太刀

登録日:2023/12/11(日) 05:48:05
更新日:2024/02/06 Tue 18:55:41
所要時間:約 4 分で読めます





太刀とは、日本刀の形式の1つ。
モンスターハンターの同名の武器種はこちらを参照。→太刀(モンスターハンター)


概要

戦国時代までの一般的なである。
室町時代から急速に普及した打刀と混同されやすい。


定義

太刀と打刀はともに「日本刀のうち、刃渡り60cm以上90cm未満のモノ」など共通定義を持つ為、
両者の差は分かりにくいが、最大の見分け方は2通りある。

まず1つ目は、携帯方式による鞘や柄といった付属品の形式の違いである。
(これらの付属品は拵(こしらえ)と呼ばれるもので、外装とも呼ばれる*1。)

打刀は刀身を納める鞘を、刃が上に向くような形で腰帯と体との隙間に差しこむ携帯方式を取っている*2
これに対して、太刀は鞘に取り付けられた紐や金具を用い、刃を下に向けて腰帯に吊り下げる方式を採っている*3


もう一つは、銘(めい)の位置である。
銘とは茎(ナカゴ)*4に彫り込まれる製作者の名または、製作に携わった集団の名前である。
銘は、太刀と打刀で異なることが多く、打刀や太刀のそれぞれの形式で携帯した場合に、体の外側へ向く面に銘が彫られている位置が太刀と打刀で表裏逆になる。

太刀は時代やその使い手の要望により、刀身を茎の方向から短くされ*5、外装も打刀形式に取り替えられ、打刀に生まれ変わることが多いため、刀身本体でなく外装を主体に、太刀か打刀かを判断するべきだという意見もある。

しかし外装部分は、刀身(+茎)以上の消耗品であると共に紛失、あるいは当時の持ち主によって破棄されやすいため、
刀身(&茎)だけでなく外装を完備するような現存品がほとんどない。

そのため、現代においては、銘の位置や伝承を基準に、太刀か打刀かを判別する手法が主流である。


太刀の傾向

他にも打刀と比較すると刀身のカーブが大きく、長めである。打刀は刃渡りが概ね60~70cm程度なのに対し、太刀はそれよりやや長い80cm付近のものが多い。
また、長らく正式な刀剣という扱いだったため、柄や鍔などしっかりとした構造になっていることが多かった。

ただしこちらはあくまでも傾向であり、「こういうものが多いよ」的なモノでしかない。
これに当てはまってしまう打刀も、例外と呼べないぐらいにはあることに注意。



名前

太刀の読みである「たち」は「断つ」が由来であるが、これは太刀の前身である直刀の大刀から受け継いでいる様である。

前身の大刀から名前が、「太」刀へ変わったワケは形状の変化であると思われがちだが、実はただの誤記または表記揺れという説もある。(実際に太刀が成立して間もない平安時代後期~鎌倉時代初期の文献には太刀を大刀と表記するモノも存在する)。

中世の古い時期では誤字、当て字による名称の表記揺れが起きることが珍しくなく、誤記であるはずの太刀も本来の正式名称であった大刀よりも普及拡散していったため、いつしか太刀が正式名称となったと考えられている。

なお平安時代~戦国時代までの長い期間にわたり、太刀(たち)という単語は現代で言うところの刀剣類を表す語句であったが、同時に大刀以外にも表記ゆれがたくさんあり、利刀または利剣、果ては剣あるいは刀と書いても「たち」と読ませる例もあるため非常にややこしい語句であった。

その為かはわからないが室町時代中頃から後期にかけて、打刀が太刀のポジションを奪ってもその名残として剣術や合戦にまつわる言葉として太刀は残り続けた。



特徴

ぶっちゃけ打刀にも見られる日本刀全体の特徴である。

刀身


反り


太刀の特徴の1つに、多くの日本刀にも見られる「反り」と呼ばれる、刀身につけられた緩やかなカーブがある。
この反りは、反り方によって先反り・鳥居反り・腰反りの3種に大別される。
先反りは刀身の真ん中にカーブの中心があり、鳥居反りは中反りとも呼ばれ、基本的に刀身のみならず、茎にもカーブの付いている。そして腰反りは刀身の根元付近で大きく反る。太刀は古いモノであれば、鳥居反りと腰反りの2種が主流であったが、室町時代辺りから先反りが主流になっていく。

諸説あるが、反りは馬上での戦闘を考慮して生まれたといわれることが多く、「反りの役割としては乗った馬を走らせながら、すれ違いざまに斬り付ける際に、通り抜けが良いように設けられた。」或いは「太刀を収める鞘が馬と擦れにくいように反っている」……といった感じで解説されることが一般であり、この馬上使用説は多くの書籍にて定説として扱われている。

反りの由来

実際には反りが付けられた理由は研究途上であり、一応の定説である馬上使用説もまた、矛盾もあるためよくわかってない。


この馬上戦闘説の主な根拠は2つある。まず1つ目は、諸外国の馬上戦闘用の刀剣が反りのある刀身を有していることが多いことがである、もう一つは太刀が発明されるすこし前に、大和朝廷と馬上戦闘が得意な蝦夷(または俘囚)との戦いがあり*6、彼らが使用していたといわれる蕨手刀は刀身と柄の境がくの字に曲がっており、馬上戦闘に適した形状であるとされている。この蕨手刀が大刀に影響を与え、馬上戦闘に便利な反りのある太刀が生まれたというわけである。

しかし、この説には問題点もある。まず、諸外国の馬上戦闘用の刀剣の中にも、太刀の前身である大刀のような反りを持たない直刀も数多く存在しており、直刀である大刀も元を辿れば、馬上戦闘用に大陸で作られた、斬撃のための武器である。それに大和朝廷側にも騎兵がおり、俘囚との戦い以前から反乱軍の騎兵との戦闘も存在していた。

次に太刀が成立したのは、武士の発生年代とほぼ同時期に当たる平安時代中頃なのだが、この段階では馬上戦闘で太刀を使用した確実な記録がなく、太刀を使う場面といえば、馬の負傷や建屋内の戦闘など、馬から降りて徒歩の状態で戦う時に使うか、日常生活上の喧嘩或いは犯罪者から身を守るための斬り合いで使う事がほとんどであった。

馬上で太刀を使用した記録例の初出は、平安時代の末期~鎌倉時代の初期以降に成立したものであり、反りの発生と馬上使用の増加のタイミングにズレがある。

蕨手刀との関係も、蕨手刀のほとんどは大刀と同じく、反りのない直刀であり、蝦夷や俘囚特有の刀剣ではなく、俘囚との争いの前から大和朝廷でも使用されていたという説もある。

反りの役割としては、馬上使用説の他に、斬撃強化説や歩留まり説もあるが一般的ではないし、いずれにせよ反りに関してはハッキリとした結論は出ていない。


造り込み


日本刀はの刀身断面の形式により、いくつかの種類があるが、これらを造込み(つくりこみ)と呼ぶこともある。
楔形(頂点の角度が浅い二等辺三角形)の断面をした平造り、刃先付近のみが楔形で他は峰と同じ厚みとなった切刃造りがあり、太刀の場合は例外もあるが基本的に鎬造りである。

鎬造りは切刃造りの発展形で、断面の半分以上が楔形になった形式の造り込みであり、平造りと切刃造りを足して2で割ったような形状をしている。

大まかなイメージ図などの説明では、頂点の角度が浅い二等辺三角形に小さな台形を底辺同士でくっつけたような五角形で解説されていることが多い。

(この合わせ目にあたる部位は、実際には鎬(しのぎ)と呼ばれ、鎬造り構造の刀身の中で最も厚みのあるところである。通常であればこの鎬は角ばっており、刀身の横から見ると筋に見えるため、鎬筋とも呼ばれることもある。)


なお、短刀は平造りが多く、太刀の前身である大刀は切刃造りが多い。
世界的に見れば平造りや切刃造り或いはそれらに近い作り込みが主流であり、鎬造りはどちらかといえば日本以外の刀剣類にはあまり見られない断面形状ではある。

蛤刃、貝鎬


日本刀の刃には通常の刃先の他に蛤刃(ハマグリバ)と呼ばれるモノがある。
通常の刃は断面で見ると刃先の先端から、刀身の最も厚みのある鎬までは真っ直ぐな楔形の輪郭を描いているが、この蛤刃と呼ばれる刃先は、刃先の先端から鎬まで緩やかな曲線となっている。

蛤刃の由来は刃の側面が閉じたハマグリに似た曲面になっているためである。コレを美術刀剣用語では平肉付くもしくは平肉豊かと表現し、また古い文献では貝鎬(かいしのぎ)と呼ぶこともあった。

蛤刃は通常の刃と比べて砥ぎにくく、切れ味もよろしくなかったが、頑丈で刃こぼれしにくく、切れ味が落ちにくかった。
戦乱のあった時代の太刀(と打刀)は蛤刃が主流であったが、これは合戦では鎧兜を着込む者が多かったからである。

時代によるが鎧兜を着込んだ兵士は、基本的に(簡素なモノであっても)鉄砲以外の武器で致命傷を与えるのが難しかった。

しかし、鎧兜は全身隈なく守れるわけでもなく、下半身や上半身の関節部、手先など隙間が結構あり、そこを矢で射られたり、刀剣で斬られたり、槍などで突かれたりすると致命傷になりやすかった。その為、太刀の場合は甲冑に守られていない箇所を斬りつける必要があったが、いきなり隙間を狙うのは後述の理由から難しいため、まずは兜などを殴りつけて、弱らせたところをで隙間を攻撃した*7

また、甲冑を着ていなくとも人体は意外と丈夫であり、とくに硬い骨もあるため、普通の刃では破損しやすく、蛤刃のほうが好ましかった。

何よりも刀剣や長柄武器による白兵戦では、一部の異常者か殺人者の才覚を持つ者を除いて、大なり小なり平常心でいられなくなるため、武術ようなの洗練された細かい動きができず、どうしても力任せで乱暴な使い方になってしまい、意図せず、骨や兜のような硬い所に切りつけてしまうからでもある。

江戸時代以降は蛤刃は廃れていく。これは合戦がなくなったため、甲冑を着込むことはなくなったというのもあるが、治安の改善により、強盗や通り魔のような犯罪は勿論のこと、刀や短刀による喧嘩も減っていったことで、殆どの人は刑罰や犯罪、敵討ちを除いて人を斬ることはなくなった。
とはいえ武士階級は二本の刀を携帯する事が法により強制化されており、くわえて蛤刃は不細工と見る風潮*8も逆風となり、美観の追求や軽量化を兼ねて通常型の刃に研ぎ直される事も多かった。

その他の要因として死体や捕虜、通行人を利用した戦国時代までの試し斬りよりも、巻藁などの代替品を使用することが主流になったことで、刀は強度や武器としての扱いやすさよりも、美観や巻藁に対する切れ味を重視するようになり、巻藁斬りに向かない蛤刃は斬首など直接人を斬る用途を除いて廃れた。

現代でも蛤刃は程度問題だが、美観が良くないと見做されやすい。

砥ぎ刃

砥ぎ刃とは刀身を研いで付けられる鋭利な刃先のことである。

日本刀は、刀身全体に砥ぎ刃をつけているイメージがあるが、古来の太刀や打刀は、刀身の鍔に近い部分に砥ぎ刃を付けることは、どちらかといえば少なかったといわれる。
これは刀剣で斬りつける時は、威力や構造の関係上、刀身の真ん中から先端部を使う事がほとんどだったためで、
逆に鍔に近い部分で斬らなければならない状況というものがなかったからであった。

刀身の根元に刃先を付けるのは無駄どころか、手入れや抜刀の際に手を傷つける恐れがあり、整備性や機能性の低下にも繋がった。
また、敵の刃を防ぐ際には、受けるにしても、受け流すにしても、刀身の根元近くを使用するため、切れる刃先をつけると強度の低下に繋がったため、実用面でもあまりよろしくなかった。

このような鍔元に近い部位を研がず、刃先を付けないのは古来の太刀特有のことではなく、海外の刀剣類にもよく見られる特徴である。日本刀がいつから根元まで刃先を研ぐようになったかはよく分かっていない。

刀身の先端

刀身の先っちょ部分のことを、切先・鋒(きっさき)と呼ぶ。
その大きさや形状により、大切先、中切先、小切先などの基本形や猪首切先やカマス切先等がある。
切先には、鎬筋から刃先に向かって伸びる筋があることが多いが、この筋は横手筋と呼ばれる。



柄、取っ手関連

太刀の柄は、刀身の延長部分ともいえる茎(ナカゴ)に、ハバキ、切羽、鍔、備品を嵌め込んでから、サメやエイの皮で包んだ木製の柄に挿入し、最後に横から目釘と呼ばれるビス状の部品を固定用の穴に差し込んで止める方式を取っている。

これは日本刀の柄の基本形式となっており、鍔の有無はあるが槍や薙刀も同様の構造であるし、太刀の前身となった大刀も目釘で留める位置が異なるだけでほぼ同じである。

これらの柄を構成する備品に鞘を加えたモノを拵えまたは外装と呼んだ。


今風に言えばグリップまたは取っ手のこと。
後世に作られたか、特殊なものを除き、太刀の柄は専ら木製である。
柄の形に加工した2本一組の木材を、茎の形に大きめにくり抜き、目釘を通す穴をいくつか開け、それらを糊で貼り合わせ、補強として縁金や冑金を柄の両端嵌め込んだら柄の土台部分の完成である。使用者の要望次第では責金という金具が追加された。


柄に使用する木材はよく乾燥させ、狂いや節のない硬くて弾力性のある材木が用いられてきた。
使用される木は、現代では朴が最良であると言い伝えられているが、平安時代では柚の木も使用していたという。

しかし、明治時代以前の交通が未発達だった頃の日本は地域ごとの独自性が強く、柄の材質などは規格化されたものでもないため、実際には様々な木材が使われていたと考えられる。



太刀の柄は滑り止めのため、サメやエイの皮で包み込み、俵鋲でこれを留めた上で、湿気や汚れによる劣化を防ぐため、漆を塗装したものが多かった。鎌倉時代までは柄の作成はここで完了していたが、室町時代からは滑り止めを更に良くするため、糸を束ねて作った紐を巻くようになった。それも単にぐるぐる巻きにするのではなく、側面から見て菱形が並んで見えるような感じで巻いた。




目釘


平安時代から室町時代辺りまでは金属製であり、笠の付いたビスのような形状だった。この部品は雄雌一対の部品で構成され、1つの目釘穴に対し両側から組み合わせるように差し込んで固定する形式や、目釘の端に紐を通して抜けないようにする形式が存在した。

理由ははっきりしないが、室町時代からは目釘穴の位置が中子の中央から刀身側へより、目釘の素材も竹製に変化し、傘の部分が目貫として独立し目釘は簡素化した。

太刀を始めとする日本の武器の柄は1~2本程度の目釘で刀身を支え、柄に固定する方式を取っているが、コレは世界に類を見ない独特なものである。このような方式のことは目釘構造と通称されることも多い。

諸外国でも、茎に木製や革製の柄を装着する方式そのものは一般的なのだが、諸外国の場合は目釘に相当する部品はあくまで、茎から柄が外れない為の留具であり、刀身や茎は柄のみで支えることが多い。

目釘構造は手に衝撃が伝わりにくいという利点がある反面、しばしばその耐久性が問題視され、武器ではなく儀仗だったのではないかといわれることもある。

しかし、この構造の耐久性が問題視されるようになった背景には、昭和期において日本刀が軍刀として需要が高まった際に、粗製乱造が行われたことにある。

昭和期には伝統的な柄の作成ルールが無視され、茎と柄の目釘穴の位置がデタラメだったり、資源不足により柄に粗悪な木材を使用せざるを得ない状況だったり、本来は銅や竹製の目釘を使用するところ、当時は強度の低い象牙が多用されていたりなどの悪条件が重なったためだとされている。

目釘穴を設ける場所には一定の決まりがあり、そこは柄が装着された状態で太刀で打ち込みを行った際に目釘に負荷が殆ど発生しないいわゆる「節」に当たる部位である。(この節は太刀の規模や目釘の数によりいくらかズレる)

柄の素材も、節や歪みのない朴などの木を使うのがセオリーとされてきたが、昭和期には生活用品の素材として需要が高く、なかなか入手できなかったらしい。

いずれにせよ目釘構造は耐久性に難があったが、改良を加えた様子もなく、薙刀や槍などの大型武器にも同様の方式を採用されていることから、その設計や材料の選定が適切である限り、実用には支障がなかったという結論が無難だと思われる。

ハバキ、鍔、切羽


ハバキ
ハバキは刀身の根本、刀身と茎の境(区)に取り付けられる銅製の小さな金具である。
鞘の中は刀身の出し入れを簡単にするため刀身の大きさよりも大きめに加工しであるため、そのままだと刀身を鞘に納めているときに、勝手に抜けてしまう。ハバキを付けることにより、そこだけ鞘の空洞に対してキツくなり、勝手に抜けることを防ぐ事ができる。これは薙刀や長巻にも見られる(槍にはない)。
ただし、刀身を鞘から抜く際には、そのままだと抜きにくいため、太刀を使う手とは反対の手で鞘を抑えながら、親指等で鍔を押して、刀身を少し鞘から抜く必要性があった(このような動作を武道の用語では「鯉口を切る」という)。

鍔は柄と刀身の境にある板状の備品である、
鍔は使用者の手を保護したり、突いた時に柄を握る手が刀身に滑っていかないようにしたりするのが主な役割であるが、重たい鍔を用いることで、太刀の重心を手元に寄せて操作性を良くする働きもあった。太刀の鍔は現存品は金属製が多いが、武器として用いられていた頃は、撓革で作られていたらしい。撓革は牛の皮を重ねて固めたもので鎧の素材として使われていた。

切羽
切羽は鍔とハバキと柄の間に装着される複数の金属片である。
切羽は部品の継ぎ目を隠し、鍔のガタツキを防ぐ役割を持っていた。切羽は2枚1対の備品であるが時代や拵えの様式により何枚使用するのか異なった。太刀は現存品からの推定で、大切羽や小切羽からなる十枚の切羽を使用するのが正式とされている。

このため太刀、(というか日本刀)は海外の刀剣と比べて部品数が多く、複雑な構造であるという意見もあるが、槍や薙刀/長巻などの長柄武器もまた、諸外国の長柄武器と比べれば、やはり部品点数が多く複雑な構造であるため、複雑で部品数が多いのは日本の武器の共通項なのかもしれない(鈍器・飛び道具除く)。

ただし、柄は刀身以上の消耗品で、所有者によってカスタマイズされるものであったため、実は古い時代の柄の構造がどうだったのかはわからない。(これに関しても薙刀も日本式の槍もまた同じ)


柄の変遷

太刀の柄は大刀が、蕨手刀の影響を受け、毛抜形太刀に発展したあと太刀へ変化していったという説が主流である。なお、太刀と大刀は茎に木製の柄を装着するのに対し、蕨手刀や毛抜形太刀は茎が刀身と一体成形となっており、柄として握れるようになっていた。太刀にこのような柄の形式は受け継がれていないため、ある意味で後退しているという見方もある。ただし、毛抜形太刀の柄の一体成形というのは誤解であり、透かしの入った茎に複数の金属のパーツを取り付けているため、実際には分離式である。また毛抜形太刀の制作は費用が嵩むためあまり流行らなかった。

その為、太刀は毛抜形太刀を経ず、大刀から直接進化したという説もある。その根拠としては、大刀は柄を装着していない状態では反りのない直刀でしかないが、当時の柄を嵌めることで、擬似的に蕨手刀のような反りが付くような構造をしていたからである。

日本刀は主に両手で使用すること前提としているため、長めの柄を備えており、太刀の段階で既に両手で持てるように長くなっていた。
ただし、両手で使用し辛い形状のモノや両手で使用すると柄が破損する柄も存在しており、馬上はもちろん、徒歩でも意外と片手で使用することが多かったのではないかという説もある*9



使わないときに刀身を風雨から保護するカバーであり、太刀の使用者などが刀身の刃先で傷つくのを防ぐ役割を持つ。目立たないが柄と共に刀剣にとって重要な備品である。

太刀の鞘は柄と同じく、その殆どが木製である。

鞘の制作過程は鞘の形に成形した2つの部品を、それぞれ鞘に収まる太刀の刀身の外形よりも大きめに彫り込み、
糊で張り合わせる。
そして割れ防止の為に、刀身を入れる方には口金物を、その反対には石突或いは鐺とも呼ばれる金具を嵌め込んだ。
それから、太刀を腰帯から吊るすための足金物や補強の責金も取り付けられた。

鞘は柄と同様に革あるいは板金などが巻かれたあと漆で全体を塗装された。



分類

太刀はその大きさにより大太刀・太刀・小太刀と呼び分けを使用した。例えば刃渡りが90cmぐらいあれば大太刀、刃渡り60~66cm程度の短いモノが小太刀といった具合である。

しかし、これらは後世の研究者によって、江戸時代の法令や特定の剣術流派の文言を元に作られた便宜上の分類法であって、戦乱期に使われていたモノではない。特に小太刀は諸説あり明確な定義はあやふやである。

また、大きさだけでなく拵えの形式や刀身の形状よって、実戦用の陣太刀や厳物造太刀、儀式や装飾品に使われる飾太刀など様々な呼び方があったが、いずれも室町時代後期以降より、刀剣の様式が太刀から打刀へ遷移していくうちに、最終的に全て儀式用の儀仗となっている。




誤字脱字、その他不備があったら編集・修正をお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

最終更新:2024年02月06日 18:55

*1 外装がついてない状態を裸身状態と呼ぶ場合が多い。

*2 抜刀の際に鞘ごと抜けないように返角と呼ばれる出っ張りが付属していたりいなかったりする。

*3 前者を帯刀、後者を佩刀と呼び分けることもあるが、江戸時代までは厳密化されておらず、分けて呼ぶようになったのは近代に入ってかららしい

*4 日本刀の柄(取っ手のこと)の芯となる部分で刀身とは反対方向に伸びた、細く短い棒状の部位。刀身とは一体になっている。

*5 これを磨り上げという。

*6 この大和朝廷は今風に言えば日本政府、蝦夷・俘囚は大和朝廷に従わない異民族・反乱軍といった感じである。

*7 鎌倉時代までは、馬に乗りこなしながら弓で戦う兵士が主力戦闘員であったが、彼らは弓矢の撃ち合いから白兵戦までを担当した。弓矢を持つと槍や薙刀を装備するのは困難であり、白兵戦の武器は必然的に太刀となった。足軽などと呼ばれる薙刀を持った徒歩の兵士もいたが、彼らは室町時代までは戦の帰趨を左右する存在ではなかった

*8 伝説のある名刀として残った刀は、度重なる補修のための研磨により研ぎ減って、蛤刃でなくなってしまっている事が多かったからでもある。

*9 鎧の構造にもよるが、胸部の形状や幅によっては両手で構えにくい