、朝廷と安禄山の間に立って調停に尽力したりはしていたのだが……。 全体的に玄宗個人を優先しすぎて国を揺るがしてしまった感がある。 兵の反乱で助けられなくなった楊貴妃を縊死させたのも彼。 また詩仙・李白は嫌い、讒言して追放させた(李白本人にも問題は山ほどあり、と言うか本人も役人暮らしは性に合わなかったようなのだが)。 乱後は玄宗を退位させた粛宗の時代に陥れられて流罪となる。 最期は恩赦により帰還中に玄宗の死を知り、&bold(){慟哭して血を吐いて死亡した}という。 &bold(){・童貫} 『水滸伝』でも有名な、北宋のサブカルオタク皇帝徽宗に仕えた悪臣の一人。 既にナニが無いくせに&bold(){筋骨隆々でヒゲまで生えていた}とんでもないヤツで、 公金を懐に収めまくって、美女や養子をかこっていたという本当に宦官なのかすら怪しい男。 基本的に文官である宦官のくせに&bold(){戦争が大好き}で&bold(){敵兵どころかその領民まで殺しまくる}というヤバい人で、禁軍を掌握して北伐を行った。 宰相の「四絶」と称される文筆家の蔡京、腹心であるサッカー大好き高俅といった奸臣たちと一緒に徽宗を甘やかし 国民から莫大な税を毟り取って私腹を肥やし好き放題に悪政を敷いていたが、遂に北の異民族に完敗を喫してしまい、 &bold(){部下を見捨てて自分だけ逃げようとした}ためボコボコにされてとっ捕まり、流刑の最中に暗殺された。 しかし&bold(){マッチョすぎて首が鋼のように固く斬首するのがめっちゃ大変だった}という。 &bold(){・鄭和} 明の航海王子。別に王子じゃないんだけど、どっかのエンリケ航海王子にならってこう呼ばれる。 元々は元に仕えた雲南のイスラム貴族で、&bold(){捕虜になりチ〇コを切られ}永楽帝に仕えたという感じ。 南シナ海やインド洋を股にかけ、アフリカ大陸のモガディシュや聖地メッカ巡礼に至る大航海を敢行し、 キリンなどアフリカの文物を持ち帰り、明の勢威を各地に広めるなど活躍した。 &bold(){・劉瑾} 明の正徳帝に仕えた悪宦官。 皇帝を享楽に耽らせ国政を壟断し、当時の&bold(){政府歳入の10年分に相当する}というとんでもない不正蓄財を行った。 しかし皇位簒奪を企てたとして1510年、「凌遅三日」……すなわち&bold(){三日かけて行う[[凌遅刑]]}に処された。 処刑場には彼を憎む民衆が押し掛け、屋台まで開いていたという。 また切り取られた肉片は彼に殺された者の遺族に配られ、位牌に捧げるものや、憎さのあまり食う者もいたという。 &bold(){・魏忠賢} 明の天啓帝に仕えた邪悪宦官。 財を蓄え、さらに配下の都合の悪いことも賄賂を貰って握りつぶすなど万暦帝が浪費出兵アンドニートで殺した明に死体蹴りを敢行した人間の屑。 その屑っぷりは&bold(){党争を利してライバルも恩人も出世の邪魔になるならば容赦なく葬り}、絶対的な権勢を得ると、 自身を[[尭天舜徳>尭/舜/禹]]至聖至神と称し、聖人であると言わせ、&bold(){九千歳}((万歳は皇帝専用の為、流石に使えなかった。なお末期には九千九百歳まで増やしたという。))と唱和し讃えさせた。 彼と彼を止められない天啓帝の悪政の中、民の怨嗟は危険水域に高まり、 ヌルハチにより建国された満州女真族国家後金の勢威はもはや明にも手を付けられないレベルになった。 だって&bold(){ヌルハチに負けても賄賂で勝った体に出来ちゃう}んですもの、まじめに戦うはずがないわな。 最期は天啓帝の後に即位した崇禎帝により、逮捕される前に自殺した。 明特有の代替わり時の佞臣粛清システムはここでも機能はしたのである。 崇禎帝は必死に明を支えようとしたが、既に満身創痍の明は立て直しが利かず、 崇禎帝も洪武帝並に猜疑心が強く((崇禎帝が誅殺した重臣は10人を超えている))、後金の攻撃を防いでいた袁崇煥を殺してしまうなどミスも多く((袁崇煥を殺したのも、後金のホンタイジが明の宦官を賄賂で買収し袁崇煥が謀反を企てていると崇禎帝に吹き込ませたため))、最後の皇帝となってしまった。 しかし… &bold(){・王承恩} そして明最後の皇帝であった崇禎帝に仕えた宦官。 王朝内部が乱れて宦官にも賄賂が横行していた((上記の袁崇煥が殺されたのとか))頃にも崇禎帝に忠実であった。 既に李自成の反乱軍が北京に迫り、多くの宦官どころか文武百官全てが寝返りや逃亡をしている中、ただ一人最後まで皇帝の側で仕えた。 皇帝の王子・王女の逃亡先を全て仕切り、皇帝が自殺した側で自らも首を吊って殉死した。 朝鮮半島や海を越えた江戸幕府にもこの話は伝わっていたようであり、明最後の忠臣としてその生き様を現代まで評価されている。 世間一般的に考えられる宦官の悪評とは完全に無縁な忠臣である。 いつまでも皇帝に仕えられるようにと、墓もすぐ側に作られたとか。 &bold(){・董海川} 清朝の宦官で、武術の達人。 『[[NARUTO‐ナルト‐]]』に登場する[[八卦六十四掌>日向ネジ]]の元ネタである&bold(){八卦掌の創始者}と言われ、絶技的武林大師と呼ばれるように。 実は王族の暗殺を狙っていたとも言われる。 &bold(){・李蓮英} 清朝の高級宦官で、中華帝国最後の宦官と呼ばれている。 子どもの頃から52年間清朝に仕え、清朝の事実上の支配者だった[[西太后]]の下で宦官のトップにまで上り詰める。 清王朝が滅び中華民国が建国されると、民衆から搾り取って貯めた金で広大な土地を手に入れて豪邸を建て、もう無用だとばかりに自らの官職を銀1万両で売り飛ばした。 彼の所有する財産は、各種の動産まで含めると諸王に匹敵するほどの巨万の富であったという。 &bold(){・孫耀庭} 清朝の宦官で、1994年に86歳で没した文字通りの最後の宦官。 こちらも子どもの頃から仕えており、後年賈英華という作家のインタビューを受けてその半生が記された本が書かれ、 日本でも和訳したものが「最後の宦官秘文」として出版されている。 &bold(){・清の下級宦官} ぶっちゃけ何をしたわけでもないが世界史の教科書、資料集に引っ張りだこ。 一般に宦官のイメージと言えばこの人。 写真が残っているのが彼らしかいないから仕方がない。&s(){Wikipediaには股間の写真まである。} &bold(){・ナルセス} 東ローマ帝国のユスティニアヌス1世に仕えた宦官。本職は官僚だが軍隊も指揮する。 宦官なら独立して自分の王国建てたりしないだろうと、イタリア遠征軍を率いて出陣、 イタリアを領有する東ゴート王国軍を粉砕した後、返す刀で火事場泥棒狙いのフランク王国軍を撃退。 20年近くかかったイタリア戦争を勝利で終わらせた名将。ちなみにイタリア征服時御年75歳。 そもそもユスティニアヌスがベリサリウスを猜疑心から何回も解任したり呼び戻したりしなけりゃご老体のナルセスを起用せずにすんだのは内緒だ。 **&font(b,#994c00){【宦官の類似例】} &bold(){・カストラート} 欧州において声変わりを防せいでボーイソプラノを保つための男性ホルモン抑制を目的として、タマを切った歌手。 当然声変わりしてからでは手遅れなので、処置を受けたのは聖歌隊や音楽院に在籍していた7~11歳の少年たちである。 ルネサンス期より一般化したらしい。 こちらは刑罰ではなく家畜の去勢方を転用したため、タマの中身(精巣)だけを除去するのでチ〇コは残る。 成人男性の胸郭の広さと強靭な肺活量を持ったまま、ボーイソプラノやアルト声を出せるため、女性が声を出せない事になっていた教会の聖歌隊で重宝された。 数公演で首相なみの収入を得られる人気歌手も出たほどで、ナポレオンが禁止令を出しても後を絶たなかったが、1878年に時の教皇による禁止令が出てようやく沙汰止みとなった。 最期のカストラートは1922年まで生存していたらしい。声を録音した音源も残っているが、全盛期過ぎだとか。 現在、カストラート前提で作られた楽曲はソプラノ歌手やボーイソプラノ、あるいはソプラニスタやカウンターテナー(米良美一さんのパート)で代用されている。 一応今でもカストラートに準じた存在はちょくちょく出るが、切ったわけではなくホルモン分泌異常でカストラート状態になっただけである。 追記・修正はチ〇コを切ってからお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,16) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - ちなみにヨーロッパのはカストラートといいます。かのベートーベンも危うく去勢されてカストラートになる所だったとか。 -- 名無しさん (2013-08-31 17:10:35) - 曹操の爺さん めっちゃ評価されてるな -- 松永さん (2013-09-14 01:31:31) - 因みにブツの切り方は、1.まず縄で根元を縛ります 2.血が止まり、神経が死に、痛みが少なくなります 3.体を固定し、石斧(石剣)で勢いよく切り落とす。 という方法が一般的らしい。 -- 名無しさん (2014-01-30 17:42:20) - やめてくれ。聞くだけで痛い。 -- 名無しさん (2014-01-30 18:37:54) - ↑2 マイボールがキュッてなった -- 名無しさん (2014-01-30 20:12:25) - ちなみに傷口には消毒と止血の為に石灰なんかをまぶしたらしい。聞くと痛いけど切り方とかが確立するまでは半分も生き残れなかったからね… -- 名無しさん (2014-01-31 10:49:05) - 張承業という人も唐朝に忠節を尽くした名宦官だったとインターネットで見たけど、忠誠心のある宦官よりもろくでもない宦官のほうが目立つせいで宦官全体のイメージが悪すぎる。 -- 名無しさん (2014-01-31 13:23:40) - ↑唐朝といえば玄宗皇帝に仕えた高力士も有名だな。力士自身は優秀な人物だったけどその後に彼の権力基盤を継いだ宦官がそろいもそろってろくでなしだったので結局国が腐っちまった。 -- 名無しさん (2014-03-22 18:24:42) - 蒼穹の昴という本で虚勢について詳しく書かれてたな… -- 名無しさん (2014-03-22 18:56:17) - 刃物で切るのではなくワイヤーや糸をきつく巻きつけて壊死させて落とすと聞いたことがある。 -- 名無しさん (2014-03-22 19:06:58) - 1.チンコだけ 2.キンタマのみ 3.チンコとキンタマ両方 -- 名無しさん (2014-03-22 20:44:58) - ↑確か3を↑×2の方法で去勢すると書いてあったような。 -- 名無しさん (2014-03-22 22:14:46) - 権力握ったのはごくごく一部だったから歴史に名を残しているのであって99%は奴僕として一生を送った。 -- 名無しさん (2014-03-23 23:44:05) - ヒストリエにも去勢された奴隷が出てきてたな。エウメネスも危なかった -- 名無しさん (2014-05-12 05:13:49) - 宦官は去勢で尿道が短くなったせいで失禁しやすくなって常に悪臭を放ってたとか -- 名無しさん (2014-11-23 12:23:18) - もうそんな時代じゃないがやっぱり日本に生まれてよかったよ俺ぁ… -- 名無しさん (2014-11-23 12:49:22) - でも、成功率7割って結構当時のタマとりは結構成功率高いんだな。もっと死亡率高いと思ってたが。 -- 名無しさん (2016-08-02 08:56:36) - ↑2 科挙の合格率の低さは教育制度がなってないのに高い知性を求めるっていうかなりの無茶ぶりも原因だからな、なんだかんだ言って日本の教育には感謝よ -- 名無しさん (2016-10-04 15:03:10) - 確か、チンコ切った後で、入口が癒着して塞がらないように尿道にコヨリ入れるんだっけ? -- 名無しさん (2017-05-21 14:42:50) - 横山光輝「史記」の「司馬遷」の章でも宮刑のやり方が描かれていたな。でも流石に「手荒な手術だったが、死んだ者はほとんどいなかったという。」は嘘だな? -- 名無しさん (2017-06-07 07:41:07) - 割とタマ壊死させるだけのも多い -- 名無しさん (2017-06-14 02:55:19) - ↑↑(術後のケアが行き届いていたから刑としてちゃんとやれば)手荒な手術だったが死んだ者は殆どいないのであって、科挙にも受からないような貧乏人がセルフでちんこ切ったところで術後のケアが行き届くはずがないということで、この記事にあるように3割は化膿で死んだということだと思ったんだが -- 名無しさん (2017-06-14 04:16:44) - 去勢したので女中に手は出さなかったけど、国政に手を出しましたとさ -- 名無しさん (2017-11-24 14:52:03) - 宦官は独占欲とか金銭欲が強くなる方向性があるから -- 名無しさん (2017-11-24 15:43:57) - 設定のみだけど、ジンライガーでチンコナッシという名前の宦官がいるし -- 名無しさん (2018-07-04 11:22:11) - 三国志疎いから教えてほしいんだけど、なんで順帝よくやったって言われてるの? -- 名無しさん (2018-07-04 14:16:25) - 現在の中国の官僚制度とかはどうなってるのかな?w 実は高級官僚のほとんどが玉無しだったら笑えるが。 -- 名無しさん (2018-07-04 14:30:13) - ↑2 順帝が宦官の養子取りを容認する→大宦官の曹騰が曹嵩を養子に取る→曹嵩が曹操を産む→曹操という三国志の英雄が誕生。  この流れだと、「曹操」と「三国志」を生み出したのは、ある意味で順帝だ(順帝が宦官養子取りを許可しなければ歴史に曹操は生まれず、三国志もつまらなくなる)、という意味。たぶん。 -- 名無しさん (2018-07-04 14:39:48) - キラーコンドームは男性を無差別に宦官に変える恐怖のクリーチャー -- 名無しさん (2018-07-07 13:46:10) - 当たり前だけど、男性ホルモンのほぼ全てが男のアレに集中しているため、去勢するとその男の人は髭は生えなくなり、声は高くなる -- 名無しさん (2018-08-21 21:39:35) - 梁商って宦官だっけ?普通に外戚の梁一族じゃなかった? -- 名無しさん (2019-02-01 23:14:44) - >チ〇コがついたままの僕も宦官 一瞬ぼくと読んで「お前かよ!?」と思ってしまった -- 名無しさん (2019-02-04 01:10:19) - ヨーロッパ方面ではどうして早々に廃れてしまったんだろうか。 いやただ単に中国(と朝鮮)で長く続きすぎただけなのかもしれないけど。とはいえ「卑しい身分ながら権力者と距離が近い者」としてジェスター(宮廷道化師)が中世ヨーロッパで広く存在していたあたり、遠く離れていても考え方は同じだったのかも。 -- 名無しさん (2019-05-22 18:43:38) - 腐マンガでたまに見かける「女みたいな宦官」は第二次性徴前に切っとく必要があり、実際には全くと言って良いほどいなかったそうな。男のまんまでも女みたいに綺麗な美少年はいるしね。 -- 名無しさん (2019-07-21 00:21:00) - 蔡倫は最後は自殺に追い込まれたそうだね。宮城谷三国志の後漢の宦官たちが権勢を強めていく理由の描写は面白かった -- 名無しさん (2020-09-22 17:00:05) - 読んでるだけで下半身の血の気がひいてくる -- 名無しさん (2021-03-10 20:20:00) - うわぎゃぁぁ!タタタタ・・・タマがねぇ・・・!チ・・・チンも! -- 名無しさん (2021-10-23 00:59:48) - ♪大きなチン○のロウアイくん 太后さんの(性)奴隷~ 毎晩休まずに ギシギシアンアン -- 名無しさん (2022-03-23 14:48:05) - >決して永続的賢者モードになるわけじゃないから絶対チ○コ切るなよ! お兄さんとの約束だぞ♪  それを差し引いても自分にとっては存在自体が邪魔なことと、主に「執拗に男らしさを押し付けた」父への恨みを晴らすために切断費用60万目安に今がんばって貯めてるんだが? -- 名無しさん (2022-06-05 13:36:20) - 宦官がいると国が乱れて、いなくなると国が機能しなくなるジレンマ -- 名無しさん (2022-06-05 13:46:49) - 宦官は閹人(去勢した男子)でないと駄目と定めたのは後漢の光武帝で、これ以前は宦官=去勢ではないから嫪毐も別にニセ宦官って訳ではないんだよな。 -- 名無しさん (2022-09-05 14:19:11) - 補足すると「宦官」という用語自体が後漢以降のものでそれ以前は「宦人」。「官」として仕えた訳ではないので。 -- 名無しさん (2022-09-05 14:37:05) - ↑2 -- 名無しさん (2023-02-09 00:08:55) - ミス ↑3 嫪毐の場合、去勢を偽造したと言う記録が残っているから「ニセ」で間違いないと思うよ。推挙した呂不韋も処罰されてるしね。 -- 名無しさん (2023-02-09 00:11:54) - 竿がなくなった代償行為なのか致す時にはめっちゃ噛んだりするってどっかで読んだ覚えあるけどどうだったかな -- 名無しさん (2023-02-15 12:21:02) - ちなみに司馬遷はチ◯コ切った後も武帝には結構重用されてる、人格はともかく能力面は認められていたようだ -- 名無しさん (2024-02-04 21:42:50) #comment #areaedit(end) }

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