力道山

登録日:2019/09/23 Mon 07:31:34
更新日:2024/04/01 Mon 23:09:39
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●目次

◆力道山

力道山(りきどうざん)は、1924年(大正13年)11月15日生まれの日本のプロレスラー、元大相撲力士。
力道山とは、相撲時代の四股名をそのまま流用したリングネームである。
本名:百田 光宏(ももた みつひろ)
1963(昭和38年)年12月15日没。享年39歳。

日本プロレス界の父と呼ばれ、その偉業と名声は弟子であるジャイアント馬場アントニオ猪木と並ぶものである。
全盛期には俳優としても活躍しており、猪木の“アントニオ”は、主演を務めたテレビドラマの『チャンピオン太』内で猪木が演じた悪役の“死神酋長アントニオ”の響きを気に入った力道山が、そのままリングネームにしようとしたのに猪木が抵抗し、なんとか“アントニオ”だけにして貰ったということから付けられている。

アメリカに占領された戦後日本で、外国人レスラーを空手チョップで叩きのめす力道山の姿は、鬱屈した日本人の希望となり、街頭テレビで流される力道山の試合を見るために十重、二十重と黒い人だかりができた事は、戦後の日本を語る上で外せない思い出である。

……一方、その実像については未だに明かされていない部分が少なくなかったり、反社会的勢力や政界の大物とも親しかったりと、常に黒い噂が付きまとっていることも事実。
現在では英雄というよりは、影のある人物として力道山光宏を評したり、作劇に登場させられたりすることが多くなっている。

日本初のプロレスラーではないものの、日本では初めて世界にも名前が通じるまでとなった、当時を代表するトップレスラーにしてプロモーター(諸説あり)で、知名度に支えられた商才も発揮していたことから、力道山の主導により日本で初めてプロレスを認知させたプロレス興行会社である『日本プロレス』が設立され、この事が日本にプロレス文化が根付くきっかけとなった。

この、日本プロレスから現在までの日本のプロレス興行の基本となる巡業体制や、道場を作っての新弟子制度や付き人制度が引き継がれていくこととなった。
こうしたシステムは日本特有のもので、力道山が自分のルーツである大相撲から持ち込んだものである。
アメリカや他のテリトリーでも、プロレスを指導するための道場や道場を兼ねて興行を行う団体は存在しているものの、基本的にレスラーは個人商売で、プロモーターやオーナーとの契約に従って各々のテリトリーや団体に出場するのが普通であるため、かなり特殊な環境だと言える。
*1


【出自】

本名を百田光宏として知られているが、本来の出生は日本統治時代の朝鮮半島(咸鏡南道)で、光宏は日本に来てから名乗った通名である。

現地では、日本の相撲に似たシルム(朝鮮相撲)の競技者として活躍していようだ。
それに目を付けた長崎の興行師の百田巳之助と、彼の義子で地元の刑事補の小方寅一に見出だされて、地元の二所ノ関部屋に存在が知らされ、同部屋の親方であった関脇の玉ノ海梅吉に直に誘われて15歳で日本に来て、百田家の養子にされるとともに二所ノ関部屋に入門して角界入りした……と思われる。

戸籍上でも百田光宏とできたのは大相撲の廃業後で、大相撲時代の番付では朝鮮半島出身であることが特に隠されていなかった他、本人が名乗らなくても、光宏の字面から、これが通名であることを察する人間も少なくなかったという。
新聞に連載された「自伝」では、上記の経緯のように長崎県大村市の出身としていたが、卒業したとされる「大村第二小学校」は当地には存在していない。
この「自伝」は、ゴーストライターにより本人の希望を反映して執筆された創作である。

帰化以前の生名は金 信洛(キム シㇽラク)
このため、朝鮮半島(韓国、北朝鮮)でも英雄扱いで、力道山はヨットサン、またはリョットサンの呼び名で知られている。

しかし、力道山自身はプロレス転向後は自らの出自を頑なに隠しており、相当に信用した相手でなければ、この事実を明かさなかった。
実子である百田光雄によれば、父親の出自を“母”から聞かされたのは葬儀の時であり、大きなショックを受けたと語っている。
現役時代の最強のライバルであった、プロレス王者のルー・テーズは、本人の口から聞いていたと力道山の死後に証言している。

朝鮮時代の力道山については断片的な情報しか伝えられていないが、実際の生年は公称よりも前で実年齢も+5歳程上であると見られている。

実の母親は、兄とともに働き手である息子が日本に行くことに反対して、慌てて嫁取りをさせて子供まで生まれたが、力道山は妻子も母親や兄弟も捨てて日本に行くことを選んだようである。
この辺の経緯は金一勉:著『朝鮮人が何故「日本名」を名のるのか』に書かれているが、内容については概ねは事実とされつつも、当著書の時系列や記述にはあやふやな部分もある。
後に、弟子のアントニオ猪木が北朝鮮政府と深い関わりを持つことになったのは、北朝鮮で力道山の子を探したのがきっかけだった、とも言われている。

自らを慕って、密入国までしてきて逮捕された金一(キム イル)の身柄を預かって、自民党の大野伴睦の協力を得て帰化させ弟子にするとともに大木金太郎の名を与えて、決して朝鮮名を名乗らないようにと禁じたことも知られている。
……が、この“事実”すらが嘘で、もともと、横浜で働いていた金青年(大木)が普通に日本プロレスに入門し、後になって力道山が同胞だと知った(桔梗の花を理解できなかった大木に対し、力道山が密かにトラジのことだと教えた)ことから創作された“美談”のようだ。
大木は、後輩の馬場、猪木とともに「三羽烏」と呼ばれて活躍した、往年のプロレスファンには忘れ得ない名選手である。
力道山も馬場や猪木よりも、同胞である大木を可愛がったと伝えられる。

1963年1月には、韓国側の要請で金浦空港に降り立ち同国のレスリング関係者に歓待されているものの、本人は“忘れた”として、簡単な挨拶の部分でしか朝鮮語を話さなかった。
そして、帰国後にこれを“故郷へ帰った”と報じた東京中日新聞の記事を見て激怒したと伝えられ、この件はオフレコとされた。
そして、力道山は恐らくは複雑な感情を抱いていたであろう故郷の土を踏んだ同年の暮れに死去したのであった……。

2004年に公開された映画『力道山』は日韓共同で製作されたが、主演や監督も含めて韓国主導で製作が進められた。
なお、同映画には力道山からすれば孫世代に当たる多数の有名プロレスラーも出演しているが、田中敬子元夫人率いる『力道山OB会』は協力しておらず、子息の百田光雄が協力している。

また、映画の中では大村親方と皮肉を込めたのかのような偽名を使われ、力道山を裏切り廃業の原因を作った悪辣な人物として描かれている師匠の玉ノ海の描写について、大相撲中継を担当しているNHKが訴訟を起こそうとしたのを、玉ノ海が「力道山の出自が広まる」として止めた、という話も伝わる。
が、当の玉ノ海梅吉は1988年に逝去していることや、映画の製作を韓国側が主導していることも含めて、力道山の出自はこの頃までには当たり前に知られている事実を鑑みても、何だかよく解らない話である。


【大相撲力士として】

力道山が初土俵を踏んだのは昭和15年(1940年)の五月場所。
初入幕を果たしたのは、昭和21年(1946年)の十一月場所である。

入幕二場所目となる昭和22年の六月場所にて、前頭八枚目で9勝1敗を挙げて、相星となった他三名とともに優勝決定戦に進んでいるが、この時は横綱の羽黒山が決定戦を制している。
昭和23年の五月場所では、横綱の照國、前田山(取り直しの末、前田山の棄権により不戦勝)*2、この場所で優勝した大関の東富士を破り殊勲賞を受賞している。

昭和24年の五月場所では関脇にまで昇進するも、翌25年の九月場所を前に、自ら髷を落として廃業しており、最後の場所の成績は全休となっている。

通算成績:135勝82敗15休 勝率.622
幕内成績:75勝54敗15休 勝率.581

……と、素晴らしい成績を残しながらも力士を廃業したことについては、民族の壁に阻まれて大関昇進が敵わなかったり、親方との金銭トラブルがあったから……と、表向きにはされているものの、
実際には、当時は戦後の混乱期で、角界と興行を維持するためには、相撲人全員が借金を背負わなければならなかった時代で(実際、当時の記録を見ると全ての場所が行われていない年がほとんどである)、大関に昇進してもロクな祝儀が受け取れないことが解ったために、あっさりと廃業を決意したという。
戦績からも、平幕や小結では大きく勝ち越すものの、明らかに関脇では苦戦しており、後年の商才を考えてもこのころから独特の嗅覚を発揮していたと言えよう。
師匠である玉ノ海は慰留に務めたとのことで、映画『力道山』では悪意的に描かれている戦犯容疑についても、部屋のために配給外での食糧を確保する目的があったからだという。

また、この力士時代に故郷の朝鮮半島は日本の統治を離れ、1948年には南北が分裂して北朝鮮と韓国に分かれ、1950年からは朝鮮戦争までもが勃発するが、それでも公表はおろか、祖国に対する表立った発言や行動も見せなかった。


【プロレス転向】

力士を廃業後は、二所ノ関部屋の後援者であった大物ヤクザの 新田新作の経営する新田組 新田建設に資材部長の待遇で迎えられて働いた。
この時の記憶がある光雄は、現場監督をしていた、と発言している。

その後、ナイトクラブで飲んでいた時に、ハワイ出身の日系人レスラー・ハロルド坂田(トシ東郷)*3と知り合い、彼の紹介を受けてプロレスラーになるための訓練を始める。
1952年2月にハワイに渡り、ホノルルで日系人レスラーの沖識名の下で指導を受けてプロレスラーとしてデビューし、アメリカ本土に遠征して300戦(ほぼ毎日!)もの試合をこなした……と、されていた。

実際には、ハロルド坂田と出会ったのは偶然ではなく、売名目的で挑戦表明等をしていたのを、反対に力士廃業後の力道山の面倒を見てくれた……らしいことが想像される。
また、当然と言えば当然だが、300戦に及ぶ遠征についても、それ以前からアメリカで戦っていて、当の力道山とも組んでいた遠藤幸吉が疑問を口にしている。

翌1953年、日本にも本格的なプロレス興行を根付かせる夢を抱いた力道山は政財界の大物を訪ね、新田新作と興行師、浪曲家の永田貞雄の協力を得て『日本プロレス』を設立した。
日本プロレスには興行を行う『日本プロレス興行株式会社』、業界組織である『日本プロレス協会』から成り、さらに上位組織として『日本プロレスコミッショナー』が存在し、これには当時の自民党副総裁の大野伴睦、川島正次郎も名を連ねていた。

力道山は翌年から開始した初興行にて“世界タッグ王座”を持つシャープ兄弟を招聘して14連戦を行い、まだ誕生直後のテレビの電波に乗ったこの試合にて、西洋人にチョップを打ち込みまくって喝采を浴びた力道山は、戦後日本のヒーローとなる

……この時に、力道山自身から声をかけられてパートナーとなったのが、日本史上最強の柔術家とも呼ばれた木村政彦
しかし、木村はプロレスの試合では負け役を負わされ、木村を力道山が得意の空手チョップで救い出す構図となったことが、この後の両者の亀裂に繋がった。
木村ほどの格闘家がプロレスに対応できていたとは言い難いことについては、相手の技を受けねばならないプロレス特有のルールに対応できなかったから、とも、そうしたシナリオ(ブック=台本)に従っていたから、とも言われる。

いずれにせよ、力道山に従うことに我慢できなくなった木村は日本プロレスを退団して「国際プロレス団」を設立して独自に興行を行うが客足は乏しく、遂には朝日新聞を通じて力道山のプロレスはショーであるとぶちまけ、真剣勝負による決着を訴えた。

こうして、同年12月22日にプロレス選手権試合として、蔵前国技館にて両者のシングルマッチが行われることになった。
“昭和の巌流島”と呼ばれ、国民の注視を浴びたこの試合であったが、結果は木村の急所蹴りとされるが不明で検証も現在は不可能 に激怒した力道山が、不意討ちのパンチにより倒れた木村に対して、さらにチョップの雨霰を打ち込み、血反吐を吐かせてKOした。
……もっとも、この結末については当時から不可解な結末、試合内容について不可解な部分がある、と言われており、後日、力道山が木村が八百長を持ちかけたことの証拠となる念書を公開し、木村の名は地に墜ちた。

……しかし、それでもこの試合については不可解な点が多く残り、60年以上が過ぎてもなお、日本のプロレス、格闘技界最大のミステリーとなっている。
多くの検証記事や、この事件をネタとした創作もされているが、もともとは両者の和解も含めて連戦として、互いに勝敗を積み重ねながら興行とするつもりだった、とも言われる。

また、八百長を持ちかけたのは力道山の側で、木村は当て身(打撃)禁止のルールを了解していたのを力道山が破り、木村が対応し切る前に本気の打撃により倒した、とする見方もある。
実際、当時の報道の中にも木村の急所蹴りは力道山が浴びせ蹴りを仕掛けたのが外れたことによるアクシデントだった、とするものがある。

後に両者は仲介者を経て和解したものの、結局、この件についての真相は語られなかった。
木村にとっても、レフェリーを含めて力道山側の証言者ばかりでは何を言っても無駄となっていた可能性が高い。
ノンフィクション作家を表明する増田俊也は、2011年に本件を入念に取材したとする『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を発表して大きな話題を呼んだ。

なお、この件について木村と親交があった空手家の大山倍達が力道山に挑戦を表明するも無視されており、当時は後に大山が設立して世界的な知名度を持つまでになる極真空手道も存在していなかったために、マスコミも大きくは取り上げなかった。

この件は、力道山と大山の双方と親交のあった梶原一騎が、原作を描いた『空手バカ一代』の中で取り上げている他(同作内で力道山はアメリカで大山と親交を持ちながらも堕落する卑怯ものとして描かれている)、
最近では板垣恵介の『バキシリーズ』の外伝である『拳刃』内にて、大山(愚地独歩)、木村(範馬勇一郎)、力道山(力剛山)の構図で描かれており、こちらでは徳川の協力を得た独歩が勇一郎の復讐を果たして、名誉を取り戻している。

こうした描かれ方でも解るように、現在では“昭和の巌流島”に於いては力道山の陰謀とするのが一般的な見解となっているようである。

いずれにせよ、この件を経てさらに名声を高めた力道山は1950年にキングコングを破りアジアヘビー級王座を、1958年には世界最強と謳われたルー・テーズを破りインターナショナルヘビー級王座を獲得。
これが、馬場にまで引き継がれる日本プロレスのフラッグシップタイトルとなった。

……が、シャープ兄弟の経歴も含めて、これらの“設定”については、実は力道山のプロモーションによる“宣伝”であったと見られている。
シャープ兄弟は、実はカナダのローカルエリアの選手で、インターナショナル王座は新設したものを権威付けのためにテーズに負けて貰ったタイトルでだった……ようだ。
なお、シャープ兄弟との戦いの時には“元大関”と経歴を盛ったのを咎められて訂正している。

しかし、こうした“演出”は、当時のプロレス界の常識だったので、力道山が特別に汚かった訳ではない。木村の一件は除く。

その後も、全盛期は過ぎたとはいえ力道山は国民のヒーローとして戦い続けた。
噛み付き攻撃を売りとした、フレッド・ブラッシーとの対決では中継を見た老婆がショック死したと言われたし、視聴率64%を記録したザ・デストロイヤーとの試合では、多くの少年たちをプロレスごっこの足4の字固めに興じさせた。

豊登、大木金太郎、ジャイアント馬場……弟子となった新たなスター達も誕生した。猪木は力道山存命時は冷遇されていた。

……しかし。


【突然の死】

1963年12月8日。港区赤坂のナイトクラブで、暴力団員の村田勝志と“足を踏んだ、踏んでいない”の些細な口論となる。しかも、その因縁は力道山から吹っ掛けたものであった。
怒った村田も「力道山の体格では足が踏まれてしまっても当然」と言い放ち、懐に隠していた登山ナイフを探る様子まで見せたので、力道山は慌てて和解を申し出たものの、村田としても収まりがつかず口論が続く中で力道山は不意打ちを食らわせて馬乗りになって殴打。
その中で、殺されると思った村田は力道山を刺した。

救急に運ばれた力道山は応急手当を受けて帰宅。
暴力団とも付き合いのある力道山に対して、村田の所属団体の組長が訪ねてきて謝罪するが、翌日になって症状が悪化して緊急入院となった。

入院先の山王病院は産婦人科が専門なので、手術のために他の病院から外科医を呼び寄せたようなありさまであったが、力道山が頑なに山王病院を選んだのは、顔見知りの医者がいて表に話が漏れないことを望んだためであったという。
入院してから7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に再び手術に入り、ここでも成功と伝えられたものの、それから6時間後に容態が急変して死亡した。

この死については、またもや 梶原一騎が『プロレススーパースター列伝』の中で、経過は良好だったのに、力道山が絶対安静にもかかわらず、いつもの調子で酒や寿司を大量に飲み食いをしたことが原因で容態が急変した、と紹介したことで広まった。
実際、力道山が最初の手術の後に本来は禁じられている炭酸飲料のサイダーやコーラを飲んでいたとする証言も出ており、全治2週間とされていたのが悪化して二度目の手術をする羽目になったのは、それが原因であったと言われる。

力道山は普通の人間より血が止まるのが早く、筋骨隆々とした見た目の通りに頑健であり、本人も己の肉体を過信していたのではないか? とも予想されている。

しかし、二度目の手術については夫人の田中敬子(10ヵ月前に結婚したばかりで、力道山の死後に百田姓から抜けている)が否定しており、医療ミスを指摘する声もある。
また、力道山自身の朝鮮への態度とは食い違うが、力道山が金日成にベンツを贈り多額の出資を北朝鮮に行っていたと言われたり、韓国に行った事実などから、祖国のために働いていたのをアメリカ(CIA)の横槍により暗殺されたとする説まで囁かれ、北朝鮮では“祖国の英雄”の死の真相として採用している。

……が、そんな陰謀論を余所に、力道山を刺してしまった村田は、その後で仲間の組員達に制裁としてボコられ、堪りかねて1人の組員を刺してしまうも病院送りにされている。
そして彼は、奇しくも側近たちが力道山を入院させようとしていた“腕がいい”ことで知られている赤坂の前田外科に入院して回復し、2004年に刊行された『力道山の真実』などで当時のことをインタビューで答えた後に、2013年に74歳で没している。

力道山の菩提寺は東京都大田区の池上本門寺だが、日本での故郷とした長崎県大村市の百田家の菩提寺の長安寺にも分骨されている。
本門寺の墓所には力道山のブロンズ像が飾られている。
戒名:大光院力道日源居士


【人物について】

プロレス王者としては大らかで快活な印象があるが、実際には非常に粗暴で、感情の起伏が激しくムラがあったと言われている。
飲食店で暴れるのも日常茶飯事で、機嫌の良いときにはボーイに一万円ものチップで渡す*4一方で、機嫌が悪いときにはすぐに暴力を振るい、備え付けられたテーブル等を破壊することが常であった。
その都度、多額の金銭で口封じを謀ったが、それでも『力道山また暴れる』*5との見出しで新聞記事に載ったことがある。

可愛がられていた元プロ野球選手の張本勲によれば、薄いガラスのコップを食べてしまうといったエキセントリックな面があったと証言されている。

こうした激情については、もともとの性格の他にも晩年は肉体の衰えをカバーするために興奮剤の類を常用していたから、とも言われている。

そんな調子なので弟子たちにも畏敬の念とともに、その人間性への問題を指摘する声も多い。

特に、付き人であった猪木は日常的に理不尽な暴力を受けており、挙げ句の果てには「力道山は猪木を大相撲送りにする腹積もりもあった」とまで言われる。

結局、猪木が豊かな才能を開化させたのは力道山が死んですぐのことだった。これは師匠の側近の中にも猪木の才能を認めていた者はいたが、彼の存命時には方針に逆らえなかったことを物語るのかもしれない。
一方、猪木については「体重が100kgを越えたら海外修行に出させてやる」と言っていたとされ、実際にやせ形の猪木は、後の公称でも100kgギリギリの体重である。

いきなり「スター選手」として迎えられたことから付き人を経験せず、力道山に殴られたことが無かったとする馬場でさえ、「人間として、何一つ良いところのない人でした」と人格について苦言を呈している。

性格が変わるのはやはり酒を飲んだ時が多く、対戦相手の外国人レスラーたちを迎えて楽しい酒宴を開く一方で、相撲時代から関係者に配慮ができない場面が多く見られ、喧嘩は自ら売ることは少なかったものの、何度か煽られたら買うことにしていたという。
プロレス王者となってからは興行の関係で暴力団関係者と多く接触を持つことになったが、相手への配慮を欠いた行動に及んではトラブルを呼び、監禁未遂や付け回しに遭い、ハッキリと命を狙われたこともあったという。
力道山と親しかった山口組三代目の田岡一雄も、自伝内で力道山の性格を嘆いており、漫画原作者の梶原一騎はかなり好意的に捉えて登場させていたが、大山と親交を持ってからは愛憎相半ばした捉え方に変わっており、気風の良さや強さは肯定的に描くものの、それらはコンプレックスの裏返しとも言える描写が増えている。

また、敬子夫人によれば力道山が猟銃を何丁も所持していたのはヤクザとのトラブルが原因で、どこからか拳銃まで入手していたともいう。

このように、英雄と讃えられた現役当時から悪い噂もあった人物で、日本以外での知名度に疑いもかけられたが、2011年にNWA殿堂、2017年にはWWEのレガシー殿堂に迎え入れられている。


【スパルタ指導】

息子や若手への指導は、現代の観点から見ると合理的とは言えないレベルのシゴキであった。
当時は第二次世界大戦から間もなく、旧軍人が各界に軍隊のシゴキを導入していた、つまり時節柄というのも一因ではあるが。

息子の百田光雄によれば、水泳の練習と称しいきなり足の付かない深さのプールに放り込まれたり、初めてスキーに連れていかれた時には、いきなり上級者コースから滑らされて骨折する大怪我を負ったという。
もっとも、大怪我の時は寝ずに付きっきりの看病をしてくれたそうだ。

日本プロレスでの厳しい指導を伝える伝説としては、若手レスラーが行った数千回にも及ぶスクワットで床に数cmもの汗溜まりができた、という物がある。

また、馬場はチョップを強くするためにハンマーで手を殴るという指導を受けていた、馬場は特に問題は生じなかったものの、頭突きを武器にするように言われた大木は、実際に頭突きの名手とはなったが、それ一本を武器にし続けたことで脳血管疾患(パンチドランカー)を抱え、1982年には事実上の引退を余儀なくされてしまった上に、その後の人生で多数の疾病を抱えることになってしまった。
大木は、以前の交通事故で頭の中にガラスが残っている状態で、それでも頭突きを使っては使う度に血を吹き出すありさまであったという。


【経営者として】

プロレス興行の成功により得た莫大な資金を元手に、赤坂に住居を兼ねた高級集合住宅リキ・アパートを建てたのを皮切りに、高級クラブのリキ・アパート、高級マンションのリキマンションを建てた。
リキ・アパートには大野との関係から、若き日の中曽根康弘が事務所を構えていた。

渋谷には地上9階建てでプロレスリング会場の他、リキトルコ、ビリヤード、ボウリング、レストランが入り、ボクシングジムの経営にまで手を伸ばしていた。

死の直前まで相模湖畔にモータースポーツも行える大規模なゴルフ場レークサイド・カントリークラブの建設を開始していたが、力道山の死去により未遂に終わっている。

三浦半島の油壺にも土地を購入し、マリンリゾートを建設するつもりだったとも言われ、油壺には良く似た名前の水族館が2021年まであった。

日本プロレスは力道山の死後から数年で幹部達の放漫な経営体制が批判されて猪木を初めとして多数のレスラーや関係者の離反を招き、1973年に消滅した。


【得意技】


力道山の代名詞。
形としては袈裟斬りチョップが多く、相手の胸板やら肩口やら顔面にも叩き付けられた。
なお、件の『空手バカ一代』でも触れられているが、力道山のチョップは相撲の張り手の応用であって、本来の空手のチョップ(手刀)とは要領が違っている。
技の見た目からの通称であったのが、正式に使われたというパターンである。
海外ではなぜか空手でも相撲でもなく「Judo Chop」と呼ばれていたとか。


  • 逆水平チョップ
当時は空手チョップ水平打ちと称されていた。
相手の胸板にバックハンドで打ち込むチョップだが、力道山はムカついた相手には、わざと喉元に打ち込み黙らせることがあったという。
また、力道山は相手にチョップを打ち込む時に「この朝鮮人野郎」と(相手が西洋人でも)罵倒しながら打っていたという。


実は隠れた名手であり、憧れの存在だったルー・テーズのバックドロップに自身もやられた経験を元にタイミングを盗み、力道山の場合は相手の片足を抱える抱え上げ式の形だったものの、見事なバックドロップにより相手を一撃でKOしたこともあった。


この他の得意技としてはハンマー投げと呼ばれる相手の腕をとった投げや、ボディスラム、意外にもグラウンドも得意で、キーロックや、STFのような足関節技も見せていた、との証言もある。


【余談】


  • 前述のように、力道山は日本初のプロレスラーという訳ではない。
    第一号は、やっぱり大相撲出身のソラキチ・マツダで、なんと1883年にアメリカでデビューしている。

  • 日本プロレスも日本初のプロレス団体ではなく、前年に山口利夫が設立した全日本プロレス(もちろん、馬場のものとは無関係)で、日本初のプロレス中継も全国放送ではなかったが山口の試合であった。
    しかし、政財界と暴力団の協力を得た力道山が全国放送を得て、その後の日本のプロレス界の礎を築いたのだ。

  • 逆三角形に鍛え上げられた肉体美を誇ったが上背は余りなく(176cm)、プロレス時代には4cmサバ読みしていた
    これに合わせて他の日本人レスラーも4cmサバ読みされ、外国人選手も日本で紹介される時には4cmサバ読みされるという慣例ができた。
    この慣例は、力道山の死後も延々と引き継がれたが、後には正直にプロフィールに記載する選手も増えたので混乱を与えている。また足の細さを胡麻化すためにロングタイツを着用していた。

  • 莫大な資産(40億円=現在の価値に換算すると180億円)を残したものの、ほとんどが不動産で20億円を越える莫大な相続税を払うためにことごとく安く売り払ってしまったことと、相続人が若い夫人と子供たちだけで相続に関する知識が足りず、資産の他に力道山の借金もあって、その支払いに追われる中で莫大なはずの遺産は、ほとんど手元に残らなかったことを百田光雄が告白している。

  • 子息の百田光雄は1968年のデビュー以来、半世紀を経た現在でも引退しておらず、夭逝した父親に対して、記録的にも現役最長のプロレスラーとなっている。
    2013年には、更に光雄の子息の百田力が苦労を経てプロデビュー。
    現在、力道山三世のニックネームで奮闘中である。

  • 2019年3月に「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤーが亡くなったことで、日本プロレスで力道山と対戦した外国人プロレスラーは全員鬼籍に入ったと言われている。

  • 長崎県の平和公園にある平和祈念像のモデルである、という地元の言い伝えがある。
    だが平和祈念像の制作を開始したのは1951年でちょうど力道山が相撲の引退とプロレス開始の合間にあたる時期で、その時の力道山にそこまでのネームバリューがあったかは微妙。





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最終更新:2024年04月01日 23:09

*1 後の世代のトップレスラーである蝶野正洋は、付き人で得た経験があることを公言する一方で「若手育成の環境として良いものなのかどうか?」とインタビューで答えている。

*2 力道山は三場所続けて前田山から不戦勝を挙げる珍記録をもっている(前田山から見れば三場所連続同じ相手に不戦敗ともなる)

*3 後に『007/ゴールドフィンガー』のオッドジョブ役で有名となる。

*4 当時の一万円は現在ならおおむね十万円ぐらい。

*5 新潮文庫から出版された泉麻人著「B級ニュース図鑑」にはこのことに関しての記述がある。