小野公誠

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&font(#6495ED){登録日}:2011/09/22(木) 12:50:23 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 4 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 小野公誠(おの こうせい)は、東京ヤクルトスワローズに所属していた元プロ野球選手。 ポジションは捕手。右投右打。 [[東京都]]東大和市出身。 聖望学園高校から東北福祉大学に進学。 大学4年次には日米大学野球選手権の日本代表に選出された。 1996年にドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。背番号32を与えられる。 初出場は1997年7月20日の対読売ジャイアンツ戦。 9回表の守備につき、9回裏のプロ初打席で初本塁打(2ラン)を放った。 華々しいデビューを飾った小野であったが、すぐに厳しい現実に直面する。 古田敦也の存在である。 古田は入団して以来スワローズ不動の正捕手として君臨。 高い盗塁阻止率を生み出す強肩、「バッターはピッチャーではなく古田と勝負している」とまで言われた卓越したリード、首位打者を獲得したバッティングセンス、そして何よりも圧倒的なスター性で、競争相手を蹴散らした。 正捕手だった秦真司は外野手へ、飯田哲也は二塁手(のち外野手)へと追いやられ、中西親志(現スワローズバッテリーコーチ)や野口寿浩(のち日本ハムファイターズへ移籍)は古田が怪我をした1994年以外はほとんど出場機会がなく、鮫島秀旗に至っては戸田の妖精と化してしまった。 小野が戦う相手は、途方も無く大きかった。 2年目以降、小野は苦しむ。 1998年、1999年は二軍暮らし。 2000年にルーキーイヤー以来の一軍出場を果たすも9試合でヒット一本に終わった。 小野に輝く機会が訪れたのは2001年。 この年、スワローズは読売ジャイアンツと首位を争っていたが、8月28日の対中日ドラゴンズ戦で、古田が左膝後十字靭帯を損傷する全治三週間の重傷を負って戦線を離脱するという緊急事態が発生。 小野は代役として、しかも優勝を掛けた大事な局面で、表舞台へと臨むこととなった。 そして、10月6日、スワローズはリーグ優勝を果たす。 小野にとってはルーキーの1997年以来2度目の経験であったが、戦力としてペナント制覇に貢献したのは初めてのことであった。 この年35試合に出場した小野は、二番手捕手としての地位を確立した。 2005年に古田が肉離れで戦線を離脱すると、代役として65試合に出場。低打率だが7本塁打を放つなど、持ち前の長打力を発揮。自己最高の成績を残した。 しかし、小野の野球人生は暗転する。 2006年、古田が選手兼任監督に就任すると、「ポスト古田」として米野智人や福川将和が起用され、小野は故障もあり二軍暮らしとなる。 2007年には二軍で高打率を保ったことで代打や一塁手としての起用がなされるも結果を残すことは出来なかった。 2008年、監督が高田繁となっても状況は変わらなかった。 10月11日、小野は球団から引退勧告を受ける。 10月12日、小野は現役引退を表明。 2001年の優勝に貢献した真中満・河端龍・度会博文とともに同日の対横浜ベイスターズ戦を選手生活最期の試合とすることとなった。 小野の出番は、8回裏2アウトランナーなし、3-3の場面。 代打で出場した小野は、初球をフルスイングして空振り。 目に涙を浮かべている小野の姿に、この試合のテレビ中継の解説を担当していた若松勉(2001年スワローズ優勝時の監督)は、「ボールが見えるのかな」と心配していた。 続く二球目のストレートを、小野は思い切り叩いた。 打球はレフトへと高々と舞い上がり、スタンドへと届いた。 ダイヤモンドを一周した小野は、出迎えた飯田コーチと抱擁を交わし、チームメイトの祝福を受けた後、球場のファンに向けて深々と頭を下げた。 試合は、小野のホームランが決勝打となり、スワローズが勝利した。 小野は、試合終了後に行われた引退セレモニーで「僕は、12年間というプロ野球生活でしたが、最初にホームランで始まり、最後ホームランで終われたことを宝物に、これからの人生に役立てていきたいと思います」と挨拶し、マウンド上で胴上げされ、グラウンドに別れを告げた。 プロ初打席と最終打席が本塁打という記録は、プロ初打席で本塁打を放ち、その後二度とバッターボックスに立たなかった塩瀬盛道、ドン・シュルジーの例を除いて史上初の快挙である。 小野は、球史に名を刻んだ。 もし小野が長打力を活かすために他のポジションにコンバートされていたら、あるいはもっと華やかな野球人生を送れたのかもしれない(実際、上記した秦や飯田はチームの中心選手として活躍した)。 他球団に移籍すれば、レギュラーを獲れたかもしれない。 しかし、小野はスワローズの二番手捕手として12年間を過ごした。 それは、希代の名捕手古田敦也に次ぐ存在として、チームに必要とされた結果だったのではないだろうか。 引退後、小野はスワローズのスコアラーとして、チームを支えている。 追記・修正よろしくお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,5) } #center(){&link_toppage(-アニヲタWiki-)} #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() #comment #areaedit(end) }
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