廖化

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&font(#6495ED){登録日}:2010/02/07(日) 20:56:25 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 5 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &font(b,#954e2a){&ruby(りょうか){廖化}}とは、三国時代における蜀漢の武将である。 若いころは&font(#954e2a){廖淳}と名乗っていたが&font(b,#954e2a){廖化}のほうが知名度が高いのでこちらで統一する。 字は元倹。 特に目立った功績をあげたわけではないが、[[劉備]]の荊州獲得から蜀漢の滅亡まで戦い抜いた。 **【正史における経歴】 正史での初登場は、&bold(){[[劉備]]}が荊州を制圧したとき、&bold(){[[関羽]]}の幕僚(主簿)として。 &bold(){[[孫権]]}と&bold(){[[呂蒙]]}が、いままさに魏と戦っていた関羽を背後から討ったことで荊州方面軍が壊滅すると、後方にいた廖化も捕らえられてしまう。 しかし、劉備のもとに戻りたいという思いを持っていた彼は、&font(b,#954e2a){「[[廖化は死んだ>死亡説]]」とデマを流し}、呂蒙の死の混乱と劉備の侵攻もあり、蜀軍に帰参することに成功。 夷陵の戦いにそのまま参戦するが、敗退している。 劉備が死ぬと&bold(){[[諸葛亮]]}の参軍となり、&font(b,#954e2a){北伐にも参戦}。 北伐軍が武都・陰平郡を平定すると、廖化は広武太守と陰平太守を兼任して、&font(b,#954e2a){守護を任されている}。 諸葛亮亡きあとはいよいよ将軍として目立つようになる。 238年9月、魏の守善羌侯である宕蕈(とうしん)の陣営を攻撃。 雍州刺史だった&bold(){郭淮}は王贇(おういん)・游奕(ゆうえき)に軍勢をあずけ、山の東西から廖化を挟み撃ちさせたが、 廖化はまず&font(b,#954e2a){游奕の軍団を打ち破り}、さらに&font(b,#954e2a){王贇を討ち取る}戦果を挙げる。地味だがやる時はやる男である。 248年、魏に反乱を起こした羌族の治無戴を出迎えた。 のちに成重山に留まって城を築き、羌族たちから人質を取り立てる。 郭淮が諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯覇には沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃したときは、夏侯覇の追撃を振り切った姜維に助けられた。 翌249年秋、姜維はまたも北方へ進出したが郭淮に阻まれてしまう。 そこで廖化は、郭淮の隙を突いて三日後に軍を返して白水の南岸に布陣し、&bold(){[[鄧艾>トウ艾(三国志)]]}と対峙した。 廖化が鄧艾を釘付けにし、姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾たちにはすでに見抜かれており、姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾が引き返して立てこもっていた。 その後も昇進し&font(b,#954e2a){右車騎将軍}・&font(b,#954e2a){仮節}・&font(b,#954e2a){領并州刺史}となり、&font(b,#954e2a){中郷侯}に封ぜられた。 果断激烈をもって讃えられ、官位は&bold(){張翼}と同等・&bold(){宗預}の上で、廖化が張翼とともに大将となったとき、人々は&font(b,#954e2a){「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」}と語り合った。 姜維に代わり&bold(){諸葛瞻}(諸葛亮の息子)が政治を取り仕切るようになると挨拶に行こうと宗預を誘ったが 「七十も過ぎたわしらが、若い連中に媚を売ろうというのか! みっともない真似はやめて、せいぜい長生きを望むんじゃな!」と断られた。 262年、姜維が懲りずに北伐をしようとすると、左伝からの引用で『戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる』と前置きしてから、 &font(b,#954e2a){「姜維は知恵でも力量でも、丞相はおろか敵よりも劣る。なのに戦って勝てる訳が無かろうに」}と述べ、張翼らと姜維を批判している。 とはいえ、ならば&bold(){ご意見番になれるほど長生きし、軍を代表するほど昇進していたあなたは、何をしていたのか}という話にもなろうが。 蜀漢では姜維に対する風当たりが不当なほどに強い。 上述の諸葛瞻たちも、内政を担うべき立場にありながら国政を混乱させて国力を衰退させ、しかも姜維の北伐を国力の消耗と批判していた。 これは廖化だけに限らない問題であったが、&font(b,#954e2a){当時の蜀軍では有数の地位にあった廖化}も、少なくとも蜀軍の不振を&bold(){無責任に批判できる立場にはない}。 そしてこうした君臣や臣下間の不協和音や責任転嫁、職務怠慢や綱紀の緩みが、蜀漢そのものの衰退を招くことになる。 263年、魏軍が侵攻して来ると姜維、張翼らと&font(b,#954e2a){剣閣を守備し鍾会を足止めする}が、鄧艾が成都を落としたことでついに&font(b,#954e2a){投降}。 姜維・張翼が鍾会をそそのかして起こした混乱も生き延び、翌年、洛陽への護送の途中に、長い戦いの人生の幕を下ろした。 享年は不明だが、上述の宗預に罵倒された場面で七十歳以上とされているので、それ以上であることは確実。 この時代の常識からすると言うまでもなくかなりの高齢である。 異様なまでに長生きだった+&font(b,#954e2a){最晩年まで武将をやっていた}ために、彼が死んだと伝わっても&bold(){「どうせ偽装じゃないのか」「そもそも死ぬのかアイツ」}などと簡単に信じてもらえなかったとか、 あげく&bold(){「廖化は二人いて、264年に死んだ廖化は二代目だったんだよ!!」}「な、なんだってー」なんて言う説も存在する。 **【三国演義での活躍】 演義ではなぜか登場が大幅に前倒しされており、関羽が曹操のもとから離れて劉備を求め千里行をしていた時が初登場。 しかもこの時、廖化は&font(b,#e5a323){黄巾賊の残党}という、&font(b,#954e2a){後々からするととんでもないことになる設定}をぶら下げてくる。 この時は、仲間の一人が&bold(){[[関羽]]}が護衛していた劉備の妻を強姦しようとしたために彼を斬り、関羽に仕えたいと申し出た。 しかし関羽からは&font(b,#009900){「賊出身の人はちょっと……」}と断られてしまう。(同じく黄巾残党の&bold(){[[周倉]]}は召し抱えたのだが) その後しばらく行方不明扱いとなっているが、劉備の荊州獲得時になにげなく関羽の幕僚として再登場する。 関羽が呂蒙に攻められた際には&bold(){孟達}・&bold(){[[劉封]]}に&font(b,#954e2a){援軍を求めに走る}が&font(b,#ff0000){拒否されてしまい}、やむなく成都に駆けることになるが、間に合わず関羽は処刑されてしまう。 廖化にとっては上司や仲間を見殺しにされたわけで、劉封が魏に寝返った孟達を逃がしたばかりか返り討ちに遭って逃げ込んでくると、劉封を殺すように劉備に進言している。 もっとも、廖化の弾劾がなくても劉封の処刑は免れなかっただろうが…… その後、北伐期に再登場。脇役としてときおり名が挙がる。 諸葛亮が&bold(){[[司馬懿]]}を追い詰めたときには、逃げ続ける司馬懿を&font(b,#954e2a){延々と追い続け、あと一歩で討ち取れる勢いだった}。 しかし、司馬懿は道が分かれていたところで、自分の選んだ道と別の道に己の兜を置いて逃げた。 廖化は&font(b,#954e2a){兜の方の道}を追いかけて、取り逃がしてしまう。 それでも廖化はじめ諸将は大手柄だと&font(b,#954e2a){笑いあい}、諸葛亮も表向きは迎合するが、 あとで諸葛亮は&font(b,#458d8e){「関羽どのなら司馬懿を捕まえられたはずなのに、廖化は取り逃がすし、逃がしたのに喜ぶようでは我々は……」}と密かに落胆するというエピソードがある。 このエピソードのせいで&bold(){「蜀には大将がいない、廖化が大将をやっている」}などという人材不足の諺に使われてしまうハメに。 三国演義はどの版でも、基本的に諸葛亮死後はかなり記述が薄くなる。 そのため、廖化の決して少なくない出番や活躍も記載されないか目立たない名有り武将のような扱いとなる。せいぜい&font(b,#954e2a){『姜維の副官』}というぐらいか。 しかし、死んだときは正史と同じく264年の洛陽行きの途中となっており、&font(b,#954e2a){184年の黄巾の乱に参加していた}という設定からすると、&font(b,#954e2a){八十年以上}を活躍したことになる。 まともに考えると&font(b,#954e2a){九十代後半か百歳オーバー}。 仮に「黄巾残党」というのを「黄巾の乱当時の党員の、息子」という意味として、関羽に出会った200年当時15歳だったと仮定しても、&font(b,#954e2a){没年が79歳になる}。 しかし正史でも七十歳は軽く超えていたらしいので、あながちあり得なくもないというのが怖いところ。 **【各作品での廖化】 ●横山三国志 出てるけど活躍しない。 司馬懿を取り逃がす話はばっちり描かれているので凡将という印象が強いだろう。 ●[[蒼天航路]] 初出は関羽の額の矢傷を縫う役として登場。 その後、反応がなくなった江陵、公安に兵站の確認に向かうがすでに呂蒙の手に落ちており、[[孫皎]]に蹴られて捕らえられる。 その時の蹴られようや孫皎の発言から、こっちの廖化は死んだような気もする。 ここで死んだのが初代で、この後活躍するのは二代目廖化、ということなのか。 ●無双シリーズ モブ、むしろモブじゃないと違和感が。 ●コーエー三国志シリーズ 昔の作品から登場しているが、能力としては悪くはないが良くもないというレベルの二流武官。 しかし黄巾の残党という演義での設定が採用されているため寿命が凄まじく長く、、 黄巾の乱(184年)からIFシナリオの西蜀動乱(264年)までの全シナリオに登場する唯一の武将となっている。 その呂岱に並ぶ長寿から、育成可能の作品では育成対象として検討されることもあるが、 そうでなくても蜀滅亡の頃になると、多くの武将が世を去って能力値の平均が引き下げられるため、 姜維、羅憲あたりに次ぐ主力武将の一人になっていたりする。 ●三国志大戦 &bold(){凡将呼ばわりされる元凶。} 3/4騎馬無特技の安定スペックに、便利な汎用計略の奮激戦法を持つ。 防戦の時に真価を発揮する姿はまさに凡将であり、人気であった。 が、3に移行する際に絵師が変わり調子に乗ったか、攻城時に&font(b,#954e2a){「もう凡将と呼ばせん」}、落城時に&font(b,#954e2a){「凡将卒業よ!」}とかほざき始めた為に、 使われてはいるが、嫌われ始め、某ランカー等旧カードを使う者も多い。 新生・三国志大戦では武力が2に下げられてしまい、計略もこれまた強化戦法にされてしまった。 キャラ付けとしては「指示に忠実な指揮官」と言うべきだが、&font(b,#954e2a){凡将}台詞はきっちりあったりする(主にさんぽけで聞ける)。 愛されポジも含め、旧作での立ち位置は地味なことで定評のある馬岱に奪われている。 後に防柵と攻城と初の特技を2つも貰って計略も旧作と同じ奮激戦法に戻ったが、武力までは戻らず地味>凡将という構図を覆せずにいる。 とか言ってたら第6.1弾にて3/5/1の騎馬として再登場。 特技はなしだが計略がなんと「凡将の指揮」。 効果は味方の武力を上げるが、その対象が&bold(){レアリティC(コモン)だと更に上がる}というもの。 Cであれば1コストなのに英傑号令レベルの効果が得られるというなかなか強い計略を持って登場した凡将の未来や如何に。 まあ、蜀にはデッキの主力となる2コスト以上のコモンがいないという絶妙な仕様の穴を突かれているのだが。 「俺のような凡将は、ただただ追記・修正するのみよ!」 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,7) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 横山三國志は後半は結構出でたけどな。 -- 名無しさん (2014-02-08 20:45:39) - ネタだから何書いても許されるにだよ -- 名無しさん (2014-02-18 00:12:08) - 最前線で常に戦っていてしかも戦死してないあたりとても凡将とは言えないんだがなぁ -- 名無しさん (2014-03-14 11:54:22) - ネタだからどんなにボロクソに書いても許される。万一ファンがいたとしても知ったことか。 -- 名無しさん (2014-03-14 14:03:29) - ↑×2 孫策、呂布、関羽など勇猛な武将ほど早死にする。後はわかるな? -- 名無しさん (2014-03-22 00:08:53) - この人は有能ではないが無能でもないって人だから凡将で間違いない -- 名無しさん (2014-03-22 00:26:59) - ストレスが溜まったら凡将と罵って優越感に浸る作成者 -- 名無しさん (2014-03-23 02:38:27) - 無事これ名馬。 -- 名無しさん (2014-03-23 09:06:20) - 君主からすればこういう武将の方がかえって使いやすいと思うが…蜀は問題児多いし 実際、族上がりにしては癖がないんだよなこの人。 -- 名無しさん (2014-12-07 15:31:02) - 「蜀中に大将なく、廖化を先鋒とす」って諺についてはスルーかよ -- 名無しさん (2014-12-20 20:21:33) - ただただパシリとしてこき使われた感じの武将、要するに罵る、または賞賛するだけの材料が何一つない武将、生き残ってるだけマシか -- 名無しさん (2015-03-16 11:58:49) - マイナスにならないだけでも十分すぎる、物事を悪い方向にしか運べない様な奴が上司になったら最悪だ。 -- 名無しさん (2015-06-03 23:00:27) - 確かに突出した功績はないけど最低限の仕事はしてるよね -- 名無しさん (2015-06-03 23:06:20) - ネタにマジレスかもしれないが、238年の侵攻を「上手く命令が行き届いて居ない敵を撃破することに成功する。」って書いてるのはどうかなあ。魏の名将である郭淮が両面包囲をしようとしてきたのを、即座に判断して各個撃破して2軍とも撃破して一将を戦死させる、という完全勝利なのに。こんだけ大勝利した後期の蜀将って他は姜維くらいだぜ。 -- 名無しさん (2016-01-27 20:56:27) - ゲームだとこの人みたいな1.5流の人材をいかに活用するかが上級者と中級者の分かれ目って感じになるんだろうけどね。一流人材のみの布陣をゲーム開始時から終了までの全ての戦闘で組めるって訳じゃないんだし。 -- 名無しさん (2016-05-12 15:01:29) - 長寿だから育成可能の三国志11とかで重宝するんだよな、あと凡将連呼はネタにしては酷すぎないか -- 名無しさん (2016-05-13 20:54:11) - 項目名変えた方がよくね? 初見で廖化の項目だと分らないだろうし -- 名無しさん (2016-05-30 21:09:45) - 反対意見がなかったので項目名を変更しました -- 名無しさん (2016-06-07 20:59:02) - 司馬懿が兜を囮にしたというのは孫堅と祖茂の話が元なのだろうか -- 名無しさん (2017-06-19 14:47:18) - 正直無双6以降は三国志演義本編全体をストーリーにいれこむ方針になってるからいい加減プライヤー武将に昇格してほしいなぁ -- 名無しさん (2017-06-24 22:21:45) - イライラすることがあったので追記修正してみたり。 -- 名無しさん (2018-05-01 22:30:02) - 無双参戦してくれ〜 -- 名無しさん (2018-07-19 08:34:28) - なんか廖化の姜維に対する発言が責任転嫁とか書かれてますが、これは原文的に言うのなら「智略は敵の上でなく、力(勢力とか軍勢数)は敵と比して少ない。」的な意味で、「智略が同じくらいで、勢力や軍勢数が敵の方が多いなら、攻めても勝てないだろうからやめた方がいい。」というニュアンスで、別に廖化の言ってる事は職務怠慢とか責任転嫁という話ではないのでは。 -- 名無しさん (2019-05-11 14:53:36) - 例の発言の時期は262年(蜀漢滅亡の前年)。廖化の主張そのものはドンピシャリ正しかったと言える(魏は姜維の裏に回る形で攻め込んでいる)。朝廷に問題があったのは間違いないだろうが、それが廖化の責任かというと… -- 名無しさん (2019-05-11 15:30:45) - 刺史クラスを蜀の国力で打ち取ってるのに凡将呼ばわりはちょっと -- 名無しさん (2019-05-11 21:47:57) - 天才は何故か早死にし。凡人は無用に長生きする -- 名無しさん (2019-10-15 05:12:48) - ↑無用? 謀反もせずに最期まで国に尽くした人のどこが無用?? -- 名無しさん (2020-05-28 15:07:31) - 姜維の北伐が蜀を消耗させて寿命を縮めたのは事実だし、特に最後の方とかヤケクソ気味だから廖化が諫めるのも当然のことだと思うけどな -- 名無しさん (2020-05-28 15:34:21) - 姜維の時代には攻めれば圧倒的国力差で押し返されるし守ってればどんどん国力差が開くしでどうしようもない時期になってたからなあ。「もうどう考えても無理無駄無茶だけど、最後まで敢闘精神を見せました」っていうほうがカッコいいし後世の評価は良くなりはする。そう考えると後世の蜀漢正統論とか孔明・姜維ageのせいで評価が下がってると言えなくもない -- 名無しさん (2020-05-28 15:43:50) - 守って国力を温存していけば、蜀の地形もあって国を保っていく事は可能なのでは。 -- 名無しさん (2020-07-05 02:26:10) - 国力・軍事力で大差がある場合、防御に徹して戦力を温存しつつ機会を待つのが定石……というか本来なら唯一の手段ではある。が、「そうしていれば国を保てたか」と言われると、それはもう論証不可能としか言いようがない。まあ史実とは全く違った展開になるのは確実だが。 -- 名無しさん (2020-07-05 20:44:27) #comment #areaedit(end) }
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これは廖化だけに限らない問題であったが、&font(b,#954e2a){当時の蜀軍では有数の地位にあった廖化}も、少なくとも蜀軍の不振を&bold(){無責任に批判できる立場にはない}。 そしてこうした君臣や臣下間の不協和音や責任転嫁、職務怠慢や綱紀の緩みが、蜀漢そのものの衰退を招くことになる。 263年、魏軍が侵攻して来ると姜維、張翼らと&font(b,#954e2a){剣閣を守備し鍾会を足止めする}が、鄧艾が成都を落としたことでついに&font(b,#954e2a){投降}。 姜維・張翼が鍾会をそそのかして起こした混乱も生き延び、翌年、洛陽への護送の途中に、長い戦いの人生の幕を下ろした。 享年は不明だが、上述の宗預に罵倒された場面で七十歳以上とされているので、それ以上であることは確実。 この時代の常識からすると言うまでもなくかなりの高齢である。 異様なまでに長生きだった+&font(b,#954e2a){最晩年まで武将をやっていた}ために、彼が死んだと伝わっても&bold(){「どうせ偽装じゃないのか」「そもそも死ぬのかアイツ」}などと簡単に信じてもらえなかったとか、 あげく&bold(){「廖化は二人いて、264年に死んだ廖化は二代目だったんだよ!!」}「な、なんだってー」なんて言う説も存在する。 **【三国演義での活躍】 演義ではなぜか登場が大幅に前倒しされており、関羽が曹操のもとから離れて劉備を求め千里行をしていた時が初登場。 しかもこの時、廖化は&font(b,#e5a323){黄巾賊の残党}という、&font(b,#954e2a){後々からするととんでもないことになる設定}をぶら下げてくる。 この時は、仲間の一人が&bold(){[[関羽]]}が護衛していた劉備の妻を強姦しようとしたために彼を斬り、関羽に仕えたいと申し出た。 しかし関羽からは&font(b,#009900){「賊出身の人はちょっと……」}と断られてしまう。(同じく黄巾残党の&bold(){[[周倉]]}は召し抱えたのだが) その後しばらく行方不明扱いとなっているが、劉備の荊州獲得時になにげなく関羽の幕僚として再登場する。 関羽が呂蒙に攻められた際には&bold(){孟達}・&bold(){[[劉封]]}に&font(b,#954e2a){援軍を求めに走る}が&font(b,#ff0000){拒否されてしまい}、やむなく成都に駆けることになるが、間に合わず関羽は処刑されてしまう。 廖化にとっては上司や仲間を見殺しにされたわけで、劉封が魏に寝返った孟達を逃がしたばかりか返り討ちに遭って逃げ込んでくると、劉封を殺すように劉備に進言している。 もっとも、廖化の弾劾がなくても劉封の処刑は免れなかっただろうが…… その後、北伐期に再登場。脇役としてときおり名が挙がる。 諸葛亮が&bold(){[[司馬懿]]}を追い詰めたときには、逃げ続ける司馬懿を&font(b,#954e2a){延々と追い続け、あと一歩で討ち取れる勢いだった}。 しかし、司馬懿は道が分かれていたところで、自分の選んだ道と別の道に己の兜を置いて逃げた。 廖化は&font(b,#954e2a){兜の方の道}を追いかけて、取り逃がしてしまう。 それでも廖化はじめ諸将は大手柄だと&font(b,#954e2a){笑いあい}、諸葛亮も表向きは迎合するが、 あとで諸葛亮は&font(b,#458d8e){「関羽どのなら司馬懿を捕まえられたはずなのに、廖化は取り逃がすし、逃がしたのに喜ぶようでは我々は……」}と密かに落胆するというエピソードがある。 このエピソードのせいで&bold(){「蜀には大将がいない、廖化が大将をやっている」}などという人材不足の諺に使われてしまうハメに。 三国演義はどの版でも、基本的に諸葛亮死後はかなり記述が薄くなる。 そのため、廖化の決して少なくない出番や活躍も記載されないか目立たない名有り武将のような扱いとなる。せいぜい&font(b,#954e2a){『姜維の副官』}というぐらいか。 しかし、死んだときは正史と同じく264年の洛陽行きの途中となっており、&font(b,#954e2a){184年の黄巾の乱に参加していた}という設定からすると、&font(b,#954e2a){八十年以上}を活躍したことになる。 まともに考えると&font(b,#954e2a){九十代後半か百歳オーバー}。 仮に「黄巾残党」というのを「黄巾の乱当時の党員の、息子」という意味として、関羽に出会った200年当時15歳だったと仮定しても、&font(b,#954e2a){没年が79歳になる}。 しかし正史でも七十歳は軽く超えていたらしいので、あながちあり得なくもないというのが怖いところ。 **【各作品での廖化】 ●横山三国志 出てるけど活躍しない。 司馬懿を取り逃がす話はばっちり描かれているので凡将という印象が強いだろう。 ●[[蒼天航路]] 初出は関羽の額の矢傷を縫う役として登場。 その後、反応がなくなった江陵、公安に兵站の確認に向かうがすでに呂蒙の手に落ちており、[[孫皎]]に蹴られて捕らえられる。 その時の蹴られようや孫皎の発言から、こっちの廖化は死んだような気もする。 ここで死んだのが初代で、この後活躍するのは二代目廖化、ということなのか。 ●無双シリーズ モブ、むしろモブじゃないと違和感が。 ●コーエー三国志シリーズ 昔の作品から登場しているが、能力としては悪くはないが良くもないというレベルの二流武官。 しかし黄巾の残党という演義での設定が採用されているため寿命が凄まじく長く、、 黄巾の乱(184年)からIFシナリオの西蜀動乱(264年)までの全シナリオに登場する唯一の武将となっている。 その呂岱に並ぶ長寿から、育成可能の作品では育成対象として検討されることもあるが、 そうでなくても蜀滅亡の頃になると、多くの武将が世を去って能力値の平均が引き下げられるため、 姜維、羅憲あたりに次ぐ主力武将の一人になっていたりする。 ●三国志大戦 &bold(){凡将呼ばわりされる元凶。} 3/4騎馬無特技の安定スペックに、便利な汎用計略の奮激戦法を持つ。 防戦の時に真価を発揮する姿はまさに凡将であり、人気であった。 が、3に移行する際に絵師が変わり調子に乗ったか、攻城時に&font(b,#954e2a){「もう凡将と呼ばせん」}、落城時に&font(b,#954e2a){「凡将卒業よ!」}とかほざき始めた為に、 使われてはいるが、嫌われ始め、某ランカー等旧カードを使う者も多い。 新生・三国志大戦では武力が2に下げられてしまい、計略もこれまた強化戦法にされてしまった。 キャラ付けとしては「指示に忠実な指揮官」と言うべきだが、&font(b,#954e2a){凡将}台詞はきっちりあったりする(主にさんぽけで聞ける)。 愛されポジも含め、旧作での立ち位置は地味なことで定評のある馬岱に奪われている。 後に防柵と攻城と初の特技を2つも貰って計略も旧作と同じ奮激戦法に戻ったが、武力までは戻らず地味>凡将という構図を覆せずにいる。 とか言ってたら第6.1弾にて3/5/1の騎馬として再登場。 特技はなしだが計略がなんと「凡将の指揮」。 効果は味方の武力を上げるが、その対象が&bold(){レアリティC(コモン)だと更に上がる}というもの。 Cであれば1コストなのに英傑号令レベルの効果が得られるというなかなか強い計略を持って登場した凡将の未来や如何に。 まあ、蜀にはデッキの主力となる2コスト以上のコモンがいないという絶妙な仕様の穴を突かれているのだが。 「俺のような凡将は、ただただ追記・修正するのみよ!」 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,7) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 横山三國志は後半は結構出でたけどな。 -- 名無しさん (2014-02-08 20:45:39) - ネタだから何書いても許されるにだよ -- 名無しさん (2014-02-18 00:12:08) - 最前線で常に戦っていてしかも戦死してないあたりとても凡将とは言えないんだがなぁ -- 名無しさん (2014-03-14 11:54:22) - ネタだからどんなにボロクソに書いても許される。万一ファンがいたとしても知ったことか。 -- 名無しさん (2014-03-14 14:03:29) - ↑×2 孫策、呂布、関羽など勇猛な武将ほど早死にする。後はわかるな? -- 名無しさん (2014-03-22 00:08:53) - この人は有能ではないが無能でもないって人だから凡将で間違いない -- 名無しさん (2014-03-22 00:26:59) - ストレスが溜まったら凡将と罵って優越感に浸る作成者 -- 名無しさん (2014-03-23 02:38:27) - 無事これ名馬。 -- 名無しさん (2014-03-23 09:06:20) - 君主からすればこういう武将の方がかえって使いやすいと思うが…蜀は問題児多いし 実際、族上がりにしては癖がないんだよなこの人。 -- 名無しさん (2014-12-07 15:31:02) - 「蜀中に大将なく、廖化を先鋒とす」って諺についてはスルーかよ -- 名無しさん (2014-12-20 20:21:33) - ただただパシリとしてこき使われた感じの武将、要するに罵る、または賞賛するだけの材料が何一つない武将、生き残ってるだけマシか -- 名無しさん (2015-03-16 11:58:49) - マイナスにならないだけでも十分すぎる、物事を悪い方向にしか運べない様な奴が上司になったら最悪だ。 -- 名無しさん (2015-06-03 23:00:27) - 確かに突出した功績はないけど最低限の仕事はしてるよね -- 名無しさん (2015-06-03 23:06:20) - ネタにマジレスかもしれないが、238年の侵攻を「上手く命令が行き届いて居ない敵を撃破することに成功する。」って書いてるのはどうかなあ。魏の名将である郭淮が両面包囲をしようとしてきたのを、即座に判断して各個撃破して2軍とも撃破して一将を戦死させる、という完全勝利なのに。こんだけ大勝利した後期の蜀将って他は姜維くらいだぜ。 -- 名無しさん (2016-01-27 20:56:27) - ゲームだとこの人みたいな1.5流の人材をいかに活用するかが上級者と中級者の分かれ目って感じになるんだろうけどね。一流人材のみの布陣をゲーム開始時から終了までの全ての戦闘で組めるって訳じゃないんだし。 -- 名無しさん (2016-05-12 15:01:29) - 長寿だから育成可能の三国志11とかで重宝するんだよな、あと凡将連呼はネタにしては酷すぎないか -- 名無しさん (2016-05-13 20:54:11) - 項目名変えた方がよくね? 初見で廖化の項目だと分らないだろうし -- 名無しさん (2016-05-30 21:09:45) - 反対意見がなかったので項目名を変更しました -- 名無しさん (2016-06-07 20:59:02) - 司馬懿が兜を囮にしたというのは孫堅と祖茂の話が元なのだろうか -- 名無しさん (2017-06-19 14:47:18) - 正直無双6以降は三国志演義本編全体をストーリーにいれこむ方針になってるからいい加減プライヤー武将に昇格してほしいなぁ -- 名無しさん (2017-06-24 22:21:45) - イライラすることがあったので追記修正してみたり。 -- 名無しさん (2018-05-01 22:30:02) - 無双参戦してくれ〜 -- 名無しさん (2018-07-19 08:34:28) - なんか廖化の姜維に対する発言が責任転嫁とか書かれてますが、これは原文的に言うのなら「智略は敵の上でなく、力(勢力とか軍勢数)は敵と比して少ない。」的な意味で、「智略が同じくらいで、勢力や軍勢数が敵の方が多いなら、攻めても勝てないだろうからやめた方がいい。」というニュアンスで、別に廖化の言ってる事は職務怠慢とか責任転嫁という話ではないのでは。 -- 名無しさん (2019-05-11 14:53:36) - 例の発言の時期は262年(蜀漢滅亡の前年)。廖化の主張そのものはドンピシャリ正しかったと言える(魏は姜維の裏に回る形で攻め込んでいる)。朝廷に問題があったのは間違いないだろうが、それが廖化の責任かというと… -- 名無しさん (2019-05-11 15:30:45) - 刺史クラスを蜀の国力で打ち取ってるのに凡将呼ばわりはちょっと -- 名無しさん (2019-05-11 21:47:57) - 天才は何故か早死にし。凡人は無用に長生きする -- 名無しさん (2019-10-15 05:12:48) - ↑無用? 謀反もせずに最期まで国に尽くした人のどこが無用?? -- 名無しさん (2020-05-28 15:07:31) - 姜維の北伐が蜀を消耗させて寿命を縮めたのは事実だし、特に最後の方とかヤケクソ気味だから廖化が諫めるのも当然のことだと思うけどな -- 名無しさん (2020-05-28 15:34:21) - 姜維の時代には攻めれば圧倒的国力差で押し返されるし守ってればどんどん国力差が開くしでどうしようもない時期になってたからなあ。「もうどう考えても無理無駄無茶だけど、最後まで敢闘精神を見せました」っていうほうがカッコいいし後世の評価は良くなりはする。そう考えると後世の蜀漢正統論とか孔明・姜維ageのせいで評価が下がってると言えなくもない -- 名無しさん (2020-05-28 15:43:50) - 守って国力を温存していけば、蜀の地形もあって国を保っていく事は可能なのでは。 -- 名無しさん (2020-07-05 02:26:10) - 国力・軍事力で大差がある場合、防御に徹して戦力を温存しつつ機会を待つのが定石……というか本来なら唯一の手段ではある。が、「そうしていれば国を保てたか」と言われると、それはもう論証不可能としか言いようがない。まあ史実とは全く違った展開になるのは確実だが。 -- 名無しさん (2020-07-05 20:44:27) - 三國志14の彼はマジイケメンなんだよな…ビジュアルもさながら、山戦持ちかつ関羽と親愛だから、下手な一流武将よりも強く感じる。 -- 名無しさん (2023-03-06 12:49:55) #comment #areaedit(end) }

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