本多猪四郎(映画監督)

「本多猪四郎(映画監督)」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

本多猪四郎(映画監督)」(2024/01/07 (日) 23:14:51) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

&font(#6495ED){登録日}:2011/06/27(月) 14:43:23 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 5 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱい働き十分に生きて 本多らしく静かに一生を終えました} #right(){平成五年二月二十八日 黒澤明} &ruby(ほんだ){本多}&ruby(いしろう){猪四郎}は日本の映画監督。「[[ゴジラ]]」の生みの親の1人であり、数多の「[[ゴジラシリーズ]]」や東宝特撮映画を演出した監督である。 読みはいしろうだが、いのしろうと呼ばれることもある。   【生涯】 1911年[[山形県]]東田川郡朝日村(現・鶴岡市)に生まれ、1933年PCL(後の東宝)に入社し、山本嘉次郎監督門下の助監督として活躍した。 同門に&font(#ff0000){黒澤明}、&font(#ff0000){谷口千吉}がおり非常に仲が良く、特に黒澤明とは生涯の友となった。 その後[[戦争]]に召集され、&font(#ff0000){7年間を戦地で過ごし}、帰還中には原爆の被害を受けた広島も見ている。 その後東宝へ復帰、ブランクはあり黒澤明よりは遅れたが、1951年&font(#0000ff){「青い真珠」}で監督デビューとなる。 そして、「太平洋の鷲」で初めて[[円谷英二]]氏と組んでの製作となり、「ゴジラ」の監督を任されることとなった。 「ゴジラ」は大ヒットとなり、以降多数の特撮映画を手がけ、邦画が斜陽化してからはテレビの監督もこなし、「[[帰ってきたウルトラマン>帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)]]」等の作品も担当した。 その後「[[メカゴジラの逆襲]]」を監督した後は実質的に引退する。 その後黒澤監督に請われチーフ助監督(演出補)として黒澤映画に参加、一部の場面では黒澤監督の代わりに演出も行っている。 そして1992年にその生涯を終えた。   #center(){ゴジラの現場で} 【監督として】 東宝特撮を多数撮っただけでなく、邦画黄金期には1年で4~5作演出する職人監督として東宝を支えていた。 その人柄は温厚で誠実であり、撮影中に叱られることはほとんど無く、その人に見合った指導をしており、 その人柄に応えようと頑張ったと当時の俳優達は語っている。 自然体でリアリズムを重視した演出が多く、またテンポが良く特撮との相性は抜群であった。 円谷監督とも画面の色調を合わせたりする等よく連携を取っていた。 誠実な人柄は作品にも反映され、避難する人を誘導する警察等によく表されているとされる。 黒澤監督が本多作品を見て、あんな状況じゃ警察だって逃げると言った所、 本多監督は警察はああじゃなきゃいけないんだと言ったというエピソードを土屋嘉男が紹介している。 また、脚本の執筆や演技指導も上手く、さらにコンテに演出プランを細かく書くことで、スタッフが仕事をしやすいように気を回す方だったとのことである。   【交友関係】 #center(){黒澤監督と} 先述したように黒澤監督とは生涯の友であった。また、当時の映画会社では監督と俳優がある程度固定化されており、特に付き合いが深いのは○○組と呼ばれた。 本多組と呼ばれた俳優達とはよく本多監督の家で酒宴を開き、毎年新年会をする等非常に仲がよく、&font(#ff0000){猪さん}と呼ばれていた。 主に本多組と呼ばれるのは佐原健二氏、平田昭彦氏、田島義文氏あたりである。 特に佐原氏はよく可愛がられ、佐原氏も応えるべく頑張ったそうである。 また、黒澤監督に叱られそうになった時も、友人の本多監督門下だからと多目に見てもらったというエピソードもある。 また、土屋義男氏は黒澤門下の俳優であったが、本多監督ならと、特撮映画への出演や宇宙人役を演じさせてもらったという話もある。 【余談】 DVD「メカゴジラの逆襲」には本多監督の夫人へのインタビューが収録されている。 夫人へのインタビューは少なく、監督の人柄がうかがえるエピソードも聞けるので興味がある人はレンタル屋に行こう。 オーコメはカメラマンで、こちらも本多監督や円谷監督の話しを聞ける。 作品には真摯に接する人で、「[[妖星ゴラス]]」の時は大学に話しを聞きにいったり、上層部がマグマを出すと言った時に蛇足だと反対したが、 決まってからは特撮班とより良いマグマの演出について相談していたらしい。 1980年代は商業誌のインタビューだけでなく、ファンの同人活動へのインタビューも受けていた。亡くなった今となっては無理な話なため、うらやましい。 現在本多監督の公式サイトが存在する。親族や佐原氏が中核になり、高島忠夫氏や小泉博氏、水野久美さんといったゆかりの方からのメッセージも載せられている。 気になる人は本多猪四郎でググってみよう。 DCドラマ「レジェンド・オブ・トゥモロー」のシーズン4-第5話「怪獣タグモ」で歴史上の偉人のメインゲストで登場。海外ドラマとしては珍しく、ゴジラ制作に隠された本多監督の壮絶な想いが描写されているのでぜひ鑑賞オススメ。 本多監督を知ってる方は追記・修正をよろしくお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,2) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - サンダ対ガイラのL作戦は本多監督が付け足して書いたんだっけ あれは盛り上がったなあ -- 名無しさん (2013-10-12 23:31:37) - 『パシフィック・リム』のスタッフロール最後で、特撮の神様としてハリーハウゼンと一緒に名前を上げられてた所で泣きそうになった。海外にまで仕事ぶりが広く知られてるのは凄い・・・ -- 名無しさん (2013-10-12 23:37:05) - ↑デル・トロ監督だからこそ、なのかな。 -- 名無しさん (2013-10-13 09:09:27) - ↑黒澤監督が「8月の狂詩曲」を撮影してた時に、ルーカスとかスピルバーグみたいな海外の有名監督が見学しにきたらしいんだけど、黒澤監督の前にまず本多監督に会いたいって言ってたらしい。あとティム・バートンもリスペクトしてるって言ってた。 -- 名無しさん (2014-01-11 22:25:51) - 我が県の誇りです!! -- 名無しさん (2014-01-11 22:40:28) - ギャレゴジの芹沢博士も芹沢猪四郎だしな -- 名無しさん (2015-05-21 01:47:58) - ↑なお、演じていたケン・ワタナベは台本を貰った当初「イシロウ?一郎の間違いなんじゃないの?」と思ったとのこと(その後、佐野史郎に滅茶苦茶怒られた)。 -- 名無しさん (2020-05-26 13:03:08) - 冒頭の黒沢監督の弔辞が何とも朴訥で、ストレートで、黒沢監督の想いが伝わってくる。 -- 名無しさん (2023-09-11 12:11:13) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2011/06/27(月) 14:43:23 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 5 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱい働き十分に生きて 本多らしく静かに一生を終えました} #right(){平成五年二月二十八日 黒澤明} &ruby(ほんだ){本多}&ruby(いしろう){猪四郎}は日本の映画監督。「[[ゴジラ]]」の生みの親の1人であり、数多の「[[ゴジラシリーズ]]」や東宝特撮映画を演出した監督である。 読みはいしろうだが、いのしろうと呼ばれる事もある。   【生涯】 1911年[[山形県]]東田川郡朝日村(現・鶴岡市)に生まれ、1933年PCL(後の東宝)に入社し、山本嘉次郎監督門下の助監督として活躍した。 同門に&font(#ff0000){黒澤明}、&font(#ff0000){谷口千吉}がおり非常に仲が良く、特に黒澤明とは生涯の友となった。 その後[[戦争]]に召集され、&font(#ff0000){7年間を戦地で過ごし}、帰還中には原爆の被害を受けた広島も見ている。 その後東宝へ復帰し、ブランクはあり黒澤明よりは遅れたが、1951年&font(#0000ff){「青い真珠」}で監督デビューとなる。 そして、「太平洋の鷲」で初めて[[円谷英二]]氏と組んでの製作となり、「ゴジラ」の監督を任されることとなった。 「ゴジラ」は大ヒットとなり、以降多数の特撮映画を手がけ、邦画が斜陽化してからはテレビの監督もこなし、「[[帰ってきたウルトラマン>帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)]]」等の作品も担当した。 その後「[[メカゴジラの逆襲]]」を監督した後は実質的に引退する。 その後黒澤監督に請われチーフ助監督(演出補)として黒澤映画に参加、一部の場面では黒澤監督の代わりに演出も行っている。 そして1993年にその生涯を終えた。   #center(){ゴジラの現場で} 【監督として】 東宝特撮を多数撮っただけでなく、邦画黄金期には1年で4~5作演出する職人監督として東宝を支えていた。 その人柄は温厚で誠実であり、撮影中に叱られる事はほとんど無く、その人に見合った指導をしており、その人柄に応えようと頑張ったと当時の俳優達は語っている。 自然体でリアリズムを重視した演出が多く、またテンポが良く特撮との相性は抜群であった。 円谷監督とも画面の色調を合わせたりする等、よく連携を取っていた。 誠実な人柄は作品にも反映され、避難する人を誘導する警察等によく表されているとされる。 黒澤監督が本多作品を見て、あんな状況じゃ警察だって逃げると言ったが、本多監督は警察はああじゃなきゃいけないんだと言ったというエピソードを土屋嘉男が紹介している。 また、脚本の執筆や演技指導も上手く、さらにコンテに演出プランを細かく書く事で、スタッフが仕事をしやすいように気を回す方だったとの事である。   【交友関係】 #center(){黒澤監督と} 先述したように黒澤監督とは生涯の友であった。 また、当時の映画会社では監督と俳優がある程度固定化されており、特に付き合いが深いのは○○組と呼ばれた。 本多組と呼ばれた俳優達とはよく本多監督の家で酒宴を開き、毎年新年会をする等、非常に仲がよく、&font(#ff0000){猪さん}と呼ばれていた。 主に本多組と呼ばれるのは佐原健二氏、平田昭彦氏、田島義文氏あたりである。 特に佐原氏はよく可愛がられ、佐原氏も応えるべく頑張ったそうである。 また、黒澤監督に叱られそうになった時も、友人の本多監督門下だからと多目に見てもらったというエピソードもある。 また、土屋義男氏は黒澤門下の俳優であったが、本多監督ならと、特撮映画への出演や宇宙人役を演じさせてもらったという話もある。 【余談】 DVD「メカゴジラの逆襲」には本多監督の夫人へのインタビューが収録されている。 夫人へのインタビューは少なく、監督の人柄がうかがえるエピソードも聞けるので興味がある人はレンタル屋に行こう。 オーコメはカメラマンの富岡素敬氏が担当しており、こちらも本多監督や円谷監督の話しを聞ける。 作品には真摯に接する人であり、「[[妖星ゴラス]]」の時は大学に話しを聞きに行ったり、上層部がマグマを出すと言った時は蛇足だと反対したが、決まってからは特撮班とより良いマグマの演出について相談していたらしい。 1980年代は商業誌のインタビューだけでなく、ファンの同人活動へのインタビューも受けており、亡くなった今となっては無理な話な為、うらやましい。 現在本多監督の公式サイトが存在する。親族や佐原氏が中核になり、高島忠夫氏や小泉博氏、水野久美さんといったゆかりの方からのメッセージも載せられている。 気になる人は本多猪四郎でググってみよう。 DCドラマ「レジェンド・オブ・トゥモロー」のシーズン4-第5話「怪獣タグモ」で歴史上の偉人のメインゲストで登場。海外ドラマとしては珍しく、ゴジラ制作に隠された本多監督の壮絶な想いが描写されているのでぜひ鑑賞オススメ。 本多監督を知ってる方は追記・修正をよろしくお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,2) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - サンダ対ガイラのL作戦は本多監督が付け足して書いたんだっけ あれは盛り上がったなあ -- 名無しさん (2013-10-12 23:31:37) - 『パシフィック・リム』のスタッフロール最後で、特撮の神様としてハリーハウゼンと一緒に名前を上げられてた所で泣きそうになった。海外にまで仕事ぶりが広く知られてるのは凄い・・・ -- 名無しさん (2013-10-12 23:37:05) - ↑デル・トロ監督だからこそ、なのかな。 -- 名無しさん (2013-10-13 09:09:27) - ↑黒澤監督が「8月の狂詩曲」を撮影してた時に、ルーカスとかスピルバーグみたいな海外の有名監督が見学しにきたらしいんだけど、黒澤監督の前にまず本多監督に会いたいって言ってたらしい。あとティム・バートンもリスペクトしてるって言ってた。 -- 名無しさん (2014-01-11 22:25:51) - 我が県の誇りです!! -- 名無しさん (2014-01-11 22:40:28) - ギャレゴジの芹沢博士も芹沢猪四郎だしな -- 名無しさん (2015-05-21 01:47:58) - ↑なお、演じていたケン・ワタナベは台本を貰った当初「イシロウ?一郎の間違いなんじゃないの?」と思ったとのこと(その後、佐野史郎に滅茶苦茶怒られた)。 -- 名無しさん (2020-05-26 13:03:08) - 冒頭の黒沢監督の弔辞が何とも朴訥で、ストレートで、黒沢監督の想いが伝わってくる。 -- 名無しさん (2023-09-11 12:11:13) #comment #areaedit(end) }

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: