太公望

登録日:2020/01/28 Tue 09:30:00
更新日:2024/04/26 Fri 12:00:15NEW!
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太公望とは、殷周易姓革命の時代の人物。
中国の怪奇小説「封神演義」では主人公として登場する。
なお、藤崎竜のマンガ版の太公望については該当項目を参照。



【名前について】

彼は名前の呼び方にバリエーションが多い。
「史記」によると、「太公望」とは称号であり、姓は姜、氏は呂、名前は尚、字は子牙、号は飛熊とされる。この時代の人間は、苗字について「姓」と「氏」の二つを持っていたのだ。
それらを組み合わせたことで、彼には、
姓+名=「姜尚」、氏+名=「呂尚」、姓+字=「姜子牙」、氏+字=「呂子牙」、称号「太公望」、国号+称号=「斉太公
……と呼び方が非常に多くなってしまった。
また「太公望」のうち「太公が称号で、望が名前」とする説もあり、するとバリエーションはさらに増える。

難儀なことにどれも知名度が高い。俗名を表記するなら日本語では「呂尚」が馴染み深いようだが、中国では「姜尚」のほうが印象強いらしい。
しかし一番有力なのはもちろん「太公望」だし、封神演義の影響で「姜子牙」も有力。

子孫である斉の桓公が「姜小白」として知られることや、維希百科の表記、封神演義で姜姓を冠していることなどから、本項目では俗名を記す際は「姜尚」と記す。


【文献資料の太公望】

太公望にまつわる文献資料として有名なのは、まずは「史記」、そして「六韜」「三略」である。
「史記」は前漢時代にそれまでの資料をまとめて書かれたもの、「六韜」「三略」は春秋戦国時代の作で、太公望が生きていた西周初期から数百年ものちに作られたものである。その記録をそのまま信じることはできない。

例えば「六韜」は「太公望が周の文王・武王に兵法を指南する」という形式で書かれているが、現実に問答を記録したとは思えない*1
また「三略」は殷周の頃に存在しない騎馬戦*2への言及があったり、当時使用されていない「将軍」という言葉が用いられていたりと、あくまで「太公望」の名前を借りた兵法書と考えられている。
もっとも、これは太公望に限った話ではない。
中国の論文は箔付けのために三皇五帝などの偉人を「発案者」と担ぎ上げるのが常だからである。
周公旦も、孔子が自ら考えた礼制の「祖」に祭り上げられている。


しかし太公望は、殷周革命の功績で山東半島に領土を授かり、斉国の開祖となった。以後、斉の滅亡*3までの数百年に渡り、国祖として崇め奉られてきた。
当然、斉には彼の「資料」が残っていたはずである。「史記」「六韜」「三略」などの文献はそれらをまとめたものだ。
それが歴史のなかでどれだけ変容したにせよ、原形はあるわけだ。
また、こうした文献からは「春秋戦国から秦漢代までの中国人が、太公望をどのように理解していたのか」も読み取れる。

【前歴】

以下は、「史記」「六韜」「三略」などをまとめたものである。

出身は東海。
もともと大した身分ではなかったが、頭がかなりよく、時の支配者「」王朝やその傘下の諸侯を巡り、用いてくれる主君を探していた。
しかしどこからも受け入れられず、いつしか老齢になっていたところ、殷の傘下諸侯「」の君主・姫昌――周の文王――に抜擢され、幕僚となった。

「六韜」によれば、姜尚は渭水のほとりに釣竿をたらしていた。しかし竿の先にある針はまっすぐな縫針である。つまり彼は魚を釣っていない。
そこに現れたのが文王で、彼は老人の横に座って天下国家について訪ねる。
姜尚は釣りを例えにしつつ「天下は天下の天下なり」など、天下国家についての持論を展開。
感銘を受けた文王は「彼こそ我が祖父、太公が望んでいた人物」と讃え、姜尚を師父と崇め、軍事の指導者になってもらうよう懇願。
姜尚はこれに応えて、周に仕官。先の文王の言葉から「太公望」を称号とした。


【殷周革命】

そのころ中国は殷王朝の時代で、当時の君主は紂王(子受)
紂王は暴虐で知られており、殷の統治も急速に乱れていた。姫昌もかつては紂王によって幽閉され、あまつさえ長男を殺されており、恨みは骨髄に達している。
逆に、当時の周は上がり調子で、各地の諸侯は紛争解決を殷にではなく周に解決してもらうほどだった。

当時の中国は「封建制」である。中央政府(盟主)と地方政府(諸侯)が並立・共存しており、各地の統治は諸侯が行なっていた。中央政府は首都一帯だけを統治する。
しかし諸侯では手に負えない事態や、諸侯同士の紛争が起きた場合などには、中央政府に鎮める義務がある。
諸侯が揉め事の解決を周に依頼すると言うのは、殷を「中央政府」とは考えないということである。

その状況から、周の君主・姫昌は「天は私を王にした」、すなわち天命を授かったとして、みずから王号を称したのである。
それは必然的に、殷王朝との対立を意味する


太公望が文王に「軍事顧問」として招かれたのはそういう状況である。
文王は覇業半ばにして没したが、跡を継いだ武王(姫発)は殷および殷に与する諸侯との戦いを続行。
太公望も引き続き用いられ、周公旦召公奭(しょうこうせき)畢公高(ひつこうこう)と併称される重要閣僚となった。

なお、周公旦と畢公高は文王の息子で武王の弟。
召公奭も武王の弟とされるが、考古学研究によると「召公」は殷とも周とも異なる別個の諸侯国で、召公奭は太公望と同じく「外様」の幹部だったらしい。

武王はいちど孟津まで出兵して八百の諸侯から「盟主」として担がれるが、「天命いまだ下りず」として一度は解散・撤収。
史書では、このときの武王は「『太子発』を名乗り、文王の位牌を奉じて、謙譲しつつ出兵していた」と言うが、
あるいは「武王はいまだ権力を確立できておらず、諸将・諸侯は文王の義理で集まっただけだったため、これでは戦後まともな統治ができないと見た武王が引き上げた」というのが本当のところかも知れない。

しかし組織の再編・権力の確立ができたのか、二年後にはふたたび出兵。牧野の地で今度こそ殷軍と決戦した。
この「牧野の戦い」で、太公望が指揮する周軍が殷軍を粉砕。とくに、太公望が直率する戦車部隊は強力であった。
逆に、殷の兵卒は自分たちを苦しめる紂王を完全に見限っており、指揮に服さないばかりか周軍に協力する始末

そのまま周軍は殷の都・朝歌(殷墟)に進撃し、敗北を悟った紂王は愛妃の妲己を自害させ、自らも宮殿に火を放って、焼け死んだ。

殷王朝はここに滅び、周王朝の時代に入ったのである。


【斉の太公】

新しく天下の盟主となった周朝は、さっそく功績あった諸将や王族に「分封」を開始した。殷王朝や、さらにその前の夏王朝の封建システムを引き継いだのである。

太公望は、山東半島を中心とする「」を与えられた。
彼はさっそく現地に赴任。最初は気が緩んだかゆっくりと旅をしたものの、旅館の客から「老い先短いのに 人生短いのに、よくもまあのんびりできるもんだ」といわれて恥じ、途中から速度を上げた。

果たして、斉の地は異民族(莱族)や殷の残党が戦争を起こしており、斉の首都・営丘(のちの臨淄)は陥落寸前であった。
太公望はなんとか指揮系統を取り戻し、莱族を撃退。

以後は斉国の統治を行ない、現地の習俗を否定せずに取り込みつつも、狂矞・華子兄弟のような、自分の名声だけを重んじて政権や道理を軽んじる輩は容赦なく誅殺
剛柔取り混ぜた政策で秩序を立て直した
また、斉国は土地がやせており農業に向かなかったが、三面が海であることを活かした業や漁業で国を潤し、また鉄器の発明も行なった。

やがて、太公望は太子の伋に後を託して没した。
彼は文王に仕えた時点で七十近い老齢であり、亡くなったときは百歳を超えていたと言う。


【死後】

「太公」望の死後、太子伋あらため「丁公」が斉の君主となった。
以後、「乙公」「癸公」と斉は東方の大諸侯となるが、五代目のときに周王朝との紛争が起き、時の斉侯が周の王に煮殺されるという大事態に発展する。この五代目は死後に「哀公」と諡される。

哀公死後は弟の「胡公」が立つが、彼は斉国内部で反発が強く*4、結局クーデターで哀公・胡公の弟「献公」が立つ。

以後、献公の末裔が続いたのち、春秋戦国時代に突入。十六代目「桓公」の代に、太公望を彷彿とさせる大軍師・管仲が現れ、中原の覇者となるのである。



【考古学資料の太公望】

以上が主に文献資料の太公望である。
しかし既述の通り、彼の文献資料は死後数百年を経て作られたものであり、当時のものではない。
それはもちろん、文王・武王親子や周公旦、敵役の紂王も同じである。

当時の資料は、もちろんある。「甲骨文字」や「金文」などだ。
ちなみに、甲骨文字とは牛などの肩甲骨(●●)に記されたから、金文とは鼎などの()属器に()字が鋳られていたことからついた名前である。
これらは、当然ながらすべてが発掘されたわけではない。しかも欠損や破損もある。読める「資料」はごく一部だ。
ただ、幸いにもこれら古代文字は、現在の漢字と基本形態が変わっていない。
もちろん、字体そのものは大きく違うが、解読の難易度は「死語」と化したヒエログリフなどよりもはるかにたやすい。

こちらの研究も日進月歩であり、今の研究が明日には覆っていることもある。


太公望もそうで、少し前までは彼の実在を疑う声もあった。周王朝の中心部から発見される資料に、太公望らしき名前が見当たらなかったからである。

しかし2010年になって山東半島にて貴族の墓地が発見され、そこから出た青銅器に「祖甲斉公」の名前が印されていたことで、にわかに実在説が有力化した。
また、斉の君主は二代から四代まで「丁公」「乙公」「癸公」と十干を諡号に用いている。これは殷代に普及していた諡号の付け方だが*5、ここでは「祖甲」と、まさに十干の第一、甲がつけられている。


この「祖甲斉公」が「太公望」と同一人物であるかは研究途中だが、「祖」の字を冠するからには「代々続いた土豪」でもあるまいし、「外部から来た開祖」の可能性は十分ある。
太公望は文献資料にて「礼制改革は最低限にして、現地習俗を残す方針を取った」とされる。外部から来た開祖が、現地の習俗に従って十干諡号の「祖甲斉公」を名乗ったとするなら、文献とも合致する。
周朝側の出土資料に名前がなかったのも、文献通りに斉国に赴任しており、殷朝打倒後の周朝政権に参与していなかったからとすれば理屈は通る。


文献資料と出土資料を突き合わせると、周公旦や畢公高、それに召公奭もそれぞれ封土をもらったものの、本人は現地に赴任せず、息子たちが封土に赴任している。
周公旦(姫旦)の場合、姫旦自身は首都にて「周公」の爵位と領土をもらって中央政権に参与。長男の伯禽(姫禽)が「魯侯」として封土に赴任し経営する、という形である。
実際、出土資料によると姫旦の子の明保なる人物が登場して閣僚となり、周公の座も継いでいる。もちろん魯国は春秋時代まで伯禽の子孫が続いた。

しかし出土資料では、斉侯は初代から哀公まで赴任先に下り、死後になって棺だけ送られたとされ、祖甲斉公は中央政府に参与していなかったようだ。
文献資料の太公望も同じく現地に赴任し、中央政府には報告ぐらいでしか顔を出さない


現状、出土資料の「祖甲斉公」と文献資料の「太公望」は相似性が強く、研究が進めばより明らかになる可能性が高い
とりあえず、ここでは「太公望実在説」を紹介した。


【太公望追放説】

太公望がみずから斉国に赴任したのは「追放だった」とされる。
つまり、「太公望は殷との戦争において功績を挙げすぎた。中央に残していては武王・周公旦ら姫一族の支配に邪魔になる。いっそ遠方に追いやってしまえ」という算段だった、というもの。
実際、太公望が赴任した斉国は当時「未開の領域」と言える東の果てであり、殷の残党や異民族が跋扈する、難地であった。

もっとも、これを持って「姫一族は恩知らずだ、太公望がかわいそうだ」とは言えない

実際問題として、軍事に明るすぎる臣下というのは危険である。戦争のやり方をだれより知っていて、兵士の心をも掴んでいる元帥が、その「軍事力」を駆使してクーデターを起こせば誰にも止められない。
だからこそ歴史上、「建国の元勲」は多くが殺されてきた*6わけだし、「建国の君主」には軍部の出身者が多い*7のである。

そういう状況で、太公望を「東の果てに追放」したことは、かえって周朝と太公望、双方を救う妙手となった
山東半島は当時辺境で治安も悪い。ということは、赴任した太公望は斉地の統治に手間取られ、中央に攻め込む余裕はなくなる。周朝はクーデターの心配がなくなる
山東半島は中央政府にとっては遠すぎる。ということは、周朝は斉地への干渉はできず、太公望が多少好き勝手をしたって討伐はできない。太公望は粛清の心配がなくなる

実際、周朝サイドとしてはかなり気を遣ったようである。
文献では「黄河から海までの領域はあなたの管轄です。反乱が起きた場合は自由に討伐できます」というお墨付きをもらっている。太公望が「反乱した」と見做せばいいため、ある意味で「東部は切り取り自由です」と許可したに等しい。
しかも気を遣うだけではない。斉国の西には魯国、北には燕国が封建されたが、これは明らかに「斉国が周朝に攻め込んだ場合」の対策である。
太公望が西進した場合、魯が正面から阻み、燕が背後を突く、ということだ。

しかし、警戒はしつつも共存を許すというのはまさしく「優れた妥協」「良き臣下の使い方」であり、太公望も恐らくは全て納得していたことだろう。


ただ、完全に無干渉でいることはやはりできなかった。

上述した通り、太公望は現地習俗に則り「祖甲斉公」を名乗り、以後四代目までこの「十干諡号」を使い続ける。
しかし五代目の諡号は「哀公」であり、十干諡号ではない。
彼は周王に殺された斉侯である。恐らく、殷の習俗を維持するなど独自政策を進める斉国に、周朝サイドが攻撃を続け、ついに周朝が勝利を収めた・斉国が敗北したのだろう。
結果、斉国は独自政策を改めざるを得なくなり、十干諡号を放棄した。

つまり周と斉の関係は決して良くなく、時に血なまぐさい事件も起きたということだ。
小諸侯*8の讒言があったとも記録されるが、周と斉の対立は既定路線であり、讒言は口実に過ぎなかったと思われる。
だが、もし太公望がこれを知ったなら、おそらく「周が悪辣だったのではない。周がわが斉を狙うことは初めからわかっていた。状況をうまく処理できなかった哀公の責任だ」と言っただろう。

後漢代には丁公を「斉玎公」と記録した文献もある。
これは、周の武王が「珷」と表記されていたのと同じで、丁公が現地で「丁王」を名乗っていた、初期の斉国が王号を用いていたことを伝える。
ならばこそ、周と斉の対立はある種の必然だったといえる。


【歴史上の太公望】

死後も彼は慕われ続けた。斉国が春秋戦国時代に大きく飛躍し、東方最大の国家となったからである。

春秋戦国時代には、太公望はすでに「兵法の太祖」として崇められていた。
六韜」や「三略」といった兵法書の作者として彼の名前が使われており、特に「六韜」は彼が文王・武王の質問に答えるという形式を取っている。
もちろん、それら兵書は春秋戦国時代の常識によって作られており、太公望の事跡をなぞったものではない。
しかし、遅くとも春秋戦国後期には、太公望は「偉大な兵法家」として世間の知るところとなっていたのである。

以後も彼の神格化は進み、唐代には太公望を祭る「太公廟」が各地に立てられる。
当時は軍師として前漢の張良と併称されていたようだ。
さらに唐朝からは「武成王」の称号も賜る。これは孔子の称号「文宣王」と対比になっており、文の代表・孔子に対する、武の代表が太公望とされたのだ。
しかも、彼を祭る「武成王廟」には「武廟十哲」「武廟六十四将」も合祀されるが、これはつまり「太公望こそ歴史上の武将たちの代表、ナンバーワン」とするものである。
諸葛亮関羽鄧艾ですらが、太公望の脇侍だったのである。

ただ、さすがに明清のころになると「三国演義」がブームとなり、知名度で諸葛亮と関羽に追い抜かれた。
彼にも代表作として「封神演義」があるのだが、後輩には一歩譲るところではある。


【封神演義の太公望】

こちらでは「姜子牙」と表記される。

仙界のうち、崑崙山に本拠をおく「闡教」に所属する道士で、殷周革命に便乗して強力な魂を持つ死者を三六五の神々に封じる(封神する)という役割を背負って下山する。

闡教の教主、元始天尊の直弟子なので、位階は十二大仙に匹敵するものの、本人はわずか七十二歳であり、修業期間も実質四十年ほどしかない。
そのため仙術は大したことがない。敵を一撃で撲殺できる鉄鞭宝貝打神鞭」を持つものの、基礎的な能力が低いため、本格的な強敵にはあっさりやられる。
しかし「軍師」として頭が切れるため、配下に付けられた道士たちの司令塔として活躍する。

ちなみに、太公望の称号である「武成王」は本作では黄飛虎が使っている。
黄飛虎の設定には関羽との共通項があるらしく*9、そこにあやかったのかも知れないとのこと。


【安能版の姜子牙】

「そうか、崑崙山ではわが輩は、やはりヨソ者だったのか!」
「その通りだよ姜子牙。だいたいが、お前さんに与えられた使命は、ヨソ者でなくては果たせないのさ」

安能務氏による封神演義では、「権力の世界で生きる人間」として描かれる。
そもそも安能師は封神演義を「安能流の中華思想論の序論」として執筆した。従って、主人公である太公望=姜子牙の目を通じて、「権力とは何か」を描くことになる。

その安能版姜子牙だが、そもそも「封神計画」自体が、闡教サイドの卑劣で下劣な陰謀である。

闡教は人間による仙人だけの世界を望んでいた。妖怪をも仙人に迎え入れる截教がとにかく気に食わない。
天界は聖者たちの空間だが、何事も起きないから暇である。下界で戦争が起きれば楽しい。折悪しく、天界の女媧が紂王に侮辱された。
ここで闡教と天界の利益が一致する。

天界は「殷の天命は尽きた」と決定し、怒りに燃える女媧が牝狐を派遣し「妲己」に成り代わらせて紂王を暴走させ、周の文王に討伐させる
闡教は周に加担する一方、頭の単純な截教を挑発して殷の側に協力させ、「天命に逆らった」と大義名分を立てて公然と攻め込む。可能なら皆殺しにする。
截教も抵抗するだろうが、ついでに将来性のない、出来の悪い弟子も「戦死」させられればちょうどいい。

もちろん、截教に負けては困る。西方(インド)の仏界もこちらへの進出を狙っていた。「戦争を通じて、截教の妖怪仙人をムリヤリにでも仏弟子にすればいいでしょう」と説けば、仏界の戦力も闡教側に付く…………

ここに、天界・闡教・仏界の三者が共同で陰謀を企み、殷と截教を狙った――というのが、大まかな筋である。
本作のテーマである「国家権力」と「理不尽さ」ここに極まれり。

この計画を直接に練ったのは闡教の教主・元始天尊らだが、姜子牙はまったく参画していない。ある日突然「周の軍師となり、戦争を導け」といわれたのみである。
姜子牙の分析、および申公豹の洞察では、闡教は姜子牙を仙人にするつもりは最初からなく、あくまで「周の軍師を助ける」という名目で、「合法的に」闡教が戦争に介入するため送り込んだ「生き餌」にすぎない。
援軍を送りはするが、「姜子牙を助ける」のは口実で、目標は「截教を潰す」ことだけだ
下界の人間が死のうとそれはどうでもいいし、姜子牙は別に帰ってこなくてもいい……。


こんな扱いで姜子牙が闡教に忠誠心など抱くはずがなく、実際に下界に下りてからは妲己の撃破を狙い、計画を潰そうとした。
しかし闡教サイドは「勝つ」ために最大限の努力をしており、計画打破が不可能と悟った姜子牙は、「道化」を覚悟であえて戦争を主導。
截教と殷朝の消滅には諦めを抱きつつ、せめて「仙人が下界の政治に介入する事態」だけは避けようと奮闘する。

権力の走狗」としてかなり衝撃的なキャラクターであり、勧善懲悪のカタルシスなどはほとんどない。
捕えた胡喜媚には「お前より偉いヤツがすでに、わたしたちを殺すと決めた。お前は単に、それを口にする三下ヤッコさ」と、姜子牙が単なる使い走りの駒、用が済んだら煮られる走狗に過ぎないと指摘される*10

闡教のみならず周朝に対しても忠誠心など持っておらず、偽善者ぶるエセ君子の文王・武王親子や、政治のドス黒さも分からない「東伯公」姜文煥などには内心で嫌悪感を抱いていた
一方、全てを悟った上で、滅ぼされることも良しとせず、諦めて道化になることも拒絶し、あえて政界に背を向けて馬賊となった「北伯公」崇応鸞には、好感を抱いてアドバイスを送る。

最後は闡教にも周朝にも背を向け、武吉をともない斉の君主として赴任。
鉄や塩を作って売り、国を豊かにして人々を富ませ、愚にも付かない「聖人の道」を説く「賢者」を誅殺して、「本当の政治」を執り行なった。

そして「封神演義」の末尾は三百年後、「春秋戦国時代」へと続く。
時の君主は姜子牙の十五代目の孫、姜小白こと桓公である。
その桓公を補佐した管仲の「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という言葉を紹介し、管仲こそが「聖者の道」を後回しにして国を富ませた太公望姜子牙の「弟子」であるとしたうえで、次なる「春秋戦国志」へと繋げている。


なお、安能師は儒教のことを嫌っており、「権力の悪辣さ」をテーマにする都合もあるが、文王・武王をことさら偽善者と書いているのは彼らを聖人君子と強調する儒教への反発も一因である。
実際、本文中では「この物語の中で、武王が偽善者として描写されているのは(中略)儒家へのヒヤカシである。もともと武王は取り立てて称賛するほどの聖王でもなく、あえて軽蔑すべき偽善者でもなかったに違いない」と記している。

また「韓非子」では原文を引用しながら、賄賂の送り先を清廉な賢者・膠鬲ではなく佞臣の費仲に選べるぐらいの、権謀術数に長けた一流の君主として文王を描いている。
その該当部分でも解説を施しており、「儒徒があがめるような『聖君・文王』などは存在しない」、という「安能流の中華思想論」が記されている。


【その他のエピソード】

春秋戦国以前の人物としては第一の知名度を持つため、彼のエピソードはいろいろある。
面白いのは民間から発祥した伝説が多く、道教との親和性が強いこと。
中国における民衆の価値観が具現化したものが多い。

◇文王車を牽く

渭水のほとりで文王と会見し、仕官を受け入れた太公望は、馬車に同乗して周の都に帰ることになった。
しかし太公望は、文王に対して「車に乗るのは我だけだ。そなたは、我が乗った車を牽くのだ。よいというまで足を止めてはならん」と言い出した。
仮にも王に対して無礼千万である。しかも文王はすでに老人であった。しかし文王は弟子として受け入れる。梶棒に手をかけた。
懸命に車を牽く文王だが、やがて呼吸が乱れて足がもつれる。歯を食いしばって耐えるが、ついに棒を取り落とした。
「すぐ拾い上げて牽き続けよ!」太公望の叱咤が飛び、ふたたび歩き出す。しかしもうしばらく進んだところでついに棒を取り落として、立てなくなった。
そこで太公望が馬車から飛び降り文王を介抱する。そして説明した。

「いま殿下は車を引かれて、280歩で棒を落としました。すなわち、周朝は280年目にいったん挫折します。
しかしすぐに牽き直しましたから、まもなく再興されるでしょう。
そして、さらに449歩で倒れられた。従って後期の王朝は449年で滅びる。前後あわせて729年が、あなたの王朝の寿命です。
ただし、二度目に牽いたとき、あなたの護衛が見兼ねて車を後ろから押していました。だから、後半の449年は、王朝は有名無実化するでしょう」

このエピソードは正史には記録されないもので、純然たる民間伝説、いわゆる「野史」であるが、一般にもよく知られた話である
もちろん、現実に太公望が未来を読めるはずがない。周の興亡を知る後世に生まれた伝説である。
しかしそれだけに「民間における中国人の発想」がむき出しに出ている。
「歩数で王朝の寿命を図る」という太公望の神秘性*11はもとより、王や皇帝といったものにも「たまには牛馬のようになれ」と願う民間の意志、「優れた軍師は、帝王よりも気位が高い」という社会通念など、興味深い点が目白押しである。

敵役の紂王も、封神演義や先行する芝居などでは、臣下から面と向かって「暗君めが!」と罵倒され、こと太師・聞仲にはけちょんけちょんにされる。
文王を馬車馬のように牽かせる太公望と、紂王をガキ扱いで鞭打つ聞仲は、いずれも史書にはない民間伝説であるだけに、まさに「中国人の感性」が発露した貴重な記録である。


◇太公釣魚、離水三寸

こちらも渭水の出会いのエピソード。
文王が太公望に引見を申し込んだとき、太公望は渭水に釣竿をたらしていた。
このことから、とくに日本では太公望を「魚釣りの名人」としていることが多い。釣具店などに「太公望」という名前があったりするし、江戸時代には「釣れますか などと文王 側に寄り」という詠み人知らずの川柳ができた。

しかし、中国では「太公望は魚釣りの名人」などとはまったく考えない。むしろ「釣りはヘタクソ」とされる。

というのも、六韜などの文献では、このときの太公望の針は真っ直ぐだった、つまり釣針ではなく縫針を垂らしていたのである。
その後、太公望は「釣り」をテーマに国家の運営方法を概説するが、彼が「魚を釣った」ことは、記録にはなかったりする。

また、本来の文献資料では「太公望は真っ直ぐな針を垂らしていた」とあるが、こっちも民間伝説ではさらに変わって「太公望の針は水面から三寸ほど離れていた」となり、ますます絵的な美しさが増している。
そこには「中国人の美意識」や、社会における根強さが垣間見える。


◇覆水盆に返らず

太公望の戦後のエピソード。
まだ殷が華やかだったころ、太公望は結婚していた。
しかし彼は、頭がいい割りには世の中の雑事には不器用で、結婚生活はまったくうまく行かない。
そのうち紂王の暴政が悪化し、ついに彼は殷を去って周に赴くことにしたが、妻は都落ちを嫌がり、かつ太公望に愛想を尽かしていたため、離婚してしまった

数十年後、太公望は周の元帥となり、殷まで倒して東方の大君主ともなった。
するとかつての妻が彼のもとを訪れ、どうか復縁をとすがる。
そんな彼女に太公望は手元にあった盆(鉢)を覆し、「その水を盆に戻すことができたら考えよう」と応えた。
できようはずもないことである。「わたしとそなたの縁は、もう戻らないのだ」
彼の意志を悟った妻は悄然と去った。

なお、封神演義ではこの太公望の妻は「馬氏」とされ、殷にいたころの太公望を散々に振り回す鬼女房となった。
結局、都落ちする彼に愛想を尽かして去るのはいっしょだが、ヒステリーの気がある妻に手も足も出ず、しっちゃかめっちゃかになる太公望の姿は、コミカルであるとともに「妻には勝てない世の旦那衆」の姿「仕事はできても家庭ができないダメ旦那に憤慨する世の奥様方」の意志、ちょうど馬車を牽かせる文王のような立場になる太公望を描くことで「帝王だろうが元帥だろうが軍師だろうが、勝てないものはある」という民間の反権力の姿勢など、これまた「中国人の願望」が垣間見える。


安能版では、「覆水盆に返らず」のエピソードはなく、代わりに馬氏は凱旋する周軍を見送るかのように首を吊っていた。
まだ彼の妻だったころ、手習いで覚えた稚拙な文字で「祝子牙東征成功」と書いた紙を胸に張り付けて。


【日本の創作文化における太公望】

偉大な軍師である太公望は「封神演義」以後も、数多くの創作の題材となった。
物語の中で仙人となった彼は孫武らとはまた違う、半ば幻想の世界に入ったような人物として多くの作品で扱われていったのである。
それは日本でも例外ではなく、多くの創作者たちが太公望をモチーフとして創作を行っている。

そのなかでまず第一に挙げられるのが「釣り人」としてのイメージだろう。
渭水のほとりで釣るでも釣れるでもなく静かに竿から糸を垂らす老爺の姿は日本的美意識の琴線にも触れ、絵画の題材として盛んに用いられた。
重文指定された尾形光琳の太公望図が代表的なところである。

また釣り人を指す呼び名としての「太公望」も先述の川柳が示すようにごく自然と人々の口にのぼり、物語の中でも使われてきた。
現代にまで残る時代劇の中でも「太公望を気取る」などという言葉はよく目にするところだろう。
この場合はやはりもとのエピソードからか「一人で川釣りをしている相手」、それも「釣れずにいる相手」に使われることが多い。
絵になる姿だという賞賛と、一人寂しく釣れない釣りを楽しんでらっしゃいますなという皮肉とが絶妙にかみ合った名文句である。

そしてもうひとつは「封神演義」で確立された「戦う仙人」としてのキャラクターである。
雲に乗り霞を食べる浮世離れした一般的な仙人のイメージとは程遠い、仙術や軍略を駆使して強大な魔物や精強な軍勢を相手取る老軍師。
絶望的な戦況を忘れさせる頼もしさを持つこのキャラクターもまた、古来より封神演義をベースとした作品を中心に盛んに用いられてきた。
代表的なところは江戸後期の大衆文芸、高井蘭山の手による 『絵本三国妖婦伝』だろう。
この作品の中で太公望は、殷王朝を転覆せんとする妖狐の化身の正体を暴くべく照魔鏡を手に王妃妲己と対峙するのである。

「川辺にひとり釣りを楽しむ好々爺」「強大な敵に立ち向かう老軍師」。
この二つの相反するイメージを融合させたキャラクター性は現代にいたるまで踏襲されていくことになる。

現代日本に「太公望」の名前を広めたのは、第一には藤崎竜の漫画版『封神演義』であろう。
もちろんこれは完全にファンタジー漫画で、本作に登場する太公望も「ドラゴンボール孫悟空西遊記の孫悟空」ぐらいに違う。まあ一応こっちは歴史上の出来事に沿ってはいるが。
次いで、フジリュー版がタネ本にした安能務氏の封神演義である。もちろんこれも「中華帝国論」の一発目であり、安能師が極めて独特な見解を持っていたため、普通の「翻訳」ではない。

歴史分野の殷周革命については、古代すぎて資料が乏しく曖昧なことからゲームやマンガにもなりづらく、知名度がある割りには創作界隈での登場頻度は少ない。


  • 蔡志忠版
台湾の鬼才・蔡志忠による『マンガ版笑って読む封神演義』の主人公。
作者が好んで抜擢する「ハゲ仙人」の役であり、他の作品では荘子の役も演じている。

  • コーエー三国志
シリーズが進み、違う時代の武将が登場する「古武将」システムが実装されると、古代の軍師として登場するようになった。名前は「呂尚」。
伝説の軍師なので当たり前のように知力100。しかも、前線で戦車隊を率いた話や、戦後に斉国を経営して第一の諸侯にした話などから、統率力や政治力も極めて高い
封神演義の主人公としてか魅力値も高く、まさに「彼さえ得れば天下も取れる」といわんばかりの万能武将。
老人なので武力は低いが、そんなことは問題にもならないだろう。

  • 無双OROCHIシリーズ
声優:岸尾だいすけ
釣竿使いの仙人として登場する。
「全知全能」を自称する鼻持ちならない若者に見えるが、その頭脳と実力は本物。
無双OROCHI2ではかぐやと彼がいなければ、討伐軍の勝利はなかったと言っても過言ではないだろう。

  • ウルトラマン英雄伝
諸国をさすらい、邪悪な魔物を封印したと言う事からウルトラマンオーブが抜擢された。
オーブカリバーも打神鞭風にアレンジされている。
なお、申公豹役はジャグラーではなくウルトラマントレギアであった。



「君子はその志を得るを楽しみ、小人はその事を得るを楽しむ。いま吾、項目を追記・修正するは、それにはなはだ似たる有り」

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最終更新:2024年04月26日 12:00

*1 文王・武王親子が彼から軍事を教わったことはあるだろうが

*2 当時は戦車戦であり、馬に乗って戦う騎馬戦はまだ存在しなかった

*3 田氏にのっとられて田斉になるまで

*4 周王が擁立したため、現地有力者の支持を得られなかったのだろう

*5 紂王も出土資料では「帝辛」とされる。「辛」もまた十干の一つである

*6 漢の韓信・彭越・黥布、南宋の岳飛、明の李善長など

*7 隋の文帝・楊堅、宋の太祖・趙匡胤など。前漢の劉邦や後漢の劉秀などは自分で集めた軍隊を率いて戦ってきた経歴を持っている

*8 紀国。この国は姜姓で、斉にとっては分家にあたる。

*9 といっても五関一城のエピソードぐらいしかないが。しかもその「五関一城」は、封神演義では重要な舞台設定であるのに対し、関羽の場合かなり唐突に挟まれるうえに一度しか登場しないため、もとは封神系列で発展した話を三国演義が参考にしたと思われる

*10 ちなみに、胡喜媚は少し前に、女媧の密命を受けた我々もまた粛清される走狗であると悟っていた。この発言は姜子牙への恨みと言うより、同じ走狗として使い捨てられるもの同士の共鳴に近い

*11 これでは軍師というより占い師だが、諸葛亮も三国演義成立過程では妖術師っぽくなっていた時期があり、中国人の「軍師」観をも垣間見える