PlayStation

登録日:2018/09/27 Thu 23:14:04
更新日:2024/02/20 Tue 14:52:26
所要時間:約 9 分で読めます





\ジョン!/

いくぜ、100万台。


プレイステーション』(PlayStation)とは、1994年12月3日にSCEから発売された家庭用ゲーム機。

名称は仕事に使うコンピューターを“ワークステーション”と呼んでいたことから、「遊びに使うコンピューター」という意味を込めて名付けられた。
1990年代中頃からの、32bit以上のCPUを搭載し、3DCGを使用したゲームが登場した、所謂次世代ゲーム機戦争の勝者として知られている。

最終的な売上は、国内だけの実績でもライバルだったセガサターンNINTENDO64に対して、3倍超の差を付けている。

最終的な出荷台数は全世界で一億を越えており(国内に限れば1,900万台)、これは家庭用ゲーム機としては世界初の記録であった。
当初は失敗すると見られていた家電メーカーのゲーム業界参戦*1は見事に果たされ、後継機PlayStation2の時代まで絶対的な覇権を握ることになり、
ひいては現在までにおける任天堂とマイクロソフトと並ぶ家庭用ゲーム御三家の礎を築いた。

メーカーの推奨する略称は『PS(ピーエス)』だが、ユーザーからは広く『プレステ』と呼ばれている。
ステは捨てに通じるから縁起が悪いとメーカーからは思われ『プレステ』と呼ばないで、との広告まで出されたことがある。
また、名称を引き継いだ後継機が順に出ていることから『初代PS(しょだいピーエス)』や『PS1(ピーエスいち)』と呼ばれることもある。

本体とコントローラーのデザインは、反対の声が大きい中で開発スタッフを支持して独断でプロジェクトを了承させた、当時のSONY社長だった
大賀典雄*2の指示により、当時の基本だった任天堂タイプからの脱却を図る目的があった。
これを受けて任天堂でもグリップ型を採用したり、現在ではゲームと文字入力した時に出るアイコンがグリップ型コントローラーである位に世間に普及した。


【開発までの経緯】

『PlayStation』とは、元々はプロジェクトの中核である久夛良木健が付き合いのあった*3任天堂と共同開発していた、スーパーファミコン用のCD-ROM拡張機の名称だった。
しかし、任天堂側の諸事情や任天堂・ソニー間にて互換機やソフトの供給に関して意見の食い違いが起こったことにより、フィリップスに乗り換える形で
このプロジェクトは中止してしまう(詳しくは外部サイト等を参照)。

これも、ただでさえノウハウの無いSONYがゲーム業界に挑戦することについて、社内からも逆風が吹いている中での挑戦だったために開発スタッフからも
「縁起が悪い」との声があったが、既に商標登録していた事や、大賀の鶴の一声*4から押し通され、結果的にはリベンジを果たすこととなった。
時に問題視されることもある久夛良木氏の挑発的な発言はこの辺の事情があるからかも。


【発売後の戦略】

この第5世代に属するゲーム機より、現在にも通ずる光ディスク(当時はCD-ROM)によるソフトや、3Dポリゴンを利用した三次元的な見せ方やゲーム性等が主流となった。

また、家電メーカーであったSONYの本格的なゲーム業界の参入に伴い、ソニーミュージックで培われた独自の販売ルートを築いて流通の流れを握り、店舗毎に好き勝手にしていた流通価格を一本化しようとしたり、将来的に本体の開発価格が抑えられることを見越して(・・・・)販売を開始し、実際に段階的に本体の値段を下げていき、興味を持った新規の購買層のニーズに合致させる等、上手く時流を読めた戦略も功を奏して、順調に販売台数を伸ばしていったという経緯がある*5
ただし、中古ソフトの流通に関しては流石に反発の声が上がり、SCEが法的に忠告を受ける等して、これのみは以前のままで残っている。

当初は39,800円だった販売価格は、最終的に15,000円になっている。
ソフトも、高騰化して一万円を越えることもあったROMカセット時代に比べ、CD化に伴い5,800円から*6に抑えられた。再生産も容易になっており、最長でも6日で不足分が出荷されたと言われる。
コストカットの為に裏面が黒かったのも特徴*7

所謂ベスト版・廉価版と呼ばれる半額での新品ソフトの販売形態を始めたのもSCEであり、こうした動きは現在までのゲーム業界のスタンダードとなっている。

当初は、僅かに発売が早く、PlayStationが苦手な2D表示が得意だったことを活かしてアーケードからの高レベルな移植を実現してゲーマーに好まれていたSEGA SATURN(SS)に後れを取っていたと言われるが、安価なCD-ROMの特徴を活かし、新作ゲームの体験版やPV等をゲームや雑誌付録、店舗での無料配布させた宣伝や、現在でも話題に上がるユニークな自社制作CM等々で注目を集めていき、96年~99年には1人勝ちを収めることになったとされている。
特に96年はPS躍進の年であり、スクウェアの参入決定やら本体価格の値下げにより年末までに1000万台を売上げることになり、この時点で勝負を決めていた。

この、初代PSの頃の名作&迷作CMは幾つものまとめ動画が作られている位に人気がある。
やっぱり一番有名なのは1,2,3だろうか。
劇団の人間だったのか、役柄にピッタリで非常に演技が達者な出演者達が魅力。
普通に知られている有名人もチラホラ居り、本格的に売れる前の仲間由紀恵なんかも出てたり。

また、PS立ち上げの中心人物にソニーミュージックの丸山茂雄氏がおり、彼は音楽番組に出演しているミュージシャンに300台程のPSを無料配布するという手法を取った*8。こうすることでミュージシャンがPSにハマり、彼らが番組内で「今、PSやってるんだ!」と話すことで格安宣伝へと繋げたりもしていた*9
その他クリエイターをアーティストと呼んで、インタビューを掲載させる等して注目を集めさせたりしたのも丸山氏発案によるもの。


ライバル機に比べて読み込みが長かったり*10、2Dが苦手だったりしたものの、真の意味でファミコンの立ち位置に就いたのがPSだったので、圧倒的に間口が広かったのが勝因と言えるだろう。

それまでは大人になるとゲームは卒業していたものだが、PSは幅広い年齢やゲーマーからライト層までと、幅広い層に受け入れられるゲームを登場させていたことや、90年代後半は正にゲーム機が娯楽の頂点の地位にあったためか、文字通りに子供から大人までがPSを購入したのである。

また、ファミコン(FC)~スーパーファミコン(SFC)までのキラータイトルであったスクウェアの『FFシリーズ』とエニックスの『DQシリーズ』はどちらもPSで発売された。
PS移籍に慎重的で登場が遅れたドラクエはともかく*11、発表が遅れていた任天堂の次世代機NINTENDO64を待たずに、スクウェアのPlayStation参入が決定したことは、ライバルであったセガと任天堂に大きな打撃を与えることになったとされる。

この他、ただ参入を待つのではなく、「全てのゲームは、ここに集まる」を謳い文句に、自ら安価で開発機材を提供して広くサードパーティーも集めた。
SCEが開発プログラムの提供までしたことについては一部で不満の声も上がったが、後には現場から非常に有難いものであると認識されたとのこと。
この典型が後に世界的ゲームディベロッパーとなるフロムソフトウェアで当時の業務用ソフト開発会社から「キングスフィールドシリーズ」の開発とヒットによって見事にゲーム開発会社への転身を遂げた。
当時は出来の悪い実写ゲームなんかが出たりしてCD-ROM機のゲームの評判が悪かったことや、3D表示による新しいゲーム開発に尻込みするメーカーも多かったものの、皮肉にもライバルとなるSEGAが『Virtua Fighter』等のポリゴンゲームを成功させたことで、挑戦の声を挙げるメーカーも増えたのだという。
また、アーケードでSEGAのライバル関係にあり、更には任天堂との仲も悪くなっていたnamcoはPSと独占契約を結び、ローンチタイトルともなった『RIDGE RACER』や、色物転じて王道となった『鉄拳』をリリース。どちらもFF7と並びPS初期の牽引役となった。

世界的なヒットを記録したカプコンの『バイオハザード』シリーズが最初に発売されたのもPSで、こうした映画的な演出を含むゲームが多く登場していくようにもなった。

全世界で最高の売上を記録したのは自社系列タイトルの一つ『グランツーリスモ』で、当時の各車メーカーの社員が出演したCMも大いに話題を集めた。

またこの頃はマスコット的なキャラクターとして、パラッパ(『パラッパラッパー』)やクラッシュ・バンディクー、ピポサル(『サルゲッチュ』)、トロ(『どこでもいっしょ』)等複数の自社系列キャラを抱えており、彼らは積極的にCMにも登場していた。

ちなみに発売から2年程は、在庫が余ることを危惧してかサードパーティーに対しても初期出荷数をソニーが管理することを迫っていたが、当時の業界の顔の1人である飯野賢治と『Dの食卓』のPS版の初期出荷本数について揉め*12、飯野が発表予定の新作である『エネミー・ゼロ』をPSからSSに変えて発売することを当時のセガ社長だった入交昭一郎まで出す演出まで混ぜてわざわざ1996年の3月の「プレイステーションエキスポ」で行うと言う「エネミー・ゼロ事件(E0事件)」を経て、同年夏にメーカー側の裁量に任せる事で廃止されている。
この販売裁量自由化をキッカケに、スクウェア傘下のデジキューブのような新形態の販売方式が成立していった。


【主な仕様と形式番号】

PSの特徴としては、当時の常識だった2D描画が苦手で、3D描画が得意なことが挙げられる。
当時は表現が難しく高価だった3Dポリゴンを独自の構造で簡単に表現することが出来た為に、いまだアーケード等で現役であった2Dメイン作品の移植には向いていないかわりに、ポリゴンゲーの移植のみならず数々の魅力的なオリジナルゲームが多く発売された。

セーブデータが本体やゲームソフト由来で無くなり、フラッシュメモリー使用によるメモリーカードでの管理となった。
小型の差し込みメモリ形式となった事で持ち運びや小売りや末端ユーザー側のストックもし易くなった。
このメモリーカードは非常に堅牢な構造になっており、メーカーの公式発表によると余程無茶な使い方をしない限りは「200万回以上ものデータの書き換え、50年以上ものデータの保存に耐えられる」との事。
これによりデータが誤って消えることはほぼ無くなった一方、当時は容量が少なく何枚も何枚も購入することになったのはいい思い出。ゲームによっては1回のセーブ領域生成時に限界の15ブロック全てを使う様なゲームも。そして記録媒体であるメモリーカードを大量生産する事でも利益を出す様になっている

後に任天堂の後追いのコントローラー振動機能「デュアルショック」、アナログスティック追加型コントローラーも登場している。ただし、此方は電池の類が必要無いためコストに優れる等、同世代の中でもより高性能と言える。

前述の様に将来的な技術の向上と安価な代替部品の登場を見越して本体が作られており、この久夛良木の目算通りに、PSは型番が進む毎に本体性能の最適化と余計なパーツの簡略化が進められ、販売価格も抑えられていった。*13

最後期の小型PSであるPlayStation One(SCPH-100)は、最後の型番となったSCPH-9000と中身は一緒であり、最初期のSCPH-1000から半分程度の大きさにまで基板が小型化している。

この他、SCPH-5000では磨耗による劣化が問題視されていたCD読み取り部分が改善され、SCPH-7000では同じく読み取り部分の改善の他、画像処理プロセッサを変更したことによりポリゴン描画性能が向上しているが、以前の型番との違いがあっては不味いためか、公称では変化していないとされている。
当時のゲーム雑誌の読者投稿ハガキなどで多く見られた「PSを縦に置くと上手く読み込んでくれる」とか「うちのは裏返さないと読み込まない」等の話は語り草である。

その他、型番事にセット内容や、出力端子の仕様等が違っており、幾らで何のセットの時に買ったのか?は、ユーザーの話題の一つでもあった。




……2018年12月3日、誕生から24年を経て縮小復刻版『プレイステーション クラシック』の発売が決定している。
けど蓋を開けてみたらエミュレーターがオープンソースを流用、そのせいか機能面で他社の復刻機への見劣りやなにより操作遅延がががががという評判。
PSアーカイブスは内製エミュを使っていると噂され、こちらの不満は少ないのだがこの差は……


1 2 3!



追記修正お願いしますねPlayStationでした。


カッカッカッカッカッ
/プレイステーション\

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • PlayStation
  • プレイステーション
  • PS
  • プレステ
  • PS1
  • 初代PS
  • 第5世代
  • 32bit
  • SCE
  • SONY
  • ソニー
  • 123
  • 神ハード
  • 据置機
  • ゲーム機
  • 本体
  • トラウマ起動画面
  • 名機
  • らららプレイステーション♪
  • 何故かなかなか立たなかった項目
  • ゲーム
  • 日本のメディア芸術100選
  • 1990年代

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年02月20日 14:52

*1 実際、同じ時期に3DOで業界に参入した家電メーカーの松下電器(現・パナソニック)は見事に失敗している。

*2 声楽家(バリトン歌手)や指揮者として世界的に有名ながら、ソニー社員として勤め34歳で取締役になり、1982年から長らく第一線で社長を務めた事でも知られる。現在では当たり前のコンパクトディスク(CD)やミニディスク(MD)などの開発に深く関わった人物で、今なお使われるお馴染み「SONY」のロゴもこの人が手掛けた。

*3 と言うのもファミコンの「ディスクシステム」のフロッピーが気に食わなかった為、スーパーファミコン向けのPCM音源を売り込んだら採用された為。

*4 大賀は異端扱いされた久夛良木をソニーミュージックへ一時避難させるなどの便宜を通している。

*5 こうした活動により任天堂は自身の流通経路を破壊され、SEGAは本来値下げ出来なかったSSで無理に値下げ競争に応じ、売れば売るほど赤字を出すという状況に陥った。

*6 後に4,800円台のゲームや、SIMPLEシリーズの様な低価格帯ゲームも登場した。

*7 電灯などに透かして見ると、実際はかなり濃い青色である事が解る。

*8 出展:https://news.denfaminicogamer.jp/interview/ps_history/2

*9 ちなみにこの斬新な宣伝方法は丸山氏独自の方法で、この方法を知った当時のソニーの宣伝部は腰を抜かしていたとか

*10 とは言え、同時代のネオジオCDに比べれば高速読み込みが可能な仕様であった。

*11 ただし、初代PSの国内最高売上は『DQ7』の406万本

*12 実際にPS版『Dの食卓』がSCE側の目算に反し20万本のヒットになった事から機会を奪われた事、おまけに初回8万本出荷の要求が4万本になった事と実際には28000本しか出荷されて無かった事により憤慨しての行動であった。結局エネミー・ゼロは27万本・PC版含め60万本を売り上げたがあまりに過激が過ぎて非難された。

*13 しかし、これによって型番によっては動かないソフトが出たり、古い型番は修理の対象外となる等の問題も出た。