前田日明

登録日:2024/03/15 Fri 22:02:54
更新日:2024/04/09 Tue 12:54:54
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前田 日明(まえだ あきら)は、日本の元プロレスラー。タレント。格闘技イベントプロデューサー。
1959年1月24日生まれ。大阪府大阪市出身。
本名(通名)、及び旧リングネームは前田 明
現役引退後に在日韓国人三世であることを明かしており、公表より遥か前に帰化は果たしていたが半島名は() 日明(イルミョン)である。

出自の反動もあったのか*1、政治的な発言をすることも少なくないのだが、思想的には保守というよりも右派的であり、帝国主義と揶揄されることもある戦時中の日本軍を支持していると公言している。
過去には民主党から出馬の打診を受けたこともあったのだが「政治的な方向性が違う」として決裂している。

1980年代を代表する格闘技、プロレスのカリスマとして知られる一方で、強くなろうとしたのが『ウルトラマン』の最終回でウルトラマンゼットンに敗れたのを見てショックを受けたからだと堂々と話す程のオタク的志向の持ち主でもある。
尚、ゼットンには後に招かれたウルトラマンの公式イベント(2014年1月のニコニコ動画に於ける『ウルトラマン Blu-ray BOXⅢ』発売イベント)にて勝利している。

また、格闘技界に於いては随一の、芸能界で見ても有数のおっぱい星人として知られている。


【プロデビュー前まで】

とにかく伝説的な逸話が多い人物であり、その伝説はデビュー以前より既に始まっていた。
学生時代は大阪の伝説的不良であり、素行が悪いよりも何よりも喧嘩の強さで知られていた。*2
これについては、自身のルーツの一つである空手修行に於いて、通っていた無想館拳心道の道場が“実戦修行”を推めるような無茶苦茶な流派であった影響も大きい。
余りにも強すぎて相手が居なくなり、遂には力士に挑んでみようかと本気で考えた程だったものの、適当な幕下力士でも相手にしようと思っていた所でそこに居合わせた輪島大士を見て、余りのゴツさに流石に力士に挑むのは止めたとのこと。
余談であるが、この時の記憶があったことから後にプロレスに転向した輪島が新人の立場でボコボコにされているのを見て(自分が若いながらもメインイベンターになっていたこともあり)複雑な気持ちになったという。

更なる余談としては、当時の大阪では赤井英和も同じく伝説の不良として暴れ回っていたのだが、学生時代には遂に出会うことはなかった。
……それというのも、取り巻き達が“ふたりが会ったらそれこそ洒落にならん”と思って接触しないようなしていたから……とのこと。

少年時代の前田の生き方に大きな影響を与えたのは他ならぬ父親であり、小学生位までは普通の家庭であったが、後に父親が別宅を作った影響からか離婚。
前田は父親に引き取られはしたものの放置子のような状態となった。
新しい家は工場の2階で、四六時中機械の作業音が聞こえるストレスの貯まる環境の中で読書に救いを求めて戦記物を好んで読むようになったことが後の政治信条を育てた。

父親は戦時中に片腕を失っていたが鍛えており、前田も小学校から少林寺拳法を高校からは前述の通り空手を習っていたがそれでも怖かったとのこと。

別宅に入り浸っていた父親とは一緒に住むことはなかったが、高校の頃に一人での食のたづきにすると理由を付けて無理を言ってバイクを買ってもらっている。

伝説の不良でありつつも受験には挑戦したが失敗。
米国で空手道場を開く夢を保ちアルバイト生活をしていた所で佐山聡のスカウトを受けて新日本プロレスに誘われることになる。


【新日本プロレス時代】

77年に入門し、78年8月25日にデビュー。
当時のプロレスラーとしては珍しく、プロレスに憧れていた訳でもなければ、新日本プロレス入りに関してもアントニオ猪木に憧れていた訳でもなかったという珍しい動機の持ち主。
新日本プロレス入りしたのは当時のフロントの新間寿に「モハメド・アリのジムと提携していて米国でボクシングのチャンプも目指せる」と大嘘をこかれていたからだが、入門後は余りの練習の厳しさと環境の過酷さにそんなことは吹き飛んだという。*3
同期*4にはジョージ高野と平田淳二がおり、才能に溢れていた3人は“三羽烏”として期待をかけられていたが後述の新日本プロレス自体の混乱という理由もあってか前田以外は大成したとは呼べなかった。(前田も真っ当な意味でのプロレスラーとはならなかった。)

練習量もそうだが、背は高くても少食で線の細かった前田はレスラーの食事量に慣れるのにも苦労したとのこと。……後には大食漢として認識されるまでになった兄やんとしては信じられない話だが。


高身長でハンサムな前田は瞬く間に女性人気を獲得。
出世コースに乗せられた前田は82年2月から欧米修行に出され、サミー・リー(佐山聡)と入れ替わる形で英国マットに登場して、サミーの弟のクイック・キック・リーとして売り出されて、同じく人気を獲得した。
タイトルまで獲得した後に、修行の総仕上げとしてカール・ゴッチの下に送られた前田はここでジャンボ鶴田を越える12種類のスープレックスを身に着けたと喧伝されて83年に4月に帰国。
新日本の若きエース候補として活躍していくことになる。

当時の新日本プロレスは初代タイガーマスクブームの末期の頃であり、前田はタイガーとはまた別のキックとスープレックスの使い手として注目を集める。
一方で、凱旋帰国の相手となったポール・オーンドーフが前田の繰り出したニールキックを受けて「あんな危険な技が許されるのか!?」と抗議する等、そのファイトスタイルと姿勢については批判と議論を呼び続けることになる。


【第1次UWF】

人気者として期待をかけられていた前田だが、84年2月の合同練習を最後に新日本プロレスを離脱。
WWF(現:WWE)にて新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座(名前だけ聞くと紛らわしいが“インターコンチネンタル王座”とは別物。)を獲得。
これは、当時は提携していたWWFの役員でもあった新間寿の働きかけで作られたタイトル。
この当時、新日本の資金を私的流用した件にて詰められ、新日本に猪木が留まれなくなる可能性も考えた新間が猪木の新たなる受け入れ先として設立した新団体UWF(Universal Wrestling Federation)の宣伝と箔付けの為に先んじて引き抜いていた前田の為に新設した王座であり、ベルトには堂々と“UWF”と掲げられていた。

実際、前田も猪木本人から「俺も後から行くから」と伝えられていたというが結局は『ワールドプロレスリング』の放送局であるテレビ朝日の介入により猪木の合流の件は有耶無耶となり、前田とそれに追随した選手達が新日本に不満を持って離脱した……という感じに扱われてしまった。
猪木から「お前だけで戻ってこい」とも言われたという前田だったが、他にも移ってきた選手が居る以上は自分だけ戻るわけにはいかない、としてUWFとしての活動を開始。
新日本を離れたカール・ゴッチの指導もあってか徐々に従来のプロレスよりもリアリティのある闘いをする団体としての個性を打ち出し、やがてはマニアより熱狂的な支持を受ける団体となり後の総合格闘技ブームの礎を作った。
しかし、後に合流したスーパータイガー(佐山聡)の独善的な振る舞いについて行けない選手達も出始め、ルールの複雑化や対立の表面化が目立っていくことに。
そして、85年の9月に佐山の預かり知らぬ所での新日本プロレスとの業務提携が話し合われる中で前田が佐山に不穏試合を仕掛ける事態へ。
この一戦が最後の止めとなったかのように85年9月をもってUWFは活動を停止。

前田と高田伸彦のみに商品価値を見出していたジャイアント馬場の全日本プロレスもその後の享受について接触を試みていたともいうが、結局は前田等はUWFとして新日本プロレスへと出戻ることになった。


【新日本プロレス復帰〜永久追放まで】

85年12月に業務提携が発表されて復帰した前田達は86年Ⅰ月に猪木への挑戦権をかけたUWF内でのリーグ戦の決勝にて前田と藤原喜明が対戦して薄氷ながら藤原が勝利。
前田以下が見守る中で猪木に挑むが、猪木の反則も織り交ぜた戦い方の末に藤原は敗北。
怒りの前田が試合後の猪木に報復のハイキックを見舞い「猪木なら何をやってもいいのか」と批判したことで新日本vsUWFの対抗戦が勃発。
かつては同じ釜の飯を食っていた同胞ながら道を違えた者達によるイデオロギー対決(というよりは従来のプロレスをUWFがリアリティのある闘いで破る構図)に観客は熱狂し、長州力の離脱とジャパンプロレスの全日本プロレスへの電撃参戦などにより屋台骨が揺らいだと言われていた新日本の久々の起爆剤となった。

一方で、UWF勢の中でも特に前田の戦い方についてはレスラー間から不満が噴出。
アンドレ・ザ・ジャイアントとの伝説的な不穏試合や、ディック・マードックにバックヤードで「お前がしたいのは試合か?喧嘩か?」と詰められたとされるのはこの頃の話である。

しかし、86年6月には藤波辰巳と伝説的な流血戦を展開。
危険と言われていた前田の蹴りを受け切っての藤波の相打ち決着に前田は悔しさではなく「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた。そしてその仲間とこれから大きな国を作っていく...そんな心境です。」……と賛辞とも感謝とも取れる言葉を述べた。

そして、86年10月にはキックボクシング王者のドン・中矢・ニールセンに挑んだ試合にて同じく異種格闘技戦に挑むも不完全燃焼に終わった猪木とは違い、名勝負としたことでファンの圧倒的な支持を受けることに成功。
これにより、前田は“新格闘王”の称号を獲得して時代の寵児となった。

その後、87年2月から全日本プロレスに参戦してトップ級の活躍をしていた長州が不穏な動きを見せ始め、古巣である新日本に5月に復帰。
UWF勢との絡みも期待されていたが長州は「俺達の時代」を叫んで前田にも共闘を呼びかけた。
こうして始まった長州・藤波・前田を中心とした若い世代と猪木らベテラン世代と、言いつつ凱旋帰国後の誰よりも若い武藤敬司が入れられていたが。の対決アングルが組まれたもののカード編成的に限界が生じたからか本隊vs長州軍の構図に……一方で、存在感が薄まることを危惧した前田が長州を批判する等していた中で、87年11月にタッグで長州がサソリ固めを仕掛けた所を前田が最後の死角からの強烈な顔面ハイキックでカット……する所か顔面骨折の重症を負わせた顔面蹴撃事件が発生。

これを重く見た新日本は前田を解雇。
処分される前田に追随する形で藤原や高田らも退団し、UWF勢は事実上の追放となった。
そして、前田達は再び自分達の居場所を自分達で作るための準備に取り掛かり、88年4月に第2次UWFが結成されることになる。


【第2次(新生)UWF】

88年5月に第2次UWFの旗揚げ戦が行われた。
過去の失敗を経て、第1次よりも更に脱プロレスを図った試合形式となりラウンド制で3カウントルールが廃止、決着はギブアップかKOのみとなった。
通常のプロレスとは違い月一回のビッグマッチ形式に絞る、等の後にU系団体の基本となるルールやシステムが採用され、入場にレーザー光線やスモークが焚かれるといった格闘技系イベントにも引き継がれた演出が採用されて熱狂的な信者を生むことになったが前田と不透明な経理を続けていたフロントとの軋轢が大きくなる中でフロントを公の場で批判した前田が90年10月に出場停止処分に。
これを受けて90年12月には船木誠勝の呼びかけで試合後に前田を含む所属選手全員がリングに上がり団結をアピールするも、これを受けて社長の神新二は所属選手全員を解雇。
91年Ⅰ月に自宅マンションに選手達を集めた前田は今後の享受を問うが、これに宮戸優光や安生洋二が反発。
前田は選手としても解散を宣言し、第2次UWFは前田のリングス、高田、山崎、宮戸、安生のUWFインターナショナル、藤原に船木と鈴木みのるが帯同した新UWF藤原組に分裂することになった。(後に船木と鈴木が中心となって独立してPANCRASEが設立。)


【リングス時代】

前田は世界の未知なる強豪を呼び寄せる場としてリングス構想を打ち出し、WOWOWがスポンサーについて91年3月に設立。5月より興行スタート。
ヒントとなったのは、新日本プロレスがペレストロイカ後のソ連よりレッドブル軍団と称してアマレス選手達を招聘してプロレスデビューさせたことで、前田もそれに倣いソ連やオランダをメインに日本では無名だった選手達を招聘してプロとしてデビューさせて試合を行った。
WOWOWは元々は第2次UWFを目玉コンテンツとして取り込もうとしていた中での解散騒動だったが、最もネームバリューのある前田のスポンサーになることで失意の前田を救うと共にリングス構想を救ったのだった。
しかし、スタート時の正式な所属選手は前田のみで、前田が居なければ興行を開く意味がないという中で旗揚げ2戦前の練習時に前十字靭帯断裂。側副靭帯損傷の重症を負ってしまうことに。
上述の理由から膝にニーブレスを付けて強行出場を続けたが、これが現役生活を縮めて現役生活の末期にかけてウェイトコントロールを困難とする理由にもなっていった。
後に軌道になったリングスが前田に頼らずとも興行の目玉が揃えられるようになると共に手術に臨み長期欠場している。
リングスが生んだスター選手としては、ディック・フライ、ヴォルク・ハン、高阪剛、田村潔司、山本宜久、長井満也、成瀬正由らの名前が挙げられる。


【現役引退】

1999年2月21日に40歳を迎えたタイミングで現役引退。
現在の視点からすると早すぎる気もするが、それだけ膝の重症を長期に渡り放置したことが肉体の負担になっていたのであろうと分析される。 バーリ・トゥードが話題となり、かつての弟分の高田がヒクソン・グレイシーに敗れた時には自らも対戦表明を出していたこともあった前田だったが、最後の対戦相手は、当時“霊長類最強”とも謳われていたロシアのアマチュアレスリング無差別級チャンピオン・アレクサンダー・カレリンであった。
当時のカレリンはまだ現役であり、前田のキックをカレリン陣営は警戒したがカレリン自身が打撃ありのルールを了承した。
カレリンは普段通りのアマレススタイルであったが前田は圧倒されて判定負け。
カレリンにとっても唯一の興行としての試合となった。
その後、02年にWOWOWが次年度の放送打ち切りを決定したのに伴いリングスは活動停止。
しかし、リトアニア、オランダ、ロシアではリングスの火は消えずに存続していくこととなった。

その後の前田はタレント業を行う一方で格闘技界にも携わり続け、ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)、HERO'S等のイベントにスーパーバイザーとして関わるもトラブルにより関係を絶っている。

08年からは素人の腕自慢を集めて競い合わせるというコンセプトとするTHE OUTSIDERをプロデュース。
ここから朝倉未来らが輩出されている。


【主な得意技】


■キック
格闘技人生のルーツとなる少林寺拳法と空手の蹴りを原点としているとされる。
長身の前田の蹴りは膝から下が伸びてリーチが長く軌道が読み難かったという。


■スープレックス
カール・ゴッチの下で修行した後に以下の12種類のスープレックスを持ち帰ったと喧伝し、道場での公開では全種を、実戦では“ダブルアームロックサルト”を除く11種類を公開している。
また、公開練習では披露していないので数えられていないが、実戦でタイガースープレックスを繰り出したこともある。

  • ジャーマンスープレックス
  • フルネルソンスープレックス(ドラゴンスープレックス)
  • リバースアームサルト(ダブルアームスープレックス・ホールド)*5
  • ダブルリストアームサルト
  • ウンターグルフ(フロントスープレックス=オーバーヘッドベリートゥベリー)
  • リバースサルト
  • スロイダー(相手の片腕を巻き込んでの捻り式ベリートゥベリー)
  • ハーフハッチ
  • サルト(閂スープレックス)
  • ダブルアームロックサルト
  • クォーターネルソンサルト
  • デアポートスロイダー

現役時代(特にプロレス時代)の前田の身体の柔らかさは有名で、後輩のこちらは身体が硬かったことで有名な蝶野正洋とお互いのYouTubeチャンネルで交換しあった際の対談では、全盛期に本気で曲げたら後頭部が踵に付いたとのこと。

■キャプチュード
和訳を“捕獲投げ”といい、前田自身が考案して開発。
同名のタイトルの楽曲が代表的な入場テーマとなるほどに代名詞となったオリジナルスープレックス。
“捕獲投げ”の名称通り、相手のキックをキャッチした後に繰り出す投げであり、相手の蹴り足を巻き込むようにして相手の股下と対角線上の肩口から相手の首を捉えて鋭い角度で後方に叩きつけていく。


■フライングニールキック(ニールキック)
■大車輪キック(フライングニールキック)
一説には空手の胴回し回転蹴りを元に生み出したとも言われる、全身をぶつけるように放つ豪快な蹴り技。
ニールキックは後ろ回し蹴りとレッグラリアットを組み合わせたような技で、フライングニールキックは自身の体を横方向に後方回転させながら大きく広げた両足をぶつけていくような技となっている。
尚、現在では大車輪キックがフライングニールキックの名前で定着しており、元祖である前田の蹴りに用いられていた名称とは差異がある。
基本的には足全体をぶつけていくような当て方となるが、体重の乗った踵部分が当たることもあり、その場合にはプロレスとしても許容出来ないダメージとなるので、特に外国人選手には嫌がられた。
藤波戦で大流血させたのも額の端を切ってしまったフライングニールキックの踵だった。
上述のようにフライングニールキックは“大車輪キック”と呼ばれていたが、海外ではフライングニールキックが、上記を直訳した“フライングホイールキック”として定着している。ニールキックじゃ意味が通じないらしいし。

■首相撲からの膝蹴り
自身の体格を活かして、正面から相手の首を捉えてボディに膝蹴りを叩き込む。
迂闊に顔面で受けてしまった田村潔司が眼底骨折の重傷を負い長期欠場に追い込まれたことがある。

■逆片エビ固め
ドン・中矢・ニールセン戦での決め技となり、プロレスらしいこの技で異種格闘技戦に勝利したということもあってか、一躍脚光を浴びた。


【余談】

  • 前田の若手時代はスタン・ハンセンが新日本で大暴れしていた時代であった。
    当時のハンセンは反則負けした後などに腹いせに大暴れしては止めに入った選手や若手にウェスタンラリアットを見舞うことがあったのだが、背の高さが災いしてか目の悪いハンセンに毎回のように捕まったのが前田であり、強烈な一撃を見舞われていた。
    後に“新格闘王”として、プロレスの枠を越えた活躍をしたと認識されていく前田だが、現役時代で最も痛かった技は?という質問に対して試合後にハンセンに食らったラリアットと答えている。

  • 1994年に元弟子・後輩の安生洋二から後方から奇襲的に殴られて失神するという事件が発生している。(前田日明失神事件)
    この件については非常に膨大な前後関係や関係者間の細かな軋轢斗紆余曲折があり、検証が非常に難しい事件として有名。とりあえず、事件は前田が安生を訴え略式起訴で20万の支払いを命じる形で決着している。
    また、これ以外にも暴行やトラブル関係の逸話が多い人物である。




追記修正は巨乳を熱く語りながらお願い致します。

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最終更新:2024年04月09日 12:54

*1 実際に出自のせいで希望していた自衛隊と海上保安庁では勤務できなかったことがプロレスラーになった理由の一つ。

*2 本人曰く「1万戦無敗」

*3 余りの厳しさにコーチ役で寮長の山本小鉄のスポーツカーのエンジン音を聞いた途端に震え上がったとか。

*4 実際にはジョージは少し先輩。

*5 凱旋帰国時にフィニッシュとして使用。両肩が着いていないのにレフェリーの山本小鉄が3カウント判定してしまったことでも有名で、前田本人も「本来はギブアップを奪う技」と語っている。